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読書メモ「古代氏族の研究13 天皇氏族 天孫族の来た道」(宝賀寿男、2018年)

2024年10月26日 09時25分07秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究13 天皇氏族 天孫族の来た道」(宝賀寿男、2018年)

 

足立倫行氏の書評から引用。

ヤマト民族の基盤は3層の集団である。倭地に最初に定着した犬狼トーテム種族(山祇=やまづみ族)。次に稲作・青銅器を伴った竜蛇トーテム種族(海神族)。最後に鉄器を持ち太陽神祭祀の鳥トーテム種族(天孫族=天皇家一族・物部・息長氏族など)

伊都国が天孫族なら、「国譲り」した葦原中(あしはらなかつ)国(筑前那珂郡)は隣接の奴国になるが、奴国王は後漢から金印を授与され、印鈕は蛇(竜蛇トーテム)だった。

天皇家の父系源流殷王朝の流れを汲むツングース系で、鳥トーテミズム・太陽神信仰・鍛冶技術などを持ち、平壌あたりの箕子(きし)朝鮮半島南部の洛東江流域を経て、紀元1世紀前半頃に九州北部に渡来した。

始祖・五十猛(いたける)神(スサノヲに相当)以降の動向。

松浦半島から筑後川中流域の御井(みい)郡(福岡県久留米市)に移り、そこが高天原(邪馬台国の前身)。4代目のニニギは筑前怡土(いと)郡(福岡県糸島市)に移り支分国を作った(天孫降臨)

伊都国(糸島市)には、日の出の方角には日向(ひなた)峠や日向山があり、記紀でいう天孫降臨(北東アジアでは始祖の地域移遷を指す)の地「日向」の地である。

その孫・神武は庶子だったので、2世紀後半に新天地を求めて小部隊と大和へ向かった(神武東征)

奈良盆地には、神武の前に同じ天孫族のニギハヤヒがすでにいた。しかも神武は緒戦で破れ、兄(五瀬命)を亡くし、ニギハヤヒが敵将長髄(ながすね)彦を裏切った末の薄氷の勝利(八咫烏・金鵄は天孫族の鳥トーテム)だった。(引用以上)

 

天皇氏族(天孫族)の三つの流れ。天照大神の諸子の後裔。

高天原から天孫降臨した瓊瓊杵尊の流れ。

天孫族の本拠高天原(筑後・久留米市)からの支分国となる筑前怡土の王家が嫡統だが、いずれも九州では消息不明となる。神武以降の皇統と分岐した諸氏は、多氏、阿倍氏、葛城氏や丹比氏以下の真人姓諸氏。新羅へ渡った神武の兄・稲飯命の裔と称する朴氏(新良貴氏)。

先に高天原から派遣されて天降った天若日子(天津彦根命)の子の天目一箇命の流れ。鍛冶神・天目一箇神系は中央の物部氏、鏡作氏。天穂日命の後裔という出雲国造、土師氏、武蔵国造、額田部氏など。天津彦根命の後裔という三上氏、凡河内国造、山背国造、穴門国造、蒲生稲置

天目一箇命の兄弟の少彦名神の流れ。宇佐国造・息長氏系の諸族(蘇我氏、紀氏などを含む)。

阿蘇・火・筑紫などの国造。忌部氏・玉作氏、服部氏・倭文氏・麻績氏など。鴨県主・三野前国造、葛城国造、弓削氏など。

主要三種族の特徴。天孫族のトーテムは鳥、熊、猪海神族は大己貴神・大物主神・宗像神、長・葦などの地名。山祇鏃は九頭竜神・丹生神。犬・狼・月神・北辰・妙見信仰

神武は筑前怡土から紀の川を遡上して奈良盆地南部を押さえた。治世はAD175年~194年。その後330年ごろまで北九州と畿内に王権勢力が併存した。景行天皇により邪馬台国勢力は350年ごろに滅ぼされた。崇神天皇のころは本州主要部が版図で西は吉備・安芸が西限。

天照大神は男性神で、神武の4代前。久留米の邪馬台国国王。天孫族の始祖は五十猛神・イタケル。度津(ワタツ)神。半島南部から渡る。

鉄鍛冶。支石墓。積石塚。朝鮮系無文土器。三種の神器のルーツは殷の王族末裔の箕子朝鮮。天孫族は箕子朝鮮の流れを汲み、紀元1世紀初めに半島から松浦半島に到来した。多紐細文鏡。王権の象徴。福岡の吉武高木遺跡の王墓から多紐細文鏡と三種の神器が出土。神武につながる日向王家の墓か。

天皇氏族の五十猛神は半島から唐津に渡来し、吉野ケ里あたりを経て子の高魂命のときに久留米の高良山麓に落ち着いた。高良山の神籠石。祇園山古墳は卑弥呼の墓にふさわしい。

崇神から景行までの3代にわたり纏向に宮都をかまえ、大王権が確立した。神武以来の王統は仲哀の死をもって外戚の応神に簒奪された応神は宇佐国造(息長氏)の流れ。広義の息長氏一族の紀氏・平群氏・蘇我氏の中央進出。神武から仲哀までの皇別氏族は葛城氏、阿倍氏、多氏。天孫族では息長氏、物部氏、紀氏、鴨氏、服部氏、三上氏、出雲氏。

即位年。神武(174)綏靖(195)安寧(203)懿徳(212)孝昭(233)孝安(242)孝靈(267)孝元(286)開化(300)崇神(315)垂仁(332)景行(342)成務(357)仲哀(377)応神(390)仁徳(414)履中(435)反正(438)允恭(441)安康(462)雄略(465)清寧(488)顕宗(493)仁賢(496)武烈(507)継体(515)安閑(534)宣化(536)欽明(540)。


山形県酒田市 松山城大手門

2024年10月25日 12時20分48秒 | 山形県

松山城大手門。山形県酒田市新屋敷。

2024年9月10日(火)。

芭蕉上陸の地。荘内藩清川関所を見学後、北西に進み、庄内藩の支藩であった松山藩の跡地へ向かった。

松山文化伝承館の見学を予定していたが、松山歴史公園の駐車場に着くと松山城址館が近くにあったので、城址についての展示があるのかと思って入ってみた。女性職員がいて、ここは生涯学習施設で、多目的ホールに能舞台を設置していると能舞台の会場を見せてくれた。城址についての展示は文化伝承館にあるので、ここにはないという。ただ、大手門などのリーフレットは置いてあるので入手した。必要十分な情報が記載されていたので、大手門見学後、有料施設の文化伝承館の玄関まで行ったが入館しなかった。

松山歴史公園は、1982年に開園、松山藩としての歴史を持つ松山地区の歴史と文化を継承し、創造する交流拠点で、山形県指定文化財「松山城大手門」をはじめ、茶室「翠松庵」や郷土文化保存伝承施設「松山文化伝承館」などがある。

松山藩は、酒井家庄内藩の支藩である。1600年関ヶ原の戦いの後、元和8年(1622)、最上氏の改易によりその領地は三分割され、庄内14万石の領主に徳川四天王のひとつ酒井家から酒井忠次(酒井家の祖)の孫酒井忠勝が信州松代より転封され、鶴岡を居城に庄内藩が誕生した。正保4年(1647年)忠勝は、当時九歳の三男忠恒に最上川を眼下にし北東の防備地として中山(後の松山)八千石と内陸の左沢地方一万二千石計二万石を分封し、松山藩が成立した。忠恒は寛文2年(1662)初めて中山の地へ入り、宗藩の鶴ケ岡城、酒田の亀ヶ崎城の鶴亀から縁起を担ぎ、中山の地名を松山と改名した。明治の廃藩置県に至るまで8代に渡る歴代藩主によって209年間藩政が布かれた。

石高は立藩時は2万石であったが、3代・忠休(ただよし)は奏者番を経て若年寄に累進した。このため5,000石を加増され、さらに城を構えることを許され、以後、藩庁は松山城となった。しかし、忠休が幕閣に参与したために経費がかさみ藩財政は悪化した。幕末には本藩である庄内藩に従い奥羽越列藩同盟に与し明治政府軍に降伏。時の藩主・忠良は藩領のうち2,500石を減封され、隠居を命じられた。

明治2年(1869年)には松嶺藩(まつみねはん)と改称した。

松山城大手門。

松山城の大手門は、三の丸の櫓門(通称、多聞櫓)である。江戸時代の城門としては、県下唯一残る貴重な文化財である。櫓門、桁行正面5間、背面3間、梁間3間、入母屋造、総欅白壁造、桟瓦葺で、高さは12.75mである。

天明7年(1787年)に竣工した松山城時代の大手門は、寛政2年(1790年)10月、落雷のため焼失し、現存する城門は、寛政4年(1792年)7月に酒田の本間光丘と娘婿の重利の寄進により再建された。大手門再建の時は、重利が松山藩に入って財政の建て直しをしていた。

初代藩主忠恒が、松山藩政庁の中心地として「中山陣所」という屋敷を構えたのは、寛文2(1662)年のことで、当時、松山の地は、中山村と称され、わずか17戸のみの寒村であった。松山城下の整備は、その前年より始められ、藩主屋敷を中心に家臣の住居がまとめられ、その四周には土居をめぐらせて郭内をその周辺地区と区別し、鍵型に交差する郭内の道路は、軍事上の厳しい配慮を示していた。こうして誕生した松山城下町であったが、何分にも支藩であったため、当時はまだ城を構えることは幕府から認められていなかった。築城が許されるのは三代藩主忠休の時代になってからのことである。

忠休は、寛延2(1749)年から26年間幕府要職である奏者番・寺社奉公・若年寄を勤めた功により、安永8(1779)年、上州桐生(現在:群馬県桐生市)に五千石の加増と松山城の築城が認められ大手門には「鯱」を上げることが許された。楼上に輝く一対の鯱鉾は、三河以来の武門の誉れとして、とくに幕府より許された由緒あるものであった。

築城の設計は宗藩宮田流の軍師長坂十太夫正逸の手になり、天明元(1781)年に着工し、本丸・二の丸の総面積38,708坪と広大な計画で、山を崩し谷を埋め、堀を作り民家を移しての大工事で、新城郭は全体が完成しなかったが、旧郭内とはその区域を異にし、古い土塁は廃毀された。よって、旧郭の土塁に設置された大手門は廃され、新たに新城郭に大手門を設置することとなった。

当初大手門は「三の丸の櫓門(矢倉門)」として天明2年に完成、二の丸も九分どおり完成したが、本丸は藩の財政難や藩主忠休の逝去・連年の凶作・藩財政の困窮・農村の困苦などで着工せず、未完成で天明7年に築城を未完成なまま終えた。

大手門には戊辰戦争までは門扉があり、殿様が城にいる時には門を開き、参勤交代で不在の時は門を閉めていた。家臣達は脇の小さな通用門を使っていた。平城で天守閣はない。敵が攻めて来た時に大手門が簡単に落ちないように階段はなく、縄梯子で昇降した。大手門の上には、武器や兵糧や食物を保管していた。昔は鶴岡が見えたという。

戊辰戦争後、「城郭破却の命令」が出され、明治元年9月に開城し、城地没収、城取り壊しとなった。明治2年11月、新政府の三陸磐城両羽按察次官坊城俊章(としあや)少将が城郭破却の状況検分に来て、「この大手門一つ残したところで今更謀反でもあるまい。取り壊すには及ばぬ」として取り壊しを免れた。その時接待したのが藩主忠匡のお守り役の絵師、田中静居であった。田中静居は坊城俊章少将と京都遊学時代に親交があり、静居のもてなしに感銘し、取り壊されなかったという。公家出身の坊城俊章は、三陸磐城両羽按察使、兼三陸磐城両羽按察次官などを経て明治3年から4年まで初代の山形県知事となった。その後、近衛歩兵大隊長、陸軍歩兵中佐に進み、日清戦争では台湾兵站司令官として従軍し、伯爵貴族院議員となった。

大手門は、明治36年に大改修され、寺子屋のようして教室として使われた。大正時代は藩校の流れを汲んだ松山正心学校があり、尋常小学校を卒業した子供達が夜間勉強をした。

 

このあと、北西にある平安時代の国府跡である国史跡・城輪柵跡へ向かった。

山形県庄内町 芭蕉上陸の地・清川関所跡


山形県庄内町 芭蕉上陸の地・清川関所跡

2024年10月24日 11時10分28秒 | 山形県

芭蕉上陸の地。荘内藩清川関所。山形県庄内町清川字花崎。清川歴史公園。

2024年9月10日(火)。

戸沢村古口で最上川舟下りを体験し終えて、庄内平野の入口にある清川関所に着いた。「芭蕉上陸の地」の標示と芭蕉像がある。背後はエノキの古木と船見番所である。

松尾芭蕉は、弟子の河合曾良をともなって1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月17日)、江戸深川の芭蕉庵を発ち、9月6日岐阜県大垣に到着までの142日間にわたって旅をした。 5月15日、陸奥国尿前の関(しとまえのせき)から出羽国堺田に入り、尾花沢の鈴木清風を訪ね歓待を受けそこで、10日間滞在した。 5月27日、山寺に詣で、大石田、新庄を経て、6月3日本合海(もとあいかい)で舟に乗り、最上川を下り、清川で下船した。その後狩川(現庄内町)、手向(とうげ、現鶴岡市)、羽黒山・月山・湯殿山へと足を運んだ。

清川最上川舟運の水駅として発展した宿場町で、出羽三山詣での登拝口でもあることから、人の往来が盛んで今でも歴史的な価値のある旧跡・文化・遺品が多く残っている。江戸時代の清川には1日700人〜1,000人、年間3万人の出入りがあったという。

古くは、1187年に源義経の一行が奥州平泉へ向かったという伝承地、1689(元禄2)「おくのほそ道」での松尾芭蕉上陸の地、戊辰戦争東北初戦の地、明治維新の魁といわれる清河八郎を輩出した所でもある。

川口番所(右)と船見番所(左)。

清川関所は庄内藩が置いた関所の5ヶ所の1ヶ所で、関所内には参勤交代の本陣(御茶屋)と番所があり、庄内藩主の江戸参府・帰城の際の宿泊所として、承応元年(1652)に建てられた。文化5年(1808)の大火で類焼し、その後再建はされず、翌年、清川組大庄屋役宅に居間などが増築された。

現在も「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っている。

平成31年(2019)、川口番所や船見番所が復原され、清川歴史公園として公開されている。地区全体を「歴史の里」としてまちづくりを進めており、復元した番所は「歴史の里清川」を体感できるまち歩きの拠点施設として利用可能である。清川関所跡は日本遺産「自然と信仰が息づく『生まれかわりの旅』」の構成文化財になっている。

川口番所。番所資料館。

最上川の舟運は、古代から明治時代にかけ、経済と文化の大動脈として栄えていた。荘内藩は藩境に五つの番所を設置していたが、清川口の番所は清川と古口・清水・大石田との間を川船で往来することから、鼠ヶ関・小国・大網・吹浦の四口と異なり「川口番所」と呼ばれ、人・物・文化の交流が最も多かったといわれている。川口番所では、他藩との間を往来する「人」を監視していた。

船見番所から最上川方面への眺望。

荘内藩は清川に、内陸向け諸荷物の抜荷を監視するための「船見番所」をおいた。川口番所が「人」を監視したのに対し、船見番所は最上川を往来する「荷物」を監視していた。復元された施設は最上川に臨み、川面を眺めることができる。

内部は写真などを展示している。

大正11(1922)年。

昭和20年代末。

1914年(大正3年)に陸羽西線が開通して以降、舟運から汽車の利用に移ったことで徐々に衰退した。

1874年(明治7年)この地に清川小学校が創立されたが、その小学校も統廃合に伴い2009年(平成21年)に閉校した。今でも小学校があった時の名残で、関所のすぐ裏側には体育館がある。

昭和31(1956)年。

芭蕉上陸地の表示地が現在地で正しいのか川岸にあるのか確認するため、番所資料館に入り、女性職員に尋ねると、国道が川沿いに開通してから土手下内に隠れるようになったが、現在地でよいとのこと。大石田河岸の例からすると、本来は川岸に船着き場があり、石段の上に関所建物があったのだろう。

また、さきほど最上川舟下りで見学した仙人堂の常夜燈を寄進した斎藤治兵衛は清河八郎の父だと教えられた。近くには清河八郎記念館もある。

 

このあと、北西に進み、庄内藩の支藩であった松山藩の跡地へ向かった。

山形県戸沢村 最上川舟下り 仙人堂・外川(とがわ)神社 日本の滝百選・白糸の滝


自民党が非公認候補に政党助成金、共産党機関紙が報道

2024年10月23日 13時52分14秒 | 社会

自民党が非公認候補に政党助成金、共産党機関紙が報道

2024年10月23日 日本経済新聞

 

共産党の機関紙「しんぶん赤旗」は23日、自民党が派閥の政治資金問題で非公認とした候補の党支部に政党助成金2000万円を振り込んでいたと報じた。「党勢拡大のための活動費」として衆院選(27日投開票)の公示直後に振り込まれていたと指摘した。

青木一彦官房副長官は同日の記者会見で「自民党の政治活動に関することであり、政府としてコメントすることは差し控える」と述べるにとどめた。自民党は9日、政治資金収支報告書の不記載があった議員のうち12人を公認しないと発表していた。

 

裏金非公認に2000万円 公認と同額 自民本部が政党助成金

2024年10月23日(水) しんぶん赤旗

 

(写真)自民党の森山裕幹事長から支部会計責任者あての「支部政党交付金支給通知書」

 

 自民党派閥の裏金事件で非公認となった候補が代表の党支部にも党本部から総選挙公示直後に政党助成金2000万円が振り込まれていたことが22日、本紙の取材でわかりました。裏金づくりという組織的犯罪に無反省な自民党の姿が浮き彫りとなっています。

 政党助成金は国民の税金が原資です。本紙は、自民党の森山裕幹事長から支部会計責任者あての「支部政党交付金支給通知書」(9日付)を入手。ここには、「衆議院総選挙の公認料及び活動費として、支部政党交付金を支給します」とありました。

 支給額は計2000万円。内訳は「公認料」が500万円、「活動費」が1500万円となっています。

 裏金づくりで自民党非公認となりながら、党支部長のままの候補者が8人います。本紙は8人が代表の政党支部に取材。ある支部の会計責任者は「他の支部のことはわからないが、党本部から党勢拡大のための活動費ということで2000万円が振り込まれた」と認めました。

 自民党本部は9日に1次公認候補を、11日に2次公認候補を発表しました。非公認支部の会計責任者によると、党本部から届いた13日付の文書には「公認料」の文言はなく、2000万円を「党勢拡大のための活動費」として振り込むという内容だったといいます。政党交付金用の口座に総選挙の公示直後に振り込まれていたといいます。

 「党勢拡大の活動費ということで、選挙には直接は使っていない。事務所の職員の給与や事務所の費用など間接的には選挙に使っているといわれれば、そうかもしれないが…」と説明しました。

 自民党本部は、本紙の取材を拒否しました。(矢野昌弘)


山形県戸沢村 最上川舟下り 仙人堂・外川(とがわ)神社 日本の滝百選・白糸の滝

2024年10月23日 11時16分28秒 | 山形県

最上川舟下り。船着き場と対岸の仙人堂。山形県戸沢村古口。JR高屋駅前。

2024年9月10日(火)。

新庄市本合海の「芭蕉乗船の地」の見学後、最上川に沿って最上川舟下り乗船場へ向かった。旅行前に旅行雑誌を見ると、最上川舟下りには2社があり、内容が異なっていた。ネットで調べると、最上峡芭蕉ライン観光は、最上川を下るだけの舟下り約2500円で、仙人堂には行かない。自分の車を置いている所まで取りに行かなければならず、バス代や時間も要する。最上川舟下り「義経ロマン観光」は、仙人堂周辺のみの舟の周遊と仙人堂見学が約2500円、仙人堂に渡って帰るだけだと1000円だと書いてあった。

舟下りには関心がなく、一番興味があったのは、仙人堂だった。1000円なら安いので、これを予定した。

対岸に仙人堂がある地点に9時40分ごろに来たが、途中で見た最上峡芭蕉ライン観光のような営業所は見当たらない。国道横の空き地に駐車して、草刈りをしている男性に尋ねると、「義経ロマン観光」の営業所はJR高屋駅近くの高台にある、と教えてくれた。南側の高台へ登ると、下の国道からは見えなかったが、たしかにコンテナ小屋の営業所があり、1組の夫婦が舟下りを待っている様子だった。中に入り、仙人堂へ行きたい、と言うと、1時間近く何もやることがない、クマが出る、と言われて10時発の船旅に半ば強制的に参加させられ、2500円を支払わされた。

10時になると、4人で車に乗り、先ほどの空き地に着いた。車を下りると、川岸へ下る道があり、舟が2隻並んでいた。

さきほどの男性は社長兼ガイド兼船頭だった。そういえば、救命胴衣の着用も説明もなかった。話は自分の自慢話が多くて閉口したが、拍手を強制された。兼高かおるは何度もこの人の舟に乗船し、仙人堂を3度訪ねたという。兼高かおるから褒められたといっても、1959年12月から1990年9月まで放送していた「兼高かおるの世界の旅」というテレビ番組を見たことがある人は年代的に少ない。私は海外旅行が趣味だったので、80年代はよく見ていたが、その頃はすでに視聴率は低下していただろう。

本人もそれを分かっているので、最近、感銘を受けたディズニーランドのジャングルクルーズの真似に移行している。それで、現在の舟下りは「最上川トークライブクルーズで巡る最上峡ワールド」という名称になり、岸辺の岩はジャングルクルーズらしいようにワニの形をしているとか案内している。

最上川水運や仙人堂の歴史などの基本はガイドをしないので困ってしまう。このあと、清川番所の資料館を尋ねたら、職員が、新選組の源流を築いた清河八郎の本名は齋藤正明で、その父親である齋藤治兵衛が仙人堂に常夜灯を寄進したが、ご覧になりましたかという。実は、常夜灯に齋藤治兵衛と刻んであるのを見て気になっていたのだが、一気に氷解した。こういう話をしてほしいものだ。

といっても、歴史に興味がない観光客がほとんどなので、特に説明はしないのだろうが。では何を売り物にするかというのも難しいことだが。

舟下りは仙人堂の対岸から始まる。

仙人堂。木が茂っているので国道や岸からは鳥居しか見えない。

仙人堂上流にあたる対岸地区にはかつて集落があったので支流にかかる橋が残っている。

仙人堂・外川(とがわ)神社。戸沢村古口字外川。

日本武尊(やまとたけるのみこと)を主祭神として祀っている。源義経一行が兄頼朝から追われて奥州平泉に落ちのびる途中、この地に立ち寄ったのち、義経の従者・常陸坊海尊が建立したといわれる。芭蕉の紀行文「奥の細道」にも登場する。古くから舟旅の守り神として信仰され、現在は縁結び神社としても知られている。

右側の常夜燈には、「天保13年(1842)5月庄内清川 齋藤治兵衛」と刻まれている。齋藤治兵衛豪寿(ひでとし)は、清河八郎の父で、庄内藩領清川村(現庄内町)の郷士であり、庄内一の醸造石数を誇る酒屋を営む富豪であった。

nii.ac.jp「外川仙人堂信仰の展開 - 國學院大學学術情報リポジトリ」佐藤優2018によれば、

齋藤治兵衛は最上川の舟運と関わる人物とされる。仙人堂周辺は舟の難所で、隠れ岩が無数にあるため破船することが多く、山から吹き下りる突風は、舟の帆を折ることもある。舟の遭難は、人命だけでなく紅花の運送にも大きな損失をもたらした。

仙人堂は、舟の災難除け及び疳の虫除け(小児の疳封じ)が特異な利益として人口に膾炙していた。近世の出羽三山参詣とも密接につながって重要な位置を占めており、関東地方からの参詣者が記した道中記の中で、この社を参拝所及び「羽黒道者錫杖振りはじめの社」と記している。

仙人堂近くの湧き水と手洗い水盤。

仙人堂の脇には休憩所兼売店があり、湧き水で入れたホットコーヒー、アイスコーヒーを味わうこともできる。仙人堂わき水コーヒー(チュロス付)500円。出川哲朗も飲んだというので飲まざるをえない。

約60分の舟下りを終えて、営業所に戻ると、6人ほどの団体が待っていた。

このあと、西に進み、もう一つの名所「白糸の滝」の眺望箇所へ向かった。

日本の滝百選・白糸の滝。戸沢村草薙。

白糸の滝ドライブイン内から眺められる。草薙温泉の対岸にあり、日本の滝百選のひとつ。最上峡の滝群で最大であり、落差約120m。最上川に流れる水が白い糸のように見えるので、白糸の滝と名付けられた。

 

このあと、西に進み、芭蕉の下船地である清川関所へ向かった。

山形県鮭川村 小杉の大杉(トトロの木)国名勝・おくのほそ道の風景地 本合海(もとあいかい)