季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

神奈川県立音楽堂

2008年01月27日 | 音楽
神奈川県立音楽堂、その名の通り神奈川県にある。したがって訪れる人も限られているのだが、ここの音響は秀逸である。

フルオーケストラにはちょっと狭すぎる。しかし合唱、ピアノソロ、室内楽等、音が響くと同時に拡散せずに、手に取るように聴こえる。言葉にしてしまうと何のことはない、当然のことといった感じになるのが癪だが。

かつてこのホールに建て替えの計画が持ち上がって、一所懸命に反対の署名を集めたことがある。幸いホールは存続することになった。

さて書きたいのは実はそのことではない。いや、書きたい気持ちはやまやまだが、ホールの良さを言葉にするのは不可能に近いし、第一県立音楽堂の音響の良さは認知されているのだ。いまさら言葉を重ねても仕方がない。

書いておこうと思うのはこういうことだ。

せっかく存続しているにも拘わらず、このホールが有効には使用されていないようで大変残念なのだ。正確に言うと、ホールのクオリティに見合った使われ方をしていないのだ。

なるほど、使用されない日などは一日もなさそうである。が、くわしくホールの案内を見ると、高校のコーラス、ブラスバンド、そういった類の催しが大変多い。

彼らに責任はない。演奏家と自認する人たちが、見てくればかり良いみなとみらいホールを好んで使用する、そこが分からないのである。それとも彼らは単にホールの善し悪しが分からないのだろうか。

演奏会を催すには様々の条件を比較検討しなければいけない。それは理解できる。しかし、アクセスの利便だけを考えていては、自分にとっても不利なのだが。自分の音にある程度の自信がある人ならば、この音楽堂で弾いた方が、自分の意図したことが聴き手に届くのである。

と、弾き手に厳しい意見を述べた後で、公平を保つためにもうひとつ。アクセスの利便云々と書いたが、このホールが持つ最大の(と言ってかまわないだろう)問題は、かなり急な坂をえっちらおっちら上ったところに建っていることだ。年配の方、足を怪我した方には辛いことこの上ない。

ホールの他に図書館などの県の施設もあるのだ。利用者にとって不便だ。

移築するわけにもいかないが、せっかく技術も進歩したのだ、坂に屋根付きのエスカレーターを付けたらどんなに良いだろう。たいした予算はかからないと思う。一度は新しいホールを計画したくらいだ、それに比べればずっと安い。

もうひとつ、桜木町駅の、反対側に改札を設ける。この2点が実現するだけで県立音楽堂のアクセスの悪さは改善されてしまう。

みなとみらい(なんというひどい名前だ)側には動く歩道がある。じつに間抜けな感じである。こういう中途半端なアイデアを誰が出すのだろう。

県民の声をきく窓口に上記のようなアイデアを寄せる声が増えれば実現できるかも知れない。そうすれば、音楽堂を使って演奏会をする人も、遠慮無く案内できるだろう。今のままでは「大変申し訳ありませんが」という気持ちになるのも無理はない。

究極の贅沢

2008年01月27日 | 骨董、器


いつのことだったか、誰だったかまったく思い出せない。

多分雑誌か何かで読んだのだと思う。(我ながらこういう記憶がなくなりすぎる。だからこうしてメモのように書くことにしたのだが)

ある女性の父親が美しい器を集めていたそうだ。ある日、娘に「本当に気に入ったものがあればあげよう」と言った。

彼女は「こんなみすぼらしい家に住んでいて、器と釣り合いがとれないからいらないわ」と断った。

父親は「馬鹿、こういうみすぼらしい家に住んでいるからこそ、ひとつ本当に美しいものを持っておくのだ」と諭したという。

すばらしい父親だし、それを素直に受け止めた娘も素敵だ。器に限ったことではあるまい。こういったのを本当の贅沢というのだ。本当の贅沢を欠いた生活を貧しいという。

勝手に好きな?あばら屋を想ってみて欲しい。そこに大変美しい器がひとつ置いてある。器の周りの空気だけが張りつめている。音もなく、湿気も、暑気も冷気もない。そんな想像力ならば誰でもあるはずだ。素晴らしいではないか。美しいものにはそういう不思議な力がある。

現代人は美しいものを、生活の単なる潤滑油として捉えているのだろうか。衣食足りて知るのは礼節かもしれないが、美しいものへの心の働きは、はるかに本能的なものだと言ってよいと僕は思う。はるかな昔、狩猟に明け暮れ、あすの命も定かではなかった縄文人でさえも美しい土器を作った。そんな昔にさかのぼらなくとも、少し以前までは文明から隔絶された地に住む人々がまだ多くいて、彼らは実にきれいに我が身を飾っていたではないか。

いったいどんな心の働きによるのか。僕は分からない。僕が知っているのは、美しいものを求める心は、衣食足りた後の贅沢品ではないということだけだ。

もしこの文章を読んでくれた人が、はじめに挙げた父娘の話に少しでも共感したならば、その人の心の中にも、幾ばくかの似た心があるということなのである。