季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

批判と非難

2014年05月28日 | スポーツ
サッカー日本代表が昨日W杯前の国内最終試合でキプロスに辛勝した。

僕は残念ながら大学に出る日で、見ることが出来なかった。

帰宅途中の新幹線で文字速報は追っていたけれど居眠りもしたしね。それでも相変わらずだなぁとヤキモキした。これでは大変残念ながら本大会で勝ち上がることは難しいだろう、と想像せざるを得ない。

一夜明けてスポーツ欄の見出しを見ると、故障明けの選手について「完全復活、本番も任せろ」とか、新たに選出された選手について「キレある動きで活性化」とか出ている。

経過速報やセルジオ越後の実況ツイートで見る限り、とてもそんなポジティブに言える内容ではなかったようだ。

ここまでは僕の憶測の域を出ない。

上述のセルジオ越後のコメントへの非難を見てガッカリしたのは憶測とは関係ない、僕の実感だ。

曰く、努力している選手を貶すのは許せない、又曰く、こいつはただ悪口を言うしかしない害人だ。

しかし選手自身のコメントを見て御覧よ、全員がこの状態ではまずい、と感じているではないか。

そもそもセルジオの言葉や表情に悪意や意地悪さを感じたことが僕には無いのである。彼は確か今もブラジル国籍だったはずだが、日本代表が勝ったら誰よりも大喜びするだろう。

サッカーから一歩離れても、日本という国では批判が恐ろしく下手だと思う。批判のための批判はある。それと愛着からくる批判との違いを感知しないから、ポジティブシンキングといえば、夢を語り、和を唱えるものだけになる。

批判はその合唱での不協和音と見なされるのだな。でも結果が出ないで終わってご覧、今度は非難の合唱になるから。

夢、輝き、キラキラ、人の和、こうした言葉は使えば使うほど嘘くさくなる。

僕が大学生時代、時代は高度成長期に入り、繁栄とか成長とかの言葉が踊っていた。僕にはそれに反抗する運動も含め、全てが嘘くさく感じていた。繁栄と言われるものは水面に広がる油のようなものだ、と言っていたものだ。僕の言うのを聞いた友人の一人が「重松は無政府主義か」と言ったのを忘れない。冗談じゃない。

20年後、バブルという言葉となって誰もが実感せざるを得なくなった。

少々脱線しすぎた。サッカーなぞ勝とうが負けようが大したことはない。それでも僕個人はサッカーが好きであるから勝てば嬉しい。批判と批判のための批判、或いは非難との区別もつかないのでは困るのである。