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山形県鮭川村 小杉の大杉(トトロの木)国名勝・おくのほそ道の風景地 本合海(もとあいかい)

2024年10月22日 09時00分17秒 | 山形県

小杉の大杉(トトロの木)。山形県鮭川村曲川。

2024年9月10日(火)。

推定樹齢1000年と言われているこの天然杉は鮭川村の小杉地区にある大杉ということから、「小杉の大杉」という愛称で村民に御神木として親しまれてきた大杉で、映画「となりのトトロ」のトトロの形に似ていることで有名になった。

夫婦杉、縁結びの木、子宝の木とも言われ、パワースポットとしても知られている。

最上町の道の駅「もがみ」で起床。本日は、鮭川村の「小杉の大杉(トトロの木)」から最上川沿いに日本海方面へ進む。7月中旬ごろから山形県旅行の事前調査を始めて、旅行雑誌で知った。7月下旬の豪雨水害の中心地域だったので、アクセス道路の復旧状況をネットでチェックしていたが、この時点ではほぼ支障がなくなっていた。

案内標識に従って進むと終点の駐車場に着いた。狭い駐車場だが、トイレと休憩所がある。

休憩所からトトロの木が見えるが、見る方角により姿は違う。

撮影スポットが案内されている。

駐車場から緩い下り坂を歩いて5分ほどでトトロの木の根元に着いた。

根回り6.3m、樹高約20m、枝張り17mもあり根元には山神様が祀られている。

根元を一周した。

左奥にトトロに見える撮影スポットがある。よく見ると実は一本杉だが、耳に見えるてっぺんの2本の枝と地面に近づくにつれ広がっていく形はぽっこり出たお腹のようで、トトロに見える。

 

トトロの木を見てから、南方向へ進んで最上川河畔へ向かった。

国名勝・おくのほそ道の風景地 本合海(もとあいかい)。芭蕉乗船の地。新庄市本合海。

「芭蕉乗船の地」記念碑。記念碑(左)と陶像(右)。

昭和 38 年(1963)に、芭蕉乗船の地を舟下りの乗降客などに広く伝えるため、地元の有志により記念碑が建立された。平成元年(1989)には、東山焼製の芭蕉と曽良の陶像が本合海エコロジーにより建立され、観光名所として親しまれている。

本合海は、最上川の中流よりやや下流、新庄市南西部に位置し、元禄2年(1689)、松尾芭蕉一行がこの地から乗船し、最上川を下っている。

古来より内陸と庄内を結ぶ最上川舟運の中継地として栄え、右岸にある八向楯(やむきだて)は中世に築かれた城館跡であり、古来より広く観賞の対象とされ、芭蕉が訪ねた往時を偲ぶ優れた風景を今に伝えている。

日本三大急流のひとつである最上川は、米沢市の西吾妻山を水源として山形県中央部を北に流れ、新庄市本合海で西に向きを変えて酒田市で日本海に注いでいる。ひとつの県のみを流れる川としては日本一の大河で、流路延長は 229 ㎞に及ぶ。

平安時代の中期に編さんされた『古今和歌集』に「最上川 のぼればくだる稲舟の いなにはあらず この月ばかり」と歌われ、古くから交通・物流の大動脈としての役割を果たしてきたことをうかがい知ることができる。江戸時代には、紅花をはじめ、最上川流域のさまざまな物資が舟運によって京や大坂などに運ばれ、帰り船で持ち帰った上方文化が、今も最上川流域の各地域に息づいている。

新庄市南西部に位置する本合海は、古くから最上川舟運の重要な川湊として栄えた河岸集落である。最上川が西に大きく流れを変える湾曲部の右岸の八向山(やむきさん)の断崖中腹には、矢向(やむき)神社があり、最上川の舟人を守る神として古くから信仰されてきた。

元禄 2 年(1689)には、奥の細道を訪ねた俳聖松尾芭蕉が、門人曽良らとともに新庄に 2 泊の後、本合海から舟に乗って最上川を下り、羽黒山に向かっている。その後、芭蕉の足跡をたどり、多くの俳人・文人がこの地を訪れている。

このように本合海集落は、その自然的・歴史的・文化的な要素を背景として、古くからの風習や信仰などが色濃く残っており、2014年に「おくのほそ道の風景地(本合海)」として国の名勝に指定された。ている

松尾芭蕉と本合海。

元禄 2 年(1689)、みちのくの歌枕をたずねて平泉にたどり着いた俳聖松尾芭蕉と門人曽良は、奥羽山脈を横断し出羽国に入る。6 月朔日(新暦 7 月 17 日)、芭蕉一行は大石田を発ち、猿羽根峠を越えて新庄に入っている。

芭蕉は新庄に入る道すがら氷室の清水(現・柳の清水)を訪ね、「水の奥氷室尋る柳哉」の句を詠み、芭蕉はそれを新庄の城下町の中心部にある風流亭に宿泊した際に、三つ物(連句の発句・脇句・第三)の発句としている(曽良『俳諧書留』)。芭蕉一行は新庄に2泊し、風流(澁谷甚兵衛)や盛信(澁谷九郎兵衛)ら新庄の俳人と俳諧交流を行い、6 月 3 日に新庄を発ち、本合海より舟にて庄内に向かった。

芭蕉は、大石田に滞在中に「五月雨を集めて涼し最上川」の発句で歌仙を巻いているが、本合海から乗船し「水みなぎって舟あやうし」と船上での自らの体感によって、「五月雨を集めて早し最上川」と改めている。

明治時代以降は、松尾芭蕉の足跡をたどり、正岡子規や齋藤茂吉をはじめとする多くの近現代の俳人・歌人が本合海を訪れている。

明治 26 年(1893)、正岡子規は芭蕉の『おくのほそ道』をたどり、彼自身の「奥の細道」を綴る旅に出る。子規の紀行文『はて知らずの記』には、「草枕夢路かさねて最上川 ゆくへもしらず秋たちにけり/すむ人のありとしられて山の上に 朝霧ふかく残るともし火/立ちこめて尾上もわかぬ暁の 霧より落つる白糸の滝」の和歌が記されている。

その後も、山形が生んだ歌人・斎藤茂吉や現代俳句の巨匠・金子兜太、黛まどかなど著名な俳人・歌人が本合海を訪れ、句や歌を詠んでいる。

北側には船着き場跡らしき浅瀬がある。

八向山(やむきさん)の断崖中腹には、矢向(やむき)神社がある。

西郷隆盛と庄内藩。

 

このあと、最上川舟下りの乗船場へ向かった。

山形県最上町 芭蕉が通った山刀伐(なたぎり)峠 瀬見温泉共同浴場


山形県最上町 芭蕉が通った山刀伐(なたぎり)峠 瀬見温泉共同浴場

2024年10月21日 11時29分12秒 | 山形県

山刀伐(なたぎり)峠顕彰碑。山形県最上町満沢。

2024年9月9日(月)。

顕彰碑には俳人加藤楸邨の筆による「高山森々...」の一節が刻まれている。昭和42年建立。

山刀伐峠の標高は470mで、峠道の周りにはブナ林が広がる。「山刀伐」という名前は、山仕事や狩りをする際に被る「なたぎり」に似ていることに由来するといわれている。

元禄2年(1689)5月17日(陽暦7月3日)、松尾芭蕉と河合曾良は最上町の封人の家に逗留した後山刀伐峠を越えて、尾花沢市の鈴木清風宅へ向かった。この道は、「おくのほそ道」全行程2400kmの中でも最大の難関といわれており、「高山森々として、一鳥声きかず、木の下闇、茂りあひて、夜行くがごとし」と芭蕉が記したように、昼間でも真っ暗で芭蕉も少し怖く感じたようである。

刀を持った山賊が住み着いており、道行く旅行者を襲撃しては身包みを剥ぐ危険な峠であったようで、芭蕉が、山刀伐峠を越えるにあたっては、「封人の家」の当主有路氏が、山賊から芭蕉の身を守るため、屈強の若者を護衛に付けて先導させた、と記されている。

最上町堺田の松尾芭蕉が宿泊した旧有路家(ありじけ)住宅(封人の家)と堺田分水嶺を見学後、西へ戻って、芭蕉が挑んだ「おくのほそ道」最大の難所である尾花沢市との境にある山刀伐(なたぎり)峠へ向かった。宮城県大崎市鳴子と山形県最上・村山地方を結ぶ道である国道47号線から南方向へ向かう県道28号尾花沢最上線に入り、赤倉温泉を過ぎて山刀伐峠トンネル手前から旧道に入って、山頂駐車場へ向かう。旧道ができる前の歩道が芭蕉が歩いた「歴史の道」で「二十七曲り」ともいわれる遊歩道になっている。

旧道は1台がやっと通れるほどの狭さで、曲がりくねっているのでライト点灯は欠かせない。離合箇所もほとんどないので対向車が来た場合は離合困難だと思いながら登っていくと、軽トラが駐車していた。車を降りて車幅と路肩の堅牢さを確かめると、何とか横をすり抜けられると判断できたので、ドアミラーを格納して通り抜けることができた。軽自動車同士だったので可能だったが、普通自動車だと谷底へ転落だろう。

少し登ると二人が除草作業中だった。車の中から、ドアミラーを畳んでいてくれたら楽だった、と声を掛けた。30分ほどあとに往路を戻ると、除草作業を続けていたので、軽トラはどうなっているのかと心配しながら少し下ると、道路山側のスペースに道路から外れたように駐車していた。ありがたいとは言え、道路を知悉しているなら最初から通行に支障がないように駐車してくれればよかった。地元の人が油断するぐらい通行量は少ないということでもある。

ほどなく峠下の山頂駐車場へ着いた。20台ほど駐車可能の広い駐車場でトイレもある。秋田ナンバーの普通自動車3台が整列して駐車していた。調査研究のような気配がした。峠周辺では誰とも会わなかったので、多分そうだろう。

山頂駐車場の尾花沢側は通行止めになっていた。尾花沢側のほうが道路は広いらしいので、当初はこちら側から旧道を登る予定だったが、通行止めらしかったので最上町側から登ってきたのだ。早朝、ナビを見ると、県道28号線の山刀伐峠トンネルの尾花沢側付近に片側交互通行の表示があったので確認すると、尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館の職員も市役所の職員も県道28号線は通行止めと言ったので、新庄・最上町方面から迂回したのだが、実際には県道28号線は交互通行ができて、通行止めだったのは旧道の尾花沢側だった。

県道28号線の「山刀伐トンネル」は、通年通行可能であるが、峠を越える旧車道、さらには江戸期以来の旧街道(歴史街道)は、いずれも冬季通行止である。周辺では、熊の目撃情報があるため、山に入る場合は熊鈴を持ち、単独ではなく複数行動することが推奨されている。9月6日に米沢市の舘山城跡でクマと遭遇したので、気にはなったが、熊鈴を身に着けて峠への遊歩道を登っていった。

途中で「歴史の道」に出会う。見下ろすと、たしかに急傾斜だ。

山刀伐峠顕彰碑付近には東屋がある。山刀伐峠顕彰碑には駐車場から5分ほどで着いた。

東屋から尾花沢方面へ向かう「歴史の道」。

クマが出るかもしれないので、すぐ駐車場へ帰った。

往路の旧道を下り、瀬見温泉共同浴場へ向かった。

瀬見温泉共同浴場せみの湯。最上町向町。

温泉街の東端にあり、駐車場もある。瀬見温泉名物の「ふかし湯」を始め、内湯・露天風呂・足湯の四つの温泉が楽しめる。

コイン式で自動ドアが開閉する。400円(100円玉4個必要)で両替機はない。

 

このあと、東近くにある道の駅「もがみ」へ向かった。新しいので室内にはWIFIが使える休憩所があった。その下の河原は水害で遊具などが被害を受けていた。

翌朝は鮭川村の小杉の大杉(トトロの木)から見学開始である。

山形県最上町 芭蕉が泊まった旧有路家(ありじけ)住宅(封人の家) 堺田分水嶺


山形県最上町 芭蕉が泊まった旧有路家(ありじけ)住宅(封人の家) 堺田分水嶺

2024年10月20日 10時24分44秒 | 山形県

重文・旧有路家(ありじけ)住宅(封人の家)。山形県最上町堺田。

2024年9月9日(月)。

国史跡・新庄藩主戸沢家墓所を見学後、芭蕉が尾花沢の鈴木清風宅へ来る前に泊まった最上町の旧有路家住宅(封人の家)へ向かった。山間部を通ると、小さい盆地のような地区があり、宮城県へ向かう国道国道47号沿いの北側に旧有路家住宅、南側に駐車場がある。

封人(ほうじん)の家とは、国境を守る役人の家のことで、この名称は俳聖松尾芭蕉の「おくのほそ道」に由来する。

旧有路家住宅は、山形県東部に古くから見られた茅葺き寄棟造り、広間型民家で、桁行24.755m、梁間9.999m、建築面積269.180㎡(約81坪)の大型民家であり、江戸初期を下らない時代の創建と見られている。

解体復元工事が実施されて、創建当時の様式で保存、一般公開されている。この建造物は、江戸期には新庄藩上小国郷堺田村の庄屋住宅で、内部は床の間、いりざしきなどの5部屋と、内庭、内まや(厩)からなる。

有路家は、江戸時代初期に独立した村となった堺田村で、代々、村の庄屋を勤めた家柄である。建物は役屋(村役場)としての性格を持ち、問屋や旅館としての機能も備えていたとみられている。仙台藩領と新庄藩領の国境を守る役人という立場でもあったとされ、住宅構造には、江戸期に庄屋役と問屋役を兼ね、街道筋の旅宿ともなり、熱心な馬産家でもあった有路家の歴史的性格が強く反映されている。

この住宅は、松尾芭蕉が「おくのほそ道」に記した、堺田のいわゆる"封人の家"と見なされている。元禄2年5月15日(1689年7月1日)、平泉から仙台藩領の尿前(しとまえ)の関から出羽国尾花沢へと旅路を急いだが、「大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す」と「おくのほそ道」に綴っているとおり、大雨のためしかたなく、二泊三日、この家に滞在した。

その時に詠んだ句、「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり/しと)する 枕もと」が有名である。

最上町は以前は小国と言う地名で山形県内では随一の馬産地で、小国産の牡馬は小国駒と呼ばれて江戸や越前地方へも移出された。人馬が一つの家で寝食を共にする様子を詠んだ芭蕉の句の背景には、小国が馬産地であり馬を大切に扱う生活環境があった。

土間・まや。

土間から座敷方向。

土間から座敷方向。

「なかざしき」

「いりのざしき」

床の間。

堺田越(さかいだごえ)は、山形県最上町と宮城県大崎市の間にある標高350mの峠である。国道47号が走っており、峠の頂上に最上町堺田集落があり、JR東日本陸羽東線堺田駅がある。

非常になだらかな峠であり、奥羽山脈を横断する峠の中でも標高が低い方である。そのため、最上町にやませが流れ込みやすく、標高の低さが逆に冷害の原因になっているといわれる。

道路も非常に直線的であり、並行する国道に比べて最も状態が良いため、仙台市や大崎市から、新庄市を経由して庄内地方や秋田県に向かうトラックが、頻繁に走っている。

古来より、現在の仙台市から大和町、加美町、大崎市岩出山を経て太平洋と日本海を結ぶ重要な峠であり、舟形街道の清水河港から最上川を舟で下って酒田港にいたるルートは、物流のルートとしても、旅のルートとしても使われた。仙台藩(尿前の関)と新庄藩(笹森口留番所)がそれぞれ関所を設けていた。現在も往時の街道が残されており、「出羽仙台街道」として、大崎市尿前の関から最上町笹森集落まで旧街道を探索することができる。

堺田分水嶺。最上町堺田。

堺田集落は、太平洋と日本海へ分かれて流れる分水嶺の真上に存在する集落であり、堺田駅前には、ほとんど見られない「地上に露出した分水嶺」がある。ある一本の水路が、流れるうちに自然に日本海側と太平洋側に分かれる水路である。

駐車場に戻ると、分水嶺の案内標識があった。簡単に行けそうだったので、蕎麦畑の横を通って行ったが、行き着けなかったので、一度は諦めて駐車場に戻ったが、その地点からもうすぐ奥だったと分かり、再度チャレンジして分水嶺公園の東屋にたどり着いた。

分水嶺を眺める地点の広場は、JR堺田駅前の広場であることに気づき、自動車で移動したほうが早かったと思いながら駐車場に戻り、芭蕉が苦労して越えた山刀伐(なたぎり)峠の見学に向かった。

山形県新庄市 手打ちそば「さぶん」 新庄城跡 新庄藩主戸沢家墓所


山形県新庄市 手打ちそば「さぶん」 新庄城跡 新庄藩主戸沢家墓所

2024年10月19日 09時00分16秒 | 山形県

手打ちそば「さぶん」。山形県新庄市小田島町。

2024年9月9日(月)。

尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館などを見学後、舟形町の西ノ前遺跡公園を経て、新庄ふるさと歴史センターに着いたとたん、センターから出てきた職員に長期休館中だといわれた。7月の水害もあり、各予定地のHPなどで確かめていたはずだが、チェック漏れだったようだ。新庄城跡の見学なら駐車したままでいいというので、新庄城跡へ歩いて向かった。

100mほど歩くと、角の蕎麦屋が目についた。大石田そぼ街道や尾花沢そば街道などが有名らしいが、昼食のタイミングから外れていたため蕎麦を食べる機会を逸していた。ちょうど11時30分ごろだったので、「さぶん」という蕎麦屋に入ることにした。店内に入ると、半分ほどの入りだった。入口側の長い机席が一人用らしかったので、欧米人の若い男性の横に座った。

メニューを見ると、天ぷら付きは高い。旅行雑誌を見て、山形名物で気になっていた板蕎麦2人前1320円を注文した。トイレついでに奥の座敷を覗くと、中華系らしい10人ほどの女性の団体が食事を終わりかけているところだった。12時ごろになるとほぼ満席になった。

「さぶん」とは「佐藤文七」という屋号から来ているようだ。明治8年の建築という古民家を利用した店内には、いろりを備えた座敷が設けられるなど田舎情緒にあふれている。もともと、みそやしょうゆの醸造、呉服などを扱っていた商家だった同店は平成9年、この場所でそば店を始めたという。開店当初から続けているのが石臼ひきの自家製粉という。

新庄城跡(最上公園)。新庄市堀端町。

新庄城は、新庄藩6万石の本拠として寛永2年(1625年)、新庄藩初代藩主の戸沢政盛により築城された。本丸の南側に出丸のように小さな二の丸が並列状に配置され、その外側を三の丸が囲む形である。本丸及び二の丸、三の丸の堀の水は城の北を流れる差指野川(さすのかわ)から引かれた。三の丸堀(二の堀)の反対側に当たる現在の堀端町は、家老などが住む侍屋敷があった。

最上氏改易後に入封した戸沢政盛は当初真室城(鮭延城)に入城したが、手狭であることと、山城のための不便さから幕府に願い出て、当地に築城した。なお、縄張は同一時期に山形城に入封した鳥居忠政によるものである。

本丸は東西52間、南北127間、正面奥に天守櫓がそびえ、周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓を有する平城であったが、寛永13年(1636)の火災による焼失以来天守櫓は再建されなかった。

本丸表御門跡付近の石垣。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では戦闘の舞台となった。当初、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩(秋田藩)が新政府側へ変節したのに同調し、奥羽越列同盟から離脱した。これに激怒した庄内藩は新庄藩へと攻め入り、庄内藩兵と新庄藩兵の間で攻城戦が行われたが新庄城は陥落して、その大部分が焼失した。当時の藩主、戸沢正実は久保田藩へ落ち延びた。新庄城は同年のうちに廃城となった。

現在は、新庄城の建物のほとんどが失われ、本丸址に戸澤神社、護国神社、稲荷神社、天満神社がある。本丸跡、二の丸跡を含めた城跡は最上公園として市民に開放されている。

 

戸沢氏は、平維盛の子平衡盛が奥州磐手郡滴石庄(岩手県雫石町)に下向したのが始まりとして平氏と称したが、平衡盛の「衡」という漢字は奥州藤原氏が通字として使用しており、滴石に古くから土着していた荘園の開発領主が、その実態であり、奥州征伐の時に藤原氏に協力しなかったことから辛うじて源頼朝に存続を許されたが、新しくきた関東御家人の圧迫を受けて、出羽国に移っていったという奥州藤原氏郎党説が有力である。

鎌倉時代初期の1206年、戸沢氏は南部氏から攻められ、滴石(岩手県雫石町)から門屋小館(秋田県仙北市西木町)に本拠を移した。1220年に門屋小館から門屋へ移り、1228年門屋城を築城。そこから周囲に勢力を拡大していったものと推察される。

南北朝時代になると、戸沢氏は南朝に属した。北畠顕家の弟北畠顕信が一時期滴石城に入った記録があるが、興国2年(1341年)の合戦は顕家の敗戦に終わり、顕家は出羽国へ去っていき、滴石の兵も従ったとある。興国2年以後、南部氏が北朝方に寝返ったことと、北陸奥における足利氏勢力が増大したことが契機となり、この時に仙北地方に移ったと推測される。但し、滴石庄には庶流を置いていったと考えられる。

延文元年(1356年)に戸沢英盛が鎌倉へ出仕しており、この頃には他の武将達同様に北朝方に転向して時代を生き抜いたようである。

戸沢氏は、その後、本拠地を門屋から角館に移し、門屋地方からさらに、仙北三郡の内、北浦郡全域への支配拡大を目指していく。応仁2年(1468年)、南部氏が小野寺氏との抗争に敗れ、仙北三郡から撤退すると、戸沢氏は、以後仙北三郡の覇権を巡り小野寺氏・安東氏との抗争を続けた。

応永31(1424)年13代戸沢家盛の頃に角館城に居を構え戦国大名としての地位を築いたとされる。

元亀元年(1570年)ごろ、戸沢道盛は北浦郡全域と仙北中郡、旧仙北郡の大部分を平定した。その後、道盛の子、戸沢盛安は小野寺氏や安東氏を破って勢力を拡大し、仙北三郡の完全平定に成功した。これが戸沢氏の勢力全盛期となった。盛安は中央の動静に絶えず注目しており、豊臣秀吉の小田原征伐の際には主従僅か10人ながら東北地方の戦国大名の中ではいち早く参陣して秀吉の賞賛を受け、所領を安堵された。しかし盛安は参陣中の小田原で病死し、弟の戸沢光盛が家督を継いだ。豊臣秀吉の奥州仕置の後、戸沢氏の支配地域は盛安の死と惣無事令の問題もあり、北浦郡4万5千石のみ安堵され、残りの地域に関しては太閤蔵入地の代官としての権限を与えられた。

光盛は朝鮮出兵の途上、播磨国姫路城で病死した。光盛の死後、盛安の子の戸沢政盛が家督を相続した。秀吉の死後、政盛は徳川氏重臣の鳥居元忠の娘と縁戚を結び、徳川方へ急速に接近していった。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、最上氏と共に上杉氏と戦った。しかし上杉討伐で秋田氏の勢力が増大することを恐れ、消極策に終始した。戦後、この行動が咎められて、常陸国松岡4万石へ減転封された。

松岡藩への転封後も政盛は、徳川氏への接近を積極的に進めていった。鳥居氏との縁戚により、本来江戸幕府内での扱いは外様大名であるはずの戸沢氏は譜代大名とされた。元和8年(1622年)、最上氏の改易を受けて鳥居氏が最上氏の旧領出羽国山形の藩主となると、戸沢氏は鳥居氏の一族として、常陸国松岡から出羽国新庄へ加増転封された。

以後は新庄藩6万石(後6万8千石)の大名として明治維新まで続いた。最後の藩主正実の代の戊辰戦争では官軍側についたり、奥羽越列藩同盟側に付いたり藩としての姿勢に揺れがみられたが、最終的には官軍に付いたため、その功績により賞典禄1万5000石を下賜された。

国史跡・新庄藩主戸沢家墓所。新庄市十日町。

墓所は新庄市街から離れた北東方向の田園地帯にある。茅葺屋根の廟所は珍しい。

藩主戸沢家の墓所は新庄市瑞雲院桂嶽寺の2ヶ所にあるが、向陽山瑞雲院(曹洞宗)は、山形県白鷹町瑞龍院の末寺で、藩政時代寺領150石を有し、領内禅宗の事務を統括する禄所であった。初めは、城下町北の入ロの要として、羽州街道西側に建立されたが、元禄14年(1701年)全焼し、寺地を宝永3年(1706年)東側の現在地に移した。その際に、焼寺の西奥に墓石のみであったものを、現在の廟建築の形式に変えたものと思われる。ここには6棟の廟があり、桂嶽寺に廟所がある2代正誠を除く10人の藩主が葬られている。

御廟所は、当地では御霊屋(おたまや)と呼ばれ、建立された順序は、瑞雲院1号棟(1704年から1721年推定)・桂嶽寺御廟所(1724年)・瑞雲院2号棟(1742年)・3号棟(1747年)・4号棟(1782年)・5号棟(1788年)・6号棟(1798年推定)の順になる。

造りは、単層宝形(ほうぎょう)造りで、大きさはそれぞれ違うが、いずれも絵欅(けやき)造りで、石場の上に土台を据え、丸柱を建て、柱間に厚い板をはめこんで壁としている。入ロは観音開きの扉、床は石畳で板敷きはない屋根は全て茅葺きであるが、桂嶽寺御廟所だけは近年木羽葺きに替えられた。

このさや堂の中には、歴代藩主とその正室(1基のみ側室)、家族の墓石が納まっている。その内訳を見ると、総数27基で、藩主11名・正室6名・側室1名・その他9名である。

その他9名のうち、4名が9代正胤の子どもたちであるのが注目される。

全国に多数ある近世大名の墓の中で、藩主とその正室や子ども、側室など一緒に葬られているのは極めて稀である。また、各歴代藩主の墓が一堂にあることから、1700年代の初期から後期に亘る約100年の間の建築様式の変化は、その時代時代の新庄藩政の姿を浮き彫りにするもので、歴史的に大変興味深い。

正龍院殿實翁禅相大居士塔。第11代藩主で最後の新庄藩主戸沢正実の墓。

殉死した3人の墓。

 

このあと、芭蕉が尾花沢へ来る前に泊まった最上町の旧有路家住宅(封人の家)へ向かった。

山形県尾花沢市 芭蕉清風歴史資料館 養泉寺 舟形町 西ノ前遺跡公園「女神の郷」


山形県尾花沢市 芭蕉清風歴史資料館 養泉寺 舟形町 西ノ前遺跡公園「女神の郷」

2024年10月18日 11時36分56秒 | 山形県

芭蕉清風歴史資料館。山形県尾花沢市中町。

2024年9月9日(月)。

大石田町の史跡を回ったのち、芭蕉清風歴史資料館に9時前に着き、開館を待った。尾花沢市の銀山温泉能登屋旅館には日本100名山完登の途次1990年代末に宿泊したことがある。

 

芭蕉清風歴史資料館では、元禄2年(1689)「おくのほそ道」の道中尾花沢に10泊の長逗留をした芭蕉と、鈴木清風など地元俳人たちとの交流が展示されている。鈴木清風は元禄期に金融、貸付、特産品の買継などで富を築いた出羽の豪商で紅花大尽と言われている。

「おくのほそ道」には尾花沢での句として、芭蕉の「涼しさを我宿にしてねまる也」「這出よかひやが下のひきの声」「まゆはきを俤にして紅粉の花」と、曾良の「蚕飼する人は古代のすがた哉」が書き述べられている。清風に山寺参詣を勧められた芭蕉はその道中、紅花畑や山寺で名句を残した。

資料館の建物は、旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を、清風宅の隣に移転復元したもので、土蔵造の「みせ」には防火扉の蔀戸(しとみど)が吊られている。母屋は通り土間を設けた中門造で、尾花沢地方における雪国の民家・町家建築の姿を伝える貴重な遺構である。内部は撮影禁止。

 

鈴木清風(慶安4年(1651)~享保6年(1721))は、本業が「島田屋」という商家の三代目で「紅花大尽」といわれた豪商である。尾花沢村に生まれ、生涯を閉じた。通称八右衛門(三代目)、いみなを道祐といい、清風は俳号で西山宗因の主唱する談林系の俳人でもあ。1689年(元禄2年)に俳聖松尾芭蕉が清風邸に3日間宿泊。芭蕉は『奥の細道』で「尾花沢にて清風という者を尋ぬ。かれは富めるものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日ごろとどめて長途のいたはりさまざまにもてなし侍る。」と尾花沢滞在中の10日間、清風の厚いもてなしに旅情がなぐさめられたと書いている。

鈴木清風は、山形の特産紅花で巨富を築き、「紅花大尽」と呼ばれた。遊ぶ時は派手に遊んだ。都々逸にその豪奢な大盤振舞いのさまが詠まれている。「最上衆なら粗末にならぬ敷いて寝るような札くれる」。清風は紅花で稼いだ金で金融業も手広く営んだ。商人に融資するばかりか農民にも貸しつけ、大名貸しもやった。白川藩、新庄藩、山形藩、上山藩、秋田藩などが清風のお得意さんだった。

清風は若い時から商取引で京都や江戸を往復していた元禄11年の夏、紅花の商いに江戸に上った清風を、江戸の商人たちは、清風を田舎商人と甘く見て”不買同盟”を結んで妨害した。それに対し清風は品川河岸で赤く染めたかんな屑を燃やして、江戸に運んだ紅花を全部焼き捨てたと見せかけたので、翌日から紅花の値段は高騰し、清風は三万両の利益を得た。「尋常の商売で得た金ではない、きれいさっぱり使い切る。」と言って、吉原の大門を3日3晩閉め切って遊女達に休養を与えたと言う逸話等が残されている。また、吉原の高尾太夫が清風に贈ったという柿本人麿の木像も遺されている。

 

芭蕉が「昔より、賢き人の富めるは稀なり」と詠んだ紅花商人 鈴木清風(上)

Yahoo news  2017/8/11(金)  THE PAGE

芭蕉をもてなす鈴木清風(「芭蕉と清風」おくのほそ道・尾花沢、発行・編集 芭蕉・清風歴史資料館より)

 

 紅花は山形県の県花であり、特産品として知られています。花は古くから口紅の材料や染料、生薬に用いられ、種子は絞って食用油に加工されています。

 江戸時代、山形県尾花沢の豪商・鈴木清風は、この紅花の取引で巨万の富を築き上げ、のちには金融業も手を広げていきます。江戸・吉原での豪遊も伝説となり、今に語り継がれています。また、意外にも俳人・松尾芭蕉とも交流があり、鈴木の人となりを詠んだ句も存在しています。鈴木はどのようにして、特産品でもうけを築き上げていったのでしょうか? その手法と芭蕉との交流について、市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

 

松尾芭蕉とゆかりのあった鈴木清風という紅花商人

 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で山形県尾花沢に入ったのは元禄2年(1689)5月17日のことだった。ちょうど当地の特産紅花が咲き始める季節である。ここでは鈴木清風との再会を楽しみにしていた。清風は富商でありながら志の高い人物として知られていた。

 清風は一代で巨利を博したのではない。先祖代々にわたり積み上げてきた富をさらに大きく膨らませたもので、赤貧から抜け出した立志伝中の人物ではない。専門家はこう言っている。

 「鈴木家が延沢(のべさわ)銀山のこの繁昌ぶりに着目し、鉱山都市の住民や城下町延沢の人々を対象として生活必需品の調達、生活資金や営業資金の高利貸しなどを行って財産を貯蓄したのではないか」

 延沢銀山が最盛期のころは山に働く人々が2万~3万人に達していたといわれるが、それは清風の祖父や父の時代までで、清風が生まれるころはほとんど廃鉱になっていたという。

 紅花は染料や化粧品の原料として需要は無限であった。もとはエジプトや東南アジアの原産で菊科の植物だが、早くから日本に根付き、「万葉集」や「源氏物語」で「くれない」とか「末摘花」などと詠まれているのは、この紅花のことである。最上川の朝霧で育った紅花を京、大坂へ運んでもうけを膨らました。

 清風ら紅花商人は京、大坂に紅花を運び、帰路には塩や砂糖、綿花などを持ち帰れば、往復でもうけた。この往復でもうけるやり方を人々は「のこぎり商法」と呼んだ。清風は押してもうけ、引いてもうけの「のこぎり商法」の代表格であった。

「紅花を栽培することは、米や豆を作るよりもはるかに有利であった。元禄年間には350駄(駄は馬または牛一頭に背負わせるだけの量)ぐらいしか出荷しなかった紅花はそれから100年後の寛政年間には1400-1500駄も出荷するようになった。その代金は1駄(30貫目、120キロ)は80両前後であったから少なくとも10万両ほどの大金が山形地方に流れたことになる」(後藤嘉一著『やまがた経済風土雑記』)

 また山形大学の岩田浩太郎教授もこう述べている。

 「紅花は一反歩で稲作三反歩に匹敵する高収益作物でしたから栽培が広がりました。村山産の『最上紅花』は全国ブランドとなり、18世紀末には全国シェアの半分を占めました」

 清風は京都で紅花を売って莫大な利益を上げると同時に江戸でも豪快にもうけた江戸での清風伝説で欠かせないのが、吉原を買い占めた一件

 樋口一葉の名作「たけくらべ」の冒頭に「廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど」とある。その大門を締め切って、三浦屋という遊女屋で三日三晩の豪遊をやってのけ、破天荒のお大尽ぶりに江戸っ子のド肝を抜いたという。

 大門を閉めるということは、吉原の遊女を1人占めしたわけである。当時、遊女は2000人を超していたというから清風も派手なことをやってのけたものだ。

 もしこの大盤振舞いが芭蕉の耳に入っていれば、「清風め、羽目をはずすにもほどがある」と眉をしかめたのだろうか。いや、「さすが清風、もうけた金を江戸市中に散財すれば、それがまたもうけとなって返ってくるというものですよ」と拍手を送ったのかもしれない。

 それというのが、芭蕉は「俳聖」と呼ばれる一方でなかなかの経済通であったと伝えられるからだ。勝海舟が「芭蕉は非常な経済家であった。近江商人は皆、芭蕉の遺言にのっとってやるのさ」(海舟自伝)と語っている。

 芭蕉が豪商鈴木清風と経済や相場を巡って語り合っていたとすれば、痛快これに過ぎるものはないだろう。

 芭蕉が尾花沢滞在中に清風に贈ったのが有名な次の一句。

「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」

 そして「奥の細道」の中にも清風の名が記され、430年後の今日も読み継がれる。

 「尾花沢にて清風という者をたずぬ。彼は富めるものなれども、志いやしからず。都にも折にかよい、さすがに旅の情を知りたれば、長途のいたわり、さまざまにもてなしはべる」

鈴木清風邸跡地。資料館南の銀行横にある。

鈴木清風邸(「芭蕉と清風」おくのほそ道・尾花沢、発行・編集 芭蕉・清風歴史資料館より)

養泉寺・尾花沢観音。尾花沢市梺町。

資料館から西に離れた場所にある。養泉寺に芭蕉は7泊しており、奥の細道の中で最も長く滞在した場所といわれている。芭蕉は鈴木清風宅に3泊し、この寺に7泊した。芭蕉が養泉寺に7泊したのには様々な理由が考えられるが、清風の家は、商売で忙しい時期だつたので、周りでバタバタしては、芭蕉がゆつくりと休むことができないだろうという、清風の配慮があつたと思われる。また、養泉寺からは、遠くは鳥海山をや月山を望むことができ、眺めのいい場所であった。

養泉寺は芭蕉が泊まった前年の元禄元(1688)年に大改修新築されている。明治28(1895)年の尾花沢大火で焼失、明治33年に再建された。

涼し塚。壷中碑。養泉寺境内。

柴崎路水と鈴木素州が宝暦12年(1762年)に建てた芭蕉尾花沢逗留中の歌仙の発句である「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑(高さ0.92m、巾0.5m)がある。これが「涼し塚」で、隣に「壷中居士」を刻む石碑が建っている。

句の意味は、「この家の涼しさをわが物にして、わが家同然の気楽な気分で楽に座ております。」で、

ねまる」(くつろいで楽に座る)という味のある東北方言を用いて家人への親近感を深めている。

壷中は、村山地方を代表する江戸期の俳人で、初め蕉門十哲・服部嵐雪の流れを汲む海谷一中の門に入るが、のち、同じ蕉門十哲の一人各務支考を祖とする美濃派の俳人林風草(鶴岡)の門下となった。宝暦元年(1751年)、俳諧仲間とともに、山寺立石寺に「蝉塚」を築いた人物でもある。

芭蕉連句碑。

「涼し塚」の東側にも2つの石碑が見られる。1つは、「十泊のまち 尾花沢 芭蕉翁」の文字を刻むもの(右)で、もう1つは「芭蕉連句碑」と称される大きめの石碑(左)。連句碑には、芭蕉が尾花沢滞在中に巻いた「すゞしさを」歌仙の、初折の表4句が刻まれている。

 

このあと、新庄市の新庄城跡へ向かい、途中西ノ前遺跡公園へ立ち寄ることにした。自動車道外に公園があるのだが、ナビは自動車道内を指示したので大回りしてしまったが、道路内にある土偶出土地を踏んでいたことになる。

西ノ前遺跡公園「女神の郷」山形県舟形町舟形。

西ノ前遺跡は、山形県立博物館で常設展示している日本最大の縄文土偶の国宝「縄文の女神」が出土した遺跡である。舟形町を東西に流れる最上小国川(通称:小国川)流域には河岸段丘が形成され多くの遺跡が確認されており、西ノ前遺跡は、小国川左岸標高72メートルの河岸段丘上に立地している。段丘は、北に向かって舌状に張り出し、その先端分に遺跡が位置している。

平成元年9月に舟形バイパスが高規格道路「一般道路13号尾花沢新庄道路改築工事」として事業規模が拡大されることになり、試掘調査が行われた。

遺跡の範囲は、東西85m、南北125mで、面積10,500㎡の規模をもつ縄文時代中期の集落跡であることが判明した。

平成4年8月の発掘調査で、土偶が多く発見され、その中で一際目立っていたのが、大形土偶である「縄文の女神」で、調査区南端の落ち込み遺構のやや東よりの部分から半径3m程度の範囲で、頭部、胸部、腰部、脚部の5片に分かれて見つかった。

 

このあと、新庄城跡、新庄ふるさと歴史センターに向かった。

山形県大石田町 聴禽書屋(斎藤茂吉旧居) 芭蕉「最上川」句碑 舟役所跡