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岩手県北上市 縄文の配石遺構 国史跡・樺山遺跡

2023年12月26日 12時21分49秒 | 岩手県

国史跡・樺山遺跡。岩手県北上市稲瀬町大谷地。

2023年6月13日(火)。

陸前高田市立博物館を見学後、北上市の樺山遺跡へ向かい、14時30分すぎに遺跡上段の住居跡に着いた。6月11日に見学した北上市立博物館で概要が展示されていた。

遺跡上段の高台には、縄文時代の復元住居が数軒あるだけだった。青年が一人座っているので尋ねると、金ヶ崎町から自転車でやって景色がいいので佇んでいたという。

たしかに、ここから眺める農村風景は「53.悠久の眺め樺山歴史の広場」として「きたかみ景観資産」に選定されている。

ガイダンス施設があるはずなので、車で高台から下って遺跡下段へ移動し、樺山歴史の広場縄文館横に駐車し、展示を見てから現地を見学した。

樺山歴史の広場縄文館。フォートラベルより。

国史跡・樺山遺跡。

樺山遺跡は、北上市街地の南方約7km、北上川の左岸に張り出した北上山地の麓に所在する縄文時代中期の遺跡である。昭和25年に発見され、翌26年から51年まで数次にわたって発掘調査が実施されている。

遺跡は標高約80mと約100mの上下2段にわたっており、下段に配石遺構群があり、上段は竪穴住居を持つ集落が営まれている。

下段の配石遺構は径約1.2mの範囲に石を敷きつめ、一端に立石を設ける類を典型とし、合計37の存在が確認されているが、ほかに耕作によって破壊されたものがある。配石の中にしばしば石皿が入っており、立石に用いている例もある。また、配石の直下には土壙が設けられており、配石遺構が墓ではないかという推定がなされている。

周辺から発見される土器によって縄文時代中期に属するものと判断され、特別史跡大湯環状列石等の系統につながって行くものと考えられる。

上段の集落跡は、東側の高台上には約5,000年前の村が、西側の斜面には約4,000年前の村があり、台地の周縁に住居跡が集中している。また、中期末から後期初頭にかけても再び集落が営まれ、竪穴住居跡と甕棺が発見されている。

 

樺山遺跡を見学後、北東近くにある河野通信の墓へ向かった。

岩手県 北上市立博物館③縄文の史跡 樺山遺跡 八天遺跡

岩手県 陸前高田市立博物館③軍配型骨角器 弓矢状配石遺構 玉山金山


岩手県 陸前高田市立博物館③軍配型骨角器 弓矢状配石遺構 玉山金山

2023年12月25日 12時22分53秒 | 岩手県

陸前高田市立博物館。岩手県陸前高田市高田町字並杉。

2023年6月13日(火)。

門前貝塚。南東の旧大野湾と西方広田湾内小友(おとも)浦の湾入によって形成された沖積低地北岸の台地上にあり五ヵ所の小貝塚が点在する。標高35m。

縄文時代中・後期の遺跡後期初頭の門前式土器の標式遺跡でもある。明治中葉と昭和29年(1954)・同46年に発掘調査された。貝層は厚い所で50㎝ほどで、全体的に3、40㎝の所が多い。土器は縄文時代中期末の大木9式土器後期初頭の関東称名寺・堀之内式併行、門前式土器(四つの中空把手、二段口縁・連鎖状隆起線文・磨消縄文など)が出土している。

平成元年の発掘調査では、弓に矢をつがえたような形に石を並べた「弓矢状配石遺構」が発見された。最大幅7m超の大きな配石遺構は、縄文時代後期に台地の上の集落や貝塚に対し、海に面した低いところに作られ、矢の先は広田湾に向けられている。海からの魔物の侵入を防ごうとした遺構であると考えられている。

軍配型骨角器。国史跡・中沢浜(なかざわはま)貝塚出土。

軍配型骨角器は、日本国内で1点しか発見されていない。

国史跡・中沢浜貝塚は、陸前高田市広田町にある縄文時代の貝塚遺跡である。岩手県南部、大野湾と広田湾にはさまれた広田半島の南端部の丘陵に位置する。

1.8~3mの層から石器、土器、骨器、獣骨などが出土しているが、日本でも有数の多数の人骨が出土した貝塚である。1907年(明治40)、野中完一の調査で縄文時代晩期の人骨が17体出土。その後の調査によって、縄文、弥生、平安時代と長い期間にわたる複合遺跡であることがわかっている。

貝輪を腕につけた状態の人骨や、死んだ乳児を納めた深鉢の土器などが全国で初めて発見され、1997年(平成9)には、琥珀(こはく)で作った小玉を身につけ、膝を折り曲げた人骨が発見されるなど、これまでに40体以上が発見されている。

 

交易の拠点だった陸前高田市。

陸前高田市を含む、宮城県沿岸北部から岩手県釜石市の一部までを「気仙地方」とよぶがこの「気仙」という言葉は今から約1200年前に初めて登場したという。

陸前高田市高田町の小泉遺跡からは8世紀~9世紀にわたる大量の墨書土器が出土した。中でも「厨(くりや)」と書かれた特別な墨書土器は古代官衙(かんが=役所)関連の施設があった可能性を示唆している。このことからも当時の気仙地方は、北方交易の拠点として栄えていたことがうかがえる。

玉山金山

気仙地方の金山は古代からその存在が広く知られており、中国でも金は「日本のみちのくで産する」と伝えられていた。

玉山金山は、規模も大きく、産金量も多く繁栄を極めた史実と伝説に彩られた気仙地方の代表的金山で、天平年間(729~749)僧行基によって発見されたと伝えられている。東大寺大仏の鋳造に黄金が献上されたのをはじめ、奥州平泉の藤原氏の金色堂、豊臣家、伊達家の栄華の礎として、豊富な金が長年に渡り採掘されてきたという。

また、玉山金山を含む気仙地方の主要な金山は、マルコポーロの東方見聞録における「黄金の国」の記事や、日露戦争でも日本が埋蔵する金を抵当に欧米から借り入れをするなど、歴史の表裏に何度も登場する重要な遺構のひとつでもある。

金鉱床は、氷上花崗岩帯(チタン鉄鉱系)の南西部に胎胚し、白雲母ペグマタイト中に金が濃集している(日本最古のペグマタイト質金鉱床) 。玉山の語源でもある「水晶」は、良質で屈折率(透明感)が高く、両晶という特異な形でも特徴付けられており、正倉院に納められている水晶製の数珠も、玉山金山の水晶であるという説もある。

陸前高田市立博物館を見学後、北上市の樺山遺跡へ向かった。

途中、道の駅「種山ヶ原」に立ち寄ると、宮沢賢治ゆかりの種山ヶ原が近くにあるということで、感慨にふけった。

岩手県 陸前高田市立博物館②気仙隕石 鳥羽源蔵と牧野富太郎  


岩手県 陸前高田市立博物館②気仙隕石 鳥羽源蔵と牧野富太郎  

2023年12月24日 11時41分58秒 | 岩手県

陸前高田市立博物館。岩手県陸前高田市高田町字並杉。

2023年6月13日(火)。

気仙隕石(けせんいんせき)。

1850年6月13日、現在の岩手県陸前高田市気仙町丑沢の長圓寺前に落下した隕石である。

日本最大の石質隕石で、落下した時の重量は135kg。H4型普通コンドライトに分類される。北北西方向から轟音とともに火球が現れ長圓寺境内に落下した。落下日時や飛来方向、落下時の様子などの記録が気仙郡大肝入であった吉田家の文書に残されている。その後、住民たちがお守りとして削るなどして、現在の量は約106kg。

1894年(明治27年)に帝室博物館に献納され、現在は、国立科学博物館に収蔵・展示されている。陸前高田市立博物館には実物大レプリカが展示されていたが、東日本大震災の時には実物破片とともに茨城県の博物館での特別企画展に貸出中だったため難を逃れた。

NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルで、植物学者の牧野富太郎が、陸前高田市出身の博物学者・鳥羽源蔵に宛てた手紙は東日本大震災で被災し、クリーニング作業を終えた。公開されるのは、同館が所蔵するはがきと封書の計21点。津波で浸水したため状態が悪く、6期に分けて2~3通ずつ展示する。

2人はともに、植物分類学の基礎を築いた研究者で、鳥羽は、牧野の早池峰山での標本採集に同行したこともある。

鳥羽源藏が撮影した写真を牧野富太郎編集の「植物研究雑誌」に掲載することについての手紙。

「植物研究雑誌」は、植物研究雑誌編集委員会が編集し、株式会社ツムラが発行する隔月刊の雑誌。本誌は、1916年4月に牧野富太郎によって創刊され、1933年まで引き続き個人で編集されていた。

鳥羽源藏(1872 ~1946年)。博物学者、教育者である。植物・昆虫・鳥・貝類などの分類学者であり、標本収集者。

岩手県気仙郡小友(おとも)村(現在の陸前高田市小友町)で生まれた。1887年気仙高等小学校修業後、東京で農業・養蚕を学び、さまざまな分野の研究者に師事した。1900年に小学校教員の免許を受け、9月より小友尋常小学校准訓導となった。その後も動植物や地文などについて著名な研究者から教えを受けている。

1908年に台湾総督府農事試験場に勤務、1912年に小友尋常高等小学校准訓導に復職した。1914年9月から東北帝国大学の矢部長克・早坂一郎に気仙郡の地質、とくに化石について学んだ。

1922年には岩手県師範学校教諭心得となり、1928年に教員無試験検定に合格して岩手県師範学校(現在の岩手大学教育学部)教諭となり、博物学を講義。73歳まで務めた。

特に考古学や生物学に関心が強く矢部・早坂に学んだほか、昆虫学では松村松年、植物分類学では牧野富太郎海藻調査は岡村金太郎、動物・植物・地文・生理は理科大学の寺崎留吉、菌類・地衣類は三好学、貝類の研究は岩川友太郎、平瀬與一郎・黒田徳米に師事した。第二高等学校教授安田篤に菌蕈類(食用茸を含む)を、専攻科飯柴栄吉・笹岡久彦に蘚類を学んだ。

「西の熊楠、東の源藏」と評される収集活動を行ない、岩手の自然史資料を多く残した。門前(もんぜん)貝塚・獺沢(うそざわ)貝塚・長谷堂貝塚等の気仙郡の貝塚の調査に参加し、出土した骨角器等を考古学界に紹介した。

植物学会、昆虫学会のメンバーとして植物・昆虫・鳥・貝など160編あまりの研究報文を発表した。30数種を越す新種、変種、新品種を記録した。トバイソニナ、トバマイマイ、トバニシキなど鳥羽の名前がつく貝が多数ある。

幅広い研究領域の多くの後継者から慕われ、「岩手博物界の太陽」と称された。

宮沢賢治が1922年、「イギリス海岸」で採集したバタグルミの化石を岩手師範学校教諭心得の鳥羽に送ったところ、鳥羽を通じて東北帝国大学地質古生物学教室助教授の早坂一郎に伝えられ、まだ日本の学界に発表されていない貴重なものと判明した。鳥羽と宮沢の交流はこの時からといわれる。1926年、早坂は「地学雑誌」に論文「岩手県花巻町化石胡桃に就いて」を発表し、その謝辞に「化石採集に便宜を与へて下さつた盛岡の鳥羽源藏氏、花巻の宮沢賢治氏に感謝の意を表する。」と記した。

『猫の事務所』には、「トバスキー酋長」「ゲンゾスキー財産家」の名前が登場する。

牧野富太郎(1862~1957年)には、1901年から師事した。陸前高田市立博物館には牧野から鳥羽あての手紙が22通残されており、交流の深さを示している。2人がやりとりした手紙のレプリカは陸前高田市立博物館で見ることができる。鳥羽は陸前の標本を贈って牧野の研究を下支えしたが、標本は現在、牧野標本館に数多く収蔵されている。

岩手県陸前高田市 奇跡の一本松 陸前高田市立博物館①津波記念碑  


岩手県陸前高田市 奇跡の一本松 陸前高田市立博物館①津波記念碑  

2023年12月23日 15時58分11秒 | 岩手県

高田松原津波復興祈念公園。海を望む場。岩手県陸前高田市気仙町字土手影。

2023年6月13日(火)。

大船渡市立博物館を見学後、市街地方面へ戻って、商業施設の「キャッセン大船渡」に立ち寄った。復興状況視察のため天皇陛下夫妻が立ち寄ったニュースを見たため見学しようと思った。10時30分ごろで、飲食店は準備中が多かったので、鮮魚店でイカ焼きを買って車の中で食べた。このあと、高田松原津波復興祈念公園にある陸前高田市の道の駅「高田松原」へ向かい、11時頃に着いた。東日本大震災津波伝承館を見学してから、海岸方向へ歩いた。

震災前の高田松原は、太平洋につながる広田湾に面して、350年にわたって植林されてきた約7万本の松の木が茂り、陸中海岸国立公園(現三陸復興国立公園)や日本百景にも指定されていた景勝地であったが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による津波の直撃を受け、ほとんどの松の木がなぎ倒されて壊滅した。

高田松原津波復興祈念公園は東日本大震災の震災復興公園であり、国営追悼・祈念施設、東日本大震災津波伝承館と共に道の駅が整備され、2019年9月から部分的に開業し、2021年12月に全面開業した。

追悼の広場

震災遺構。奇跡の一本松。

防潮堤と奇跡の一本松。

海を望む場から追悼広場・道の駅方向。

震災遺構。奇跡の一本松と陸前高田ユースホステル。

奇跡の一本松は、アイグロマツ(アカマツとクロマツの交雑種)で、かつて高田松原にあった約7万本の松林のなかで、東日本大震災の津波に耐えて奇跡的に残り、大津波に耐えたその姿から、復興への「希望の象徴」となった。

樹齢173年、高さ27.5mもある奇跡の一本松は、残念ながら2012年5月に枯死が確認されたが、復興のシンボルとして後世に受け継ぐために幹を防腐処理し心棒を入れて補強したり枝葉を複製したものに付け替えたりするなどの保存整備を行い、現在はモニュメントとして昔と同じ場所に立っている。

一本松が立っているのは、松原の西に位置する陸前高田ユースホステルの敷地内であった。2011年3月11日の14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震は大規模な津波を引き起こし、東日本の太平洋沿岸部を襲った。津波の第1波は松原付近に15時23分 - 24分頃に到達し、最大17メートルの高さをもって松原の木をほぼ全てなぎ倒した。一本松から40メートルほどの場所にあった陸前高田ユースホステルも全壊した。しかし、一本松は10メートル程度の高さまで波をかぶったものの、倒れずに津波に耐え、枝も幹も無事な状態で残った。

松原の7万本の木の中で一本松だけがほぼ唯一生き残った理由は、一本松と海との間にユースホステルが建っていたため、建物が防波堤となって津波の直撃を防いだ形となったこと、押し寄せた津波が引いていく際、一本松から見て陸側にある高架道路(国道45号陸前高田バイパス)が堤防の役目を果たし引き潮の衝撃を弱めたこと、一本松自体が他の松に比べて背が高く、さらに過去の津波でもぎ取られていて波の高さに枝がなかったため、流されてきた瓦礫が引っかかることなくすり抜けていったこと、加えて幹も他の松より太かったことなどが作用したためと推測されている。

2012年9月から「奇跡の一本松保存プロジェクト」と題された保存作業が開始され2013年6月に保存工事が完了した。その内容は、「幹を5分割し、中心部をくり抜いた上で内側と外側から防腐処理し、金属製の心棒を通して元の場所に再設置する。枝葉部分は現物を保存することが難しいため複製を作る。根の部分は切除して別に保存する。雷対策として避雷針を設置する。」ことであった。

 

このあと、北西近くにある陸前高田市立博物館へ向かった。

 

陸前高田市立博物館。岩手県陸前高田市高田町字並杉。

博物館屋上の展望デッキより。太平洋や防潮堤などが見渡せる。

博物館屋上の展望デッキより。北隣の商業施設「アバッセたかた」。

展示コーナー。宿命とともに生きる。

明治三陸大津波、昭和三陸大津波、チリ地震津波から学ぶ。

津波記念碑は何を伝えるのか

低いところに住家を建てるな  それ津浪機敏に高所へ 高田村

岩手県 碁石海岸 大船渡市立博物館②下船渡貝塚の縄文犬 吉浜のスネカ

 

 


岩手県 碁石海岸 大船渡市立博物館②下船渡貝塚の縄文犬 吉浜のスネカ

2023年12月22日 15時52分19秒 | 岩手県

碁石海岸。岩手県大船渡市末崎町字大浜。

2023年6月13日(火)。

国史跡・大洞貝塚の見学を終え、碁石海岸・大船渡市立博物館へ向かった。三陸復興国立公園・碁石海岸インフォメーションセンター駐車場に8時45分ごろ着いた。博物館は9時開館なので、先に碁石海岸を散策することにした。インフォメーションセンターを5分余り見学したのち、碁石岬の駐車場へ移動して、展望台からの風景と碁石埼灯台などを見て回った。

碁石海岸は岩手県大船渡市の末崎(まっさき)半島東南端約6kmの海岸線で国の「名勝及び天然記念物」や国立公園に指定されている。また三陸ジオパークのジオサイト、みちのく潮風トレイルのコースの一部にもなっている。

三陸復興国立公園は、東日本大震災で被災した三陸地域の復興と被災の伝承を目的として、陸中海岸国立公園を中核として、2013(平成25)年、環境省により創設された。南三陸金華山国定公園を編入し、青森県八戸市から宮城県石巻市までのエリアが指定された。

「三陸ジオパーク」は、北上山地東部に位置し、青森・岩手・宮城の3県の市町村からなる日本一広大なジオパークで、約4億年前に海底でできた岩石がプレート運動によってこそぎとられてできた北側とで構成されている。

碁石岬。千代島。

碁石岬に抱かれるように岸壁に卓立し、よじ登ることもできないような岩島。現在はウミネコの繁殖地になっている。波が打ち寄せると、波の圧力に押されて海水が吹きあがる潮吹き現象が見られることもある。

碁石埼灯台。

昭和33年に碁石岬に設置された白い小さな灯台は高さ10.5m、平均海面から灯りまでの高さ36.3m。2016年8月には恋人の聖地として『恋する灯台』に認定された。

展望台からの風景。

末崎半島の先端にある展望台からは、隣の陸前高田市広田半島を望める。晴れていると、宮城県の金華山も見る事が出来る。

溺死者供養塔。大正7年3月。

 

200mほど道を戻り、大船渡市立博物館を見学した。

 

大船渡市立博物館。岩手県大船渡市末崎町字大浜

下船渡貝塚(しもふなとかいづか)縄文時代後・晩期の代表的な貝塚である。1934年国の史跡に指定された。大船渡湾西側の標高20~30mの丘陵上に位置している。1924年(大正13年)と1925年(大正14年)に発掘調査が行われて広く知られるようになった。1961年(昭和36年)の調査で丘陵の海の面した緩やかな斜面やその下位から貝層が確認され、多量の遺物が出土した。

貝層は、厚い部分で0.6~1.2mあり、上層からは縄文時代終末期の土器が、中層からは貝層を伴う後期末様から晩期初頭にかけての遺物が、下層からは貝層を伴わない後期中葉の土器が出土した。さらに遺跡の西南部地区から弥生時代の土器がまとまって検出された。

これら出土遺物のなかでは縄文時代後期末から晩期の土器が一番多い。発掘ではその他に、石器、釣り針・ヤス・離頭モリ・貝輪などの骨角器のほか、埋葬された人骨の近くに現在の柴犬ぐらいの大きさのイヌの埋葬骨格が発見された。当時からイヌも大切な仲間として暮らしていたと考えられる。

ユネスコ無形文化遺産「吉浜のスネカ」。

岩手県では沿岸部を中心に来訪神行事が分布していて、県北部には「ナモミ」「ナゴミ」と呼ばれる行事が、大船渡市には「吉浜のスネカ」「崎浜のタラジガネ」が伝わっている。「吉浜のスネカ」は、それらを代表する行事として、平成16年に国の重要無形民俗文化財指定を受けた。

三陸町吉浜では、小正月(1月15日)の晩になると鬼とも獣ともつかない面をつけ、みのに身を包んだ「スネカ」が家々を訪れる。「スネカ」という呼び名は「スネカワタグリ」を縮めたもので、冬の間、長いこと囲炉裏にあたって火斑(ひがた)ができた怠け者の「脛皮(すねかわ)」を「たくる(剥ぎ取る)」ことから来ている。

アワビの殻を腰にぶら下げ、俵を背負い、身を屈めて鼻を鳴らしながら歩くのがスネカの特徴的な姿である。

スネカが始まった時期は不明だが、およそ200年前の江戸時代後期には行われていたと考えられる。

2018年「吉浜のスネカ」を含む「来訪神:仮面・仮装の神々」10件の行事がユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に登録された。

 

このあと、陸前高田市の道の駅へ向かった。

岩手県大船渡市 国史跡・大洞(おおほら)貝塚 大船渡市立博物館①大洞式土器