東埼玉病院 リハビリテーション科ブログ

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コミュニケーションって何だ?

2018年06月07日 | 神経難病

これは日本ALS協会会長O様が書かれた、当事者からみたコミュニケーション支援についての手記。O様のご了承を得て、ここでご紹介させて頂きます。

ある日ヘルパーAさんとBさんと私が話していました。
Aさん「こないだ、患者さんにはYESで答えられるように質問してくださいと言う話を聞いたのだけど、それってどうなのだろう。実際そんなことを考えて患者さんと話すのかな。」
Bさん「どうだろう。しないかも。私しないな。」
Aさん「そんなことをするのでなくて、話したいことを話せるようにすることが大事ですよね。ケアの事はなるべく短いコミュニケーションにして、時間を使うのは本当に話したいことに使いたいですよね。」
Bさん「待って、それはおかしくないですか?ケアについては十分コミュニケーションして患者さんの希望を聞いてやるべきでしょう。」
Aさん「ケアについては、決まったことを正確にすればいいのでしょう。それに時間を使ってはもったいないです。もっと別のコミュニケーションに時間を使うべきです。」
Bさん「それは違うと思います。ケアはコミュニケーションしながらやるべきものです。しかも、症状が変わるので、それに対応するケアをするためには、患者さんとコミュニケーションをとらないとできません。」
Aさん「それは、対応が変わった時に変えればいいし、ヘルパー同士で引き継ぎをしないと効率が悪いです。」
Bさん「効率というのは、納得できないな。ケアは効率でないと思う。」
Aさん「仕事に効率は大事です。」
Bさん「、、、、」
Aさん「、、、、」
ちなみにふたりのヘルパーさんはケア中の質問はほとんど全部YESで、答えられるようになっていました。
意識して気を付けていているとケアに慣れていないヘルパーさんは、YESでは答えられない質問の仕方をしています。
私はふたりの会話を聞いていて思いました。
ケアをどのようにやってほしいかは、十分聞いてほしいです。そういう意味ではBさんの言うとおりです。ところが、普段のケアでは、どうでしょう。私はできるだけケアのことについては、時間をかけずに決まった事を正確に早くやってほしいのです。ケアの内容をいちいち毎回説明などしたくないし、そんな時間はありません。それはAさんの言っているとおりなのです。つまり私にとっては、ふたりの言っていることはどちらも正しくて、必要なことなのです。
当たり前のことですが、信頼していてケアが上手くできるヘルパーさんなら、なるべくケアについては、コミュニケーションは少なくしたいし、少なくてすむということです。ヘルパーさんと患者の関係性による訳です。
私の場合は決まったケアはなるべくコミュニケーションは省いて時間を短くしたいです。
その時間は他の事に使いたいのです。例えば、メールを書いてもらったり、原稿を作成してもらったり、時には会議などに使いたいのです。
もちろんケアが変わった時には、十分話したいですが。
では、他の患者さんはどうでしょうか?
コミュニケーションというのは手段で、目的は意思を伝えあうこと。結果として、ケアの内容が伝わったり、相互の考えがわかったりします。時にはコミュニケーションは手段でなくて、目的そのものになります。
私のように特殊な方法でしか、コミュニケーションができない者でも、意味のない世間話が嬉しい時があります。健常者でも、たわいもない会話を楽しむことはよくあることです。
ALSの患者は、症状が変わりますし、しゃべることなどコミュニケーションに不自由がないときは、ケアの内容の伝達も含めていくらでも伝えられるし、時間的な問題もあまりないので、それほどコミュニケーションについて考えることはないだろうと思います。
私のようにかなりコミュニケーションが特殊で、むずかしくなってくると、コミュニケーションはどのように確保するかや、コミュニケーションに費やす時間の配分はとても重要なことになります。
私よりずっとコミュニケーションが難しくなった患者さんの知り合いを見ていると、コミュケーションの時間はどんな時間なのでしょうか?
ある時コミュニケーションがとても難しくなった患者さんに続けて会いました。そのふたりの患者さんは、一時は全くコミュニケーションが取れなくなった時期もある人たちです。
ひとりの患者さんは2時間かけて
「これからも良い関係でいてください」
と言いました。2時間かけて言われた重みをしっかり私は受けとめられたでしょうか。
次の患者さんは、その患者さんのコミュニケーションにとても熟達したヘルパーさんが、コミュニケーションのためだけにケアに入っている場面に立ち会っていました。その患者さんはもう普段はほとんど誰とも話すことができていない人ですが、その時は1時間かけて
「俺の・い・ん・か・ん」
と言いました。気の遠くなるような作業ですが、それぞれにその時に話したいことを言っているのです。
もうコミュニケーションが全くというほどとれない患者さんもいます。
家族はあらゆる方法を工夫して、専門家にも相談しているのですが、どうしても明確なサインがわかりません。その家族はあきらめることなく、その患者さんに語りかけ、質問を繰り返しながら、日々の生活をしています。そんな生活が2年半つづいています。最近では、質問や何かを話かけた時に、笑顔になる時がYESという判断になってきました。それは決して間違ってないように思えます。その家族が別の患者家族の話を聞いて、驚いていたことがあります。その別の家族の患者さんは、目が動くので、文字盤が使えるのですが、訪問看護士さんもヘルパーさんも時間がかかるので、文字盤は使わないと言って、決まった時間に決まったケアをしているそうです。それを聞いた先の家族は、コミュニケーションが取れるのに、とらない人がいるなんて、信じられないと言っていました。
今言った患者さんは、会話コミュニケーションが明確にとれないですが、笑顔がとても素敵な人です。
患者さんによっては、全く表情もない人もいます。
私の親しい患者さんも5年前には、かろうじて目の動きでコミュニケーションを取っていたのですが、現在は全く動かなくなった人がいます。
その患者さんと一緒にピアノの生演奏を聴く機会がありました。その患者さんが健康だった時によく聴いていた曲をリクエストして演奏してもらっていた最中に患者さんのつけていたパルスオキシメーターの脈拍は60台からずっと90台に上がっていました。途中では涙も見えました。それもコミュニケーションのひとつだと感じました。
言うまでもないのですが、コミュニケーションは言語だけではないのだと思います。それは誰しも思うことですが、私にとっては、現在は言語によるコミュニケーションは極めて重要であり、それを失うことは耐え難いことのように思えます。
また、患者さんによっては、コミュニケーションが取れる身体状態であるにも関わらずに、コミュニケーションを取ろうとしない人もいます。
どうしてなのかをその患者さんたちに聞いてみたいのですが、それはなかなか実現しません。
ひとりだけ聞いたことがあるのですが、その人は人口呼吸器をつけないと決めていて、もう少しで死ぬのに何も話したくないと言っていました。
それはあきらめとヤケのないまぜのように感じられました。
さて、患者にとってのコミュニケーションは何でしょう。
その時々によって、変わっていくものでしょうし、皆に当てはまるような答えはないでしょう。
コミュニケーションがとれなかった患者さんがとれるようになったときの喜びは患者さんからも支援者からも聞きます。
反対にどんなに働きかけても、コミュニケーションがとれるようにならない話も聞きます。
私は患者さんに言いたいです。コミュニケーションをしようとしている人がいるなら、何かを伝えようとしましょう。私たちの患者仲間には伝えたくても伝えられない人もいるのだから。どうせすぐに死ぬと思っても、それは誰にもわからないので、生きているうちに何かを伝えようとしてみてはどうでしょうか。
支援者の人にお願いです。
もちろんコミュニケーションをとろうとしてほしいですし、そのためのスキルを持ってほしいと思いますが、どんなにやってみてもうまくコミュニケーションがとれるようにならなくても、コミュニケーションをとりたいという気持ちを失わないでください。
そういう患者のところから帰るときは、いつでもコミュニケーションをとりたくなった時は支援をしたいと思っていると伝えてください。
コミュニケーションをとりたくてもとれない患者とコミュニケーションがとれるのに、取らない患者は言い方によっては、同じコミュニケーションが取れない患者と言うことになります。私が全くコミュニケーションが取れなくなった時に、誰もコミュニケーションを取ってくれないことと誰かが話しかけたり様子を伺ってくれるのでは、全く違うと思います。
患者は誰にも何も伝えない、いま伝えられないという状態だったとしても、何かを待っているのだと思っていてください。
もしそうでない患者さんがいたとしても、何かを働きかけたことは、そんなに問題だとは思えません。
もちろん、強引な方法を取っても良いというわけではないですが。
私の友人に気管切開は絶対にしないと決めている患者さんもいます。
その人が言っていました。誰も生きてほしいと言ってくれないのは寂しいと。コミュニケーションは最後まで求めていますが、まわりはもうやろうとしてくれない状態は、本当に寂しいです。
どうかできるだけ、患者も支援者もコミュニケーションを取ろうと言う気持ちを忘れないでください。


難病コミュニケーション支援は,特殊なコミュニケーション方法の知識や技術支援だけではありません.難病の方とご家族を孤独にしないための支援です.
発話だけでなく、表情や何気ない仕草、習慣、役割などその人らしさを形づくる様々なことが難しくなるなかで、言葉はその人が変わらずその人で在り続けることの大切な何かです。

筆者が以前担当させて頂いたALSの方は足の指で文字を書いて言葉を伝えていました。長く動かし続けることは難しく数文字ずつの答えでした。少しでも楽な手段を考え、意思伝達装置を使ったとき書いた言葉が『ろうかのおこめ』でした。それを見たご家族が「分かったわ、廊下にお米を置くなって言いたいんでしょ?」と答えて皆で笑いました。よっぽど言いたかったのだろうなあ、と。

すべては難病の方の言葉を守り,聴き手である家族を支えるために 。そう思って支援を続けてきましたが、振り返るとどうやらそれだけではないようです。筆者自身もひとりひとりの言葉を求めてきたのだと思います。リハビリテーションが、まずその人を知ることから始まるものだというのも大きいのでしょう。「私が知りたい」という原動力に支えられた部分もあったと今は思います。
Oさん、ありがとうございます。私たちは諦めない、決めつけない支援者になっていこうと思います。