つづき。
私は宗教についてなんの専門知識も無いのだけれど、以前から考えていることがある。
宗教の存在意義って、死に対する恐れを緩和することにあるのではないかと。
存在意義というか、起源と言ってもいい。
もちろんなんの根拠もない。素人の妄想だ。
人が自分自身を「いつか死ぬ」存在だと認識した時、途轍もない恐怖と不安を感じるのは自然なことだと思う。
そして、その耐え難き感情を少しでも緩和する理屈(根拠)として、形而上の存在であったり心の安寧をもたらしてくれる教えであったり、そのようなものにすがるのはおかしい事ではない。
元来宗教や神について極めて懐疑的だった自分も、そういう意味での宗教の意義を否定はしない。
死が怖いのは自然な感情。だよね?
斯く云う私も、たまに思うことはあった。
たとえば大病を患い、余命◯ヶ月という宣告を受けたとして(宣告を受けなくても薄々理解したとして)、自分は平常心でいられるだろうか。
それは難しいだろう。
絶望の淵に投げ込まれたような気持ちになり、許されるなら(許されないだろうけど)酒に溺れたくなるのだろう。
ああ、嫌だな。死ぬということは。死を自分にとって現実的なものとして認識することは、と。
このたび、母が亡くなった。
その「死に様」なのだが、健康上の不安は何もなく元気そのもので過ごしていたのに、突如頭部の痛みを感じ、さほど時を置かず意識を失い、そのまま7時間程あとに亡くなった。
その間、苦しそうに唸ることもあったが、意識があったのかどうか。
たぶんなかったのだとも思う。
問いかけに対する反応はなかった。
これは私の勝手な推測なのだが、さほど苦しむことなく逝ったのではないかと思っている。希望的感情込みで。
つまり、私が恐れるところの死への恐怖に母親ほ苛まれる事は無かったのではないか。
身体的苦痛を感じたことはあっても、自分が死に向かっているという長期戦の不安とは無縁だったのではないか。
そうであれば、敢えて言うが私が思うところの理想的死に様なのではないか。
そして、私は思う。
私は死に対して不安と恐怖を抱いている。抱いていた。
しかし今は考える。
霊魂やあの世などという概念には相変わらず懐疑的なはずなのに、自分が死んだとしてもその先で母親に再会できるのなら悪くないな。
そう考えると、実は死ぬことはあまり怖くない。
これは正直な気持ち。
むしろ、母親にまた会えるならそれ(自分が死ぬこと)も悪くないとさえ思う。
我ながら矛盾しているな、と思う。
死後の世界を疑うのに、死後の世界に希望を抱いているのだから。
これが、宗教というものの原型なのかな。
死んでも大丈夫。こんな救いあんな救いがある。
それが、私の場合母親との再会。
ああ、これこそが。何かを信じ何かにすがる気持ちなのか。
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