如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

無題

2007-08-03 23:19:58 | サイ・フォーラムへの書込み
無題 投稿者:風天  投稿日:2003年11月10日

>他力本願無為徒食さんへ
「神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り」
のもともとの出所は、たぶん臨済録の
「仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺し、羅漢に逢っては羅漢を殺し、父母に逢っては父母を殺し、親眷に逢っては親眷を殺し、初めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり」

>がががさんへ
「あなた方が量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」
とイエスは言っています。

ジッドゥ・クリシュナムルティ 投稿者:の言葉より  投稿日:2003年11月19日

 「生は単純にして荘厳であり、麗しく、神聖なものだ。が、諸君は夜明けや静かな夜のあらゆる美しさを、自分たちが崇拝できるように狭い円の中に閉じこめようとする。夕暮れに浜辺に降りてみると、さわやかなそよ風が吹き、草の葉という葉がそよいでいる。砂粒が舞い、木々の梢が揺れ、そして波と波がぶつかりあっている。が、諸君はそれら全ての美を狭い寺院の中に閉じこめようと願うのだ。気高く生きるには、いかなる信念も不要である。にもかかわらず、諸君は言う。「私は神々を崇拝しなければならない。儀式をとり行わなければならない,寺院に参詣しなければならない。これに従い、それをしなければならない。永劫の「ねばならない」である!そのような生き方は、少しも生とはいえないのだ。」 そして最後に、彼は団員にこう訴える。「私のまわりに寺院を建立する事だけはやめてほしい。私はそのなかに閉じこめられることはないだろう。私は諸君にとって,爽やかなそよ風のような友でありたいと思う。私は諸君を諸々の制約から自由にし、かくして諸君自身の内部の個的創造性,完全性,独自性を鼓舞したいのだ。自己というものは・・・伝統や形式、いっさいの不要物・・・によって縛られておらず、その個的独自性を完全に伸ばしきったときにのみ浄化され、真に超越されうるのだ。」

**コメント**
この投稿は私のものではありません。
の言葉よりさんの投稿です。


シュミレーション 投稿者:風天  投稿日:2003年12月10日

つまり、考えるということは、シュミレーションだということ。
朝起きたら、今日一日の予定をシュミレーションしておきましょう。
いろいろと突発的な出来事があって、なかなかシュミレーションどおりにはならないものですけれど・・・
まあ、結果よければOKということでw


無題 投稿者:風天  投稿日:2003年12月13日

もものこさんへ
「のめりこみすぎる」と、確かに危険な世界でしょうね。そのように感じたもものこさんの感覚は正解だと思います。
しかし、どもみち未熟であることに変わりはなく、未熟であるからこそ、いろいろなことに興味も持つし、新しい発見もあるものだとは思いました。

たとえば、旅をしていても、思いつきで寄り道をしたり、道に迷ったりしたときの方が後々印象に残る経験ができたりしますが。
もちろん、リスクはいつでも自分持ちです。
それに実生活は、旅とは違うわけで・・・やはり明るく広い道を行くべきだとは思います。


無題 投稿者:風天  投稿日:2003年12月22日

がががさんへ
>「わかる」と「わからない」のあいだに「まったく完全な真理」がある。
そうですね。
「神はいる」と「神はいない」のあいだに「全く完全な真理」があるとかネ

少し話は違いますが、たとえば、言葉というものはデジタル表現なので、YESとNOしかない。そのために、言葉で真理を正確に表現することはどうもできそうにないw
少しでもより正確に表現しようとすれば、YESの中にNOを入れ、そのNOの中にYESを入れるというふうに、非常にわかりづらい表現をとらなければならないが、その結果できあがった文章は、結局わけがわからないw
それを避けるために、たとえ話を使ってイメージを伝えたり、反語や逆説を使うのでしょうが、それがかえって誤解を招くこともあって・・・

無題

2007-08-01 05:38:33 | Weblog
夜中に、窓を開けてくれと屋根の上で鳴く猫に起こされたら眠れなくなった。
テレビを点けたら「ザ・コンテンダー」という映画をやっていて、これがなかなかよい映画。あとでDVDでも借りようかと思うほど。アメリカ映画の魅力のひとつに演説があるけれど、この映画の演説もなかなかだと思う。
それから本を読めば眠くなるかと思い、マハルシの「あるがままに」を拾い読みするが、眠くならない。
「あるがままに」はどこを読んでも新鮮な感じがする。しかし、内容が濃いためか、少し読むとしばらく考えたくなる。
本の内容は質問に答えるという形で、質問は短く、質問に対するマハルシの答えも簡潔なので、本の内容の前後の関係とかあまり気にせずに読めるのがよい。
ひとつの事をさまざまのレベルの質問者にいろいろな角度から懇切丁寧に判りやすく説明しているマハルシはすばらしい。
今度インドに行くときには、マハルシの暮らしたアルナーチャラにぜひ行ってみなくてはと思う。それにマドライのミーナークシー・テンプルにも行かなくてはいけない。

以前マドラスまでは行ったことがあるのだが、その時は旅の疲れが出て体調が最悪で、サントメ聖堂近くの貸し部屋で数日体調の回復を待ってから、それ以上南に行くのはやめてプタパルティに直行してしまった。
そういえば、その貸し部屋から見える木の枝に大きな赤いくちばしのカワセミがよく留まっていた。その下に池でもあったんだろうか。結局見にも行かなかったけれど。

サイフォーラムへの書込みのコピーが終わったら、次はインド旅日記でも載せましょうかね。もう10年以上昔の日記ですから、今の旅の参考にはならないでしょうけど。

ラッキョウ的世界観

2007-08-01 03:33:50 | サイ・フォーラムへの書込み
ラッキョウ的世界観 投稿者:風天  投稿日:2003年11月 3日

ラッキョウの皮をむくように、怪しげな意味の皮を、どんどんむいていったら、なにもなくなってしまった。
いったいラッキョウというものは何だったのだろう。
怪しげな意味の皮の中心に真理と呼べるものがあるか知れないと、思ったこともあったのだが。

考えてみればその怪しげな意味の皮が大切だったのですね。
怪しげな意味の皮に精気を与えるのも自分自身だし、色あせさせるのも自分自身なのです。
ポイントはバランス感覚です。
変なものに精気を与えすぎると混乱を招きますし、かといって、意味をどんどんどんどん剥ぎ取ってゆくと、さみしくなってきますからね。

真理というものは精妙で、実験室で手順通りに行えば追試できますってもんでもないようで・・・大切なのは観測者の心理状態ってことかな。



実地体験 投稿者:風天  投稿日:2003年11月 9日

個人的な神秘体験は、その人にとって非常に貴重で重要なものです。
その内容については、体験した本人が充分に検討し、その出来事の意味を考え、とても大切にしているものなのです。

だから、個人的な神秘体験を語るには、とても勇気が必要です。
なぜなら、本人にとってはかけがえのない貴重な体験も、ほかの人から見ればいろいろな「お話」のひとつに格下げされてしまいます。
さらに、その個人的体験による「気づき」・意識の変容、体験の意味こそが、本質であり大切なものなのですが、「現象としての奇跡」に気を取られている他人にはそのことがなかなかわからないのです。

現在の物理学では説明できない現象を、私も多少は体験していますし、サイババの周辺でそれが多いことも事実のようです。
それを宗教に関連付けるのか、科学の対象にするのか、心理学の対象にするのか・・・
いろいろやってみることをお勧めしますネ。

しかし、とにかく一番重要なことは、自分の体験を基礎に置くことです。
この人生は、とてつもなく貴重な実地体験の場なのですから。

本当に、ささいな感じのつまらない日常生活が、実はとてつもなく貴重な体験なんです。

**コメント**
果物の皮をむいて食べる事を覚えた猿にラッキョウを与えると、ラッキョウの皮をどんどんむいてしまい、皮の中に何もなかったことに怒り出すという話があって、それがラッキョウ的世界観の元になっています。本当に猿がそうするかどうかは知りません。
なお、この頃のハンドルネームは風天でした。