季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

本当のことが言えない

2009年11月21日 | その他
このところまたぞろ血なまぐさい事件が連続している。

まだ記憶に新しい秋葉原で通り魔事件が起きたときのこと。

ある警察幹部が「こんな事件は特別ではないのだ」という趣旨の発言をして非難を浴びた。

非難を浴びたということは、非難を浴びるべきだという論調の報道がなされたことを意味する。(こんな注釈が要らないようだとよいけれど。)

この発言をした人が謝罪したのかしなかったのか、その後のことは知らない。事件自体がすでに記憶の中の1ページになっているのだから。

でもこの人は非常に正確にものを言っただけなのだ。こんな事件は気にしなくて良いと言ったのでもなければ、起っても構わないと言ったのでもない。特別なことではない、つまり今までも起ってきたということを言った。

どうしてなのか分からないが、人類はそういう亜種を常に抱え込んでいる種らしい。

こういう事件は、当然ながら一種のショックを引き起こす。報道されればその波動はより広がる。過剰なまでの報道はむしろ好ましくない。報道しているキャスターやコメンテーターと呼ばれる人の、心配そうに声を潜めるトーンには、隠し切れぬ「喜び」のトーンが混ざっているのにどうして気づかないか。

当事者以外は皆他人事である。当たり前だ。だからこそ、必要最低限の報道以外は口を噤むのが礼儀であろう。

ある犯人は裕福な家に育つ。他の犯人は貧しく育つ。人間の心が非常な複雑性を持つ限り、それらの諸条件は無関係なはずもないが、といって単純な因果関係で成り立つ道理はない。そう断言する強さが必要なのであって、多くの報道に見られるような家庭内での様子、文集、人付き合いを調べ上げて事件の本質に近づいたような顔をするのは単なる好奇心だと知るべきであろう。

硫化水素で自殺者が出る。すべてのメディアが一斉に、ネットにその発生方法が載っている。それが問題だと連日騒ぐ。

その結果は僕たちが知っている通り、相次ぐ自殺だった。むしろメディアが最低限の報道だけに徹していればこういう事態は起らなかったのではないか、と推察することも可能だ。誤解を恐れずに言えば、「硫化水素の自殺」が相次いだのは報道の影響であろう。

ただしここでもまちがえてはいけない。報道がなされなければ自殺を企てる人が減ったであろう、というわけではない。記事は最後の、手段を選ぶ際の、また決断するときのきっかけになったに過ぎない。

前述の警察関係者はおそらくそのあたりについて語ったのだと思う。げんに報道が落ち着いたら同じ方法による自殺は急速に減ったではないか。

今日の報道ばかりがそういった作用を持つのではない。ゲーテが「若きウェルテルの悩み」を発表して人々に感動を与えるやいなや、失恋した若者たちが相次いで命を絶った。ゲーテは慌てて、この物語はこしらえ物であって、現実に起った出来事ではない、と声明を出した。

躍起になって原因と思われるものを規制し続けたところで無駄だろう。無駄だけならばまだ良いのだが、建前だけが異常に膨らんでいってむしろ危険だとさえいえる。日本の現状は、建前だけが立派で本音というか、現実の姿は不安定で揺らいでいる。

事件を冷静に見てきた警察関係者にとっては、意味もなく加熱する一方の報道が苦々しく思われたのではなかろうか。

必要なのはこうした事件は昔からあることを知ること。そうした人間性の一面を直視して、できる限り事件に巻き込まれないよう注意する具体的な方法を提案すること、それくらいしかあるまい。

社会的取り組みという「空想」が必要でないというつもりはないが、これは的を外すととんでもない方向に行くことも強調しすぎることはないだろう。