コルトー版は大変すぐれた楽譜である。まずそう断言しておこう。
僕が子供のころは、そんなにたくさんの出版社があったわけではない。正確にいえば、日本で手に入る楽譜は限られていた。音楽の友社、全音、春秋社、それにペタースあたりだったろうか。
リストのエチュードや、ショパンのポロネーズを弾き始めたとき、先生から言われたとおりに買ったのがコルトー版だった。フランス語の版と英語の版とがあり、僕にとってはどちらも読めないことに変わりはなく、手に入ったほうを購入していた。
ピアノという楽器の扱い方を知ってきてから(埃の取り方、鍵盤の拭き方ではないよ)この版の指使いがとても自然で、理にかなっていることを痛感するようになった。つまり、40歳ちかくまで、僕は何となく気に入ってコルトー版を使っていたことになる。
指使いで思い出したが、僕の師、コンラート・ハンゼンはヘンレ版ベートーヴェンソナタ全集の指使いを担当していた。今は版が改まって、ペライアが書いているようだが。
僕がレッスンにベートーヴェンのソナタを持っていったとき、先生の指使いを一所懸命おぼえていった。それはそうだろう。本人が目の前にいるのだから。僕だってそういう初心な面はあるのさ。
正直に言えば、この版の指使いは弾きやすいとは言い難い。
ある程度弾き進んだとき、ハンゼンが僕を制して言うのだ。「重松、君の指使いは一体なんだ」「いや、楽譜どおりに、つまりあなたの指示通りに弾いているのですが」
ハンゼン先生、重い体をよっこらしょ、と立ち上げ、よろめくようにピアノの前まで来る。分厚いソナタ集を、見開きページまでゆっくりとめくり戻し(これが遅いんだよなあ、スローモーションみたいに)そこにはっきりと自分の名前が、指使い:コンラート・ハンゼンと印刷してあるのを確認すると、うめくように言ったものだ。「これはひどい」
ハンゼンの名誉のために、大急ぎで付け加えておく。彼は、こうした責任ある仕事を任せられると、真剣この上なく取り組んだに違いない。この版の指使いは、そんな感じが良く出ている。凝りすぎとでも言おうか。
実際には本人もまったく別の指で弾いていた。もっとも、いざ譜面に決定稿として印刷されることになったら、だれでも普段の指使いを書き記すのはためらうのではないだろうか。少なくとも僕はそうだな。1の連続だの、上行形で5の次に3だのを頻繁に使っているから、生徒にまではそれを指示できるが、説明不足で指番号のみを与えるのは、ちょいとためらうね。
その点、コルトー版の指使いは、大変に説得力がある。なにより、腕や手の動きを熟考した人の手によるということが良く伝わる。上述したように、書き記すのは、そんなにたやすい事ではないのである。
僕が30代半ばのころ、まず練習曲集が日本語に訳されて出た。ついに、万国共通のアラビア数字以外の記述も僕が読むことが叶った。大阪音大の八田惇という先生の訳である。
扉に「単に難しいパッセージをそのまま練習するだけでなく、そこを基本的な特質にまで掘り下げて、そのパッセージに含まれている難しさを勉強する」というコルトーの言葉が掲げられている。僕は感動した。
このような意識に照らし出された言葉が書かれた楽譜に出会ったことはなかった。自分が持っていた楽譜は本来このような精神に貫かれていたのか。八田さんには感謝しても仕切れない。
その後、連続してショパンの諸作品が翻訳されている。メンデルスゾーンやリストまで訳していただきたいものである。
僕が子供のころは、そんなにたくさんの出版社があったわけではない。正確にいえば、日本で手に入る楽譜は限られていた。音楽の友社、全音、春秋社、それにペタースあたりだったろうか。
リストのエチュードや、ショパンのポロネーズを弾き始めたとき、先生から言われたとおりに買ったのがコルトー版だった。フランス語の版と英語の版とがあり、僕にとってはどちらも読めないことに変わりはなく、手に入ったほうを購入していた。
ピアノという楽器の扱い方を知ってきてから(埃の取り方、鍵盤の拭き方ではないよ)この版の指使いがとても自然で、理にかなっていることを痛感するようになった。つまり、40歳ちかくまで、僕は何となく気に入ってコルトー版を使っていたことになる。
指使いで思い出したが、僕の師、コンラート・ハンゼンはヘンレ版ベートーヴェンソナタ全集の指使いを担当していた。今は版が改まって、ペライアが書いているようだが。
僕がレッスンにベートーヴェンのソナタを持っていったとき、先生の指使いを一所懸命おぼえていった。それはそうだろう。本人が目の前にいるのだから。僕だってそういう初心な面はあるのさ。
正直に言えば、この版の指使いは弾きやすいとは言い難い。
ある程度弾き進んだとき、ハンゼンが僕を制して言うのだ。「重松、君の指使いは一体なんだ」「いや、楽譜どおりに、つまりあなたの指示通りに弾いているのですが」
ハンゼン先生、重い体をよっこらしょ、と立ち上げ、よろめくようにピアノの前まで来る。分厚いソナタ集を、見開きページまでゆっくりとめくり戻し(これが遅いんだよなあ、スローモーションみたいに)そこにはっきりと自分の名前が、指使い:コンラート・ハンゼンと印刷してあるのを確認すると、うめくように言ったものだ。「これはひどい」
ハンゼンの名誉のために、大急ぎで付け加えておく。彼は、こうした責任ある仕事を任せられると、真剣この上なく取り組んだに違いない。この版の指使いは、そんな感じが良く出ている。凝りすぎとでも言おうか。
実際には本人もまったく別の指で弾いていた。もっとも、いざ譜面に決定稿として印刷されることになったら、だれでも普段の指使いを書き記すのはためらうのではないだろうか。少なくとも僕はそうだな。1の連続だの、上行形で5の次に3だのを頻繁に使っているから、生徒にまではそれを指示できるが、説明不足で指番号のみを与えるのは、ちょいとためらうね。
その点、コルトー版の指使いは、大変に説得力がある。なにより、腕や手の動きを熟考した人の手によるということが良く伝わる。上述したように、書き記すのは、そんなにたやすい事ではないのである。
僕が30代半ばのころ、まず練習曲集が日本語に訳されて出た。ついに、万国共通のアラビア数字以外の記述も僕が読むことが叶った。大阪音大の八田惇という先生の訳である。
扉に「単に難しいパッセージをそのまま練習するだけでなく、そこを基本的な特質にまで掘り下げて、そのパッセージに含まれている難しさを勉強する」というコルトーの言葉が掲げられている。僕は感動した。
このような意識に照らし出された言葉が書かれた楽譜に出会ったことはなかった。自分が持っていた楽譜は本来このような精神に貫かれていたのか。八田さんには感謝しても仕切れない。
その後、連続してショパンの諸作品が翻訳されている。メンデルスゾーンやリストまで訳していただきたいものである。