季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ちょいと面白い話題

2009年11月09日 | その他
チベットの高僧、ダライ・ラマの後継と目されている僧侶はテレビゲームが大好きであるという記事があった。

これは面白かった。インタビュアーとの詳細なやり取りはなかったけれど、充分察しがついた。

僕自身はテレビゲームをしないけれど。ああいう種類のものは一定期間しない時が続くとついていけなくなる。

だからといってテレビゲームを問題視するのは問題であると何べんも書いた。テレビゲームを(その他何でもよい、気に入らぬものを)問題視する人は実際のところ何の根拠も持っていない。ただただ気に食わぬからだ。

気に入らぬものを好きになる必要はない。けれど問題視するのはまったく次元が違う話である。僕なんざ、中学のころはマージャンなんてヤクザがやるものだと決めていたね。それがどうです、年に一度の大会で盛り上がるようになってしまった。何か問題が生じたか。何も生じない・・・ような気がする。勝ちすぎないようにしているしなあ。負けた友人たちの顔を見るのはしのびないからね。

チベット僧はそれをよくわきまえて話をしているように思われる。

質問者はどこの国の人か知らないが、まあこの手の質問をする人は大体同じような問いしか出さないのだろう、以下のようなもの。(この以下のようなものという言い方は人を見下しているから良くない、と主張する人がいることは先日書いた。じつに窮屈です。卑屈だとも思える)

聖職者が暴力表現があるゲームを好むことは正しいあり方だと思うか?この質問に「何の問題もない」ときっぱり答えている。

自分も人間であるから、いろいろな人間感情に晒される。憎しみを持つこともある。そういう気持ちが高まったとき、この種のゲームをすると、その気持ちを発散させることができる。

“私はビデオゲームを日常レベルの感情的セラピーだと考えています。仏教の行者であろうとなかろうと、私たちは皆感情を持っており、幸せな感情、悲しみの感情、不快な感情などが生じたときに、それらにどう対処するかを見つけ出す必要があります。

そこで、ビデオゲームをプレイするのが、私にとっては時々痛みを和らげてくれる減圧のような効果を持つのです。もし私がネガティブな考えや感情を持っているなら、ビデオゲームの世界はそうしたエネルギーを解放する方法の1つで、その後は気分が楽になります。

これを読んで、宗教家にあるまじき、と悲憤慷慨する人もあるだろう。しかし僕は素直な、嘘のない表現だと思う。

むかし明恵上人は無心に石けりをして遊んだという。なぜそんなことをするのだと質問されて、難しい経文が頭から離れないから忘れたいと答えたそうである。この人が現代に生まれたならば何をするだろうね。

宗教家とはかくあるべし、という像を持つのは構わない。むしろ僕たちの自然な感情だろう。しかしそれがあまりに狭いものになるのならば、単なる建前論になる。

僕たちは明恵だけではない、西行法師や良寛さまをはじめとする人間の喜怒哀楽から目を逸らせることなく生きた人を知っているではないか。いかにかすべき我がこころ、西行法師はこう歌った。

チベット僧がどのような人か良く分からないけれど、建前論を振りかざす人たちよりはるかに信じるに足る、というのが僕の偽らざる印象である。