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岩手県大槌町 吉里吉里善兵衛歴代の墓地(前川善兵衛の墓)

2023年12月18日 11時31分19秒 | 岩手県

吉里吉里善兵衛歴代の墓地(前川善兵衛の墓)。町指定文化財。岩手県大槌町吉里吉里(きりきり)。

2023年6月12日(月)。

旧釜石鉱山事務所を見学後、大槌町吉里吉里の前川善兵衛の墓へ向かった。1981年に刊行された井上ひさしの小説「吉里吉里人(きりきりじん)」は当時評判になった。吉里吉里人が、日本から独立して吉里吉里国という独立国を作るというアイデアはその後各地で模倣された。吉里吉里(きりきり)という地名にもインパクトがあり、小説の設定では別の場所になってはいるが、もとになった吉里吉里を見学しようと思った。何か史跡があるのかと調べて、興味を引いたのが「前川善兵衛の墓」だった。井上ひさしが何故その地名を知ったのか。一時、国立釜石療養所の事務職員であったときだろうか。

釜石市街地の北から海岸近くを北上し、三陸鉄道リアス線吉里吉里駅をめざして幹線道路から脇道に入ったが、駅への道標がなく迷った。線路横の高台に取り付き、小公園に至ると、墓地が見えてきたので、路駐した。こども園下の細い道を進むと、吉里吉里善兵衛歴代の墓地(前川善兵衛の墓)があった。50基あまりの前川家歴代一族の墓石が海を向いて並んでいた。

みちのくの紀ノ国屋文左エ門とよばれた三陸大槌の豪商「吉里吉里善兵衛」とは。

吉里吉里駅前の小公園から東に約50m、散策路の先に「吉里吉里善兵衛」歴代の墓地がある。吉里吉里の街並みと吉里吉里海岸、船越湾を見下ろす小高い丘にある歴代の墓地は町の史跡に指定され、江戸の昔に豪商として栄えた往時の栄耀栄華を偲ばせる。

明治の頃まではこの墓地は大理石の石畳で敷き詰められていたという。伝説そして民話に語り継がれてきた「吉里吉里善兵衛」は「みちのくの紀ノ国屋文左エ門」とも称され、いろは48艘の千石船に帆を上げて、唐天竺(からてんじく)を股にかけた海の豪商として持てはやされた。

栄華を誇った「吉里吉里善兵衛」の邸宅は2万坪にも及ぶ土地の中に豪奢に建てられ、その周りに使用人等が住む長屋が建っていたといわれる。

前川家は漁業と貿易で産をなした海産物商で、盛岡藩の御用商人である。八代まで「善兵衛」と名乗り、南部藩の財政を支えた。

その祖は小田原の後北条氏に仕えた清水富英といい、相模国前川邑(小田原市前川)に150貫の領地を与えられていた。小田原征伐で後北条氏が没落すると、富英は奥州・気仙浦に逃れた。子の富久の代に吉里吉里に移住し、旧領名から前川と改姓した。

初代は甚右衛門、2代目以降は代々善兵衛を名乗った。初代甚右衛門の頃から常陸那珂湊の貿易商白土次郎左衛門と関係を持ち閉伊海岸の海産物の交易を行っていたが、元文の頃(1736年~)より商名を「東屋孫八」と称して、海産物や米・大豆などを江戸に積み出して富を蓄積した。煎海鼠や干鮑などの長崎俵物の出荷にも従事し、さらに尾去沢銅山の発掘請負人となり、延鉄の出荷にもたずさわるなど、多角的経営を展開した。前川家は盛岡藩に多額の融資を行い、代わりに十分の一税を永代免除され、「御免石船」として交易にあたった

前川家は船頭、水主を多く従えていたが、そのほどんどが永代水主である。こうした永代水主を中心とした漁業経営にもあたっていた。

しかし、1753年(宝暦3年)、4代善兵衛富昌の時、盛岡藩が江戸幕府に日光東照宮修復のお手伝い普請を命じられると、藩は領内の豪商に費用を供出させ、前川家も7500両の出費を余儀なくされた。さらに、宝暦の飢饉では蔵を開いてのべ3万2千人に雑穀を振る舞ったが、追い打ちを掛けるように盛岡藩に献金を要求された。こうしたことが度重なり、前川家の家運も傾き始めた。

6代善兵衛富長は、測量に訪れた伊能忠敬を接待した記録が残るが、船を難破で失うなど本業は苦境が続いた。以降も前川家は存続するが、豪商としての活動は見られなくなり、漁業に専念するようになっていった。

初代:甚右ェ門富久( - 1677年 延宝5年)

吉里吉里浦に移住してからの初代。富久は当時の回船問屋から交易の権利をゆずり受け、三陸漁場を差配する力を持つようになった。常陸方面の貿易商との関係があり、海産物を扱っていた。

2代:善兵衛富永(1638年 - 1709年 宝永6年)

前川家を不動のものに興した祖といわれる。1706年南部藩に930両も貸していたほどの貿易商で、そこから得た利益を全部南部藩に返納したことから、交易船200石分の御免石証文を貰い、名字帯刀も許された。

3代:善兵衛助友(1678年 - 1746年 延享3年)

64石余の地方給人、いわゆる代官所下の地方侍であったが、1707年父富永の隠居とともに家業を継ぐ。

南部利視の海岸巡視の際には、出店のあった大槌浦(安渡)宅で接待したり、箱崎山で狩りを行った時も猟師204人や列卒(せこ)3200人の弁当や御召船も出している。

南部藩はこの助友の代にも金銭を用立てており、証文18枚で1700両もあったが、これも全部藩に返納して魚類海藻積出200石の船税免除を永代に許された。前川家では「明神丸」という800~1000石も積む商船での出航を許可されていた。

4代:善兵衛富昌(1691年 - 1763年 宝暦13年)

野田の中野甚右ヱ門という給人の家から養子となり、1738年助友の後を継ぐ。1744年藩船宮古丸(700石)と虎丸(250石)の造船を命じられ、宮古方面から吉里吉里まで良材を運び、1745年6月に2艘を完成させた。1741~1750年、宮古、大槌両代官所の漁師たちから納められる〆粕の差配役を命ぜられ、7ケ年分の勘定で15900両の藩費納入を手伝い、尾去沢銅山の経営も盛岡商人とともに仰せつかっている。

1749年には、南部藩は江戸屋敷の財政支えのため、藩米1万俵引き当てに3500両の上納を命じている。1753年、幕府からの日光山の修復を命ぜられた南部藩から7000両を都合され納めている。

1755年の宝暦の大飢饉には、大槌通だけでも1094人の餓死者が出る中、飢民救済のため私蔵を開いて粥を炊き施した。その数、延べ25000人余に及んだ。

中央が「昌雲壽翁居士」の4代富昌、右が「義山松翁居士」の5代富能の墓。

5代:善兵衛富能(とみよし、1723年 - 1801年 享和元年)

1761年4代富昌から家督を譲り受けた。江戸幕府から南部藩が日光五本坊の修復を命ぜられ、費用7万両のうち、藩米3万俵を抵当に5000両の調達を請け負った。

豪商善兵衛を物語るものとして『吉原で海苔の羽織』というエピソードがある。

7000両の調達以降も度重なる御用金要請により、それまで7000両を納める立場の善兵衛は、逆に7000両の借金を抱えるまでになった。このころから富能は、盛岡の勘定所へ持ち船や店舗の売却、御用商人の御役御免の請願書を何度か提出してる。

御用商人を辞め、起死回生を図ろうとした富能は、それまでの関東俵物(交易)から長崎俵物(貿易)に眼を付け、取り組み始めるが1769年には700両もの不渡りに遭遇するなど、商売は下降の一途をたどっていく。

6代:善兵衛富長(1772年 - 1843年 天保13年)

5代富能は子宝に恵まれず、盛岡の赤沢家から養子(富長)を迎えるが、過去の栄光は蘇らず、衰退の一途をたどる。

7代:善十郎富命(1785年 - 1830年 文政13年)

8代:善兵衛富壽(1812年 - 1884年 明治17年)

6代(富永)、7代(富命)、8代(富壽)と漁業権を処分しながら、僅かに武士としての面目を保っていた。

 

このあと、釜石市市街地南にある「鉄の歴史館」へ向かった。

岩手県釜石市 旧釜石鉱山事務所 近代製鉄発祥の地・大橋地区


岩手県釜石市 旧釜石鉱山事務所 近代製鉄発祥の地・大橋地区

2023年12月17日 13時10分44秒 | 岩手県

旧釜石鉱山事務所。岩手県釜石市甲子(かっし)町。

2023年6月12日(月)。

岩手県釜石市橋野町の世界遺産・橋野鉄鉱山を見学したのち、遠野方面へ戻って仙人峠の釜石寄りにある釜石市甲子町の旧釜石鉱山事務所へ向かった。仙人峠のカーブを下ると、脇道に入る。方向的にはかなり戻ることになり、JR釜石線の陸中大橋駅前広場を通過すると鉱山跡らしきものが山肌に見える広場に着いた。その外れに旧釜石鉱山事務所がある。この大橋地区は世界遺産・橋野鉄鉱山よりも先に洋式高炉が稼働した近代製鉄発祥の地である。

山肌にしがみつくような選鉱所跡。

釜石鉱山では鉄鉱石と銅鉱石を産出する。地下に広く展開している坑道の範囲は,選鉱所跡の奥に釜石市と遠野市の境の山中に仙人峠を挟んで10キロ四方にわたる。旧釜石鉱山事務所を含めた一帯は、釜石鉱山としてジオスポットになっている。

 

旧釜石鉱山事務所。国登録有形文化財。

旧釜石鉱山事務所は、釜石鉱山株式会社が1951(昭和26)年に建築した建物で、鉄筋コンクリート2階建て陸屋根、建築面積735㎡、延床面積1408㎡。鉄筋コンクリート造二階建の東西棟でとする。平滑な外壁に欄間付の上下窓が規則正しく並び、北東隅の玄関と外壁上端に廻らせた庇がアクセントとなっている。一階東半は事務室で受付カウンターが残る。西端に倉庫等を増築。端正なモダニズム建築である。

2008(平成20)年まで総合事務所として使用されていたが、日鉄鉱業株式会社が所蔵していた釜石鉱山関連資料とともに釜石市に寄贈・寄託されて翌年から一般資料館として公開されている。

1階はレトロな昭和30年代の事務所を再現、2階は鉱山で採掘に使った道具や採取された鉱物などを展示している。

史跡・釜石鉄山大橋高炉跡。大島高任父子顕彰碑。

旧鉱山事務所の入口右側に、昭和17年に建立された大島高任(たかとう)とその息子・道太郎(官営八幡製鉄所初代技官)の業績をたたえた碑がある。

碑の上側に刻まれた「労於天下之用」の文字は、岸信介(第56・57代内閣総理大臣)によるという。

橋野高炉跡が「近代製鉄発祥の地」とされるが、大島高任が安政4(1857)年12月1日に洋式高炉による連続出銑にはじめて成功したのは、この大橋に大島高任が建設した高炉でのことであった。

大橋の高炉はその後明治はじめころまで稼働したが、大橋が官営製鉄所の選鉱場に決まったため明治7年に廃業となり、翌8年に取り壊された。現在の旧鉱山事務所付近にあったという高炉跡は事務所建設により消滅したという。

大橋高炉で出銑した銑鉄を個割りにした板銑。

釜石鉱山は、岩手県釜石市と遠野市上郷町に跨がり良質な鉄鉱石を産出する鉄鉱山である。江戸時代から始まり、明治時代の開坑から現在まで150年余の歴史を持つ。主要の鉄以外に金・銀・銅・鉛・亜鉛なども産出した。この鉱山の存在によって、釜石市には現在でも日本製鉄東日本製鉄所釜石地区などの企業が数多く立地する。現在の鉱業権者は、日鉄鉱業の子会社である釜石鉱山株式会社である。

1727年(享保12年)江戸幕府付採薬使の阿部将翁が仙人峠で磁鉄鉱を発見したとされる。

1822年(文政5年)盛岡青物町の理兵衛に対し、藩より最初の試掘の許可が下りる。

1849年(嘉永2年)三河の高須清兵衛と陸中の中野大助とが合資で大橋に旧式高炉を建設。

1857年(安政4年)盛岡藩士大島高任が大橋に洋式高炉を築造し、鉄鉱石を原料として出銑に成功する(これを記念して12 月1日は鉄の記念日となっている)。これを契機に大橋に3座、橋野に3座、佐比内に2座、栗林及び砂子渡に各1座、計10 座の高炉群が幕末に築造され、我が国近代製鉄業の礎となった。

1862年(文久2年)高任は高炉を2基増設、銑鉄を増産する。

1873年(明治6年)盛岡の豪商小野善右衛門が、南部藩より設備を譲り受けて改良高炉2基を建てる。

1874年(明治7年)政府が買い上げて官営鉱山とし、海外より機械を輸入して技師を迎えた。

1876年(明治9年)釜石の鈴子に官営製鉄所がおかれることとなり、良質の鉱石がとれる大橋から製鉄所まで鉱石を運ぶため、日本で3番目となる鉄道、釜石鉄道が起工される。

1878年(明治11年)鈴子精錬所が完成。

1880年(明治13年)8月、日本で3番目の鉄道が大橋-鈴子間に開通。 9月より官営製鉄所が操業を開始するも98日目で休止。

1882年(明治15年)操業再開するも200日で再び中止。コスト高が原因とされる。

1883年(明治16年)官営製鉄所の廃止が正式に決定。鉄屋田中長兵衛に払い下げを依頼。

1885年(明治18年)田中長兵衛とその番頭横山久太郎ら民間の手で製鉄への挑戦が始まる。

1886年(明治19年)10月16日、苦難の末49回目の挑戦にして成功に至る。

1887年(明治20年) 7月、横山久太郎を初代所長として釜石鉱山田中製鉄所が発足。大橋にも分工場が建設される。

1893年(明治26年)釜石鉱山鉄道が馬車鉄道として再開。

1894年(明治27年)栗橋分工場が操業を開始。

1917年(大正6年)二代目田中長兵衛を社長とし、田中鉱山株式会社が発足。

1924年(大正13年)三井鉱山株式会社に経営権が払い下げされ、釜石鉱山株式会社と改名。

1939年(昭和14年)日本製鐵(株)より分離独立して、釜石鉱業所となり、日鉄鉱業の子会社となる。

1950年(昭和25年)- 銅鉱床を開発し、鉄・銅の併産体制となる。

1952年(昭和27年)銅の選鉱場が作られ、鉄・銅併産体制が確立する。1979年(昭和54年)釜石鉱業所が釜石鉱山(株)に引き継がれる。1992年(平成4年)天狗森銅鉱床の採掘終了。1992年(平成4年)銅鉱石の採掘を終了する。1993年(平成5年)大規模な鉄鉱石の採掘を終了する。新鉱山・鉱泉水・地下空洞跡地利用の事業を展開。現在に至る。(現在でも年間約100トンの採掘を行っている。)

2007年(平成19年)経済産業省より近代化産業遺産に認定される。

「仙人秘水」。このあたりの地質は中・古生代の堆積岩を始め,各種の火成岩から構成されて,坑内からは弱アルカリ性の清澄な水が豊富に湧いている.地下350mから湧き出る鉱泉水を利用したミネラル・ウォーターの製造販売を試みて、1989年(平成元年)鉱泉水(仙人秘水)の製造を開始する。

大橋鉱山社宅。駅前社宅と御神輿。

大橋の町には、かつては多くの社宅が立ち並び、学校や病院のほか、映画館などもあった、今は一部にその面影を残すのみとなっている。戦中は鉱山の生産量が増大し、一時は従業員が6000人におよんでいたという。

例年、10月なかばころに旧鉱山事務所近くにある山神社のお祭りがある。出店が並び、ステージでは出し物が披露されるなどイベントが行われ、近隣からの見物客で賑わう。

このあと、大槌町吉里吉里の前川善兵衛の墓へ向かった。

岩手県釜石市 世界遺産・橋野鉄鉱山 現存日本最古の洋式高炉跡


岩手県釜石市 世界遺産・橋野鉄鉱山 現存日本最古の洋式高炉跡

2023年12月16日 08時14分50秒 | 岩手県

世界遺産・橋野鉄鉱山。岩手県釜石市橋野町。

2023年6月12日(月)。

インフォメーションセンターで散策マップをもらい、大門前の駐車場に駐車して徒歩で一番高炉から散策した。

現存する日本最古の洋式高炉跡、橋野高炉跡が建設されたのは、安政5年(1858年)〜6年。建設は後に近代製鉄の父と呼ばれる盛岡藩士大島高任(たかとう)が指導、安政5年に仮高炉(現在の三番高炉)での操業に成功した。これが橋野鉄鉱山の始まりである。

安政の大獄後、一時は閉鎖が検討されたものの有力な鉄山であったことから高炉は南部藩直営となり、一番高炉と二番高炉が建設され、高任の仮高炉は三番高炉として操業された。

明治27(1894)年操業終了までの間、釜石地域には7か所13基もの高炉が立ち並んだが、当時国内最大の鉄鉱山であった橋野は、まさに幕末から明治にかけての日本の近代製鉄業を支え、国の発展に貢献した「近代製鉄発祥の地」といえる。

周辺には、採掘場から運ばれた鉄鉱石を砕いた種焼場・種積場・種砕水車場跡、高炉の事務管理を行った御日払所跡、鍛冶や大工の長屋跡などが残されている。高炉のフイゴ(送風装置)を動かす水車のために引かれた水路跡、立派な山神碑など、1000人もの従業員が働いていたという最盛期の賑わいが思い浮かぶ。

 

水路跡。

一番高炉。

二番高炉とともに、1860年(安政7年)頃に田鎖仲や田鎖源治らにより建設された。

花崗岩の基壇が1段、その上に約5.8m四方、高さ2.4mの花崗岩の石組が4段。南側に送風のためのフイゴ座、東側に湯出し口が設置され、当時は石組の上に甘石を積み、漆喰を塗った壁があった。石組の炉の内側にはさらに耐火煉瓦の炉が組み立てられ、高さは約7.8m、さらに覆屋があった。

二番高炉。

花崗岩の基壇が1段、その上に約4.8m四方、高さ2.4mの花崗岩の石組4段。残っている絵図には9段の石組が描かれており、当時の高さは約7.9m。フイゴ座と湯出し口の位置は一番高炉と同じである。高炉中央には炉底塊(ろていかい)といわれる、流れきれずに炉底にたまった銑鉄が残っている。

第3高炉跡方向。

種焼窯・種砕水車場。後景は大工長屋跡。

種とは鉄鉱石のことである。高炉へと供給する鉄鉱石は、採掘された状態のままではなく加工された。鉄鉱石を加工するための施設を種焼場とよぶ。人力のほか、水車の力で鉄鉱石を粉砕し、種焼窯で焼結。その後、金づちで砕いて高炉内に供給していた。

御日払所。

事務所のことで、当時はその名の通り従業員の賃金支払いをはじめ、鉄鉱石や製品の管理もここで行われていた。

御日払所では橋野の川原で採集された餅鉄が買い取りされていたようで、その証拠として「餅鉄通」という台帳が残されている。

山神碑方向。

三番高炉。

仮高炉として大島高任の指導により、1858年(安政5年)に建設された。その後、1864年(文久4年)頃に改修を行い、以降三番高炉として利用された。一番高炉と二番高炉の廃炉後も稼働し、橋野高炉が廃止される1894年(明治27年)まで稼働した。三番高炉の石組形式は、初期の高炉の基本形であったと考えられている。当時の高さは約7.0m。高炉中央には炉底塊がある。

 

20分ほど見学したのち、11時30分ごろ遠野方面へ戻って仙人峠の釜石寄りにある釜石市甲子町の旧釜石鉱山事務所へ向かった。

岩手県釜石市 世界遺産・橋野鉄鉱山 インフォメーションセンター


岩手県釜石市 世界遺産・橋野鉄鉱山 インフォメーションセンター

2023年12月15日 16時10分03秒 | 岩手県

世界遺産・橋野鉄鉱山。岩手県釜石市橋野町。

2023年6月12日(月)。

重要文化的景観「遠野 土淵山口集落」を見学後、9時過ぎに釜石市の世界遺産・橋野鉄鉱山へ向かい、10時過ぎに橋野鉄鉱山インフォメーションセンターに着いた。ガイダンス施設で、入場料金は無料。

橋野鉄鉱山インフォメーションセンター。

橋野鉄鉱山は鉄鉱山と製鉄所の総称であり、現存する日本最古の洋式高炉跡は、安政5(1858)年から翌6年にかけて近代製鉄の父といわれる大島高任(おおしまたかとう)の技術指導により建設され、その後、盛岡藩が経営したもので、「近代製鉄発祥の地」として国史跡に指定された。

従来は砂鉄を原料として簡易な精錬方法をとっていたが、初めて鉄鉱石から精錬をしたこと、洋式高炉によって量産が可能になったことという2つの点から、我が国における近代製鉄業史上極めて大きな意義を持つ貴重な史跡である。2015年には、幕末から明治にかけて日本の産業化の先駆けとなった重工業分野(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)の構成資産として世界遺産に登録された。

橋野鉄鉱山には、製鉄の生産工程を物語る遺跡として、鉄鉱石の採掘場跡や採鉱された鉄鉱石を牛や人力により運んだ運搬路跡、山から切り出した石を日本の施工技術で組み立てた製鉄の要の高炉跡、水車を利用した送風装置であるフイゴ場跡や水路、種焼き場などの生産関連施設、御日払所(事務所)や山神社などが残り、当時の産業システムが完全に残っているほか、操業に欠かせない木炭を供給した森林景観も良好な状態で保存され、この地の恵みを活用して製鉄が行われていたことが分かる。

岩手・釜石が築き上げた日本の製鉄業の礎。

岩手県釜石市の山中に洋式高炉が建設されたのは、幕末のことである。開国を迫る欧米の強国と戦うための軍備が必要だと考えた日本は、欧米と同等の力を持つ鉄製の大砲をつくろうと、日本各地に反射炉(金属を溶かし、大砲を鋳造する炉)や高炉を造った。水戸藩も徳川斉昭のもとで那珂湊に反射炉を築造し、大砲鋳造に成功したが、従来のまま砂鉄銑を原料としていては性能の優れた西洋の大砲に太刀打ちすることができないため、鉄鉱石による大砲に適した良質銑が必要となった。また大砲に適した銑鉄を製造するために、鉄鉱石を溶かして鉄にする「高炉」が必須となった。

餅鉄とは、河川に流され摩耗することで円礫状になった磁鉄鉱のことをいう。古代製鉄においては、砂鉄と並ぶ重要な原料であり、橋野の川原で採集されていた。

 

本の近代化に大きく貢献した橋野鉄鉱山。

岩手・釜石で洋式高炉が実用化したのには、理由がある。この地域で良質な鉄鉱石が採掘されたことと、それ以上に大島高任という盛岡藩士の存在があった。盛岡藩が水戸藩の那珂湊反射炉に大砲用の銑鉄を供給するため洋式高炉を建設するにあたり、那珂湊反射炉建設に携わり洋式砲術の学もあった現岩手県盛岡市生まれの大島高任は、橋野鉄鉱山の鉄鉱石(磁鉄鉱)を原料に使い、現岩手県釜石市甲子(かっし)町大橋に建設した洋式高炉で、高炉から溶けた鉄が流れ出す連続操業(出銑)に安政4(1857)年日本で初めて成功した。

大島高任は、翌安政5(1858)年に、現岩手県釜石市橋野町青ノ木(のちの橋野高炉跡)に、ヒュゲーニン少将著の鉄製大砲鋳造のための書「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」の高炉の設計図を参考に、伝統的な施工技術で洋式高炉(仮高炉、のちに改修されて3番高炉)を建設し操業に成功した。これが橋野鉄鉱山の始まりである。

高炉模型。

橋野鉄鉱山は、安政6(1859)年に盛岡藩直営になり、高炉の専任技術者として赴任した田鎖仲と田鎖源治が1860年(安政7年)に 1番高炉と2番高炉の2座を建設仮高炉を改修し3番高炉とした。

1868年(明治元年)橋野に銭座を開設し鋳銭を開始した。出資は小野権右衛門によるもので、高炉3基、人員約1,000人、牛150頭、馬50頭を使って年間出銑量は300,000貫(約1,125トン)を誇った。1869年(明治2年)  政府により鋳銭禁止令が発布されたが、橋野高炉では大規模な密造を継続。1871年(明治4年)  密造が発覚し銭座は廃座、以後1番高炉及び2番高炉を操業停止した。

明治7(1874)年の官営釜石製鐵所事業にもれたことから、民営のまま3番高炉は操業を続け、明治26(1893)年まで稼動した。1894年(明治27年) 釜石鉱山田中製鉄所に吸収される。栗橋分工場の操業開始とともに3番高炉も廃止された。

橋野鉄鉱山をはじめとした釜石における洋式高炉群の成功により、明治政府は1874年(明治7年)の官営釜石製鉄所の建設を決定した。官営釜石製鉄所では、イギリスの技術が導入され1880年(明治13年)に操業が始まったが、失敗に終わった。その後、官営釜石製鉄所は民営の釜石鉱山田中製鉄所として引き継がれ、苦難の末に製鉄業を軌道に乗せた。さらに、帝国大学工科大学の野呂景義が官営時代の高炉を改修し、コークス高炉の製鉄に成功を収めた。その実績は官営八幡製鉄所の建設機運に繋がると共に、建設の際には、釜石から八幡に技師や職工が派遣され、その成功に貢献した。

橋野鉄鉱山において鉄の大量生産を可能にする技術の礎が築かれたことにより、橋野鉄鉱山は明治日本の産業革命の完成段階である官営八幡製鉄所につながっていく製鉄業発祥の地であるといわれている。

岩手県遠野市 妖怪の世界 重要文化的景観「山口集落」


岩手県遠野市 妖怪の世界 重要文化的景観「山口集落」

2023年12月14日 11時17分14秒 | 岩手県

重要文化的景観「遠野 土淵山口集落」。遠野市土淵町山口。

2023年6月12日(月)。

高清水展望台から民話の世界・遠野盆地を見下ろしてから、馬産地・遠野を象徴する重要文化的景観「遠野 荒川高原牧場 土淵山口集落」の一部である山口集落へ向かい、8時30分ごろ案内板があるバス回転場に着いた。

重要文化的景観「遠野土淵山口集落」。

(1)馬産地・遠野と山口集落

馬は戦いや移動、運搬、農耕等に役立つ大事な動物で、遠野一帯でも古くから飼養されていた。江戸時代には南部藩の奨励により馬産の礎が築かれ、近代以降も基幹産業として営まれてきた。現在も、乗用馬や競走馬の育成が行われている。

山口集落は、江戸時代には山口村と栃内村、明治時代には土淵村、昭和29(1954)年に遠野市の一部となった。集落には遠野城下から東方の三陸海岸へと向かう街道が通過しており、大槌方面と釜石方面に分かれて山道へと変わる分岐点に立地し街道を軸に発展した集落である。沿道に並ぶ家々では、かつては馬を飼い、農耕や駄賃付け(運送業)に利用していた。昭和34年(1959)に街道が切り替えられたため大規模な開発を免れ、遠野の農村部における集落景観と、伝統的な生活文化や共同社会をよく残している。

(2)柳田國男『遠野物語』と山口集落。

人馬が行き交った山口集落では、目新しい話、珍しい話、不思議な話など、旅人によって様々な話がもたらされていた。これと合わせて、家々や地域の由緒や伝承なども語られていた。この山口集落に生まれ育って当地に残った話を収集していた佐々木喜善(1886~1933)が題材を柳田國男(1875~1962)に語り、まとめられたのが日本民俗学の記念碑的著作とも言われる『遠野物語』で、遠野に生きる人々の生活・生業の実態を示し、特に自然・信仰・風習に関連する独特の文化的景観が描かれている。

山口集落には、山男山女に出会うとされた界木峠や河童が出る姥子淵、ザシキワラシがいたという屋敷跡、60歳をこえた人が追いやられたデンデラノなど『遠野物語』説話の舞台に描かれた様々な場所が随所に残っている。人が馬と一緒に暮らしていたころ、山々への畏怖、危険な場所や物への警告、不思議な出来事、貧しい生活の悲しみなど物語と景観を肌で感じることができる。

大槌街道。『遠野物語』第37話には、馬で荷物を輸送する駄賃付けが、大槌街道上にある界木峠で、たびたび狼に遭遇したという話が紹介されている。この街道は、近代になるまで駄賃付けを主とした、内陸部と沿岸部を結ぶ輸送の道で、情報や文化の行き交う街道であった。駄賃付けの賃金は、冬の夜間で3割増しにもなるが、積雪のために道がすっかり埋まり、命を落とす人も多かった。

佐々木喜善の生家。

『遠野物語』の話者・佐々木喜善の生家。茅葺から瓦葺に代わっているが、南部曲がり家の形態を残している。喜善はこの家で家族から数々の民話を聞きながら育った。ザシキワラシに関する伝説を集めた著作『奥州のザシキワラシ』を出版し、『江刺郡昔話』では「昔話」という言葉を初めて使った。『遠野物語』の著者である柳田國男も喜善の家を訪れている。

佐々木家の道路反対側にはウマがいる。

ダンノハナと佐々木喜善墓地。

ダンノハナは、山口集落を挟んでデンデラ野と向かい合う丘にある。生の空間の集落、死の空間のダンノハナ、その中間がデンデラ野として解釈される。

ダンノハナ(壇之塙)。『遠野物語』第111話には、境の神をまつる小高い丘を「ダンノハナ」というと紹介されている。山口集落を見わたせるこの丘は、山口館の一部で、死者の冥福を祈る地とも、館があった時代の処刑場跡ともいわれている。現在は集落の共同墓地となっており、『遠野物語』の話者・佐々木喜善の墓がある。

デンデラ野(蓮台野)。遠野物語の姥捨て伝説の地として知られる。『遠野物語』111話に、60歳を超える老人がデンデラ野に追いやられる慣習があったと記されている。日中は里へ降りて農作をし、夕方になるとここに戻った。里へ降りることを「ハカダチ」、戻ることを「ハカアガリ」という話が残っている。現況は、原野と畑地になっている。

孫左衛門の屋敷跡。『遠野物語』第18話には、この家に童女の神(ザシキワラシ)が二人いる、と紹介されている。孫左衛門は村の旧家で、20人もの雇人がいるほど栄えていた。ある年、この二人が家から出ていったのを村人が目撃した。ほどなくして、家の者はキノコの毒にあたり、遊びに出ていた家娘一人を残し、みんな死んでしまった。ザシキワラシのいる家は栄え、出ていくと没落するという。今は井戸と墓のみが残る。

山口の水車小屋。この水車小屋は、遅くとも明治期にはこの地にあり、遠野を象徴する建物として親しまれている。老朽化により長らく使われていなかったが平成27年(2015)度に修理し、実際に使える水車となった。

車輪が小屋の中央にあり、ワラと豆類などを両方同時に打てる構造になっている。往時は、脱穀や製粉のため、昼も夜もゴトゴト音をたてて粉塵を噴き上げていた。

水車小屋見学者用駐車場の案内板から。

大洞家。『遠野物語』第69話には、この家の当主・大洞万之丞の養母おひでが魔法に優れ、まじないで蛇を殺したり、木に止まっている鳥を落としたりする話がある。この家の屋号は「大同」で、『遠野物語』に何度も登場する家柄であり、第83話には家の間取りが掲載されている。第69話、馬と娘の悲恋の物語「オシラサマ」を佐々木喜善に語ったのもこの家のおひでであった。

田尻家の怪異 。『遠野物語』第77話には、田尻家は土淵村で一番の物持ちとある。第79話には田尻家の奉公人が、玄関の雲壁に張りついて首を垂らし、目玉を突き出した男に遭遇する話が紹介されている。第82話では、田尻家の人が家の中で知らない人と遭遇し触ろうとしても触れない話もある。柳田國男はこの怪異の話者について、近代的で利口な人、嘘を言う人ではない、と締めくくっている。

9時過ぎになり、釜石市の世界遺産・橋野鉄鉱山へ向かった。

岩手県遠野市 恋愛成就のパワースポット「うねどりさま」 高清水展望台