一青窈さんはいつも、一曲歌い終えるたび深々と一礼をする。
民主党永田議員が記者会見で見せたやたら深く長いお辞儀に匹敵。
いや実は、その真剣さと心の入り方において、
かの阿呆議員など足元にも及ばない(ていうか当たり前だ)。
そして窈さんは、これも一曲一曲丁寧に
「ありがとうございました。」と小声で添える。必ず。
先日のステージでも当然それを間近に生で観ることができた。
テレビの歌番組なんかでは、
歌い終わった窈さんのアップをカメラが抜いたはずが、そこには誰も映っていず、
一呼吸おいてから、頭を下げていた窈さんが画面下方から姿を現す、
という変てこなシーンも、一度や二度ではない。
でもこれは、誰かが責められるべきだとしたら、窈さんが悪いのではなく、
そんな一青さんの作法を理解していないカメラワークに問題があるのだ。と断言。
ほかの歌い手がこんなに一曲ごとに感謝の意を示してるのか、
自分にはわからない。
たぶん、窈さんほどの人はまずいないだろう。
演歌あたりにはいてもおかしくないが。
兎に角、これが一青さんなりの「アリガ十々」な気持ちの表現。
初めの頃は違和感もあったけど。
愚直なまでの感情表出、ということで。
以下、読んで不快に思う人もいるかもしれないので伏字。
ファンの間ではもはや過去の話だと思うので、蒸し返すのも少々気が引けるが、
だいぶ以前に一青さんの性格に関するよからぬ話が出回った。
いまだにそれらしき検索ワードでここのブログを訪れる人さえいる。
自分はあの手の話をまともに信じるほどナイーヴではないし、
逆に、全く根拠なき話と断言するほど盲目的でもない。
どっちかというと事の真偽に関心はなく、「ふーん、それで?」というか。
別に強がっているわけではない。
一青さんが現に自分に感銘を与え続けているという事実だけで十分。
誤解を恐れず言えば、性格など二の次三の次。あ、誤解しないで。
一青さんの例の「お辞儀」が、かの「風評」に対する反証になるとも思わないが、
LIVEでCDでDVDで我々の前に現れる一青窈さんこそが、
自分にとっての一青窈さんの「すべて」であり、それ以下でもそれ以上でもない。のかな。
インタビューの受け答えとかMCを見聞きしても、
決して小器用なひとではない、と思う(しつれい)。
だからこそ、彼女の「想い」が、普通の話し言葉ではなく
あの小さな身体を通して圧倒的な歌声に乗せられたとき、
自分はただただそれを受け止める「耳」と化するほかはない、のです。
あ、一青さんカテゴリー99話目だった。気づいてみたら。
キリ番ゲットにカウントダウン。
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やはり、なんと言っても「唄い手」と「聴き手」の間には厳然たる谷間があり、唄い手の投げかける言葉の一部(か大部分)は谷間に消えてしまう。その原因は色々あると思いますが、カメラワーク然り、ゴシップ然り、盲目的肯定然り、なのかも知れませんね。
ゴシップを否定することは出来ない。でも彼女の唄に心動かされ、物理的にも動かされ、彼女のパフォーマンスを待ち望む自分は間違いなくリアルである訳で・・・。
操作された情報で心がかき乱されないよう、しっかり観て・聴いて行きたいです。
>彼女の唄に心動かされ、物理的にも動かされ、彼女のパフォーマンスを待ち望む自分は間違いなくリアルである訳で・・・。
そうなんですよね。全く同じ気持ちです。
そんな自分の一青窈さんに対する感応度だけが、
信頼できる唯一の事実。
誰にも邪魔されることは無いし、
自分が嫌になったら降りればよいだけ(ヤな言い方ですが)。
うまく言えませんが、頼るべきは結局自分の唯一無二の感性なんでしょう。
いつか実現しないかな
文章書くようには雄弁になれないのです(自慢)
でも、いつか皆さんとOFF会したいですね(淡い希望)