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新潟市文化財センター 木簡から分かる蝦夷と渟足柵  山谷古墳出土品 木簡「狄食」「資人」

2024年02月27日 15時57分33秒 | 新潟県

新潟市文化財センター。新潟市西区木場。

2023年10月1日(日)。

角田(かくだ)山(標高481m)東麓・旧巻町の新潟市西蒲区の山谷(やまや)古墳、菖蒲塚(あやめづか)古墳、新潟市巻郷土資料館を見学して、新潟市文化財センターへ向かった。進入交差点が狭すぎて裏から駐車場に入った。

新潟市文化財センターは、埋蔵文化財センターとして、新潟市内の旧石器時代から江戸時代までの700か所以上の遺跡から出土した遺物を時代ごとに展示・解説し、遺跡からみた新潟市の歴史を紹介している。

敷地内には新潟市指定民俗文化財の旧武田家住宅と畜動舎がある。

日本遺産の火焔型土器を展示する博物館の一つでもある。

2023年9月12日から2024年3月24日まで企画展「育てる・紡ぐ・織る 麻の歴史」を開催している。

山谷古墳の出土品。

 

 

 

 

 

新潟市遺跡発掘調査速報会2023~最新調査成果が語る新潟市の歴史~

2024年2月25日(日)

講演「出土文字資料から探る古代の新潟」相澤央氏(帝京大学教授)から抜粋

 

1.渟足柵(ぬたりのき)では何をしていたのか―「狄食(てきしょく)」木簡―

古代の新潟に関する最大の謎は、やはり渟足柵(沼垂城)でしょう。渟足柵は、古代国家が東北地方に居住する蝦夷(古代国家の支配下に入っていない人々)を統治するために設置した城柵の一つです。

さて、そのような渟足柵では何が行われていたのでしょうか。それを教えてくれる出土文字資料が西区の的場(まとば)遺跡で出土した「狄食」と書かれた木簡です。

的場遺跡は、後述するように、公的な漁業基地とみられる奈良・平安時代の遺跡ですが、近年は漁業以外の機能も果たしていたことが指摘されています。役所が関係する遺跡ですので、当然役人がいたわけですが、木簡には「狄食」という文字が繰り返し書かれていて、役人が「狄食」という文字を練習していたことがうかがえます(文字や文章の練習をした木簡を習書木簡と言います)。

それでは、この「狄食」とはどういう意味でしょうか。職員令(しきいんりょう)という古代の法律(役所の名称や役人の職務内容などの規定)によると、陸奥・出羽・越後の国司には、饗給(きょうきゅう)・征討・斥候という蝦夷対策に関する特殊任務が課せられていました。このうちの饗給は、古代国家に服属して朝貢してきた蝦夷に対して食料や物を与えることです。

的場遺跡の木簡に書かれた「狄食」とは、この蝦夷に与える食料のことです。それでは、このような蝦夷の朝貢や饗給はどこで行われていたのでしょうか。的場遺跡の周辺で考えると、やはり一番ふさわしい施設は渟足柵です。渟足柵では、朝貢や饗給といった蝦夷の服属儀礼が行われていたのです。的場遺跡の地で「狄食」という文字を練習していた役人は、「狄食」という文字を書く必要があったわけですから、渟足柵で行われる蝦夷の服属儀礼にかかわっていたのかもしれません。

 ところで、渟足柵で服属儀礼をおこなった蝦夷はどこに住んでいた人々でしょうか。渟足柵は蝦夷の統治をおこなう施設ですので、その周辺に住んでいた人々も古代国家からは蝦夷と認識されていたとみられます。この人たちが渟足柵で服属儀礼をしていたと考えられますが、それだけではなかったかもしれません。

近年、東北北部の特徴をもつ7世紀中頃から8世紀初頭にかけての土師器が阿賀野川以北の遺跡から出土することが指摘されています。7世紀中頃と言えば、『日本書紀』に阿倍比羅夫による東北北部(秋田や能代など)を対象とした遠征が行われたことが記されている時期です。遠征には渟足柵造大伴君稲積も動員されていました。この遠征の時に古代国家に服属し、東北北部から渟足柵が置かれた阿賀北へやってきた蝦夷がいたのかもしれません。このような人たちが渟足柵で服属儀礼をしていたということも考えられるでしょう。

2.古代の新潟の人々が負担した税 ―「杉人鮭(すぎひとのさけ)」木簡―

古代の民衆は、律令の規定によって6年ごとに作成された戸籍に基づいて口分田を支給され、また、毎年作成される計帳(徴税台帳)に基づいて租・調・庸などの諸税を負担しました。租は口分田からの収穫稲の一部で郡家(ぐうけ、郡の役所)の正倉(倉庫)に収納されました。一方、調や庸はさまざまな物品を納める税で、調や庸として納められた物品は都へ運ばれて中央政府の財源となりました。

それでは、古代の新潟に暮らした人々は、調や庸として何を納めていたのでしょうか。『延喜式』という平安時代前期に作成された法令集には、各国がどのような物品を調や庸として納めるべきかということが記されています。それによると、越後国は、調として白絹・絹・布・鮭を、庸として白木韓櫃(しらきのからびつ)・狭布(せばぬの)・鮭を納めることとされています。このうち、白絹・絹・布・白木韓櫃・狭布は他の国にもみられる物品です。

それに対して鮭は、調や庸としては、越後にだけ課せられた物品です。しかも『延喜式』によると、調や庸として鮭を納める場合、他の税目として納める場合よりも、その分量が圧倒的に多いのです。調として鮭を納める場合、正丁(せいてい、21~60歳の男性)一人当たり20匹、庸として鮭を納める場合、正丁一人当たり10匹と定められています。これらの規定からすると、越後からは、毎年、大量の鮭が都へ納入されていたことになります。しかし、『延喜式』は国が作成した法令集です。実際にはどうだったのでしょうか。毎年たくさんの鮭が越後から都へ運ばれていたのでしょうか。それを教えてくれるのが、先にも登場した西区の的場遺跡です。

 的場遺跡は水辺に営まれた奈良・平安時代を中心とする遺跡です。そして、この遺跡を特徴づける遺物は大量に出土した漁具です。漁網に付ける土錘(素焼きのおもり)が約8600点、木製の浮きが約100点見つかりました。このように大量の漁具が出土したわけですから、ここで行われていた漁業は家族や村落レベルで行われたものではないでしょう。この遺跡からは帯金具や木沓といった古代の役人が身につけるものが出土していますので、ここで行われた漁業には役人が関係しています。

おそらく、国や郡の役人が主導して、遺跡周辺の人々を動員し、大規模に漁業を行っていたのではないでしょうか。的場遺跡からは「杉人鮭」と書かれた木簡や、鮭の歯が出土していますので、秋には大量の鮭が獲られていたと考えられます。そして、このようにして捕獲された大量の鮭が、調や庸として、毎年都へ納入されていたのでしょう。『延喜式』という法令集で定められていただけでなく、実態としても、越後では毎年たくさんの鮭が獲られ、調や庸として都へ納められていたのです(ちなみに、八幡林遺跡からは鮭の輸送に関する木簡が出土しています)。このことは、的場遺跡から出土した「杉人鮭」の木簡や大量の漁具などによって明らかになったことです。

3.時代を動かす富豪層の出現 ―「資人(しじん)」木簡―

 9世紀になると、律令の規定に従って実施されてきた古代国家の様々な仕組みがうまく機能しなくなってきました。煩雑な戸籍の作成は滞りがちになり、調や庸として都へ納入された物品は、品質が悪くなったり(粗悪)、期限通りに納入されなくなったり(違期、いご)、あるいは納入すらされなくなったり(未進)しました。また、9世紀は地震や干ばつなどの自然災害が頻発した時代で、疫病もたびたび発生しました。

このような状況の中で、地域では民衆の階層分化がすすみ、貧しい人々はさらに困窮し、豊かな人々はさらに富を貯えていったと考えられます。この時期に新たに勢力を増大させて、台頭してきた人々のことを、研究者は富豪層と呼んでいます。

このような富豪層が、古代の新潟の地にもいたことが、江南区の駒首潟(こまくびがた)遺跡から出土した木簡によって明らかになりました。

 駒首潟遺跡は、標高0m地帯の自然堤防上に立地する9世紀後半の集落遺跡で、発掘調査では、当時の河川の跡とその西側沿いに複数の掘立柱建物や溝、土坑などの遺構が見つかりました。

木簡は河川の跡から3点出土しました。その内の2点(第1号木簡と第3号木簡)は、同じ文字や文章を何度も繰り返し書いて文字や文章の練習をした習書木簡です。第1号木簡は、「我」「衆」「佛」「見」「道」「是」などの文字を何度も繰り返し書いています。練習している文字の内容からすると、経典を手本として文字の練習をしていたのかもしれません(発掘調査では仏堂とみられる建物跡が見つかっています)。

また、第1号木簡には「足羽臣(あすわのおみ)」というウジ名(氏族名)が書かれていて、越前国足羽郡(現在の福井市周辺)から移住してきた人々が駒首潟遺跡の周辺にいたことがうかがえます。第3号木簡は、「諸王臣資人(しょおうしん しじん

)」という語句や「資」「領」などの文字が繰り返し書かれています。「大納言阿倍大夫(たいふ」殿」や「次田連(すきたのむらじ)」のような人名も書かれていますので、単なる文字の練習ではなく、文書の下書きのようです。

 この木簡の解読をしていて、私がまず驚いたのは、「大納言」という語句です。まずは「大納言阿倍大夫殿」とは誰なのかということを明らかにしていきましょう。駒首潟遺跡は9世紀後半の遺跡ですので、木簡に記された「大納言阿倍大夫殿」とは安倍安仁(やすひと、857年に大納言に就任、859年に没)のことと断定できました。また、木簡の年代についても、安倍安仁が大納言に就任していた期間の857年~859年と限定できました。ちなみに安倍安仁は、政務に練達した有能な官僚で、嵯峨上皇に重用された人物です。

 さて、なぜ「大納言」などという語句が、都(平安京)から遠く離れた越後の地で書かれたのでしょうか。この問題を解くキーワードは、木簡に記された「資人」という語句です。資人とは、皇族や貴族に与えられた従者のことで、皇族や貴族が有する位階や官職によって与えられる資人の人数に差がありました。資人は、従者として、皇族や貴族の警護や雑務などに従事しました。木簡には「諸王臣資人」という語句(王臣は皇族や貴族のこと)とともに、「大納言阿倍大夫殿資人」とも書かれています。つまり、時の大納言安倍安仁の従者になった人が駒首潟遺跡の周辺にいたのです。

ところで、9世紀以降になると資人の性格が変化してきます。皇族や貴族の従者ですから、本来であれば都へ行って、皇族や貴族の警固や雑務などに従事するのですが、9世紀以降、都へ行かずに、地元にとどまって、「自分は王臣家の関係者だ」と言って大きい顔をして、国司や郡司などの地方役人と対立して税の納入を拒否したり、騒動を起こしたりする者が出てきます。彼らこそ、さきほど述べた、「富豪層」と呼ばれる新たに台頭してきた人々です。つまり、富豪層が、都の王臣家(皇族や貴族)と結託して、王臣家の資人(従者)となり、「自分のバックには都の王臣家がついているんだ」と言って地方役人と対立して税を納めなかったり、騒動を起こしたりするようになるのです。

駒首潟遺跡の木簡よりも少しあとの時期のことになりますが、文献史料では、延喜2(902)年に越後守の紀有世(ありよ)が、藤原有度(ありのり)という人物によって髪を剃られ、首枷をはめられたという事件が記されています(『日本紀略』延喜2年9月20日条)。この事件のことを記した別の文献史料によると、越後守の紀有世は、「州民(しゅうみん)」(地元の住民)によって捕らえられ、打ちたたかれ、髪を剃られ、首枷をはめられたと書かれています(『小右記』長久元(1040)年5月1日条)。この「州民」の中には富豪層も含まれていたとみられます。

また、藤原有度という人物は、ウジ名(氏族名)からすると、都から地方に来てそのままとどまった土着貴族と考えられます。つまり、この事件は、土着貴族である藤原有度に率いられた地元の富豪層によって越後守紀有世が襲撃されたという事件です。

このような、「土着貴族・富豪層VS.国司」という対立・抗争は、同じ頃の武蔵国や常陸国でもありました。武蔵国では、足立郡司判官代の武蔵武芝と武蔵権守興世(おきよ)王・介源経基との間の対立・抗争に、土着貴族である平将門が武芝の側に立って介入するということになります。

この武蔵国における対立・抗争で、国司の不正を国中に知らしめるために、国司の罪状を記した文書を作成して国庁(国の役所)の前に落とすという方法が取られたのですが、その際、越後国のやり方にならって(「越後国の風を尋ねて」)やったといいます(『将門記』)。902年に起こった越後守紀有世襲撃事件でそのようなことがおこなわれたのでしょう。武蔵国や常陸国における対立・抗争は、のちに平将門の乱へと発展していき、さらには中世の武士の時代へと続いていきます。

富豪層は、古代から中世へ、時代を動かす原動力となったと言えるでしょう。駒首潟遺跡出土の第3号木簡は、このような富豪層が古代の新潟の地にもいたことを明らかにしたのです。

新潟市西蒲区 岩室温泉 山谷古墳 菖蒲塚古墳



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