森町の通称で「せきの地蔵さん」
といわれている地蔵を見学しました。
そしてここには昔から高齢者が座って
「地蔵端会議」をしていましたね。
そしてなんとdoironの父親も
朝の散歩のときに、ここを利用しています。
ある時、道で転倒してここで
休憩していたことがあります。
小さな傷ですが、頭なので
大量の血を流していて、
見かけた村の人が助けて
くれはったことがあるのです。
帰って来た時はもう仰天びっくりでした。
どっきりカメラかと思ったほどです。
幸い傷は地蔵さんのおかげか深くなくて、
医者で消毒され絆創膏を
張られただけですぐに治りましたけど、
それ以来父親の朝の散歩は
超心配なひとときだったですね。
でも一律にやめろというのも
かわいそうだから、
慎重に慎重にと言って聞かせておりました。
そんな事件もあった地蔵なんです。
母の足、父の散歩とdoiron家でも
いろいろとお世話になった地蔵です。
この地蔵の休憩所の裏には、
小さな川が流れています。
ほかににあまりない
水生植物なんかも結構生えています。
川幅は2mくらいかな。
なんてことはない、
田舎の小川なんですが、
これがねえとても重要な川なんです。
水源はなんと和泉の光明池で、
最近は日にち、時間が定められて
水が送られてきているようです。
今もわずかに残る田んぼや畑は、
ここから水を採取して耕しています。
それにこの川沿いも、
doiron達の通学路のひとつで、
子どもの頃の記憶の中に、
川の横に草むらだらけの
この道が残っています。
さあこれでせきの地蔵は終わりです。
次の地蔵に向かいましょう。
今度はそこから100mくらい
歩いたところにある、小さな地蔵です。
今は一般家庭の敷地の一角にありますが、
民家のブロック塀に挟まれてますので、
ここにローソクを上げるのは抵抗ありますね。
こんなところに地蔵さんが
あったというのは、
記憶にはありません。
この辺りは昔は畑でした。
なので水がとても大切で、
今年も水が来ますように、
と祈っていたのかもしれません。
なのでつけられた名前が
「光明地蔵」なんです。
なぜこんな名前なのか詳しくはわかりませんが、
きっと光明池との関連が
あるのではないかと思っています。
水に感謝し、光明池に祈りを
ささげていたのかもしれません。
一瞬だけ立ち止まってそっと
手をあわせてお祈りだけをしていきました。
この町の中にはあと二つ地蔵が
ありますが、歩きのコース選択で、
ここから東隣の千原村の方に
移動してゆきます。
泉州の歴史に詳しい人なら
千原村と言えば「千原騒動」という
事件が浮かび上がってきます。
農業一揆で千原の庄屋が襲われた
という事件です。
とはいえこの騒動も1700年代の
出来事なので、今の地蔵には
直接かかわることはないのでしょうが、
まあそんな地域にdoironの歩きは
向かってゆきます。
森町のだんじり小屋と
集会所のある交差点を
東向いて曲がってゆきます。
ああ、この辺の高齢介護施設は
取材しましたねえ。
そして千原のだんじり小屋の
ある通りに出ると、
その道を北上してゆきます。
この辺りは小学校からの同級生が
たくさんいますねえ。
そんな中を、地蔵さんマップを
持ちながらうろうろするのは
ちょっと緊張します。
やがて前方の東側に、
地蔵堂が見えてきます。
これが千原町の子安地蔵尊です。
この辺の村はいつも村はずれに
地蔵を作ることが多いのですが、
この子安地蔵尊は全くの
村の中心地にあります。
前には観音堂もありますから、
かなり存在位置はこの辺では
特殊な地蔵なのかもしれません。
続く