旅先では自分にとって非日常を目にする事が多々あります。いや、その連続が旅の一日を形成していると言っても過言ではありません。そして、その非日常が自分に直接降りかかってくる事もあれば、傍観者として非日常を観察する事になる場合があります。
このような中で人は意外と単純な物の感じ方をしてしまう事が多いので注意が必要となります。つまり自分の日常との違いを"遅れている"と感じるか"進んでいる"と感じるかの境界線にその国に対する偏見や先入観のみを用いている事が多いのです。
自分にとっての非日常を目にしたのがアメリカ合衆国での出来事やヨーロッパの出来事であった場合、"さすがに進んでいる"と感じ、"だから日本はダメなんだ"と感じたりする。ところが、それをアフリカやアジアや中南米の国々で目にした場合は、"遅れている"と感じるといった具合です。
例えば三輪自動車、タイではトゥクトゥク、インドやパキスタンではオートリキシャという乗り物が走っていますが、イタリアにもアペという三輪自動車が走っています。トゥクトゥクやオートリキシャを見て、遅れていると感じても、アペを見るとオシャレと感じるという具合。
これはもう少し拡大すると、例えば日本国内でも消費税の増税論議などで、"欧米諸国と比較すると5%という消費税率は低いから、もう少し値上げしても良い"などという、幼稚な主張を平気で発表する国会議員が未だに国会議員として存在できたりする事になったりもします。欧米は進んだ社会という先入観を持った国民には"欧米と比較すると"というのが殺し文句になる事もあるのでしょうね。
少し話が逸れました。
私が旅している時に意識している非日常との接し方は、非日常を評価しないという事。旅先での非日常には"知る"努力と"慣れる"ための努力だけするようにしています。自分にとっての非日常が平然と日常として流れていく場所が存在するという事、そしてそこに自分が身を置いてみる事は自分に新しい物の見方を教えてくれると思うのです。
長い旅をしていると、最初は驚愕の非日常体験であった事がいつしか自分にとっても日常となっている事に気がつく事があります。その時自分は本当にその国の文化を少しは理解できたと言えるのかもしれませんね。
このような中で人は意外と単純な物の感じ方をしてしまう事が多いので注意が必要となります。つまり自分の日常との違いを"遅れている"と感じるか"進んでいる"と感じるかの境界線にその国に対する偏見や先入観のみを用いている事が多いのです。
自分にとっての非日常を目にしたのがアメリカ合衆国での出来事やヨーロッパの出来事であった場合、"さすがに進んでいる"と感じ、"だから日本はダメなんだ"と感じたりする。ところが、それをアフリカやアジアや中南米の国々で目にした場合は、"遅れている"と感じるといった具合です。
例えば三輪自動車、タイではトゥクトゥク、インドやパキスタンではオートリキシャという乗り物が走っていますが、イタリアにもアペという三輪自動車が走っています。トゥクトゥクやオートリキシャを見て、遅れていると感じても、アペを見るとオシャレと感じるという具合。
これはもう少し拡大すると、例えば日本国内でも消費税の増税論議などで、"欧米諸国と比較すると5%という消費税率は低いから、もう少し値上げしても良い"などという、幼稚な主張を平気で発表する国会議員が未だに国会議員として存在できたりする事になったりもします。欧米は進んだ社会という先入観を持った国民には"欧米と比較すると"というのが殺し文句になる事もあるのでしょうね。
少し話が逸れました。
私が旅している時に意識している非日常との接し方は、非日常を評価しないという事。旅先での非日常には"知る"努力と"慣れる"ための努力だけするようにしています。自分にとっての非日常が平然と日常として流れていく場所が存在するという事、そしてそこに自分が身を置いてみる事は自分に新しい物の見方を教えてくれると思うのです。
長い旅をしていると、最初は驚愕の非日常体験であった事がいつしか自分にとっても日常となっている事に気がつく事があります。その時自分は本当にその国の文化を少しは理解できたと言えるのかもしれませんね。
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