いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

岩手県遠野市 恋愛成就のパワースポット「うねどりさま」 高清水展望台

2023年12月13日 12時15分10秒 | 岩手県

遠野遺産。卯子酉様(うねどりさま)。遠野市下組町。

2023年6月12日(月)。

道の駅「遠野」で起床。まず、7時30分ごろ「遠野旅手帖」に記載してあった恋愛成就のパワースポット「卯子酉様(うねどりさま)へ参拝、つぎに遠野の風景を眺めるために高清水展望台へ行き、重要文化的景観「遠野 土淵山口集落」の山口集落を見学してから釜石市方向へ向かった。

道路沿いのバス停を兼ねた広い駐車場からは近い。

卯子酉様(うねどりさま)は愛宕山の東麓に鎮座する神社。卯子酉神社、卯子酉大明神ともよばれる。恋愛の神様としてカップルがよく訪れる小さな祠で、境内の無人売店で売っている赤い布を、左手だけで木に結ぶことができれば、恋人と結ばれるというご利益があるという。

江戸時代文久年間にに遠野の商人港屋平兵衛が、普代村鳥居の卯子酉明神(鵜鳥神社)を勧請して創建したと伝わる。元は文殊菩薩 ( 卯 )、千手観音 ( 子 )、不動明王 ( 酉 ) を祀っていたが、廃仏毀釈により、住吉大神、大国主命、大鷲大神を祀るようになった。

昔、神社の裏手には、旧猿ヶ石川の淵から転化した池跡があり、「淵の主に宛てて、葦に恋の願いを紙に書いて結びつけておくと男女の縁が結ばれる」という伝説が残されている。

高清水展望台。遠野市松崎町。

高清水展望台は、石神山の麓に広がる高清水高原にあり、遠野盆地が一望できる絶景スポットである。山に囲まれた田畑や家々が目の前に広がり、初夏には緑の絨毯と青い空のコントラストが見られる。

9月下旬から11月初旬にかけての早朝には気象状況によっては雲海が立ち込める幻想的な風景が見られる。展望台まで東西の麓から車道があり、展望台近くに数台分の駐車場がある。

7時50分ごろ、重要文化的景観「遠野 土淵山口集落」の山口集落へ向かった。

岩手県遠野市 土淵のカッパ淵 常竪寺


岩手県遠野市 土淵のカッパ淵 常竪寺

2023年12月12日 13時24分06秒 | 岩手県

カッパ淵。遠野市土淵町土淵。

2023年6月11日(日)。

伝承園を見学してから、16時ごろ近くにあるカッパ淵への見学に向かった。最寄りの駐車場は伝承園の駐車場となっているので、徒歩で向かい10分弱で着いた。近道である常竪寺境内のルートは入山が9時から16時までだったので、迂回路を歩くことになった。

しかし、常竪寺の「カッパ狛犬」が見たかったので、翌12日に重要文化的景観「遠野 荒川高原牧場 土淵山口集落」の山口集落を見学したあとに、常竪寺へ訪れて「カッパ狛犬」を確認することができた。

常堅寺(じょうけんじ)。曹洞宗の寺院。山号は蓮峰山。「カッパ狛犬」の寺として知られる。室町時代の延徳2年(1490年)4月、多聞秀守を開山として創建したとされる遠野郷十二ヶ寺の触頭。カッパ淵に隣接しており、そこに住むカッパが常堅寺の火事を消して狛犬になったという伝説がある。

常堅寺。山門。八脚門。早地峰神社(旧妙泉寺)より明治初期に移された伝慈覚大師(円仁)作の仁王像(総丈3.5m)安置。

常堅寺。十王堂。堂の前に一対のカッパ狛犬がある。頭の上が皿状になっており、賽銭が置いてある。

カッパ淵。

土淵町の常堅寺裏を流れる小川の淵にはカッパが多く住んでいて、人々を驚かし、いたずらをしたといわれている。澄んだ水がさらさらと流れるカッパ淵は、うっそうとした茂みに覆われ、今にもカッパが現れそうである。

淵の岸辺には、カッパ神を祀った小さな祠があり、子持ちの女性がお乳が出るようにと願ををかけるとかなうといわれている。願かけには、赤い布で乳の形を作り、この祠に納めるのが習いとされている。

キュウリを餌に伝説の妖怪カッパ釣り。

裏の高台には安倍(阿部)屋敷の跡がある。

 

遠野物語 青空文庫

五五 川には川童(かっぱ)多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端(かわばた)の家にて、二代まで続けて川童の子を孕(はら)みたる者あり。生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形きわめて醜怪なるものなりき。

女の婿の里は新張(にいばり)村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀(みぎわ)に踞(うずくま)りてにこにこと笑いてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。

かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々通うという噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附(だちんづけ)に行きたる留守をのみ窺(うかが)いたりしが、のちには婿と寝たる夜さえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐もなく、婿の母も行きて娘の側(かたわら)に寝たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。

その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、馬槽(うまふね)に水をたたえその中にて産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻(みずかき)あり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法(にょほう)の豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。

 

五八 小烏瀬川(こがらせがわ)の姥子淵(おばこふち)の辺に、新屋(しんや)の家という家あり。ある日淵(ふち)へ馬を冷(ひや)しに行き、馬曳(うまひき)の子は外(ほか)へ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩(うまや)の前に来たり、馬槽(うまふね)に覆われてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。

村中のもの集まりて殺さんか宥(ゆる)さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯(いたずら)をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢(あいざわ)の滝の淵に住めりという。

 

カッパ淵を見学後、遠野市街地に戻り、鍋倉城(遠野城)を見学、その後道の駅「遠野」へ。道の駅の裏側にJR釜石線が通っており、駐車場の車内で夕食の準備をしていると、汽笛が連続して鳴っていた。数日後に分かったが、蒸気機関車の「SL銀河」が、老朽化で引退することになり、最後の運行をしていたようだ。知っていれば線路を見に行っただろう。

翌朝は、遠野の風景を眺めるために、高清水山展望台へ行き、重要文化的景観「遠野 荒川高原牧場 土淵山口集落」の山口集落を見学してから常竪寺を見学し、釜石市方向へ向かった。

岩手県遠野市 遠野伝承園 菊池家曲り家 オシラ堂

 


岩手県遠野市 遠野伝承園 菊池家曲り家 オシラ堂

2023年12月11日 11時26分16秒 | 岩手県

遠野伝承園。オシラ堂。遠野市土淵町第6地割。

2023年6月11日(日)。

遠野市立博物館見学後、北東郊外旧土淵村のオシラ堂で有名な遠野伝承園と遠野物語ゆかりのカッパ淵へ向かった。

入口を入り、遠野物語のエピソードを柳田国男に語った民話収集家の佐々木喜善の記念館へ立ち寄り、園内を進むと、南部曲がり家「菊池家曲り家」の裏側がある一角に出る。

板倉。

壁が全て板で作られている納屋で、農作業を行う場として使用された。明るさを必要とする時や作物を乾燥させる時には板を取り外して使用した。また、板倉は土蔵が無い家では土蔵代わりに、土蔵のある家では土蔵に入れる物の次に大事なものをしまっておいた建物でもあった。

現在は内装を施し展示場や昔話の会場として利用している。

板倉内の展示物。吊るし雛などは地元の女性たちが一つ一つ手作りしたもの。

重文・菊池家曲り家。

寄棟造、茅葺。主屋部桁行21.2m、梁間8.6m。曲り部分南面突出部桁行8.7m、梁間7.7m。

建築年代については明確な資料はないが、建物の形式が閉鎖的な構えであり、材料の仕上げ、工法も古く、1750年頃に建てられたといわれる最も古い時期の南部曲り家である。

当初は桁行九間(17.6m)の曲り部分を持たない直家(すごや)であったが、建立後間もない頃、土間を一間半(2.9m)拡張するとともに、下手に曲り部分の馬屋を増築したもので、直家から曲り家への発生過程をうかがうことのできる貴重な遺構である。

もとは遠野市小友町13地割にあり菊池氏の所有であったが、1977年に遠野市が公有化し、1978年に現在の伝承園内に移築した。この住宅が菊池氏の所有となったのは大正13年のことであり、もとは高橋氏の所有、ついで大沢氏、山蔭氏と伝えられてきたというが、詳しいことはわからない。

菊池家曲り家は、盛岡藩特有の曲り家形式で、標準的な規模を持ち、主屋は南面し、馬屋部分は東面している。

平面は最も上手に前後二室続きの座敷があり、その下手は寝室二室及び「とおりのま」からなる三つの小屋をはさんで裏寄りの広い「じょうい」及び表寄りの「ちゃのま」がつづき、さらに「じょうい」の下手は「だいどころ」が土間に張り出す。

曲り部は土間で一部分は馬屋になっている。大戸口は曲り部分内側に付いている。このような間取りは旧盛岡藩域の南部一帯の曲り家の一般的なものである。

前面を除く外面が全て大壁で、前面も「おもてざしき」では東寄り一間のみ引違いの開口で他は壁となり、「ちゃのま」前面も開口部が片袖壁引込戸構えとなるなど閉鎖性が強い。

構造は上・下屋の区分があり、東北・西北(旧直家)の隅は下屋柱上に火打梁を架け、上屋隅柱を省略する等の工法が施され、火打梁使用の古い例として注目される。小屋は叉首構造で棟束はない。仕上げは釿または「よき」である。

菊池家曲り家は、人と馬がともに生きた遠野の文化を伝える施設として、往時の農家の調度品、民具を展示している他、『囲炉裏を囲んだ昔話』『蚕の飼育』『伝承行事の再現』等を行っている。

オシラ堂へは菊池家曲がり家の室内から入る。曲り家の奥の細い薄暗い廊下を抜けると、およそ六畳程の小さなお堂が現れ、中には、娘と馬の恋物語で知られるオシラサマを千体展示している。

オシラ堂(御蚕神堂)。

オシラ堂の建物は、農家の土蔵を移築したもので、その中に1000体のオシラサマを安置している。オシラサマは養蚕・農業・馬の神様・目の神様・女性の病気の神様として信仰されているほか、良いことを知らせてくれる「オシラセ神」としても信仰されている。

オシラサマ伝説。馬娘婚姻譚。

東北地方には、オシラサマ(おしら様)の成立にまつわる悲恋譚が伝わっている。それによれば昔、ある農家に娘がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには夫婦になってしまった。娘の父親は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。娘は馬の死を知り、すがりついて泣いた。すると父はさらに怒り、馬の首をはねた。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空へ昇り、オシラサマとなったのだという。

『聴耳草紙』にはこの後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、臼の中の蚕虫を桑の葉で飼うことを教え、絹糸を産ませ、それが養蚕の由来になったとある。以上の説話から、馬と娘は馬頭・姫頭2体の養蚕の神となったとも考えられている。

 

伝承園を見学してから、近くにあるカッパ淵への見学に向かった。

岩手県 遠野市立博物館 遠野物語 伊能嘉矩 佐々木喜善 柳田國男 


岩手県 遠野市立博物館 遠野物語 伊能嘉矩 佐々木喜善 柳田國男 

2023年12月10日 14時37分37秒 | 岩手県

遠野市立博物館。遠野市東舘町。

2023年6月11日(日)。

遠野まちなかドキ・土器館を見学後、鍋倉山の麓にある遠野市立博物館を見学した。伊能嘉矩(いのうかのり)は、5年ほど前の台湾旅行で知ったが、その業績は現地でも高く評価されていた。

おしら様(オシラ様、オシラサマ)は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。

神体は、多くは桑の木で作った30㎝程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。貫頭衣のかたちをしたものと布を頭部からかぶせた包頭型とがある。普段は住宅の神棚や床の間に祀られていることが多い。神体は、男と女、馬と娘、馬と男など2体1対で祀られることが多い。

伊能嘉矩(いのうかのり、1867~1925年)は、人類学者・民俗学者。明治時代においていち早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者といわれる。

慶応3年(1867)南部藩支藩である遠野南部家の下級武士の子として遠野に生まれた。父母を早くに亡くしたが、両祖父から漢学・国学・国史などを学び、若くして学才を発揮する。明治18年(1885年)、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動にも参加し、岩手県に戻り入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。1889年3月、再び上京。成達書院で漢学と歴史を学びながら、東京毎日新聞社に入社、教育評論、教育報知、大日本教育新聞の記者を務めた。

明治26年(1893)東京帝国大学の坪井正五郎から人類学を学び、鳥居龍蔵と出会った。「土俗学」の独立を提唱したが、この学問は後に「民俗学」として柳田国男(やなぎたくにお、1875~1962年)に引き継がれ、集大成されていった。

明治28(1895)年、陸軍省雇員として台湾に渡り、台湾土語講習所でアタイヤル系土語などを学び、台湾人類学会を設立して研究活動を始めた。台湾総督府雇員として台湾全土にわたる人類学調査に取り掛かった。その調査結果は、『台湾蕃人事情』として台湾総督府民政部文書課から刊行された。

1906年(明治39年)帰国後は、台湾研究を進めるかたわら、郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになる。研究を通じて柳田國男や佐々木喜善、ネフスキーなどの民俗学者と交流し、『遠野物語』の成立にも影響を与えたこの間の著作に『上閉伊郡志』『岩手県史』『遠野夜話』などがある。研究を通じて柳田國男と交流を持つようになった。郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の『遠野物語』成立に影響を与えた。大正14年(1925年)9月台湾滞在中に感染したマラリアが再発して病死した。

死後、柳田は伊能の残した台湾研究の遺稿の出版に力を注ぎ、昭和3年(1928年)『台湾文化志』として刊行された。台湾研究の大著『台湾文化志』は、現在も国際的に高い評価を受けている。

佐々木喜善(きぜん、1886~1933年)は、民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。

遠野市土淵の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、二年後に中退する。

その後、上京、哲学館(現在の東洋大学)に入学するが、文学を志し早稲田大学文学科に転じる。この間、佐々木は終生の友人となる水野葉舟と出会う。1905年(明治38年)頃、佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を発表し始める。

1908年(明治41年)11月4日、佐々木は水野の紹介によって柳田國男に知己を得、牛込加賀町の官舎を尋ねる。その後、やりとりが始まり、この時、喜善の語った遠野郷の民話や伝説を基に、柳田が『遠野物語』を著す。

1910年(明治43年)に病気で大学を休学し、郷里に帰る。柳田の影響や要請もあり、次第に郷里である遠野の民話や伝説収集に文筆活動の主軸を移してゆく。この間に『遠野物語』にも登場する辷石たにえから聞いた昔話をまとめた『老媼夜譚』や『遠野雑記』『奥州のザシキワラシ』『江刺昔話』『東奥異聞』『聴耳草紙』などの民話集を発表した。

民話収集の傍ら、土淵村村会議員・村長を務めるが、村長職という慣れない重責に対しての心労が重なり職を辞す。同時に多額の負債を負った喜善は仙台に移住。以後生来の病弱に加え生活は困窮し、数え年48歳で病没。「日本のグリム」の名は、喜善病没の報を聞いた言語学者の金田一京助によるもの

詩人・童話作家の宮沢賢治とも交友があった。1928年(昭和3年)、賢治の童話『ざしき童子のはなし』の内容を自著に紹介するために手紙を送ったことがそのきっかけである。その後、1932年(昭和7年)になって喜善は賢治の実家を訪れて数回面談した。賢治は当時既に病床に伏していたが、病を押して積極的に喜善と会っていた。

 

このあと、オシラ堂のある土淵の伝承園とカッパ淵へ向かった。

岩手県遠野市 遠野まちなかドキ・土器館②たそがれ土偶 9万年前の旧石器


岩手県遠野市 遠野まちなかドキ・土器館②たそがれ土偶 9万年前の旧石器

2023年12月09日 11時41分07秒 | 岩手県

遠野まちなかドキ・土器館。岩手県遠野市新町。

2023年6月11日(日)。

金取遺跡(かねどりいせき)は6万年前にアフリカを出た現生人類(新人)ではなく、その前の旧人(デニソワ人など)が残した狩猟用のキャンプ跡とみられる。

たそがれ土偶。遠野市夫婦石袖高野遺跡出土。縄文時代後期(約4,000年前)。

まるで、たそがれているかのような寂しげなポーズの土偶。小型で装飾は無くシンプルだが、背面の背骨の部分が丁寧に表現されている。見れば見るほど親しみを感じる不思議な魅力がある。

金取遺跡(かねどりいせき)。遠野市宮守町(旧上閉伊郡宮守村)。中期旧石器時代。遠野市指定史跡。

8-9万年前とされる土層から石器が出土し、日本国内最古の旧石器時代遺跡とする。その後、2009年(平成21年)に島根県出雲市の砂原遺跡で出土した石器が12万年前まで遡るとされる。

遺跡は北上山地の小盆地に面した中位段丘上に位置している。ホルンフェルス製の石器(チョッピング・ツール)1点が民間研究者によって発見され、発掘調査された。

旧石器は、Ⅱ層、Ⅲ層、Ⅳ層に包含されていた。Ⅲ層の上部から片面調整石器、チョッパー、このほか剥片、砕片、円盤石核、焼けた礫3点など31点の遺物と多量の木炭粒が出土した。第Ⅲ層下層(Ⅲc層)検出炭化物の炭素14年代測定結果では46480(±710)年前という値が得られ、これを日本における中期旧石器時代遺跡の存在の主要な根拠としているが、中期旧石器の存在を疑問視する意見では、層位の年代決定法上の問題などからこれに疑問を呈し、現在も意見が分かれている。

Ⅳ層からは、黒い硬質砂岩や粘板岩で作ったハンドアックスのような両面加工石器やチョッパー、青灰色の良質なチャート製の五角形剥片など8点の石器と木炭粒が検出された。Ⅳ層は9~8万年前という年代が与えられた。金取Ⅳ文化は火山灰層序学に照らして地質年代を把握できる日本最古の石器群とする意見がある。

斧形石器は研究者の注目を浴び、中国や朝鮮半島では発見されていない日本列島独自の発達を遂げた大型重量石器として評価を受けた。

第III文化層では珪質頁岩製小型石器で構成され、40点(石斧41、円盤形石核42、チョッパー43、スクレイパー44~46・49・50、くさび形石器47、フレイク48・51~59、チップ24点)。

第IV文化層石器群は8点(楕円形石器61、チョッパー62・64、チョッピングトゥール63、スクレイパー67・71、フレイク65・66)。用いられているホルンフェルスは、紅柱石・ざくろ石ホルンフェルスであり、遠野花崗岩体接触部にのみ産出する。

張山遺跡。附馬牛町張山から青森県三内丸山遺跡と同時代の縄文時代中期~後期の環状集落跡が出土した。集落中央の広場を囲んでお墓が48基並び、その周辺に竪穴住居などが取り巻いていた。典型的な環状集落である。

 土器や石器の出土量はコンテナで200箱を数え、竪穴住居跡も250棟ほど確認された。遺物の中には、遠野の近辺では産出しない黒曜石や新潟県糸魚川で産出されるヒスイが発見されていることから、張山遺跡は、他の地域との交流・交易の範囲が広かったと考えられる。

栃洞遺跡。大洞BC式土器。縄文時代晩期前葉 BC1100年頃。

新田Ⅱ遺跡。遠野市綾織町。縄文時代晩期(大洞A1式土器)。

新田(しんでん)Ⅱ遺跡からは、台付鉢1点、壺7点、深鉢2点、鉢9点が水辺から一括出土しており儀礼的行為の痕跡と推測される。

 

綾織新田遺跡(国史跡)。

綾織新田遺跡は、岩手県北上高地のほぼ中央に位置する遠野盆地を流れる北上川の支流、猿ケ石川左岸の標高約270mの河岸段丘上に立地する。発掘調査の結果、大型竪穴住居により構成される縄文時代前期前半の拠点的集落跡であることが判明した。

集落は大型住居、小型竪穴、土坑、道路、溝、広場から構成される。大型住居は中央広場を挟んで放射状に配置され、17棟検出された。平面形は長方形を基調とし、内部に複数の炉を持ち、いずれも頻繁な建て替え、拡張の痕跡が認められる。小型竪穴は広場南 側の大型竪穴住居の周囲に配置され、中には墓坑と思われるものがあり、石鏃、玦状耳飾りが出土している。

出土遺物では、これまで類例の少なかった大木2・3・4式土器がまとまって出土し、当該時期の変遷を知る上で良好な資料である。特筆されるのは滑石製玦状耳飾りで、50点出土し、国内有数の出土点数を誇る。原石も出土していることから本集落で製作されたものである。

綾織新田遺跡は、集落構造や出土遺物から縄文時代前期前半の大木式土器文化を代表する拠点的集落と考えられ、縄文時代前期後半以降見られる大型住居により構成される集落の初期の事例であり、縄文時代の社会構造を考える上で極めて重要な遺跡である。

 

このあと、遠野市立博物館へ向かった。

岩手県遠野市 鍋倉城跡 遠野まちなかドキ・土器館①阿曽沼氏