季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

天才?

2017年03月25日 | 音楽
日本には天才がたくさんいる。喜ばしいことだ。

野球の長島さんがその昔少年野球の指導をした。そのチームは赤井電器という企業がスポンサーだったのでユニフォームには背番号の上にAKAIという文字があった。長島さん、これを少年の名前と勘違いして「赤井くん、ナイスプレー!」と声をかけていた。

他の「赤井くん」にも「赤井くん、ナイスプレー!」を連発していたがそのうちにたくさんの「赤井くん」がいることに気がついた。そして「おや、君も赤井くん、お、君も赤井くん!このチームには赤井くんがたくさんいるんだねえ!」と言ったそうだ。

今日の日本では「ここにも天才、あそこにも天才、いやあ日本にはたくさん天才がいるんだねえ」さしづめこんなところか。

赤井くんだらけ、は場合によってはあるのかもしれない。だが天才がゴロゴロ転がっていたらそれは凡才だろうに。

もっとも、言われた本人は悪い気がしないのかもしれない。まあそうだろう、天才だとか男前だとか言われて胸ぐら掴んで張り倒したという話は聞いたことがない。しかし考えてみればこれはとても残酷なことではないだろうか。

赤井くんは言われ続けるうちに、僕は本当は赤井ではあるまいか、と考え始めるはずもない。

しかし天才とか男前とか美人とかでんでん虫とか言われていたら、次第にそんな気がしてくる人はたくさんいそうだ。人間の性質上の面白さとも言えようが、それはまた別の話だ。

そしてある日、君は天才ではない、男前でも美人でもない、もしかしたらでんでん虫ではあるかもしれない、と告げられる。言われた本人からしたら辛かろう。というか、それ以後どのような顔をして暮らせば良いか分からず戸惑いの日々を過ごすしかなさそうだ。

褒めることは良い。ただし身の丈に合った褒め方をすることだ。もてはやしてもてはやして急に手のひらを返す。

二階に上げてハシゴを外すというが、日本の誉め殺しは教会の尖塔に上げてハシゴを外すとでも形容したい。

天才なぞ、おいそれとはお目にかかれないものだ。常識はそう語るのに、同じ世間が天才と騒ぎ立てることに終始する。これはどうしたことだろう。

傑出した人物が自分と同時代にいるという素朴な喜び、そしてその人物が不世出であてほしいという願望がそうさせるのだろうか。

その心理は分からぬでもないが、伸びる芽も刈り取ってしまうことを考えて慎むべきなのである。