季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

中原中也

2017年03月21日 | 
中原中也は若いころから好きだった。演奏に携わっていると彼の詩がずいぶんモダンでもあるのだと改めて感じる。

昭和初期、渋谷駅の周りが草野原だったころ!道も舗装されず、どぶ板(若い人はこの言葉ですらもう知らないこともありそうだ)とおかみさんの姿を書き割りにしながら、どうやってあのヨーロッパ風な叙情ができあがったのだろう。

ロマン派の曲をレッスンしているとふいに中也の詩句が頭に浮かぶことがある。

ロマン派、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームスあたりだろうか。

ある特定の作品同士が似通っているというわけではないのだが、何かの拍子によく知った感情を発見して驚く。とは言え固定化されたものではないため、今こうして改めて書いてみると、困ったことに具体的な例が浮かんでこない。

しかしレッスンの時に中也を紹介して、ある箇所を説明すると、生徒たちは僕の意を汲んでくれるところからも、あながち我田引水とはいえないだろう。                                

中也はヴェルレーヌを好きだった。好きでは足りないかもしれない。貪るようにその生き方を模倣した。

この時代の詩人たちを見てみると、人は感じ方さえも学ぶのだと納得する。

例えば萩原朔太郎の詩や評論は、今日読むといかにも幼い感じがする。フランス-ヨーロッパに憧れながら本当には血肉化していない。それが幼い感じを与えるのだろう。

中也になるとそのような感じは全くない。
抒情詩というものはそんなものなのだろうか。

ひとつ例を挙げておこうか。代表作とは言えないと思うが。

 
月の光が照っていた
月の光が照っていた

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れているのは死んだ児(こ)だ

月の光が照っていた
月の光が照っていた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持っては来ているが
おっぽり出してあるばかり

  月の光が照っていた
  月の光が照っていた