福岡の沖に壱岐島と対馬がある。対馬から韓国の釜山まで50Kmほどだ。
どちらも福岡県ではなく、長崎県に所属する。
この話しは2019年に対馬に行った時に観光地のバスガイドさんの話しを横から聞いていて知った。
調べてみるとその経過は複雑だ。
もともと壱岐と対馬は宗氏が治める対馬藩だったが明治維新の廃藩置県で飛び地の領地を持っている佐賀県に編入されいる。
その後、1874年(明治7年)に起きた江藤新平・島義勇らをリーダーとして不平士族が反乱した「佐賀の乱」の懲罰的な意味合いで1876年に佐賀県は長崎県に組み込まれて無くなった。「お家取り潰し」といったところか。
因みに島義勇は佐賀藩主・鍋島直正とともに蝦夷地を視察し、後に鍋島直正は初代開拓使長官、島義勇は初代開拓判官として、札幌市の東西南北の道路で区切られた都市計画の骨格を作っている。両人とも人望があった。
中央政府は薩長で占められ、佐賀は北の辺境に回されていたことも〝反乱〟の伏線なのだろうか。
佐賀県は強力な運動を起こし、7年後の1883年(明治16年)についに復活したが壱岐、対馬はそのまま長崎県の所属のまま今日に至っている。
壱岐、対馬の人は県庁に用事がある場合は遠い長崎に行かなければならず、対馬の議会では近くて交通の便も良い福岡県に編入する運動も起こっているとバスガイドさんは話していた。
《壱岐で訪ねた場所》
壱岐島は人口26.000人、南北17Km、東西15Kmの小さな島だが、その存在は中国の歴史書「魏志倭人伝」にも、日本の「古事記」や「日本書記」にも記されているという。
巨石古墳や建立から千年を越す神社、小さく古い祠が数え切れないほど点在し、島そのものが古代日本の博物館と言われている。
自転車旅は郷の浦港から北上して北部の景勝地などを巡り、勝本町の国民宿舎に1泊して芦辺港から福岡に戻るという短いものだったが、機会があればゆっり回りたい島だ。
(つづく)