京都文化博物館。「生誕140年記念 石崎光瑤」。京都市中京区三条通東洞院東入菱屋町。
2024年10月22日(火)、京都へ行き、4つの美術展を見てきた。
京都国立博物館特別展「法然と極楽浄土」。
京都市京セラ美術館「京都市立芸術大学移転記念 特別展 巨匠たちの学び舎 日本画の名作はこうして生まれた 」、「Gucci Cosmos 」、
京都文化博物館「生誕140年記念 石崎光瑤」。
地下鉄東山駅から乗車して京都文化博物館最寄り駅の烏丸御池駅で下車した。
中京(なかぎょう)郵便局。京都市中京区三条通東洞院東入菱屋町。
1902年(明治35年)に建設されたネオルネサンス様式、赤レンガ造りの美しい外観が特徴である。局舎設計は、逓信省(営繕課吉井茂則、三橋四郎)、施工は安藤組。当局の面している三条通のこの一帯は、京都文化博物館別館や日本生命京都三条ビルなど、明治期以来の近代建築が多く残っていることで知られ、京都市から「歴史的界隈景観地区」に指定されている。また本局舎は京都市登録有形文化財であり「景観重要建築物」として指定もされている。
1973年(昭和48年)には改築計画が発表され、1974年に一旦は局舎の取壊しが決定したが、反対運動などもあり、1978年の改築の際には、外壁を残したままで内部のみを新築する建築手法(ファサード保存)を用いて改築された。この手法は、歴史的建造物の保存などを目的として多く用いられているが、この中京郵便局舎が日本で最初の実施例である。
重文・旧日本銀行京都支店。京都文化博物館別館。京都市中京区三条通高倉西入菱屋町。
1906年建築。煉瓦造二階建、一部地下一階、スレート葺、両翼塔屋付。辰野金吾、長野宇平治設計。
石材を混用して壁面に変化をつけている。 塔屋をつけるなど、外観には設計者の独特な意匠が見られる。この種の遺構としては保存がよく、明治期の代表的洋風建築である。
1967年財団法人古代学協会の所有になり、旧平安博物館本館に転用されていた。1988年に京都府による京都文化博物館が開館し、旧・平安博物館本館は京都文化博物館別館として利用されている。
京都文化博物館「生誕140年記念 石崎光瑤 若沖を超えろ!絢爛の花鳥画」
会期2024.9.14 〜 11.10。上下階のうち上階は撮影可。
石崎光瑤(こうよう)(1884〜1947)は、鮮やかな色彩で華麗な花鳥画を数多く残した近代京都の日本画家である。 富山に生まれた光瑤は、19歳で京都に出て、竹内栖鳳に入門。1916年から翌年にかけてインドを旅し、帰国後、その成果として《熱国妍春(ねつこくけんしゅん)》、《燦雨(さんう)》を描いて文展・帝展で二年連続の特選を受け、注目を集めた。
光瑤は、早くから奇想の絵師として知られる伊藤若冲に関心を持ち、若冲の代表作を発見し、雑誌に紹介、制作にも活かした。 本展では、光瑤の故郷にある南砺市立福光美術館(富山県)のコレクションを中心に、初期から晩年までの代表作を一挙公開し、光瑤の画業の全貌を紹介する。
石崎光瑤は故郷の富山県など北陸地方以外では、これまでほとんど紹介されてこなかった。光瑤だけを掘り下げた大規模回顧展は、全国初となる。
絢爛豪華な花鳥画の大作が目白押し‼︎初期から晩年の作品が集結。
石崎光瑤の作品は色鮮やかで、その華麗で装飾性豊かな花鳥画の大作に特徴がある。官展出品作品を中心に、初期から晩年の代表作が勢揃いする。
若冲に学び、若冲を超える⁉︎
早くから若冲を評価し、研究していた光瑤は、大正末期に若冲の代表作《仙人掌群鶏図襖》(大阪・西福寺蔵・重要文化財)を発見し、世に紹介した。本展では、光瑤によるその模写作品《鶏之図》も出品する。
寺外初公開‼︎高野山金剛峯寺奥殿襖絵《雪嶺》
晩年の光瑤が描いた大作で、通常非公開の高野山金剛峯寺奥殿襖絵20面を特別展示する。そのうち8面の《雪嶺》は寺外初公開となる。
日本近代登山史に足跡を残す“登山家”石崎光瑤にも注目!!
民間パーティー初の剱岳登頂や、日本人登山家として初めてヒマラヤのマハデュム峰(3966m)に登頂に成功するなど、登山家としても知られる。 立山・白山をはじめとした北陸の山々、インド行で巡ったヒマラヤで描き残した貴重な写生帖も展示する。
第1章 画学修行と登山
富山に生まれた光瑤は、12歳の時、金沢に滞在していた江戸琳派の絵師・山本光一に師事した。19歳で京都に出て、竹内栖鳳に入門。栖鳳塾で画技を磨いた光瑤は、1912年の第6回文展に初入選を果たし、第8回文展に出品した《筧》で褒状を受賞した。
この間、若き光瑤は近代日本登山史にも大きな足跡を残した。父を亡くした1906年夏に霊峰立山へ赴いて以来、光瑤は登山に没頭して行く。1909年には民間パーティーとしては初めての剱岳登頂にも成功した。
第2章 インドへの旅、新しい日本画へ
1916年から翌年にかけて、光瑤はインドを訪れた。ヒマラヤの一峰マハデュム峰にも登頂、古代建築や美術に触れるとともに、熱帯の動植物を精力的に写生する。折しも、友人の土田麦僊らが国画創作協会を創立した1918年、光瑤は国展には参加せず、インド旅行の成果として《熱国妍春》を第12回文展に発表、特選を受けた。さらに翌年の第1回帝展には《燦雨》を発表し、連続して特選を受賞、近代京都画壇にその地位を確立した。それらの濃密で豊潤な新しい花鳥画は、若き上村松篁にも大きな影響を与えたことでも知られる。
第3章 深まる絵画表現
1922年から翌年にかけて、光瑤はヨーロッパを巡遊する。西洋絵画を研究し、特にフレスコ画に関心を寄せた。また、光瑤は日本・東洋の古画も熱心に研究したが、特に伊藤若冲に関心を持ち、1925年には若冲の代表作《仙人掌群鶏図襖》(大阪・西福寺蔵・重要文化財)を発見、世に紹介している。
こうした絵画研究を通じて、やがて光瑤の作風は絢爛華麗な色彩美の世界から趣を変え、深みのある洗練された画風へと変化した。それは時にモダンで幾何学的な作風をも示した。
第4章 静謐なる境地へ
1930年代後半になると、大画面にたっぷりとした余白をとり、その中に繊細な線描を駆使した花などを描いた作品が多くなる。晩年の大作《聚芳》に代表されるような、静謐な雰囲気を醸し出す独特な世界観が誕生した。これは、光瑤の徹底した写実、そして早くから追求してきた装飾性との調和によって確立された独自の境地といえる。師・竹内栖鳳が没して5年後、戦後まもない時期に光瑤も62歳で他界した。
白孔雀。緑と白の鮮烈な対比、特に羽を広げた白孔雀の神々しい姿に目を奪われる。石崎光瑤が第4回帝展に出品した作品だ。六曲一双の屛風だが、その右隻には、プラタナスの葉の生い茂る中、雌雄の白孔雀が描かれる。羽を広げたオスの前には、単純化されたフォルムのメスが描かれる。キャラクターのようで可愛らしい。
石崎光瑤は花鳥画を得意とした画家だが、本当に鳥が好きだったのだろう、スケッチブックにも鳥が多く描かれており、写生にも優れた画家の観察眼が光る。しかし、光瑤はただ対象を写実的に写し取っているだけではない。写生をふまえた上で、美しく華麗な、時に装飾的な、絵画世界に再構成してみせるのである。その世界は夢のように美しい。花を愛し、鳥を愛した画家の作品に、心ゆだねてみてはいかがだろうか。植田彩芳子(京都文化博物館主任学芸員)。
燦雨(さんう)◎大正8年 ◎六曲一双屏風
インドの熱帯風景を描いたこの作品は、石崎光瑤が35歳のときに描いた代表作の一つ。大正5年から6年にかけてのインド取材旅行の成果ともいえる作品で、第1回帝展で特選を受賞。花鳥画家としての地位を築いた。この名作は海外流出寸前に、多くの関係者の尽力で奇跡的に当館で収蔵された。
寂光(じゃっこう)◎昭和4年 ◎二曲一双屏風
石崎光瑤が45歳のときに描いた円熟期の作品。第10回帝展に審査員出品したもので、切箔、砂子を散らした画面に7羽の孔雀と樹木、月が巧みに構成されている。孔雀の羽根の茶と緑の対比に深い調和がみられ見事である。
織田信長時代の旧足利義昭居城・二条城に転用された石仏群。京都文化博物館内中庭。
2階総合展示室では、近衛家陽明文庫所蔵名宝展シリーズとして、藤原道長自筆・国宝「御堂関白記」のうちの源氏物語関係の箇所を展示していた。
16時30分ごろJR京都駅から東海道線快速に乗車、19時ごろ名古屋駅に着いた。
京都市京セラ美術館 グッチ・コスモス展 京都市立芸術大学移転記念 特別展 巨匠たちの学び舎 日本画の名作