去年のブログがメールで送られてきて、4月8日に庭の福寿草を鉢に植えて家の窓に飾っていた。
慌てて庭に行くと満開だ。
今年の冬は記録的な大雪が2度も降ったけれど、春はいつもどおりやって来ている。
そろそろ自転車にも乗れるかな・・・。
2022.4.10 9:30
2022.4.9 16:00
去年のブログがメールで送られてきて、4月8日に庭の福寿草を鉢に植えて家の窓に飾っていた。
慌てて庭に行くと満開だ。
今年の冬は記録的な大雪が2度も降ったけれど、春はいつもどおりやって来ている。
そろそろ自転車にも乗れるかな・・・。
2022.4.10 9:30
2022.4.9 16:00
かねて感じていたジャーナリズムの衰退を示すような出来事がウクライナ戦争報道の陰に隠れて起きていた。
安倍元・総理大臣の「顧問」を語って、朝日新聞社の峯村健司編集委員が知り合いの週間ダイヤモンドの記者に、元首相インタビュー記事のゲラの開示を要求し、4月13日付けで停職1ヶ月の処分を受けることになった。
峯村編集委員といえばTVのニュ-スワイド番組にちょくちょく顔を出していたが、これが原因か、ピタリと出なくなっていた。
本人が4月7日付けで経緯と朝日新聞社に対する抗議の文書をネットに投稿している。
この中で、「朝日新聞記者行動基準」における「特定個人や勢力のための取材・報道」「取材先と一体化すること」に抵触するという処分理由に反論しているが、他社の記事内容にチェックを入れようとすること自体が報道倫理として大問題ではないか。
これは権力をチェックする立場のジャーナリストが権力者に利用されて報道にチエックや圧力をかけた情けない前代未聞の行為だ。それも三大紙と言われる新聞社の編集委員が。
週間ダイヤモンドの記者は「何故取材のことを知っているのか」と疑問を呈し、「ゲラをチェックするのは編集権の侵害だ」と強く抗議し、開示しなかったとのことだが当然である。
峯村記者は昨年暮れに退職の意向を伝えており、4月20日付けで退職後は複数の大学でジャーナリズムの担い手となる若者を教育するいう。
何故、このような行動を取ったのか。本人は「ニュークリアシェアリング(核共有)について、重大な誤報記事が掲載されそうな事態を偶然に知り、それをくい止めるためだった。」と説明している。
しかも確信を持って堂々と。
週刊誌記者より知見を有していると本人が思っていたにせよ、優れた記者として第三者機関から表彰を受けている人物が何故、このような行動を取ったのか。
処分が発表される13日以降、朝日新聞を含めて報道機関は「他社のことだから」と遠ざけずに全体像を明らかにして欲しい。
政治家に取り入ってTVで得意げに政局ネタを披露するのとは次元の違う権力とジャーナリズムの癒着の深い闇を感じる出来事で恐ろしい気分だ。
朝日新聞は記者と東京高検検事長との常態化した〝麻雀事件〟があったばかりでなおのことである。
優しく親切な人々。お祭りの屋台のような夜市。エスニックな料理。
大陸側の古い街並みと太平洋側の岩と海。日焼けを2回繰り返した亜熱帯気候。
「環島」も終幕だ。
出会った人々は、中国が掲げる“国家統一”を望んでいなかったと思う。
軍事アナリストの小川和人氏は兵員の海上輸送という科学的根拠から「中国の侵攻はあり得ない」と断言している。
そうあって欲しい。
与那国島と台湾の距離はおよそ110Km、台湾海峡の有事は日本の有事になるのは間違いない。
自分は台湾の観光客にこれほど親切に応対してきたか、平和な台湾であるために日本のやる事は何か、
軍事力ではない。
隣国を思う心と悲劇の未然防止は外交しか無いことはウクライナ戦争が改めて示している。
2018年4月19日
いよいよ4月1日に始めた「環島(ファンダオ)」も帰国の途へ。
息子のいる福岡へ飛び、九響の年度初めの定期演奏会を聴くことにして20日の台湾のLCC(Tiger Air)のチケットを予約しておいた。
20日の飛行機が早朝なので今日は桃園国際空港泊まりだ。そして、、、ハプニングが。
4泊した台北のツーリストホテルの朝食。作ってくれた青年はパリの芸術専門学校の卒業生で、風貌も控えめな性格も日本人のようだった。お世話になり名残り惜しかった。
台北駅構内を自転車を押してMRT乗り場へ。改札口に親切な人がいて切符の自動販売機の使い方を教えてくれて、駅の係りの女性は乗り場ホームまで案内して下さった。最期の最後まで台湾の人の親切心に触れた。
自転車を輪行袋に入れて10:30に出発。
11:00に空港到着。出発ロビーの人通りの少ない場所の壁際に輪行袋とサイドバッグを置いて地下のレストラへ昼食に出かけた。
群馬のご夫婦と一緒になった。
台湾を鉄道とバスでほぼ一周したとか。やはり「千と千尋」の九蓮と渓谷の花蓮が印象深かったという。
久し振りの日本語会話で話しが弾んだ。笑
良い気分でお土産を選んだり、為替窓口に行ったりして2時間ほど経って出発ロビーに戻ってみると荷物が無い!!
盗まれたか、いや、あんな重たいものを誰も持って行かない。などといろいろ想像を巡らす。
兎に角、空港案所所に行った。ところが、日本語も英語も話せないという。そんなバカな。。。
途方に暮れていると、日本語の分かる人に電話を繋いでくれた。
「空港の地下に警察があるのでそこへ行ってみて下さい。」とのこと。
恐る恐る尋ねて警察官に話すと、「自転車はここにある。放置されたままなので不審物として保管している。」とのこと。
良かったぁ!
パスポートを見せ、中国語で何か書かれたA-4版の書類に「サインせよ。」と言うので恐る恐るサインをしたら荷物を渡しくれた。
確かに空港には多くの警察官、民間警備の人が巡回していた。やはり中国との緊張感が漂う。
これは夜も何かありそうと心配しながら到着ロビーのソファーで寝袋に潜った。
2018年4月20日
何事も無く朝を迎えた。
特に問題無く出国。
さようなら台湾!
搭乗待合室へ。早朝6:30発なので空港シヨップはまだ寝ている。
桃園国際空港。
定時に離陸。
眼下に台北の街が見える。機内食は予約制でチキンを頼んでおいた。ずっとワイルドなエスニック料理だったので上品な味がした。
空いていたので座席の肘掛けを立て、ひと眠りしていたら通路に飛び出していた足を蹴っとばされて??
目が醒めた。
体躯の良い女性客室乗務員だった。笑
福岡の能古島辺りのような感じがしたが・・・。高度が下がり、間もなくだ。
10:00福岡国際空港に着陸。3時間30分のフライトだった。
出迎えてくれるという福岡在住のFさんに電話すると、直ぐに現れた。Fさんは九州自転車旅で出会った82才の現役チャリダー。北海道にも来ている。
老舗の鯉料理屋さんに案内してくれて、カンパイした。安堵感がビールとともに身体に広がった。
台湾で出会った皆さん、有り難うございました。 お終い。
(実は、この夏にもう一度台湾へ行きました。ザックひとつで悲話の残る「八田ダム」を見に。いつか書きます。)
PS.ウクライナ戦争が2月24日に始まって41日目。
ロシア軍がキーウ周辺から撤退して、凶悪で凄惨な戦争犯罪が顕わになっている。
この戦争を指揮しているプーチンに、「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」
「ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」
と呼びかけて北方領土を消滅させたこの国の元リーダーのことも忘れない。
2018年4月18日
淡水河が台湾海峡の北部に注いでいる淡水地区にサイクリングした。夕陽の美しさが有名だ。
距離25Km。二日振りに自転車に乗った。
ところが“環島”が終わった気の緩みか?道に迷ってしまった。結局、途中でホテルに引き返して夕方にMRT(地下鉄のような乗り物)で出直した。
♫ この木なんの木 気になる木。。。
木陰で休んでホテルに引き返した。淡水河は台湾で3番目に長く、川幅もゆつたりと広かった。
夕方まで時間があるので台北市内を自転車散歩した。
台湾総督府。
警備は軍隊だろうか。建物玄関と植え込みの中にもマシンガンらしき銃を構えた数人がいた。
さすがに中国との緊張関係を感じた。
台湾鉄道の台北駅。ロビーには大勢の人が床に座って列車を待っていた。
《台北駅の傍の「三越」》
夕方になったので、MRTで淡水へ。30分くらいで着いた。
左;「淡水老街」 淡水河岸の土産物店と飲食店がぎっしり並ぶ観光名所。
中;「紅毛城」 17世紀にスペイン人が建て、その後オランダ人(紅毛)のものとなり、1980年に中華民国の所有になった。
下;大きな大学があた。学生と観光客で道路が溢れていた。(「真理大学」というらしい。)
大勢の人が見入っていた。曇空だったけれど何とかセーフだった。
ホテルに戻る途中、夜市で有名な士林で下車し、屋台で晩飯を食べた。
明日は入国時と同じく、桃園空港に1泊して早朝の便で福岡空港へ向けて帰国する。
台湾一周旅は4月1日の入国時に管理官に引き留められるというハプニングがあったが、出国時にもハプニングが・・・。
(つづく)
2023年度から高校の国語が変わるというニュース。
何でも「文学国語」と「論理国語」に分かれるのだという。
60年近く前の記憶を手繰ると現代国語と古文、漢文だった世代にしてみれば、そもそも古文と漢文の行く末を知る由も無いし、ましてや小説は「文学国語」、評論は「論理国語」に入るという二者択一的な分類にはついてゆけない。
教える先生も大変だろうし、教科書会社も基準が分かりづらくて混乱しているという。
日本の生徒の読解力の低下が背景にあるという。大学入試では国語ばかりでなく、数学も出題文が長くなるとそれを理解するのに時間が取られるらしい。
以前に大学の運営の仕事に少し関わっていた時に、「考える力」に力点を置いた大学入試制度の改革が叫ばれていた。
入試だけが先行して、後追いで現場の教育プログラムを変えるということか。
読解力の低下の原因はいろいろあるのだろうし、「論理国語」なるもので身に付くものでもないだろう。設問を動画にしたら・・・と冗談半分で思うくらい活字を取り巻く環境は変わっている。
これで思い出すのは、高校時代の国語の時間だ。中学の頃は「国語」は「国語」だけ。担当の担任の先生は、小説にしろ、評論にしろ、詩にしろ、理解と解釈にかなり自由度を持たせていたように思う。
とろが高校に行くとたまたまだったのかしれないが、「現代国語」の試験は授業中の先生の解釈がそのまま正解という暗記科目のような何とも型にはまった息苦しいもので、反発を覚えたものだった。
「文学国語」と「論理国語」の分化が、感性やものの考え方を画一的にし、指導要領に名を借りた恣意的な論理を忍び込ませることにならければよいがと思うニュースだ。
文科省が教育改革を言い出すとろくな事が無いというのが経験則である。
PS.政府は31日、ウクライナの首都の読み方をロシア語のキエフ(Kiev)からウクライナ語のキーウ(Kyiv)に変更すると発表した。
ロシアの作曲家ムソルグスキーが友人の死を悼んで作った組曲『展覧会の絵』の最後に登場する「キエフの大門」もこれからは「キーウの大門」か。
名前が変わっても音楽に国境は無い。
《セルジュ・チェリビダッケ(1912-1996 ルーマニア)指揮/ミュンヘン・フィルハーモニー交響楽団 1989》
チェリビダッケは第2次世界大戦後のドイツで、フルトヴェングラーの後任として名門ベルリン・フィルハーモニー交響楽団を率いた。
その演奏は、極端に遅いテンポと厳しい練習によって生み出される荘厳で聖なる建築物のような音楽を特徴としていたという。
首席指揮者を務めたミュンヘン・フィルとの『展覧会の絵』は名演奏のひとつとのこと。
キーウは綺麗な街のようだ。ウクライナが破壊され尽くされないことを祈るばかりだ。
2018年4月17日
「国立故宮博物院(1965年開館)」と「台湾原住民族博物館」を見学した。
台湾はMRT(地下鉄)が便利良く走っていて、「国立故宮博物院」は淡水線の「士林」駅からバスで10分ほどで到着した。
さらに3分ほど歩くと「台湾原住民族博物館」があった。
「国立故宮博物院」は、宋、元、明、清王朝の歴代宮廷が所有した至宝を中心に約69万点 が収蔵されている。ルーブル、メトロポリタン、エルミタージュと並んで 世界四大博物館の1つに数えられ、全てを見るには10年以上かかるとか。
「故宮」とは宮殿のことで、北京の「紫禁城」を指すとのこと。
何故、台湾にあるのか・・・、年月を掛けた歴史があった。
中国最後の清王朝が崩壊後、北京の「紫禁城」に保管されていた歴代王朝の宝物は、中華民国に継承されたが、その後、日本軍の中国侵略が激化すると、上海、南京の奥地に分散して隠された。
その後、第二次世界大戦終結後に当時の中華民国首都である南京に戻ったが、1949年に国共内戦で国民党政府が敗北し、率いていた蒋介石が台湾へ逃亡する際に宝物も一緒に台湾に渡ったというわけだ。
《翠玉白菜》
清の時代に天然のヒスイを彫り上げて作られた白菜のオブジェ。二大名宝のひとつ で、皇帝の光緒帝の妃の嫁入り道具 だと考えられている。
サイズは、高さ18.7cmと実際の白菜よりもかなり小さく作られていて、緑の葉の部分には子孫繁栄の象徴であるキリギリスとイナゴが彫られている。
《毛公鼎》
鼎(かなえ、てい)は、なべ型の胴体に3本足がついている中国古代の青銅器。故宮博物院にある毛公鼎は、約2800年前に製造されたと伝えられている。内側には500文字あまりの銘文が刻まれ、 現存する青銅器の文章では最長の歴史的価値のある展示物。
《珊瑚と彫刻》
《鏤彫象牙雲龍紋套球》
精妙な彫刻が施された象牙の球体。 内部は24層に分かれており、彫刻が施されたそれぞれの層も回る仕組みになっている。一本の象牙から彫られている、120年かけて完成した、など諸説あり、制作方法や詳細は不明の不思議な秘宝!
故宮博物院敷地内に併設された広東料理のレストランで牛麺と春巻きの昼食。容器が宝物の「毛公鼎」と同じデザインだった。
《台湾原住民博物館》
台湾原住民博物館は台湾初の原住民をテーマにした博物館。駆け足だけれどアミ、タイヤル、パイワンなどの原住民族の歴史、生活、文化を知ることが出来た。
写真にアイヌのムックリにそっくりな楽器が写っていて驚いた。
台湾島が大陸と繋がっていた時代に先住民族が渡ってきて、その後、地殻変動で今のような島になったと推測されている。
その後は大陸と船で行き来をしていたらしい。
織物はどこかオロッコ、ギリヤークなどの北方民族の雰囲気を感じた。渦巻き状のアイヌ文様は無い。
一日いっばい、二つの歴史館を見学して暫くぶりに歩いた。
ホテルに戻り、晩飯は近くの食堂で本場の美味しい餃子を食べた。
台北も残り二泊になった。
(つづく)