陸前高田市立博物館。岩手県陸前高田市高田町字並杉。
2023年6月13日(火)。
気仙隕石(けせんいんせき)。
1850年6月13日、現在の岩手県陸前高田市気仙町丑沢の長圓寺前に落下した隕石である。
日本最大の石質隕石で、落下した時の重量は135kg。H4型普通コンドライトに分類される。北北西方向から轟音とともに火球が現れ長圓寺境内に落下した。落下日時や飛来方向、落下時の様子などの記録が気仙郡大肝入であった吉田家の文書に残されている。その後、住民たちがお守りとして削るなどして、現在の量は約106kg。
1894年(明治27年)に帝室博物館に献納され、現在は、国立科学博物館に収蔵・展示されている。陸前高田市立博物館には実物大レプリカが展示されていたが、東日本大震災の時には実物破片とともに茨城県の博物館での特別企画展に貸出中だったため難を逃れた。
NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルで、植物学者の牧野富太郎が、陸前高田市出身の博物学者・鳥羽源蔵に宛てた手紙は東日本大震災で被災し、クリーニング作業を終えた。公開されるのは、同館が所蔵するはがきと封書の計21点。津波で浸水したため状態が悪く、6期に分けて2~3通ずつ展示する。
2人はともに、植物分類学の基礎を築いた研究者で、鳥羽は、牧野の早池峰山での標本採集に同行したこともある。
鳥羽源藏が撮影した写真を牧野富太郎編集の「植物研究雑誌」に掲載することについての手紙。
「植物研究雑誌」は、植物研究雑誌編集委員会が編集し、株式会社ツムラが発行する隔月刊の雑誌。本誌は、1916年4月に牧野富太郎によって創刊され、1933年まで引き続き個人で編集されていた。
鳥羽源藏(1872 ~1946年)。博物学者、教育者である。植物・昆虫・鳥・貝類などの分類学者であり、標本収集者。
岩手県気仙郡小友(おとも)村(現在の陸前高田市小友町)で生まれた。1887年気仙高等小学校修業後、東京で農業・養蚕を学び、さまざまな分野の研究者に師事した。1900年に小学校教員の免許を受け、9月より小友尋常小学校准訓導となった。その後も動植物や地文などについて著名な研究者から教えを受けている。
1908年に台湾総督府農事試験場に勤務、1912年に小友尋常高等小学校准訓導に復職した。1914年9月から東北帝国大学の矢部長克・早坂一郎に気仙郡の地質、とくに化石について学んだ。
1922年には岩手県師範学校教諭心得となり、1928年に教員無試験検定に合格して岩手県師範学校(現在の岩手大学教育学部)教諭となり、博物学を講義。73歳まで務めた。
特に考古学や生物学に関心が強く矢部・早坂に学んだほか、昆虫学では松村松年、植物分類学では牧野富太郎、海藻調査は岡村金太郎、動物・植物・地文・生理は理科大学の寺崎留吉、菌類・地衣類は三好学、貝類の研究は岩川友太郎、平瀬與一郎・黒田徳米に師事した。第二高等学校教授安田篤に菌蕈類(食用茸を含む)を、専攻科飯柴栄吉・笹岡久彦に蘚類を学んだ。
「西の熊楠、東の源藏」と評される収集活動を行ない、岩手の自然史資料を多く残した。門前(もんぜん)貝塚・獺沢(うそざわ)貝塚・長谷堂貝塚等の気仙郡の貝塚の調査に参加し、出土した骨角器等を考古学界に紹介した。
植物学会、昆虫学会のメンバーとして植物・昆虫・鳥・貝など160編あまりの研究報文を発表した。30数種を越す新種、変種、新品種を記録した。トバイソニナ、トバマイマイ、トバニシキなど鳥羽の名前がつく貝が多数ある。
幅広い研究領域の多くの後継者から慕われ、「岩手博物界の太陽」と称された。
宮沢賢治が1922年、「イギリス海岸」で採集したバタグルミの化石を岩手師範学校教諭心得の鳥羽に送ったところ、鳥羽を通じて東北帝国大学地質古生物学教室助教授の早坂一郎に伝えられ、まだ日本の学界に発表されていない貴重なものと判明した。鳥羽と宮沢の交流はこの時からといわれる。1926年、早坂は「地学雑誌」に論文「岩手県花巻町化石胡桃に就いて」を発表し、その謝辞に「化石採集に便宜を与へて下さつた盛岡の鳥羽源藏氏、花巻の宮沢賢治氏に感謝の意を表する。」と記した。
『猫の事務所』には、「トバスキー酋長」「ゲンゾスキー財産家」の名前が登場する。
牧野富太郎(1862~1957年)には、1901年から師事した。陸前高田市立博物館には牧野から鳥羽あての手紙が22通残されており、交流の深さを示している。2人がやりとりした手紙のレプリカは陸前高田市立博物館で見ることができる。鳥羽は陸前の標本を贈って牧野の研究を下支えしたが、標本は現在、牧野標本館に数多く収蔵されている。