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礼文島 花のトレッキング レブンキンバイソウ 桃岩展望台コース

2024年08月25日 09時04分15秒 | 北海道

桃岩展望台登山口。礼文町香深村。

2022年6月17日(金)。

礼文町郷土資料館を見学後、香深港フェリーターミナルへ戻り、13時25分発の桃岩展望台登山口行き路線バスに乗車した。1日3本の最終便である。礼香寺からはトンネルに入らず、旧道の山道を走り13時33分ごろ桃岩展望台登山口に着いた。運賃は270円。

バス停付近には駐車場もあり、後着してきた観光バスからツアーの団体が下りてきた。香深港17時10分発のフェリーに乗らねばならないので、16時ぐらいには香深港に着いておきたい。2時間30分程度の余裕しかないので、ある程度歩いて帰ることにした。

桃岩展望台コースは、礼文島の高山植物を鑑賞するトレッキングの中でも代表的なコースで、桃岩展望台、元地灯台を経て知床へと続く全長約6.4kmのコースである。断崖と青い海が続く礼文島西海岸や海に浮かぶ利尻山を背景に眺めながら、高山植物のお花畑を満喫することができる。フェリーターミナルがある香深から歩き始めるほか、桃岩登山口や、駐車場があるレンジャーハウスから歩き始めたり、手軽に桃岩展望台を歩いたり、知床から歩き始めるなど、時間や体力に合わせていろいろな楽しみ方ができる。

桃岩展望台登山口から左上の台地方向へ歩き出す。すぐに、下りの歩道が分岐していた。帰路は、バス路線をそのまま歩いて帰るつもりだったので、この歩道の存在を探ることはしなかったが、帰路はこの歩道を下ることになった。ハイキング地図をあとで見るとこの歩道は掲載してあった。

チシマフウロ。花色:青。花期:6月~8月。主な生息地:礼文林道コース、礼文滝コース、 8時間コース、桃岩展望台コース、礼文岳コース、岬めぐりコース、久種湖畔コース 。

背丈30cmほどの植物で、日当たりの良い草原で花を咲かせる。礼文島での生育地は広く、いたる所で花を見ることができる。

桃岩展望台登山口・駐車場を見下ろす。白い花は、オオハナウドまたはエゾノシシウド。

桃岩展望台への登り。

ミヤマキンポウゲと思われる。

レブンキンバイソウと同じ黄色の花。高さ30センチほどになる。遊歩道では道の脇に並ぶように咲いている。レブンキンバイソウは、同じキンポウゲ科で似ているが、大型で濃い黄色の花だと桃岩展望台近くで歩いていた人に教えられた。

桃岩展望台。登山口から20分ほどで着いた。ガスで桃岩は見えない。10分近く待っていると、ガスは取れていった。

桃岩展望台から桃岩・猫岩。午前中に定期観光バスで下から眺めた。上から桃の形は見えない。

桃岩展望台から駐車場があるレンジャーハウス方向へ下る人。

灯台方向へ進む。

東側には二重丘陵のような地形がある。

レブンキンバイソウ。

キンポウゲ科。花色;黄。花期:6月。主な生息地:桃岩展望台コース、礼文林道コース。 

初夏に草原に咲く背丈20cmほどの高山植物。花びらのように見えるものは萼(がく)で、花びらはその内側にある細長い短冊状の形をしたものである。礼文島の固有種で、濃い黄色と八重にも見える大きめの花が特徴。

ミヤマオダマキ。キンポウゲ科。花色:青。花期:6月中旬~7月。主な生息地:桃岩展望台コース、礼文林道コース、礼文滝コース、礼文岳コース、岬めぐりコース、 8時間コース。 

海岸沿いから高山植物の草原まで、礼文島内に広く生育する背丈20cmほどの植物。花は外側が紫色で、内側の筒状の花の先は白色をしている。

少し進んで、往路を帰ることにした。

香深港南端の防波堤から稚内港行きのフェリーが出ていくところだった。

レンジャーハウス方向。

桃岩展望台入口方向。入口付近で桃岩遊歩道を下る。

桃岩遊歩道入口。桃岩展望台まで0.8km。15時10分ごろに着いた。

桃岩遊歩道入口はトンネルのすぐ右側にある。香深港フェリーターミナルへ徒歩で向かった。

 


礼文町郷土資料館⑤オホーツク文化 クマを腰に付けた女性像

2024年08月24日 09時03分04秒 | 北海道

礼文町郷土資料館。礼文町大字香深村字ワウシ。

2022年6月17日(金)。

 

本州では律令によって国の形が作られていくなか、北海道では古墳文化の影響を受けた擦文文化が成立し、 後半の時期になると礼文島を含む全域に拡大した。また、続縄文時代の後半からは、サハリンからオホーツク文化という独特の文化を持つ人々が南下してくるなど、古代の礼文島は、南北から様々な人々が行き交うダイナミックな時代であった。

円盤状の骨角器は、鯨の骨で作られた帯留めで、同心円状に細かく彫刻され、精巧な仕上がりになっている。

トナカイの角で作られた帯留め(ベルトのバックルに似ている)は、 表面に波状の線による装飾が彫られており、非常に精巧に作られている。

オホーツク文化。

オホーツク文化の人々は、北東アジア、とりわけアムール川流域やサハリンなどの地域と関係が強い人々で、海での狩猟や漁労を生業としたことから、遺跡のほとんどは海沿いに分布している。礼文島では現在、18ヶ所の遺跡が見つかっており、 浜中2遺跡や香深井5遺跡・6遺跡では発掘調査も行われ、彼らの暮らしを物語る多数の遺構や遺物が出土している。

浜中2遺跡。

オホーツク文化期の初期から末期まで、全ての時期の包含層が堆積する島内唯一の遺跡である。浜中2遺跡では、標高10mほどの砂丘の最も高い場所に遺跡があり、上から末期、後期、中期、初期と時代の異なる層が同じ場所で堆積している。住居跡の一部や墓などが見つかったほか、各時期の遺物が大量に出土している。

包含層出土骨角器。銛頭やヤス、釣針や骨鏃などの骨角器。ヘラとスプーンは鯨の骨で作られている。ヘラの柄にはトカゲのような生き物が彫刻されている。

香深井5遺跡。

オホーツク文化期の初期と末期の集落遺跡。東海岸中部の香深井地区の南端に位置し、平成6年に体育館建設前の事前調査によって新たに発見された遺跡。標高3mほどの砂丘上に営まれた集落で、住居跡をはじめ、多数の石を積み上げた集石遺構、ゴミ捨て場などが多数見つかっている。

包含層出土土器・石器・骨角器・土製品。

土器は深鉢形がおおく、初期の文様は口縁に小さな瘤や円形のくぼみが特徴で、末期では型で押す、指でこする文様などのほか、全く文様が付けられない場合もある。精巧に作られた骨角器や、石・土で作られた装飾品なども多く出土している。

香深井6遺跡。

東海岸中部の香深井地区のほぼ中央に位置する遺跡で、オホーツク文化期後期のみの単独遺跡。平成7年に道路拡幅工事前の調査によって新たに発見された。北に香深井1遺跡、南に香深井5遺跡という2つの集落遺跡に挟まれた場所で、オホーツク文化人の活動を考える上で重要な場所である。

オホーツク文化後期の土器はほぼ深鉢形のみで、口縁付近の横線や刻み目などが特徴である。また、銛頭や釣針、針入れやヘラなど多数の骨角器や、礼文島には生息しない熊の骨を使った装飾品と考えられるもの見つかっている。

 

礼文町郷土資料館④縄文・続縄文・擦文時代 浜中2遺跡 上泊3遺跡


礼文町郷土資料館④縄文・続縄文・擦文時代 浜中2遺跡 上泊3遺跡

2024年08月23日 09時01分58秒 | 北海道

礼文町郷土資料館。礼文町大字香深村字ワウシ。

2022年6月17日(金)。

旧石器時代。

礼文島に残された最初のヒトの痕跡は、旧石器時代末期のことである。この時期はまだ島ではなく、北海道やサハリンと陸続きになっていた。やがて温暖化によって周囲を海に囲まれて離島となり、縄文時代の中期後半になって最初の定住者である縄文人がやってきた。

縄文文化。

礼文島には現在13ヶ所の縄文時代遺跡が見つかっている。これらの遺跡の中は、古くは明治時代から知られる遺跡もあり、これまで何度も発掘調査が行われてきた遺跡も少なくない。中でも島の北にある上泊3遺跡、船泊遺跡、浜中2遺跡における発掘調査では、礼文島縄文人の生活、儀礼、交易などを物語る数多くの遺構や遺物が見つかっている。

上泊3遺跡は上泊地区の集落付近にある標高30m前後の段丘上にある。昭和59年に道路工事に伴う発掘調査が財団法人北海道埋蔵文化財センターによって行われた。礼文島に最初に定住した縄文人の暮らしがわかる貴重な資料として、特に学術的価値が高い637点の出土品が町の有形文化財に指定されている。

上泊3遺跡出土の土器は、筒型の形や粘土ひもの貼り付け、ゆるやかな波状の口縁などが特徴の土器群で、 こうした特徴を持つ土器は、北海道では渡島半島方面(函館などがある本州に近い場所)を中心に分布し、礼文島へやって来た縄文人の出身地を考える上で参考になる。円筒土器文化圏の最北限の集落跡である。

上泊3遺跡出土の石器・骨角器。大きな石・礫を加工したものには、斧や錘(おもり)、皿や砥石などがある。小さな剥片(大きな石を割ってできるもの)を加工したものには、鏃(やじり)、銛先、匙(さじ)、掻器などがある。銛先や錘・掻器などは漁に関するもので、海を中心とした暮らしを物語る。

浜中2遺跡は、北部船泊湾の奥、砂丘地帯の最も西側に位置する遺跡である。遺跡のある旧神崎小学校付近一帯は古くから知られる場所で、明治・大正時代の報告をはじめ、昭和から現在に至るまで学術的な発掘調査が行われている。

縄文時代晩期の土器。大型の深鉢や取っ手付きの鉢など、器体は薄手だが、非常に精巧に作られたものである。 北海道では主に南部で出土する。

続縄文文化。

縄文時代が終わり、本州では弥生時代に移行するが、北海道では農耕ではなく採集・狩猟を生活の基盤とする続縄文時代へと移行した。礼文島には現在、15ヶ所の続縄文時代遺跡が見つかっている。時代的には大きく前半と後半に分かれるが、これまでの発掘調査では主に前半の遺物が多く出土している。

擦文文化。擦文文化は、土師器の影響を受けた擦文土器、カマド付き住居の使用、鉄器の普及など、これまでの北海道の在地文化とは大きく異なる。礼文島では現在、12ヶ所の擦文時代遺跡が見つかっているが、発掘調査が行われた遺跡は数ヶ所しかない。香深井5・6遺跡では数少ない擦文文化の遺物が出土しているほか、久種湖周辺にある遺跡では複数の竪穴住居跡が見つかっている。

擦文土器の器形は、かめ形や深鉢形、坏形(高台が付くものもあり)がある。器体は薄手で表面には刷毛状の道具でこすった跡があり、これが「擦文」の名前の由来である。文様は、口縁部の細かな刻みや斜線・刻線などが特徴である。

擦文文化期後期の骨角器。

土器以外の遺物は決して多くはないが、海獣骨から作られた大型の銛頭、鳥の骨からつくられた骨鏃や刺突具など、これまで島内では見つかっていない貴重な骨角器が出土している。

 


礼文町郷土資料館③重文・船泊遺跡出土品➋縄文土器 船泊上層式 手稲式 ウサクマイC式

2024年08月22日 09時04分12秒 | 北海道

礼文町郷土資料館。礼文町香深村。礼文町町民活動総合センター「ピスカ21」内。

2022年6月17日(金)。

 

重文・北海道船泊遺跡出土品。

船泊上層式土器が遺物の中心で、縄文時代後期中葉の北海道北部に特有の形式である。

手稲式土器は、札幌市手稲遺跡出土土器を標準とする縄文時代後期の土器。関東地方の加曽利B式土器の系列につらなる土器で、類縁の土器は東海、近畿にまで広くみられ、磨消(すりけし)縄文の系譜は四国、九州にまでたどれる。まさに全国を風靡した土器ということができる。

ウサクマイC式土器。千歳市ウサクマイC遺跡出土土器を標準とする縄文時代後期の土器。曲線の沈線文がより複雑となり鋸歯状、弧状、渦巻状などになり文様としての形が整ってくるが、磨消縄文の手法は、まだそれ程発達していない。土器の形も朝顔形に近い深鉢形が見られるようになる。

礼文町郷土資料館②重文・船泊遺跡出土品❶縄文時代後期の貝製品工場


礼文町郷土資料館②重文・船泊遺跡出土品❶縄文時代後期の貝製品工場

2024年08月21日 09時00分26秒 | 北海道

礼文町郷土資料館。礼文町香深村。礼文町町民活動総合センター「ピスカ21」内。

2022年6月17日(金)。

 

重文・北海道船泊遺跡出土品。

日本列島最北端の離島である礼文島に所在する船泊(ふなどまり)遺跡から出土した縄文時代後期前葉から中葉の出土品である。

船泊遺跡は、礼文島北部に位置する船泊湾と久種湖(くしゆこ)との間に形成された、標高10m前後の砂丘列の西端に位置し、平成10年(1998年)の発掘で、竪穴住居跡8軒、貝平玉製作を行った作業場跡6か所、墓坑24基と、同時期の遺物包含層が調査された。

本件は、この調査で出土した骨角牙貝製品1151点、土器42点、石器・石製品423点から構成される総数1616点の遺物である。

特に墓坑から出土した遺物は、多量の貝平玉、硬玉大珠、貝装身具など、その内容は非常に多彩であり、遺体に装着ないしは副葬された状態で出土した資料も多い。また、貝装身具の中には、本州南半以遠の地域に棲息するイモガイ・タカラガイ・マクラガイなどを素材にしたものがあり、糸魚川産の硬玉、骨角器に付着したアスファルトなどは、日本海をめぐる遠方との交易を物語る。また作業場跡からは、石錐・敲石・短冊形石器・砥石など、平玉製作のための工具と考えられるものも出土した。

日本列島の最北端に所在する大規模な縄文時代遺跡からの出土品であり、当時の埋葬儀礼のあり方や、貝平玉製作や生業に関わる道具の組み合わせなどを復元するために欠かせない内容を持っており、その学術的価値は高い。

礼文町郷土資料館①縄文人として初のゲノム解析をされた船泊縄文人