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福島県白河市 白河ハリストス正教会 山下りんのイコン画

2024年07月27日 14時59分13秒 | 福島県

白河ハリストス正教会・生神女進堂聖堂。福島県白河市愛宕町。

2024年6月1日(土)。

白河小峰城跡を見学後、白河ハリストス正教会へ向かった。観光案内図などの示唆により、聖堂近くの白河市役所西横の無料大駐車場に駐車した。旅行前の下調べで5月末の土日に内部が一般公開されるということだったが、それからチェックしていなかったので、実際に公開されていてうれしい気分になった。建物外観もいいが、山下りんのイコンが目的である。2022年春に釧路市の展覧会で山下りんの作品を鑑賞・撮影することができたが、今回は当然ながら内部の撮影は禁止だった。

駐車場から北へ歩いて行くと、聖堂が見えてきた。

聖堂の敷地内部にはバラが植栽され満開を迎えていた。司馬遼太郎が「街道をゆく」シリーズの「白河・会津の道」の巻で、「野バラの教会」として紹介している。聖堂のバラの手入れをしている女性がいて話をした。

なお、聖堂横の駐車場も駐車可能なようだった。

1882年(明治15)に初代の会堂が建てられ、今は集会所として現存している。現聖堂は1915年(大正4)に建立された。聖堂と内部の古いイコンは福島県指定重要文化財である。

白河での宣教は、1876年(明治9年)イオアン武石定伝教者が訪れたことに始まり、翌年、教理研究会「発酵会」が発足した。1878年(明治11年)に初代司祭のパウェル澤辺琢磨司祭により7名が受洗し、会名を「白河進堂会」と称して、白河ハリストス正教会が設立された。

澤辺琢磨司祭は、箱館でニコライ神父から洗礼を受けた日本ハリストス正教会初の正教徒で最初の日本人司祭である。旧名は山本数馬といい、坂本龍馬のいとこである。同志社大学の創立者で新島襄がアメリカに密航する際に手助けをしている。

1881年(明治14年)、信徒の最初の永眠者埋葬を正教会略式で執行したことに対し、仏教側より告訴されて裁判となり、雑犯律違反として有罪判決が下ったが、大審院に上告し勝訴した。

1882年(明治15年)に会堂が建築され、これは現在も司祭の宿泊、集会所として使用されている。1884年(明治17年)から1891年(明治24年)までパウェル澤辺琢磨司祭が管轄として白河に居住して、教勢が著しく進展し信徒の敬愛を集めた。

1898年(明治31年)、白河の総鎮守鹿島神社例祭に際し、祭費の寄付に応じなかった信徒に対し暴力事件が起きた。

1915年(大正4年)現聖堂が建てられた。聖堂は、木造平屋建て、一部二階建(鐘塔)で、間口8.17m、奥行14.44mをはかり、総面積101㎡である。設計は当時副輔祭であった河村伊蔵、大工は地元白河の棟梁中村新太郎で、費用は白河の信徒の積立や拠出によって建設された。

平面は、聖所を中心として、前方に啓蒙所兼玄関(上階は鐘塔)、奥に至聖所を配し全体は十字形となっている。屋根は銅板葺きで、外廻りは板壁に白色塗料で仕上げられている。全体的にはビザンチン様式の雰囲気を漂わせている建物である。

聖堂入口。

イコン(聖画像)とは、ビザンチン帝国とその周辺諸国に布教されたギリシャ正教会で用いられた絵画であり、神との交わりの案内役として正教の聖堂や信者の家には必ず掲げられるものである。

白河ハリストス正教会聖堂内の至聖所と聖所は、イコノスタシス(聖障)によって分けられ、正面のイコノスタシスには3段に26点、聖所の両側壁には22点のイコンがある。また、この中には、茨城県出身の女性イコン画家、山下りんが制作したイコン5点も含まれている。

作品は石版画に着色した作品、板に麻布を貼って着色した作品(石膏を使用した場合もある)、麻布に油彩を施した作品などであり、一部にはロシアからもたらされたものもある。

山下りんのイコンは7点あり、そのうちイコノスタス奥の一般に公開されていない至聖所にある「聖三位一体」と復活祭前の受難週の時だけ使われる「眠りの聖像」は普段は見ることができない。このほかに「大十字架」1点がある。

 

「東北地方における山下りんのイコン」(久保田菜穂、山形大学)より。

白河教会のイコノスタスは、さまざまな大きさのイコンを寄せ集めて作ってある。基本的なイコンの配置は押さえているものの、作風の統一感はない。『預言者エリヤ』のイコンは、もともと上部分が半円形になっていてはみでるために後ろに折られている。また、『三聖人』のイコンは、幅が大きかったため聖人のぎりぎりのところまで左右が切り取られている。一つ一つのイコンはそれぞれ違った経緯を持って制作され、寄贈されたものであり、それを寄せ集めてイコノスタスを形成したことが白河教会のパンフレットに書かれている。

山下は、イコノスタスを形成するのに不足しているイコンを制作したと推測できる。山下自身が設計者としてイコノスタス全体の配置を指示する場合が全てではなく、教会の状況に合わせて臨機応変に依頼に応じていたことがわかる。

東北地方に山下りん作イコンが多い理由として推測されるのは以下のことである。明治初期、カトリックやプロテスタントは都市部のエリートを中心に宣教を進めていった。正教においても、最初こそ学のあるエリート層が伝道された。ただし、カトリックやプロテスタントと違うのは、初期に伝道された者たちが自分の故郷に帰って、農村での宣教活動を活発に行なったことだ。東北地方は、特にその傾向が強かった。

農民たちは経済的に貧しく、献金の額はカトリックやプロテスタントと比べて少額だった。そのため、正教の信仰生活を送る上で必要なイコンを確保するためとはいえ、ロシア製の高価なイコンを輸入して取り寄せることは難しかった。その中で、日本人イコン画家である山下りん作のイコンは輸入に要する費用がいらず、格式高いロシア製のイコンよりは廉価で購入することができた。そのため、山下りん作イコンを設置する教会が多くなり、今日でもそのイコンが残されていると考えられる。

仙台ハリストス正教会の主教や、東京・神田にあるニコライ堂で出会った信徒の話を聞いたところ、山下りん作イコンを所蔵しているのは地方のお金がない教会だろうということだった。比較的規模の大きい教会は格式を大事にするからか、ロシア製の立派なイコンがあることが誇りらしい。

イコン 山下りん 北海道立釧路芸術館

福島県白河市 国史跡・日本100名城・小峰城跡(白河小峰城跡、白河城跡)

 

献金箱に志納を納めたのち、駐車場に戻り、白河市歴史民俗資料館へ向かった。

 



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