子供のころから相撲が好きだった。祖父が徳之島出身で、同郷の胸毛で人気の高かった3代目朝潮の熱狂的ファンだったことも影響したか。何よりも子供達も野球と相撲しか知らないような時代だった。
ドイツに住んでいたころは、わざわざ相撲雑誌を取り寄せていたほどだ。そのころは朝潮が高砂部屋を継いでいたから、自然に高砂部屋をひいきし、部屋の全力士の星取り表を大きな紙に書いて昇進した、陥落したとひとりで楽しんでいたものだ。
でもある時から、いつかは分からないけれど、まったく関心が失せてしまった。理由はあれこれ挙げても仕方ない。
昭和の大横綱は双葉山である。機会があればこの人の風貌に接して欲しい。この人が理事長を務めていたころ、青ノ里という幕内力士がいた。たしかこの力士が千回連続出場したのだったと記憶する。時津風理事長(双葉山)は「よくも一日も休まず務めた。感動した(どこかの誰かと同じフレーズで悲しいが)」と青ノ里を特別表彰した。
この記録は後に書き換えられる。初の外国人力士高見山が千五百回連続出場を果たしたのである。その時双葉山の時津風はすでに亡くなっていた。昭和30年ころの名横綱栃錦の春日野が理事長を務めていた。
青ノ里の時同様に特別表彰しないのか、との声に彼は「出場するだけなら私はもっとでもできた」と言い放ち、表彰の話は立ち消えになった。
横綱が強いのは誰でも認めることだ。双葉山は、そこまで強くなれなかった力士が営々と努力した姿に感動し、栃錦は自分の強さとの差を云々する。このころから結果さえ良ければ、という取り口が増えていったように思う。
玉の海梅吉、天竜三郎といった双葉山と同時期、あるいはもっと年上の人たちの解説や座談は音楽や文学に劣らないほど僕の心に影響した。よく力士の士はもののふ(武士)ということだ、と語っていたのを覚えている。河上徹太郎さんだったか、文士は俺たちで終わりだねと言っていたのも思い出す。音士という言葉はないが音痴ならいくらでもいる。
そうそう、双葉山の風貌と書いたが、立ち姿が美しい。自信という「もの」がすっと立っているようである。写真を見つけたから挙げておこう。
ドイツに住んでいたころは、わざわざ相撲雑誌を取り寄せていたほどだ。そのころは朝潮が高砂部屋を継いでいたから、自然に高砂部屋をひいきし、部屋の全力士の星取り表を大きな紙に書いて昇進した、陥落したとひとりで楽しんでいたものだ。
でもある時から、いつかは分からないけれど、まったく関心が失せてしまった。理由はあれこれ挙げても仕方ない。
昭和の大横綱は双葉山である。機会があればこの人の風貌に接して欲しい。この人が理事長を務めていたころ、青ノ里という幕内力士がいた。たしかこの力士が千回連続出場したのだったと記憶する。時津風理事長(双葉山)は「よくも一日も休まず務めた。感動した(どこかの誰かと同じフレーズで悲しいが)」と青ノ里を特別表彰した。
この記録は後に書き換えられる。初の外国人力士高見山が千五百回連続出場を果たしたのである。その時双葉山の時津風はすでに亡くなっていた。昭和30年ころの名横綱栃錦の春日野が理事長を務めていた。
青ノ里の時同様に特別表彰しないのか、との声に彼は「出場するだけなら私はもっとでもできた」と言い放ち、表彰の話は立ち消えになった。
横綱が強いのは誰でも認めることだ。双葉山は、そこまで強くなれなかった力士が営々と努力した姿に感動し、栃錦は自分の強さとの差を云々する。このころから結果さえ良ければ、という取り口が増えていったように思う。
玉の海梅吉、天竜三郎といった双葉山と同時期、あるいはもっと年上の人たちの解説や座談は音楽や文学に劣らないほど僕の心に影響した。よく力士の士はもののふ(武士)ということだ、と語っていたのを覚えている。河上徹太郎さんだったか、文士は俺たちで終わりだねと言っていたのも思い出す。音士という言葉はないが音痴ならいくらでもいる。
そうそう、双葉山の風貌と書いたが、立ち姿が美しい。自信という「もの」がすっと立っているようである。写真を見つけたから挙げておこう。