昔話。高校に入学するときの事。私は高校3年間を”高校を徹底的に利用する”というテーマに決めて過ごしていたのです。通っていた高校は仏教系の高校。当然他の学校にはあまりない”宗教”という授業があるわけです。
普通、高校生くらいになると、正直な話、こういう進学に関係のない授業は”うざったい”に分類されるわけで、実際私も心の中ではそう思っていたのですが、なにぶん、自分の立てた前にあげたテーマがあるので、それでは、この宗教の授業から自分が得する知識だけ手に入れようと画策したわけです。
霊山で修行を積むお坊さんたちのありがたいお話もそっちのけで、でも、一方でゴータマ・シッダルタ(ブッダ)という人は何を考えたのかを現代風にアレンジし、自分が得なところだけ見につけようと精進努力しておりました。
その結果、私が推理したのはこの人物、おそらく人間が悩んだり、苦しんだりする理由をカテゴリーごとに分類して、そこから、解決方法を見出そうと研究した人物ではないかということ。(こういう勝手な解釈を”外道”とする分類もあります。)これはこれで、いろいろ悩みも多い多感な時期の私には”知っていた方が得する”知識として分類され、自分に役立つことだけをピックアップしてご都合主義的に自分の生活にも一部導入を図ったのでした。
その後、様々な国を旅するうちにイスラム教やキリスト教とも接触する機会があり、これも恒例のご都合主義的な導入を試みたわけです。
そんな結果、全く信心深くないにも関らず、やたらと宗教に興味のある人物が出来上がりました。
そして最近の世界を眺めていて、面白い解釈ができることに気がついたのです。
仏教も、キリスト教も、イスラム教も、いずれも一定の戒律を設定し、それを守ることを信者に要求します。これはイスラム教の厳しい戒律がクローズアップされがちですが、新約聖書などを読んでみるとキリスト教も結構厳しい戒律を要求しています。そして、仏教を除いては”教えを広める”という考え方がついてくることです。
仏教の場合、小乗仏教とか大乗仏教という言葉を聴いた人がいるかもしれませんが、標準的な考え方は小乗仏教。大乗仏教は日本に伝来してからアレンジされたものかなと思います。小乗仏教、つまりブッダの教えを理解することで”自分”が苦悩から解放されることを目指すわけです。ちょっと上手く表現できないのですが、あくまで自分の精神や魂をコントロールし、開放するための知識である側面が強いと思います。
キリスト教やイスラム教はそれに対して、社会全体に教えを広めることによって、社会の道徳水準を一定以上に維持することにより、そこに住む人間全体の平安を図ろうとする意図が感じられるのです。だから、より多くの人が戒律を守る世界に入ることを求めるわけではないかと思うのです。
判りやすく表現すると、たとえば、E&G教団には”マンションを建築するときにより多くの儲けを出すために鉄骨を少なめにするとか、そういうことは戒律に反するからやめなさい。”という戒律があったら、E&G教団の教徒が建てたマンションは耐震強度が偽装されていることもないから、みんなが安心してマンションを購入できる社会が実現できるというような感じでしょうか。そしてより広い範囲でこの安心を得ようとするとより多くのE&G教団の教徒を獲得する必要があるわけです。
そして、この戒律というのは破ったりするとたいていの場合、死後の世界にまでその清算が付きまとうので法律なんかよりよほど恐ろしいことになります。
では、今の”先進国”と言われる社会はどうでしょう?経済主義の社会でマスコミは有頂天になって勝ち組・負け組みを分類し、結局”普通そこまでやんないだろう”という一線を勇気を持って踏み越えた人間が、上手く法の抜け道を見つけるか、あるいは見破られずやっていれば一番立派と言われる社会であることは最近の出来事から証明されつつあるように見えます。経済主義、資本主義の大きな欠点でしょうね。
そういったことに嫌気がさした人たちが、もう一度ムハンマドの目指した安心できる社会を目指そうとしたりする”イスラム主義”的考え方もある意味至極まともなことに思えてきます。日本や欧米でテロリストの代名詞のように言われる”イスラム原理主義勢力”が意外と指示を集めるのにはこの経済主義に対する嫌気が差した人々の心があるのではないかと思うのです。
最も若い預言者ムハンマドがこの世を去ってから約1400年ほどでしょうか。その間、世界も変わったわけで、ただ単にムハンマドの理想を追い求めるのは無理があるかなとも思いますが、一方で、いちいち法規制をかけなければ誰が何をしでかすか判らない社会を全面的に肯定することはできないと思うのです。他国に自分たちの価値観を押し付けて”民主化”などと有頂天になっているよりも、自分たちの社会がどういった理想や理念で成り立つべきなのかをもう一度考えるべき時に差し掛かっているのではないでしょうか。
普通、高校生くらいになると、正直な話、こういう進学に関係のない授業は”うざったい”に分類されるわけで、実際私も心の中ではそう思っていたのですが、なにぶん、自分の立てた前にあげたテーマがあるので、それでは、この宗教の授業から自分が得する知識だけ手に入れようと画策したわけです。
霊山で修行を積むお坊さんたちのありがたいお話もそっちのけで、でも、一方でゴータマ・シッダルタ(ブッダ)という人は何を考えたのかを現代風にアレンジし、自分が得なところだけ見につけようと精進努力しておりました。
その結果、私が推理したのはこの人物、おそらく人間が悩んだり、苦しんだりする理由をカテゴリーごとに分類して、そこから、解決方法を見出そうと研究した人物ではないかということ。(こういう勝手な解釈を”外道”とする分類もあります。)これはこれで、いろいろ悩みも多い多感な時期の私には”知っていた方が得する”知識として分類され、自分に役立つことだけをピックアップしてご都合主義的に自分の生活にも一部導入を図ったのでした。
その後、様々な国を旅するうちにイスラム教やキリスト教とも接触する機会があり、これも恒例のご都合主義的な導入を試みたわけです。
そんな結果、全く信心深くないにも関らず、やたらと宗教に興味のある人物が出来上がりました。
そして最近の世界を眺めていて、面白い解釈ができることに気がついたのです。
仏教も、キリスト教も、イスラム教も、いずれも一定の戒律を設定し、それを守ることを信者に要求します。これはイスラム教の厳しい戒律がクローズアップされがちですが、新約聖書などを読んでみるとキリスト教も結構厳しい戒律を要求しています。そして、仏教を除いては”教えを広める”という考え方がついてくることです。
仏教の場合、小乗仏教とか大乗仏教という言葉を聴いた人がいるかもしれませんが、標準的な考え方は小乗仏教。大乗仏教は日本に伝来してからアレンジされたものかなと思います。小乗仏教、つまりブッダの教えを理解することで”自分”が苦悩から解放されることを目指すわけです。ちょっと上手く表現できないのですが、あくまで自分の精神や魂をコントロールし、開放するための知識である側面が強いと思います。
キリスト教やイスラム教はそれに対して、社会全体に教えを広めることによって、社会の道徳水準を一定以上に維持することにより、そこに住む人間全体の平安を図ろうとする意図が感じられるのです。だから、より多くの人が戒律を守る世界に入ることを求めるわけではないかと思うのです。
判りやすく表現すると、たとえば、E&G教団には”マンションを建築するときにより多くの儲けを出すために鉄骨を少なめにするとか、そういうことは戒律に反するからやめなさい。”という戒律があったら、E&G教団の教徒が建てたマンションは耐震強度が偽装されていることもないから、みんなが安心してマンションを購入できる社会が実現できるというような感じでしょうか。そしてより広い範囲でこの安心を得ようとするとより多くのE&G教団の教徒を獲得する必要があるわけです。
そして、この戒律というのは破ったりするとたいていの場合、死後の世界にまでその清算が付きまとうので法律なんかよりよほど恐ろしいことになります。
では、今の”先進国”と言われる社会はどうでしょう?経済主義の社会でマスコミは有頂天になって勝ち組・負け組みを分類し、結局”普通そこまでやんないだろう”という一線を勇気を持って踏み越えた人間が、上手く法の抜け道を見つけるか、あるいは見破られずやっていれば一番立派と言われる社会であることは最近の出来事から証明されつつあるように見えます。経済主義、資本主義の大きな欠点でしょうね。
そういったことに嫌気がさした人たちが、もう一度ムハンマドの目指した安心できる社会を目指そうとしたりする”イスラム主義”的考え方もある意味至極まともなことに思えてきます。日本や欧米でテロリストの代名詞のように言われる”イスラム原理主義勢力”が意外と指示を集めるのにはこの経済主義に対する嫌気が差した人々の心があるのではないかと思うのです。
最も若い預言者ムハンマドがこの世を去ってから約1400年ほどでしょうか。その間、世界も変わったわけで、ただ単にムハンマドの理想を追い求めるのは無理があるかなとも思いますが、一方で、いちいち法規制をかけなければ誰が何をしでかすか判らない社会を全面的に肯定することはできないと思うのです。他国に自分たちの価値観を押し付けて”民主化”などと有頂天になっているよりも、自分たちの社会がどういった理想や理念で成り立つべきなのかをもう一度考えるべき時に差し掛かっているのではないでしょうか。
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