楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -9 (台湾最南端へ)

2022年03月13日 | 環島

 

2018年4月9

 

晴れ。5:40に墾丁の宿を出発、台湾島の最南端を目指す。前夜、煌々とした灯りで満ちていた周りは眠っている。

Googlマップを見ると「鵝鑾鼻灯塔」があるようだ。何と読むのだろうか。前日、道路脇にあった石標に赤く刻まれていた文字だ。

 

 

 

日が昇って明るくなった頃、自転車、徒歩で「環島」をしている地元のサイクリストに出会った。

直ぐに「環島(ファンダオ)?」と聞かれる。

頷くと、「加油(ジャヨウ!」と励まされ、「加油(ジャヨウ!」と応えて別れる。


お遍路さんのような人にも。後ろ姿を見送った。

 

台湾はサイクリングに力を入れていて、環島のための国道の専用レーン、鉄道車輌への積み込みスペース、駅ホームの昇降施設などの整備が進んでいる。

世界的な自転車フレームメーカーのGIANTがあり、欧米の有名ブランドの受注生産も盛んだ。

 

 

 

南端に近くなり、道路の無くなる地点に自転車を置いて歩いて行くと、気象レーダーがあったが、軍事施設らしきものは無かった。

 

 

 

さらに歩くと、いよいよこの先は崖となっている辺りに「鵝鑾鼻灯塔」が立っていた。領海を示す海図が掲示されていた。

 

 

《2018.4.9  6:10》

そして、その近くに「台湾最南端の碑」。

4月1日に台湾に来て、9日目に到着した。

 

 

静かな波の朝の海だった。

この先およそ900Kmはフイリッピンのマニラ市になる。太古の時代に小さな船で渡ってきた民族がいたと思うと、人間の行動力は実はとても大きいことを知る。

台湾から与那国島へも渡っている。

 

 

最南端を後にして、この日の宿の太平洋側の台東へ向けて走り出す。距離100km。

これが無謀だった。

 

台湾島は脊梁山脈が走っていて、北と南はどうしても越えなくてはならない。予想外の長く細い 山道が続き進まない。4月、冬の北海道から来たので足が出来ていない。

 

途中、昼食を摂る所もなく、へとへとで 午後3時頃にやっと山の中で原住民(アミ族か)が 経営する食事処に辿り着いた。

炒めご飯と野菜炒めを 注文し、「近くに宿はありませんか。」と 若い娘さんに聞くと、英語で「この先3Kmくらいにゲストハウスがある。高いよ。1,600TWD(8,000円)」とのこと。

 

 

値段は高いけどやれやれ、落ち着いて食べ始めると二人の台湾人の環島チャリダーが やって来た。「一緒に台東まで行こう。2時間だ。」と言う。

有り難いけれど、あちらはスピードの出るロードレーサー、こちら10Kgの荷物を付けたマウンテンバイク。2倍の4時間は掛かる。

到着が遅くなって迷惑がかるからと遠慮すると、そのゲストハウスまでこちらのペースに合わせて案内してくれると言う。

自分たちの予定もあるのに。。。また、台湾の人の優しさに触れた。

 

16:00頃に店を出発。ところが、3Kmくらい先と娘さんが言っていたゲストハウスは山道を行けども行けども見当たらない。

(つづく)

 

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -8 (墾丁国家公園へ)

2022年03月11日 | 環島

 

  

2018年4月8

台湾島南部の墾丁国家公園へ。快晴。距離は90Km。

 

 

「環島1号線」をひたすら南下する。右側通行、二輪車専用レーンが広い!

台湾島は時計の逆回りが海が見えて、追い風になりやすい。

 

 

 

さすがに亜熱帯、実の付いた椰子の木が目に付く。道路にまで・・・。〝台湾バナナ〟がなっているところは見かけなかった。

 

 

 

椰子の実ジュースで喉を潤す。ほんのり甘く、思ったより量が多くてコップ2杯くらいあったのではないか。

直売コーナーの上段のピーマンのような形をしているのは蓮霧(リェンウー)。台湾のポピュラーな果物でリンゴと梨を足したような歯触りのサッパリした味がする。

下段は 芒果(マンゴー)。

 

 

 

台湾海峡を眺めて。暫くぶりのコーヒーが美味しかった。

 

 

石碑を見て、墾丁国家公園地区が近いらしいことを知りホッとする。

 

 

 

16:00 墾丁公園地区に到着。中心街のセブン・イレブンの階上にあるホテルを取って、夜市へ。世界各地からの観光客らしき人々で賑わっていた。

台湾は夜市が多く、日本のお祭り屋台のようだ。灯りが暖かい。

 

 

ずっと屋台で香辛料の効いた台湾料理だったので、この日はレストランで暫くぶりに御飯、鶏の揚げもの、野菜のお浸し、ワカメの味噌汁の和食でホッコリした。

 


イギリス人向けのホテル?

いよいよ台湾島南端へ。

(つづく)

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -7 (高雄へ)

2022年03月10日 | 環島

2月24日に始まったプーチンのウクライナ侵略戦争が、中国の力による台湾の現状変更を誘発するのではないかとの懸念がメディアなどで囁かれている。

台湾の人達のあの優しい国民性と笑顔が失われることが起きないことを願うばかりだが、台湾有事となれば日本もアメリカに引きづられて巻き込まれる。

後ろからついて行くだけの日本外交で大丈夫なのだろうかと心配になる。

 

東工大の中島岳志教授は、〝「保守」とは単に「革新」の対義語ではなく、人は愚かであることを自覚するという深い考えに立った姿勢である〟と言う。

この機会にとばかりに憲法改正だ、敵基地攻撃だ、核の共有だ、と騒いでいる元総理大臣らがいる。

今更ながら愚か者であるとの思いを強くする。唯一の被爆国の政治家として恥ずかしい限りだ。

 

ウクライナの一日も早い事態好転を願いながら環島(台湾一周)の続きを綴る。

 

 

2018年4月7

 

台湾島の大陸側は古い建物の街が連なる。台南市に来て近代的な高層建築の街並みを見た。

郊外は水田、畑が広がっている。

台湾の農地開発には日本統治時代の総督府技師・八田與一が深く関わっていることを知った。戦争の犠牲となり、奥様が夫の設計した農業用ダムで後を追うという悲劇があった。

地元の人々は今も慰霊祭を営んでご労苦に感謝している。

(このことは後日再び台湾へ行った時のBlogで別途、綴った。)

 

 

 

台南市から高雄市に向かう国道沿いに、沼で採れる「菱の実」を売ってるおばちゃんがいた。嘉義の旅館のおばちゃんと同じく、日本統治時代に国民学校で習ったとかで日本語が分かった。

「大きな袋で買って行け。」と言うが自転車旅では無理。2~3個貰って食べた。子供の頃に食べた栗のほくほくした味がした。台湾でもおやつで食べるという。

 

 

 

高雄の近くになって、お祭りの行列に出会った。各家庭では日本の「お盆」を思わせる飾り付けの台を家の前に出して行列を出迎えていた。

 

快晴で30℃を超える熱さの中を50Kmほど走って昼前に高雄に着いた。台北に次ぐ人口190万人の大都市である。

〝東洋のベニス〟と言われる「愛河」を探したが見つからず、夕方になったので諦めてこの日の宿をBookingComアプリで捜すことにした。

 

カーナビで大凡の場所に近づいてから立派なホテルに飛び込んでフロントの女性に尋ねると、留学で京都にいたことがあるとのこと。日本語がペラペラで、丁寧に目的のツーリストホテルまでの道を教えてくれた。分かりにくい場所で助かった。

 

着いて先ずはサウナとプールのような大浴場で暫し開放感に浸った。

フロントのヨーロッパ系の若いお兄さんは玄関ドア解錠方法などの注意事項らしきことを話してくれたが、早くてサッパリ聞き取れず、暗くなってからホテルに入れなくなっも困るので、夕食は明るいうちに近くの屋台で餃子、ビールで簡単に済ませた。

 

この日のメモを見ると20:00就寝とある。日中、炎天下の下で「愛河」を捜したり、ホテルを捜したりで疲れていたのだろう。

高雄市内の写真が無いはずだ。笑

 

 

(つづく)


ウクライナ戦争の報道に思う -つづき - ホフマンの舟歌 

2022年03月06日 | 日記

前回のBlogの『ホフマンの舟歌』をアップしてみました。

この週末、ユーチューブから音源を取り出して、「MP3TUBE」でユーチューブアップ用の動画(静止画使用)を作成し、再度、ユーチューブにアップするという悪戦苦闘、試行錯誤をして何とか格好がつきました。笑

 

その時に、ユーチューブに国内オーケストラやメンバーによる『ウクライナ国歌(ウクライナは滅びず)』の演奏動画がいくつかアップされていることを知りました。

こうした連帯と平和希求の取り組みの輪が世界中に広がって、事態が一日も早く解決に向かって欲しいと思いました。

 

 

 東京ニューシティ管弦楽団   第146回定期演奏会にて (2022/03/05 東京芸術劇場/指揮 秋山和義)

 

 

 

 


ウクライナ戦争の報道に思う

2022年03月04日 | 日記

ロシアのウクライナへの侵略が始まって1週間が経った。

米国の情報機関では精神に異常を来しているのではないかとの見方があるプーチンの行動を止める国際社会の仕組みも知恵も残念ながら無いことだけが日々明らかになっている。

地下シェルターで遠くの大砲の音に怯える幼い子を「花火だよ」と抱きしめ、カメラに向かって「この子に戦争というものを知らせたくない」と語る父親の姿に胸が締め付けられた。

 

同じようなシーンのある映画があった。BGMに「ホフマンの舟歌」が流れていた記憶から調べると『ライフ・イズ・ビューティフル』(1998年 イタリア)だった。

奇想天外な喜劇仕立てだがナチスのホロコーストという深刻なテーマを扱っている。

強制収容所に一緒に連行された幼い息子にそこがどのような施設であるかを気づかれないように父親は機知に富んだ優しい嘘を言い続け、命を賭して子供への贈り物の約束を果たす姿が切ない。

 

ウクライナ戦争の報道は嘘ではなく正しくあって欲しいが、その姿勢が気になることがいくつかあった。

1週間が経ってさすがに少なくなったが、マスコミに登場する安全保障専門家や報道関係者の中に「プーチンさん」と呼ぶ人がいる。

「さん」は親しみと尊敬を込めた敬称であり、人道を踏みにじって隣国を侵略している独裁者の呼び方に全く相応しくない。「大統領」、「氏」ではないのか。

どのような神経をしているのだろうかと思いながら話を聴いていた。

 

「ウクライナ軍の善戦」という伝え方もどうだろう。「善い」戦争など無い。

祖国を守るために命を懸けて戦っている兵士と市民は犠牲者であり、頑張りを伝えるなら征服者に対する「抗戦」ではないのか。

プーチンの暴挙を止めるのは国際社会の世論しか無さそうだ。報道の役割は益々大きい。

 

『ライフ・イズ・ビューティフル』で父が息子に誕生日のプレゼントに約束していたのはおもちゃの戦車だった。

そのことを成長した息子が「命を賭したプレゼントだったのだ」と回想する。

 

この戦争はどのような知恵を残すのだろうか。

 

 

 

 

 


住宅街の排雪対策は重要課題

2022年03月01日 | 日記

 

2月20日から降り続いた雪がうず高く積まれた玄関前が昨夜やっと綺麗になった。

最近は予算不足で市の除雪回数が少なくなって、個々の世帯で業者に排雪作業を委託しているケースが多い。近所は全てそうなった。

1mを超える記録的な降雪、作業員不足、雪捨て場の確保などで予定の水曜日から1週間遅れの作業だった。

 

少人数の高齢化世帯が増えている。除雪に限らず作業の人手は慢性的に不足しているようだ。

元気な年寄りが近所の年寄りを手伝うようなことも始まっている。

 

これからも異常な降雪の冬が続くようだと基幹交通のみならず住宅街の除・排雪対策はライフラインの確保そのものだ。

自家用車を出せない、ゴミ収集車は入れない、灯油供給ローリーも入れない、緊急車両も・・・。

 

納税し、別途、排雪の経費をひと冬で3~4万円自己負担しているという現実に、市は寄りかかっているように感じる。

今回の豪雪を契機に根本的な見直しが必要だとつくづく感じた。

 

《2022.02.28 17:00頃》