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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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山形県大石田町 聴禽書屋(斎藤茂吉旧居) 芭蕉「最上川」句碑 舟役所跡

2024年10月17日 11時33分18秒 | 山形県

聴禽書屋(ちょうきんしょおく)。山形県大石田町大字大石田乙。大石田町立歴史民俗資料館内。

2024年9月9日(月)。

聴禽書屋は、歌人で精神科医の斎藤茂吉が大石田疎開中の1946年1月から約2年間住んだ建物である。

村山市の道の駅「むらやま」で起床。尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館は9時開館なので、それまで大石田町の史跡を見学することにした。江戸時代に最上川舟運の中継地として栄えた大石田河岸、奥の細道関連の芭蕉句碑、終戦直後に仮住まいした斎藤茂吉ゆかりの聴禽書屋などがある。

大石田町立歴史民俗資料館は月曜休館だが、資料館敷地内の聴禽書屋は外観のみだが予想通り見学できた。

斎藤茂吉は昭和20年4月、郷里である山形県南村山郡堀田村金瓶(かなかめ、現・上山市)に疎開した。昭和21年1月30日、64歳の茂吉は単身大石田に移り、板垣家子夫(かねお)宅に2泊した。2月1日に二藤部兵右衛門家の離れに移り、21年11月3日東京の世田谷区代田に移るまで1年9ヵ月間その離れに住んだ。「聴禽書屋」の名は、庭内の木立を鳴きわたる小鳥の声に因み、茂吉自らが命名した。

ところが、転居して間もない3月に左湿性肋膜炎にかかり、治癒するまで3ヶ月間病床を余儀なくされた。この時期、敗戦の傷心と、家族と離れひとり辺土に暮らす茂吉の身に襲いかかった大病により、すっかり気力も体力も衰えていた。5月ごろから快方に向かった茂吉は、6月上旬には最上川に散歩に出かけるまでに治癒し、夏以降は本格的に短歌を創作できるまで回復した。そして、最上川の周辺を散策し、じっと最上川を見つめる姿が帰京するまであったという。大石田在住時代の茂吉短歌は、歌集「白き山」に824首(後に26首が後補され850首)収められている。

資料館内の歌碑には、「蛍火を一つ見いでいて目守(まも)りしが いざ帰りなむ 老の臥處(ふしど)に」と刻まれている。

松尾芭蕉句碑。大石田観音・西光寺(さいこうじ)境内。大石田町大字大石田乙。

資料館から北近くの駐車場横に西光寺があり、境内奥にガラス張りの句碑保存用小屋があった。西光寺の3句碑中にも芭蕉句碑があるが、どうやらこちらが江戸時代の句碑のようだ。

「さみたれを あつめてすゝし もかミ川 芭蕉」と陰刻されている碑高100.4cmの自然石の句碑である。松尾芭蕉が来町してからおよそ80年後の明和年間(1764年~1772年)に、土地の俳人土屋只狂が歌仙「さみだれを」を得た喜びを記念し歌仙の発句を模刻して建てた句碑という伝えがある。

「おくのほそ道」の有名な句は、「五月雨を集めて早し最上川」の句であり、大石田で芭蕉が詠んだ発句(歌仙の最初の俳句のこと)は「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」である。

「すずし」の方が初案(最初の作句)であり、「最上川に対する涼しさの感じが主」であるのに、「早し」の方は「矢のごとく流れてゆく大河、その全体的に豪壮な感じは、やはり『早し』という端的な表現にまたねばならなかった」のであり、句としては、まったく別個のものであるが、「もとより最上川の大観をとらえた『早し』の方が、句としてはるかにすぐれている」(潁原退蔵「発句評釈」)という理解が現在では一般的のようである。

つまり、初案では「集めて涼し」で、涼しい風を運んでくる最上川の豊かさやさしさを表現した。しかし、本合海(もとあいかい)から急流の最上川下りを体験し、「涼し」を「早し」に改め、最上川の豪壮さ、激しさを表記したのである。

「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」の句は、芭蕉がのちの奥の細道執筆時に作句した「早し」とは別に発句として成立しているといえる。

「芭蕉翁“さみだれを”の碑」・高野一栄宅跡。大石田町大石田甲。

最上川に架かる大石田大橋たもとの上流側土手道を50mほど進むと、案内板があり、下の空き地へ下りると小さい句碑広場がある。

「さみだれをあつめてすずし最上川」。この作品は、元禄2年5月28日(西暦1689年7月14日)夜、最上川の河港・大石田の船宿経営高野平左衛門(一栄)方にて行われた句会の冒頭の発句「五月雨を集て涼し最上川」である。芭蕉は高野一栄宅に三泊し、四吟歌仙を興行した。

江戸時代の大石田では、俳諧(当時の俳句は「俳諧連句」として行われ、後に発句が独立して俳句となる)が盛んに行われた。今から300年以上前、松尾芭蕉が大石田に来町した元禄期、それから100年ほど経った明和・安永期、そして幕末期の3つの時期に特に盛んに行われた。 

芭蕉来町当時の大石田の俳人として知られているのは、高野一栄と高桑川水の2人である。一栄は、当時54歳の円熟した風流人で、船問屋でもあり、大石田での有力者であったようである。一栄が各地に広い交友があったことは、「おくのほそ道」の旅での羽黒山の別当代にあてた一栄の添状から、その一端をうかがうことができる。

川水は高桑加助吉直、金蔵と称し、大石田の庄屋を勤めた人で、芭蕉来遊の年には46歳で、芭蕉と同い年であった。高桑家は当時、代々庄屋・大庄屋を勤めていたが、川水は子がなかったため、末弟勘七吉武を養子として、早くより家督を譲り、元禄5年(1692年)の記録によれば、既に末弟勘七が家督を継いでいた。元禄期に大石田俳人として知られるのは、今のところ一栄・川水のほかには、よくわかっていない。

最上川舟役所跡。大門と塀蔵。大石田町大石田。

大石田大橋たもとの下流側土手を50mほど進むと、川側に復元門塀、反対側下に石標がある。

大石田河岸(かし)は、最上川中流に設置された同川最大の河港で、室町時代から始まったといわれ、元禄の頃にもっとも賑わい、最上川舟運の中枢となり、寛政4(1792)年に幕府の舟役所が置かれた。1996年に、舟運時代の華やかな頃の面影を偲ばせる大門や塀蔵が再現された。

延喜式によると、多賀城と秋田城とを結ぶ東山道沿いに「野後(のじり駅」という馬と舟を置いた水駅があった。近年、大石田町北部の最上川沿いにある「駒籠楯跡」において、掘立柱建物の遺構群が発見され、この遺跡が「野後駅」であった可能性が高いとされている。

大石田の南には、碁点、隼、三ヶ瀬の最上川三難所があり、物資を安全に運ぶためには、大石田河港で陸揚げし、三難所を避けて陸路を運ぶ方がリスクが少なく、確実であった。舟運で上流部に運ぶ場合でも、三難所があるため、酒田港からの大型の川舟はここまでしか入れず、三難所を越えるために小型の舟に積み替える必要があり、いずれにしても大石田河港に舟を着けなければならなかった。そのため、大石田は最上川の港としては最大の物資の集積地として繁栄した。天領であり、大石田川船役所が置かれた。その輸送路は山形県村山地方や置賜地方のみならず、奥羽山脈を越えて仙台藩にまで至り、仙台城下に上方の物資をもたらした。

大石田が河岸として重要視されてくるのは、最上義光が内陸部を統一した天正10年(1582)頃からである。最上川を利用する舟運は近世以前からあったが、山形城下の船町(ふなまち)と河口の酒田湊を一貫して通船できるようになるのは、最上氏が庄内まで領国を拡大した慶長6年(1601)以降のことで、その前後に最上氏は大石田の上流にある最上川三難所を開削したと伝える。

同19年最上氏は清水城(現最上郡大蔵村)の清水氏を滅ぼし、清水河岸が握っていた最上川船の中継権を大石田に移した。慶安3年(1650)商人荷物輸送に関する通船定法(酒田船は大石田まで上り荷、大石田船は上郷への上り荷と酒田までの下り荷)が定められ、運賃の十分の一を荷宿が取立てる制度と清水・大石田・船町の三河岸体制が出来上る。さらに寛文12年(1672)河村瑞賢が西廻海運を整備し、最上川流域の幕府領城米(年貢米)の江戸廻米制を確立したのに伴って、城米・私領米・商人荷物の順に川下げする秩序が出来上った。

最上川の川船は酒田湊に拠点を置く酒田船と、内陸部に拠点を置く最上船とに分れていた。城米・私領米の川下げには酒田船と最上船が半分ずつ当たり、その代償として商人荷物の輸送が許されていた。

 

このあと、尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館へ向かった。

山形県天童市 天童織田の里歴史館・旧東村山郡役所資料館 建勲神社 舞鶴山山頂広場


ムダ遣い400億円アベノマスク 契約訴訟で裁判長も呆れた官僚たちの「ひどすぎる言い分」「本当にふざけた話」

2024年10月17日 08時40分59秒 | 社会

「本当にふざけた話」“アベノマスク” 契約訴訟で裁判長も呆れた官僚たちの「ひどすぎる言い分」ムダ遣い400億円の闇

Yahoo news  2024/10/17(木) SmartFLASH

 

アベノマスクをつける安倍晋三元首相

アベノマスクを考案した佐伯耕三元秘書官

 

 唖然とするような証言だーー。

 10月15日、朝日新聞は “アベノマスク” の契約をめぐる訴訟について報じた。

「“アベノマスク” とは、新型コロナ禍でマスクが手に入らなくなったことを受け、2020年4月、安倍晋三元首相が主導し、各家庭に配られたガーゼ製の布マスクのことです。不織布マスクと比べてサイズも小さく、配布時に異物が混入していたなど、悪評の多い施策でした。

 しかも、後になって、全体の3割にあたる8300万枚が配布されないまま保管されていることが発覚400億円を超えるお金で調達したものの、税金のムダ遣いだとして批判されました」(事件担当記者)

 

 政府は、このマスクを複数の業者に発注したが、社員が数人しかいないような小さな会社にも数十億円にのぼる発注をしており、時期によって1枚あたりの単価もバラバラであることから、どのような経緯で業者の選定や発注がおこなわれたのか、疑惑の目が向けられてきた。

 15日に開かれた裁判は、裏金問題の追及で知られる神戸学院大学の上脇博之教授が、契約過程を示す文書を開示するよう国に求めた訴訟だ。

「朝日新聞によると、この日は複数省庁による『合同マスクチーム』のうち、業者と直接やりとりした職員ら3人が出廷しました。しかし、3人とも『やりとりは口頭が基本で、文書は残していない』と答えたそうです。

 裁判長が『単価や枚数は間違えると大変なことになる。すべて記憶して口頭で報告していたのか』と突っ込みましたが、『そうです』と、やはり業者とのやり取りを示す文書は存在しないとの主張でした。

 また、自身が受け取ったメールについて、『容量が限られているため2~3日に1度消去していた』と証言する職員もいたそうです。

 当たり前のことですが、“アベノマスク” の原資は国民の血税です。随意契約とはいえ、ムダにならないよう、少しでも安く、公正・公平に業者を選ぶのが当然。

 そして、後から検証できるように、行政文書として契約にいたる書類をすべて残しておくのも当たり前のはずです。嘘をついているとしたら大問題ですし、文書を残していないとすれば、それも問題です」(同)

 

 同報道には、X上でも怒りの声が続々寄せられている。

本当にふざけた話だ

アベノマスク、本来なら逮捕者が大量にでる案件だろ》

《コロナで急ぎの対応が要求されていたにしてもまずすぎる対応

《訴訟の言い訳流石に酷すぎんか

 

 疑惑にまみれた “アベノマスク” の裏側を、政治部記者がこう語る。

「当時、『マスクを配れば国民の不安はパッと消えます』と、発案した佐伯耕三秘書官は、自信満々に安倍首相にすすめたそうです。当時の官邸は、今井直哉補佐官と佐伯秘書官が経済対策のほぼすべてを決めている状態でした。この “密室” でマスクの配布も決まったんです。

 すでに “アベノマスク” が決定した段階で、厚労省はマスク不足は3カ月程度で解消されると官邸に情報を上げていました。にもかかわらず、支持率の低下に苛立った安倍元首相がゴーを出したんです。

 試作品すらない状態で、佐伯秘書官が安倍元首相の前でガーゼを折って説明したといいます。こうした背景を考えると、業者への発注をめぐり高度な不正があったというより、表に出せないほど杜撰で考えなしの発注をしていた、というのが実態ではないでしょうか」

 いくらコロナ禍でも、「まずすぎる対応」だったのは確かだ。


安倍派裏金議員・高木毅氏が40年前に起こした「パンツ泥棒事件全真相」白い手袋をはめて合鍵で侵入

2024年10月16日 22時32分01秒 | 社会

福井2区から出馬の“安倍派裏金議員”につきまとう過去 「白い手袋をはめて、合鍵で侵入」高木毅氏が40年前に起こした「パンツ泥棒事件全真相」

Yahoo news  2024/10/16(水)  デイリー新潮 デイリー新潮編集部

 

高木毅氏(左)の父・高木孝一氏の銅像(右)にはパンツが被せられたこともあったという

 

姉の部屋で箪笥の中とかを物色し

 無所属での立候補を余儀なくされた高木毅元国会対策委員長(68)につきまとう不安は裏金問題ばかりではない。いつになっても有権者の脳裏からついて離れない「恥ずかしい過去」だ。高木氏が40年前に起こした「パンツ泥棒事件」の“全真相”をプレイバックする。(※週刊新潮2015年10月22日号などに加筆し、修正を加えました)。

 ***

 第3次安倍改造内閣で復興・原発事故再生総括担当大臣に就任した高木毅衆院議員が以前、下着泥棒に入った一軒家は、福井県敦賀市内の住宅街の一画にある。

 その家を訪ねると、高齢の女性が出てきて、

「何も知りません」

 そう繰り返すばかりだったが、近所に住む彼女の娘さんは、こちらが拍子抜けするほどあっさり事実関係を認めたのである。

――昔、あなたのお宅に下着泥棒が入ったという話を調べているのですが、その時の犯人は、高木氏ということで間違いない? 

はい。被害者は私の姉です近所のおばさんが、“家の斜め前に車を停めて中に入っていく人を見たけど、知り合いか?”って。通報したのは私だったかな。警察の人が来て、指紋とか取って。でも、教えてくれた近所のおばさんが車のナンバーを控えとってくれたんで、すぐにやったのは高木さんやと分かった家に上がり込み、姉の部屋で箪笥の中とかを物色し、帰って行ったようです」

 

合鍵を勝手に作って侵入

 今から30年ほど前に起こった出来事だ。当時、下着を盗まれた女性は20代、高木氏は30歳前後だった。氏は20代半ばまでに高校の同級生と結婚している。つまり、彼が事件を起こしたのは結婚後ということになる。

 ちなみに高木氏の父親、故高木孝一氏は敦賀市議を2期、福井県議を4期務め、福井県議会議長を経て、1979年から95年まで敦賀市長を4期16年務めた、地元政界の“ドン”だった。事件があったのは、敦賀市長を務めていた時期だ。

 息子の毅氏は地元の敦賀高校を卒業した後、東京の青山学院大に進学。卒業後は敦賀に戻り、父親が設立した会社「高木商事」で働いていた。晴れて国会議員になるのは、事件を起こした十数年後のことである。

 被害者の妹が話を続ける。

当時、姉は(金融関係の)窓口業務をしとった。そこに高木さんは客として来て、姉は一方的に気に入られとった。だから、やったのが高木さんと分かると、姉は“いややわー。家まで来とったんやー”と言っていました」

 さらに、高木氏の、家への侵入方法が実に悪質で、

合鍵を勝手に作っとったんです。田舎やから、無防備に小屋にカギ置いといたりするでしょ。それをいつの間にか持っていって、自分のカギを作っとったみたい。それにしても、どうして勝手に家に上がり込んだりするのか。急に家の人が帰ってきたら、とか思わんかったんかな……」(同)

 

父親の市長が頭を下げてきた…

 無論、高木氏の行為が犯罪であることは言うまでもないが、少なくともこの件は「立件」されていない。

姉が“騒がんといてくれ。勤め先にも迷惑かけたくない”って。父は“(高木氏の父親の)市長も頭下げてきた”“敦賀でお世話になっとるし”と言ってて、それで、示談っていうか……。それにしてもあんな人が大臣にまでなって、不思議やなーと思います」(同)

 これら一連の経緯について高木氏に取材を申し込んだが、締め切りまでに回答は寄せられなかった――。

「高木さんについては、政治家になって以来、ずっと“ある噂”が囁かれ続けてきた。それは、“高木さんは過去に女性の下着を盗んだことがある”という噂で、彼の地元・敦賀や彼の周辺では知らぬ者がいないほど有名な話だったのです」

 と、永田町関係者。

「その高木さんが大臣になったものだから、まず、噂を知っている関係者が騒ぎ出した。“高木といえばパンツだぞ。大丈夫か?”とか、“下着ドロボーを大臣にするとは、官邸の身体検査はどうなっているんだ”と。で、内閣改造後、噂は爆発的に永田町じゅうに広まり、“高木=パンツ”という奇妙な図式が定着してしまったのです」

 もっとも、永田町じゅうで囁き声が聞かれたその時点では真偽不明の噂話に過ぎず、過去、誰もその噂話の“ウラ取り”をきっちり行った者はいない。あるいは、真偽を確かめようとして失敗してきた。

 そこで以下、噂話の出所を探り、真偽を突き止めるまでの経緯に沿って、「下着ドロボー情報」の詳細をご紹介していきたい。

 

地元ですっかり定着した噂

「下着泥棒」常習犯の『高木毅』を福井県第三区の公認候補者に!! 〉

 そんな大きな文字が横書きされた怪文書が手元にある。〈発行元〉は、〈良識ある政治家を育てる会〉となっている。

「高木さんは選挙のたびに下着泥棒について触れた怪文書を撒かれている」

 と、先の永田町関係者が耳打ちするので地元・敦賀で探してみたところ、さほどの苦労もなく入手できた怪文書は、1996年の衆院選の際に撒かれたもので、次のような記述が並ぶ。

“女性下着泥棒常習犯”『高木毅』がなぜ自民党公認候補者になれたか?

敦賀市長の息子が“女性下着泥棒の現行犯”をして、敦賀警察署へ連行され、事情聴取されたとの事実は、忽ち敦賀市民全体へ拡がってしまい、この度立候補した際にも、その事実が一部の敦賀市民の間で再び囁かれています〉

 96年の選挙ではこの怪文書の影響もあってか、あえなく落選。しかし、高木氏は2000年の選挙でめでたく初当選し、以来、2017年の選挙まで7回連続当選を果たしている。

 

〈敦賀の恥さらし〉

 2012年にはそんなタイトルが付いた怪文書が出回ったが、そこにもやはり次のような記述がある。

〈高木氏はかつて勉強が苦手で逃避しパンツ窃盗歴があり、(中略)話題に事欠かないことは皆様よくご存じのことと思います〉

 初めて選挙に挑んだ96年からこの時点ですでに16年が経過。高木氏の〈パンツ窃盗歴〉が、皆様よくご存じのこととして処理されているのは、地元でその噂がすっかり定着した証左なのかもしれない。

 

父親の銅像の頭に…

「2000年の選挙の時、私はヘンなものを見てしまったんです。敦賀気比高校の前に高木の父親、高木孝一の銅像があるのですが、選挙期間中のある日、警察から“高木孝一さんの銅像の頭に女性もののパンツが被せられている。見に来てもらえないか”という連絡があったのです。私は当時、あのあたりの防犯責任者をやっていたものですから」

 そう振り返るのは、さる敦賀市政関係者である。

「行ってみると、確かに女性もののパンツが……。銅像の顔のメガネの部分を覆うように被せられていたはず。銅像は台座を含めるとかなりの高さで、頭にパンツを被せるには脚立かハシゴが必要。昼間は周辺に生徒がいますから、おそらく夜間の犯行ですわ。警察の人は苦笑いしながら頭からパンツを外していました」

 何ともタチの悪い悪戯という他ないが、一体、いつからこんなバカげた事態が続いているのか。

「確か、初めて怪文書が出たのは高木さんの父親、孝一さんの95年の市長選の時だったと思います“高木市長の息子はパンツ泥棒だ”という内容でしたね」

 と、地元政界関係者。

「結局、この選挙で孝一さんは落選し、その後、地元では息子の毅さんを国会議員にしようという動きがスタートした。そして、彼の選挙があるたびにパンツ泥棒の噂が語られてきたというわけなのです」

 

先生の対抗勢力か何かがデマを

 おかげで、今や地元では、

高木がパンツ泥棒だという話は、敦賀市民ならほとんどの人が知っています」(敦賀市議)

 とまで言われるようになったのだが、それについて高木氏の事務所の関係者は、

「パンツ泥棒? 高木先生がそんなことをするわけないでしょう。それが本当なら大臣になんてなれないし、当選だって難しいですよ」

 と、一笑に付すのだ。

「高木先生は、あの民主党への政権交代時の選挙でもしっかり選挙区で議席を取ってきたんです。まともな人はこんな噂を本気にはしていません。先生も奥さんも、怪文書が回っても“またかー”と笑って相手にしていない。先生の対抗勢力か何かがデマを流し続けているだけなのです」

 当然、高木氏に近ければ近いほど噂を否定する声は大きくなり、遠いほど噂を肯定する声が大きくなる。そんな状況下で過去、噂の真偽に肉薄する記事を掲載した雑誌がある。地元で発行されている『財界北陸』だ。

「高木の“パンツ泥棒疑惑”について記事にしたのは、確か、96年の選挙の時だった。その頃すでに高木にはパンツ泥棒という噂がつきまとっていて、私の耳にも入ってきた。そこで、私は元々知り合いだった福井県警の警部補に、その噂が事実なのかどうか確認してみたんです」

 そう述懐するのは、件の記事を担当した『財界北陸』の記者である。

 

侵入する前に白い手袋まで

「すると、警部補は敦賀署が高木毅を、下着の窃盗と住居侵入の疑いで取り調べたのは事実犯行現場は敦賀市内。その後、事情は分からないが検挙には至らなかった、とほとんどの事実関係を認めた。当時、事件の詳しい内容や被害者については聞かなかった。記事を載せた後も高木サイドからは抗議がなかったので、事実関係を半ば認めたもの、と理解しました」(前出・『財界北陸』の記者

 取り調べの事実を明かしたその警部補はすでに他界しているという。

 となれば、被害者に辿りつく術は噂の出所を丹念に追うしかないのだが、その作業の末、行き着いたのが事件の目撃者だ。その目撃者こそ、冒頭で触れた被害者家族に高木氏の車のナンバーを伝えた。近所のおばさん、である。

「自宅の2階で洋裁しとったら、近くに車が停まったんや。で、1階におりてきて車のナンバー見て、また2階に戻ってアイロン台に鉛筆でそのナンバーを書き留めておいたんや。なんでそんなことしたかというと、車から降りた人がご近所の家に入っていったからやけど、車降りる前、その人、白い手袋出したんや、車の中で。ほんで、白い手袋してから出た」

 侵入する前に手袋までするとは何とも用意周到で、初めての犯行とはとても思えないが、実際、被害者の妹(前出)はこう明かす。

ウチだけじゃなく他のとこでもやっとったって聞きました。もちろん警察も知ってて、またかって……」

 

“息子のことを悪く書かないでくれ”

 最後に、一体なぜ、下着泥棒の前歴がある高木氏が過去7回も当選を重ね、大臣にまで上り詰めることができたのかについて触れておこう。それは先に触れた高木氏の父、高木孝一氏の存在が大きい

 そもそも高木氏が下着泥棒を働くも事件化を免れたのは、敦賀市長で地元政界の“ドン”だった父・孝一氏が被害者家族に頭を下げて謝罪したからだが、「高木氏が国会議員になれたのも、もちろん父親のおかげです。嶺南地区と呼ばれる高木氏の地元は原発と建設会社の街で、その両方を押さえれば選挙では安泰。孝一氏はこの地区の選挙で勝つ術を知り尽くした男でした」

 と、先の地元政界関係者は語る。

高木氏は大学卒業後、孝一氏が設立した『高木商事』の社長をやっていた、ただのドラ息子で、地方議員を経験することもなく、1996年、いきなり国政選挙に挑戦した。この選挙では善戦の末落選しましたが、4年後の選挙で見事に当選を果たしたのです」

 96年と2000年、いずれの選挙でも「下着泥棒」について触れた怪文書がばら撒かれたが、その裏で孝一氏は“火消し”のため、涙ぐましい努力をしていた。

福井県では、小さなミニコミ新聞や雑誌が何十種類も発行されている。孝一氏はそういうところを回り、“息子のことを悪く書かないでくれ”と頼んでいた。お金も相当使ったのではないでしょうか」(同)

 ある地元雑誌の発行人もこう話す。

「08年の選挙の前、孝一さんが私を訪ねてきた。で、“息子がパンツ泥棒をやったという噂を流しているヤツがいるが、そういう噂が記事にならないように頼むよ”と言われました」

 来る総選挙は11月7日の投開票が予定される。国対委員長となった高木氏のパンツ泥棒の過去が蒸し返されるのだろうか。

 ***

 下記2本の関連記事では、高木氏が戦う福井2区の選挙情勢や“宿敵”山本拓氏と再婚妻・高市早苗氏との夫婦関係について詳報している。

【福井2区は「パンツ泥棒騒動のリターンマッチ」高木毅氏vs山本拓氏 勝敗の鍵は「高市早苗氏が再婚夫の応援に入るか否か」】

【高市早苗氏は福井2区から出馬の「再婚夫」の応援に入るのか「アイロンをかけていたら突然…」7年前に高市氏が語った「離婚を切り出された日のこと」】


国民が望むのは「インフレ脱却」「デフレ脱却」を違うと感じるのが世論の大半 

2024年10月16日 14時32分25秒 | 社会

コラム:曖昧すぎるデフレの定義、国民が望むのは「インフレ脱却」=唐鎌大輔氏

2024年10月16日 ロイター 唐鎌大輔(みずほ銀行チーフマーケット・エコノミスト)

 

[東京 15日] - 石破茂首相は自民党総裁選後の会見で「デフレからの完全脱却は首相就任後3年間で達成する」と述べたが、この発言に違和感を覚えた向きが多かったようだ。総選挙を控える状況で石破新政権への評価を下すのは尚早である。ただ、デフレ脱却を声高に叫ばれると、「それは違う」と感じるのが世論の大半だということも理解できる。

<国民が望むのは「インフレ脱却」>

というのも、国民が望むのは「デフレ脱却」ではなく恐らく「インフレ脱却」の方が近いからだ。政界全体で物価高対策が争点化し、実質賃金のプラス転化とその定着が希求される状況を踏まえれば、今の日本経済の足かせとなっているのは「上がる物価(インフレ)」であって「上がらない物価(デフレ)」ではない。

例えば、実質賃金の低迷は続いている。8月毎月勤労統計では実質賃金が前年同月比マイナス0.6%と3カ月ぶりのマイナスに転落した。6月分が2022年3月以来、実に2年3カ月ぶりにプラスとなったことが話題になり、7月分も増勢が維持されたが、この2カ月間は特別給与すなわち賞与による一時的な押し上げが反映された結果でもあった。8月も持続性を判断する上で重要な項目である「決まって支給する給与」が同プラス3.0%と32年4カ月ぶりの高い伸びを示したものの、持ち家の帰属家賃を除く消費者物価指数(CPI)が7月の同プラス3.2%から8月は同プラス3.5%へ加速する中、実質賃金がマイナスに押しやられている。円安・資源高発・輸入物価経由の一般物価上昇が家計部門の所得環境を損なっている状況は否めない。

<「デフレの定義」を整理する時>

では、「上がる物価(インフレ)」が問題視される現状を踏まえ政府がデフレ脱却宣言に踏み切れば良いのだろうか。それも簡単ではない。脱却宣言を受けた世論は恐らく「生活は苦しいままだ」と政権への反意を強める可能性がある。だからこそ岸田政権もデフレ脱却宣言への期待が一時期浮上しながらも、遂にそこへ至ることは無かった。デフレは、そこからの脱却を目標化することも、そこからの脱却を宣言することも世論が違和感を覚えるという難しい状況にある。

なぜ、このような状況になっているのか。ひとえに「デフレの定義」が曖昧なまま放置されているからだろう。何となく景気が冴えない状況を総称してデフレという言葉に集約しているため、あらゆる経済主体にとって使い勝手の良い言葉になりがちなのである。しかし、「デフレの定義」は経済主体にとって異なるように感じる。

1990年代後半以降、デフレとは政府・日銀にとっては「CPIの低迷」であったが、企業にとっては長年続く「円高・株安」であり、海外投資家にとってもやはり「円高・株安」であったように筆者は考えている。異次元緩和が起動する2013年以前、日本経済にとって慢性的な円高・株安が宿痾(しゅくあ)のように考えられていた。実際、過去に行われた日銀の追加緩和はそのほとんどが円高・株安への対処だったはずだ。そして慢性的な円高ゆえに輸入物価も抑制され、一般物価も上がりにくい状況があった(もちろん物価が上がらなかったのは円高のせいだけではない)。少なくとも約10年前まではデフレという言葉は多くの経済主体にとって最大公約数を捉える便利なフレーズであった。

特に「CPIの低迷」という表層的な状況の解決に傾倒したのが政府・日銀が総力を挙げた「アベノミクス」であり、象徴的には黒田東彦体制下での異次元緩和であった。その余波で継続される金融緩和路線とこれを一因とする円安、さらに資源高の影響も相まって「CPIの低迷」という表層的な状況は現状では解消されているし、円安を起爆剤として株高も実現している。現状、「CPIの低迷」や「円高・株安」という意味でのデフレに関し、脱却は完了済みと言っても差し支えないだろう。

<国民にとってのデフレとは「実質賃金の低迷」>

しかし、家計部門(国民)においては「こんなはずではなかった」という感情が強いだろう。それは家計部門にとってのデフレとは「実質賃金の低迷」だったからではないかと思う。日銀の「生活意識に関するアンケート調査(24年9月分)」では「物価に関する受け止め」に関し83.6%が「どちらかと言えば、困ったことだ」と回答している。そもそもデフレという現象に対し、政府・日銀と家計では問題意識の置きどころが同じではない物価に関し、前者は上がって欲しいが後者は上がって欲しくないという認識相違がある。

日本の家計部門は長年、名目・実質双方のベースで上がらない賃金を強いられてきた。「慢性的な不況」と「実質賃金の低迷」がデフレという便利なフレーズに押し込められ「デフレを脱却しなければならない」という価値観が家計部門に強く根付いているように思う。その認識でも最近までは大きな問題にならなかったが、インフレが定着したことで家計部門とそれ以外の間で「デフレの定義」の差異が浮き彫りになってきているのが現状に見受けられる。

<「デフレ」の使用に終止符を>

今回、石破首相が口にしたデフレ脱却は、本来的に政府・日銀が念頭に置いていた「CPIの低迷」という意味ではなく、おそらく家計部門が抱いている「実質賃金の低迷」という意味で使ったのだろう。しかし、多くの国民にはその真意が伝わっていないかもしれない。額面通り受け止めれば、物価上昇を望む政治からの情報発信のように見えかねないため、石破首相がデフレ脱却を強調するほど家計部門は「何もわかっていない」という反感を覚えてしまう(国民はデフレという言葉をそこまで深く考えていないとも言える)。

今後、政府は「CPIの低迷」という意味でのデフレはもう終わったということを説明した上で、デフレという言葉から少しずつフェードアウトし、その使用に終止符を打つ必要があるのではないか。政治的な痛みを覚悟で一気呵成(かせい)にデフレ脱却宣言をしても良いかもしれない。案外、物価高で困っている今ならば納得感を得られる可能性もある。その上で本当の問題はインフレ脱却、これに伴う「実質賃金の低迷」の解消であることを強調すれば良いだろう。

何らかの形でデフレというフレーズに対する意識変革を起こさなければ、多くの国民が小さくない違和感を抱きながら、政治のデフレ脱却論議に付き合わされる状況が続くことになる。「実質賃金の低迷」の遠因となっている円安およびこれとセットと考えられている円金利の長期低迷に終止符を打つことが、実体経済が復調するための迂遠な道に見えて王道に思える。

<円安と金利上昇の二者択一>

誰がリーダーになろうと円安か金利上昇のいずれかは受け入れる必要がある。為替を制御するのが難しい以上、緩やかな金利上昇を甘受した上で円安抑制を図るしかあるまい。もちろん、日銀の連続利上げが難しいことは理解できる。ただ、わざわざ政治的にその運営をけん制するような所作は不必要な円安を招くリスクがあるため、控えた方が良い。この点、石破首相は12日の自民党党首討論会で「政府が何を言ったとしても、日銀は日銀として独自の判断がある」と述べており、恐らく正しい問題意識を備えているように思えた。

円安は「実質賃金の低迷」を助長するのだから家計部門はそれを良く思わないし、最終的には時の政権への批判として返ってくる可能性が高い。現状、日銀は内外金融情勢を見極めながら正常化に動こうとしている。積極的に利上げを応援する必要はないが、政治からノイズを増やしてその見極めを難しくする必要もない。

編集:宗えりか

(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)

唐鎌大輔氏は、みずほ銀行のチーフマーケット・エコノミスト。2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本貿易振興機構(ジェトロ)入構。06年から日本経済研究センター、07年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向。2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。著書に「欧州リスク:日本化・円化・日銀化」(東洋経済新報社、2014年7月) 、「ECB 欧州中央銀行:組織、戦略から銀行監督まで」(東洋経済新報社、2017年11月)。新聞・TVなどメディア出演多数。


山形県天童市 天童織田の里歴史館・旧東村山郡役所資料館 建勲神社 舞鶴山山頂広場

2024年10月16日 09時21分37秒 | 山形県

天童織田の里歴史館・旧東村山郡役所資料館。山形県天童市五日町。

2024年9月8日(日)。

舞鶴山にそびえる白亜の三層楼閣「旧東村山郡役所」は、明治新政府の郡制の発足により、織田二万石の城下町であった天童の地に創建されたもので、三層、白壁の斬新な洋風建築は人々に新時代の到来を告げた。

天童市の西郊にある西沼田遺跡公園を見学したあと、天童市街地へ向かい、15時30分ごろ天童織田の里歴史館・旧東村山郡役所資料館横の駐車場に着いた。残念ながら常設展示は撮影禁止であったが、企画展は撮影可能だった。

 

旧東村山郡役所は、1878(明治11)年に郡制が布かれたことに伴い、天童をはじめ98の村々が含まれる東村山郡の郡役所として創建されたもので、1879(明治12)年10月にこの場所に落成し、11月16日に開庁した。

旧東村山郡役所は3階に塔屋をもつ瓦葺漆喰白壁の木造一部2階建の3層楼で、擬洋風建築として明治初期の庁舎建築の姿を知る貴重な遺構である。

西面する正面に2階をバルコニーとする玄関ポーチが、中央外側に突出して取付いている。1階・2階とも寄棟造桟瓦葺で、玄関部分は、飾破風入母屋造桟瓦葺である。壁は内外とも漆喰塗壁、窓は上げ下げ窓である。

設計や施工は共に不詳であるが、2階にはベランダがあり、彫刻やステンドグラスなども特徴になっている。中央のベランダには八角柱や柱頭、唐草模様の膜板などがあり、素朴であるが独特の意匠になっている。

外壁は、白亜の漆喰塗りとなっており、板張りの外壁が多い当時の郡役所としては珍しいものである。

この建物は、1891年(明治14)9月の明治天皇東北巡幸の際には昼食の行在所として使用された。

明治35年(1902年)の暴風雨によって、塔屋が欠壊したため2階建に改造された。その後、郡農会、天童町役場、天童市役所、市立図書館など、時代に応じてその役割を務めた。

1972年(昭和47)山形県有形文化財に指定され、1985年(昭和60)解体復元工事が完了して3階建の創建当時の姿が蘇り、1986(昭和61)年に資料館として生まれ変わった

 

常設展示では、まず天童織田藩関係資料を展示している。本能寺の変で非業の死を遂げた織田信長の宗家を継いだ次男信雄 (のぶかつ)の四男信良が上野国(群馬県)甘楽郡に小幡織田藩を継ぎ、上野国甘楽郡などを150年間支配した。その後、信浮(のぶちか)が藩主のとき、明和事件に関与して出羽高畠に移封された。領地の大部分が村山郡内となったため、文政11年(1828年)に幕府から拠点を高畠から天童に移す許しを得た織田信美(のぶかず)は、天保元年(1830年)に天童に移って天童藩を立藩した。2万石の小藩で財政難に悩まされていたため、家臣の俸禄借り上げ、厳しい倹約令を施行し、当時流行していた将棋の駒を武士達に作ることを推奨し、将棋の町・天童市の基礎を作った

 

東北最初の写真館を開設した『菊地新学』の作品や当時の写真機などを展示し、初代県令三島通庸の命を受け、御用写真師として活躍した足跡を展示している。

企画展『寺津手人形芝居の世界 ―受け継がれる伝統芸能―』2024年7月13日〜9月16日。

寺津(てらづ)地域で誕生した寺津手人形芝居は、江戸末期に上方方面から最上川舟運の重要な河岸であった天童市寺津地域に伝えられ、明治の中頃に、仲島喜五郎が養祖父以来伝わる人形遣いを父忠次郎とともに仲島人形芝居の一座として結成して巡回興業を行い、当時、数少ない庶民の娯楽の1つであった。その後、映画などの普及に伴い、次第に見物する人が少なくなり、昭和31年頃には一度途絶えたものの、昭和49年に寺津手人形保存会が結成され、再び公演が行われた。

現在、寺津手人形芝居は市指定無形民俗文化財に指定されており、関係資料と共に大切に受け継がれている。また、寺津小学校の児童のが、寺津手人形芝居について、総合的な学習の時間における継続した学びにより、令和3年度「郷土Yamagataふるさと探究コンテスト」において「最優秀賞(ふるさと探究大賞)」を受賞した。

寺津は、古くから最上川舟運の重要な港として大石田と競って発展した港町で、江戸時代の享保8年(1723年)以降は幕府の公認河岸(かし)として発展した。紅花の交易などの重要拠点として、天童だけではなく山形県の歴史に登場する。農村地帯でありながら港町や宿場町の姿ももっていた。

建勲神社。天童市天童字城山。

舞鶴山中腹西面にある。建勲神社は、織田信長を主祭神とする。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつである。正しくは「たけいさおじんじゃ」と読むが、一般には「けんくんじんじゃ」とよばれる。

天童織田家は、織田信長の次男・信雄の子孫で、信雄の四男・信良を祖とする。子孫は上野国小幡藩から出羽国高畠藩と渡ったのち、天童に陣屋を移した。

当初は天童藩知藩事の織田信敏が東京の私邸内に「織田社」と称して祀っていたが、明治2年(1869年)11月8日に神祇官より「健織田社」(たけしおりたのやしろ)という神号が下賜された。この健織田社を明治3年(1870年)9月13日に天童市の城山(舞鶴山)山頂へ分祀したのが、建勲神社の起源である。

同年(1870年)10月17日、健織田社は太政官の通知により「建勲社」へと改称し、太平洋戦争終結までこの名称は使われた。

明治17年(1884年)に現在地に遷座した。これは当初建てられた舞鶴山山頂の社への道のりが急で転落事故が起きるなど不便があったためで、平坦な舞鶴山山腹が選ばれた。

建勲神社を称する神社は当社を含め3社あり、同じく織田信長を祀る。建勲神社(京都市)は、当社同様、織田信敏により京都船岡山に祀られた。建勲神社(兵庫県丹波市)は、柏原藩織田家により創建された。

芭蕉句碑「原中や ものにもつかず 啼く雲雀 芭蕉」。建勲神社境内。

貞享四(1687)年、芭蕉四十四歳の時の句。

舞鶴山(まいづるやま)山頂展望広場。天童市天童字城山。

標高242.1m。天童市街地の南東に位置し、山の西側をJR奥羽本線(山形新幹線)、東側を国道13号山形バイパスが南北に通る。一帯は天童城址であり、天童公園の一部となっている。山頂の展望広場からは、月山や朝日連峰、最上川などが一望できる。

また、舞鶴山は桜の名所としても知られ、4月中旬の土・日にはおよそ2,000本の桜の下で、天童桜まつり「人間将棋」が開催される。広場の横に広大な駐車場がある。

 

このあと、天童温泉「はな駒荘」で入浴。250円。その後、道の駅「むらやま」へ向かった。

山形県天童市 古墳時代の農村遺跡 西沼田遺跡 西沼田遺跡公園