マーラー 没後100年の今日

2011年05月18日 22時16分45秒 | 巻九 マーラーが私に語ること
そんな今夜は何を聴こうかとあれこれ考えたが、
結局一番素直に、
(いまのところ)いちばんお気に入りの曲を
(イマノトコロ)いちばん溺愛する演奏で。
テンシュテットのライブ盤。

マーラー:交響曲第6番「悲劇的」
テンシュテット(クラウス)
EMIミュージックジャパン


「いまのところ」、とは、
つまり人間の嗜好や志向や思考など、
結局夢うつつの胡蝶の変転。久しからず流転する。
だから、「いまここ」で最も好きなあなたを聴く。

俺にとってのマーラー、
最初は大学1年くらいだったかと思う。
第一番(以下特に断りない限りすべて交響曲)に初めて触れ、
当時まだ吹奏楽少年の残滓を引きずっていた俺は
そのきやらかでドラマティックな曲想に虜になった。

交響曲を一通り聴いてみた。ショルティやバーンスタイン新録で。
第三番や第七番に特に惹かれた。
今にして思えば、両曲ともマーラーの中ではマニアックな位置づけにある。
別に自分としては奇をてらったわけではないのだが、
特殊な楽器の用法とか一種風変わりな構成とか、
もう理論や理屈抜きでハマってしまった。

第六番を心から愛するようになったのは5~6年前。
その頃は精神がどん底の状況で、
そんな中でテンシュテットの当該盤を
夜中泥酔しながら耳にたたき込み、
薬物的な効果を俺はそこから得た。
別に酔っていたからではない。
現に、酔いから醒めてもそのキモチは変わらなかったのだ。

この盤の魅力はブログでも散々書いてきた。
特にも第四楽章、例のハンマーの前の
超絶な盛り上がりと、タメと、
そしてまさに「破局」という言葉が大あたりな一撃。
「ドガシャーーン」という擬音がこれほどまでに最適なクラシック音楽があるだろうか。

忘れてならないのは第二楽章の乾いたシロフォン。
骸骨が踊っている! あたかもキチガイ舞踏のように!


もちろん、この音楽(演奏)の本質は
見かけのハッタリとさえ言われそうなそんな部位だけにあるのではない。

言えることは、
俺は絶対、死ぬまでこの音楽(ひいてはマーラー)のことなど
なにも判らぬままなのだろうという確信めいた予感だ。

絶望でもない、救済でもない。
そこに天上の暮らしがあるか?
煉獄の快楽がそこにあるか?
たぶん、俺は何も解ってはいないのだ。

だからこそ、わからぬからこそ、
俺は感じたいと思う。
尊き演奏を耳にするたびに、
彼岸の先からダイレクトに鼓膜に響く響きを。

何はともあれ、
こんな至上の(性的)快感を俺にもたらしてくれた
至高なる存在グスタフ=マーラーに感謝し、乾杯。
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