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8月ということで夏らしいお話を。
私がパキスタンを旅した1988年頃はその後1990年ころまで続く、世界が一瞬平穏になる時期にありました。その頃はまだ東西の冷戦構造の中にあって、日々、核戦争の脅威にさらされていて、銀行の預金残高とかで勝ち組/負け組に有頂天になるような余裕がなかった分、ある意味皆が平和とか共存とかに熱心だったのかなとも思います。
カシミール地方といえば世界情勢でも少しマイナー路線ではありますが興味を持って見ている人にとってはインドとパキスタンの国境紛争地域という位置づけになるのではないかと思います。長年に渡ってこの地域は旅行者の立ち入りは禁止されていたり制限されていたりしました。ところが、世界が平和に向かう流れの中で、カシミール地方が旅行者に開放されたのです。
ギルギットに滞在していた私の周囲で多くの旅行者が色めき立ちます。目指すはカシミール地方のスカルドゥ。今は飛行機が飛んでいるこの地も当時は現地入りする手段が無く、現地の情報もなかったのです。
正直、私の計画の中にはカシミールへの旅行はなかったので、色々な国の人がスカルドゥへの足を探し回ったり、車をチャーターするのに費用をシェアする仲間を探したりしているのをなんとなく”他人事”として眺めていたのです。
カラコルム・ハイウェイ上では大きな街であるギルギットのこと。そのうちにスカルドゥから返ってきた旅行者が現れはじめます。沢山の旅行者が噂を聞きつけて情報をもらいにやってきます。以前ここでも触れたように体調を崩して長期滞在していた私は”他人事”とはいえ、ヒマでもあるのでその会話に加わって話を聞いていたのです。
そんなある日、ふと”あれ?皆と違って自分はスカルドゥへ行けるんじゃない?”と気が付きました。皆が苦労しているのは移動手段の確保なのですが、なんと、私には自前の移動手段、バイクがあるわけです。そうすると、皆がザワザワしているスカルドゥ行きが何だか魅力的なオプションに思えてきたのです。
思いついてしまったものの、ついさっきまで他人事だった私はあまり真面目に情報を集めてはいません。心配なのでテントやシュラフを積んだフル装備で出発したのです。
理由は忘れましたが、出発が遅れてしまった私、カラコルム・ハイウェイからの分岐には当時はかなり緊張感のあふれる検問所があって、荷物も厳しく調べられました。これで更に予定は遅れてスカルドゥへ向かう道すがら野宿する場所を探す羽目になりました。まあ、それ自体は何度も経験していることなので動揺するようなことではないのですが、渓谷沿いの道ではなかなか適した場所が見当たりません。
少し日が傾き始めた頃、道路の右手、少し土手道を下ったところに広場になった場所を見つけました。オフロードバイクとは言え荷物を満載しているので、慎重に広場へ下ります。バイクを停めて荷物を下ろした頃になって、急に腹痛に見舞われました。ずっとお腹の調子が悪い私はガソリンストーブの燃料ボトルのガソリンをバイクのタンクに移して、代わりに水筒から水を入れて岩陰に用を足しに向かいます。手にした水はトイレットペーパー代わりというわけです。
用を足してバイクのところへ戻る途中、この広場に何か人工的なモニュメント状の物が沢山あることに気が付きました。小さいものなのでこの場所へ来た時にはわからなかったのです。小石を長方形に並べた”地上絵”のようなものがいくつもあるのです。
どうやら、ここは墓地のようです。
驚いた私は大急ぎで荷物を積み込んでエンジン始動。土手道を戻って再び道路へ。薄暗くなり始めた道を進みます。今度は道路の左側にそれほど広くはない広場を見つけました。地面に長方形の模様が無いかを慎重に見極めてからその広場にバイクを乗り入れてテントを設営したのです。
先程水を詰めたガソリンストーブの燃料ボトルに今度はバイクのタンクからガソリンを移して夕食の準備です。バザールで適当に買い集めた根菜類を水で煮て、コンソメスープの素で調味するのがそこの頃よく食べていた定番の食事だったのです。
食事を終えたらもう周囲はすっかり真っ暗です。やることも無いので眠る事にしたのですが静かになってみると、”カラカラ””カラカラ”と不思議な音が聞こえてきたのです。
ヘッドランプを手に持ってテントから這い出た私は耳を澄ませながら音のする方を照らしてみます。広場の端から立ち上がっている崖の岩が少しずつ崩れて落ちてきている様子です。そういえば崖の下には大きな岩もいくつも落ちています。
一瞬、ここで寝るのは危険かとも思いましたが、もう動く気力もなく、崖の下から少し離れているから大丈夫だろうと思うことにしたのです。
さてその夜のこと。
私は定番の悪夢、何かに追われて逃げ惑う夢を見たのです。その夢の中で私は呼吸が上手くできずに懸命に酸素を求めてアップアップしているのです。低い草に覆われた広場を抜けながら呼吸をしようともがいているのです。
そんな私の前に野原を流れる小川が現れたのです。そしてその小川の向こうには母が立っているのです。
”どうや?元気にしてるか?”
母は私に声をかけます。
”元気は元気なんやけど、なんでか息ができひんのや”
と答える私に
”とりあえずこっちへ来てみいな”
母に言われるまま、私は小川をポンと飛び越したのです。
その瞬間に呼吸ができるようになって、母の姿も消え、野原も消え、テントの中でゼーゼーと息を弾ませている私に気がついたのでした。
思えばここは標高の高い場所。寝ている間に何かの拍子で酸素を求めてあえぐ事になったのでしょうか。
野宿していて悪夢を見るのは決まって、何か不安材料を抱えたまま妥協して眠ってしまった時なのです。今回はおそらく崖崩れの不安だったのかなとも思います。
この話は最初に墓地で野宿しそうになった話と絡めたり、小川を三途の川にたとえてみたりして、飲んだ席などでチョットした怪談風に仕上げて話すネタとなっています。その意味での”夏っぽい話”でありました。
結局のところ、崖崩れに巻き込まれることもなく、墓地から追いかけてきたお化けに襲われることもなく、翌日にはスカルドゥへ。
更に進んでサトパラ湖畔のビジターセンター...みたいなところの庭で野宿させてもらったのでありました。
私がパキスタンを旅した1988年頃はその後1990年ころまで続く、世界が一瞬平穏になる時期にありました。その頃はまだ東西の冷戦構造の中にあって、日々、核戦争の脅威にさらされていて、銀行の預金残高とかで勝ち組/負け組に有頂天になるような余裕がなかった分、ある意味皆が平和とか共存とかに熱心だったのかなとも思います。
カシミール地方といえば世界情勢でも少しマイナー路線ではありますが興味を持って見ている人にとってはインドとパキスタンの国境紛争地域という位置づけになるのではないかと思います。長年に渡ってこの地域は旅行者の立ち入りは禁止されていたり制限されていたりしました。ところが、世界が平和に向かう流れの中で、カシミール地方が旅行者に開放されたのです。
ギルギットに滞在していた私の周囲で多くの旅行者が色めき立ちます。目指すはカシミール地方のスカルドゥ。今は飛行機が飛んでいるこの地も当時は現地入りする手段が無く、現地の情報もなかったのです。
正直、私の計画の中にはカシミールへの旅行はなかったので、色々な国の人がスカルドゥへの足を探し回ったり、車をチャーターするのに費用をシェアする仲間を探したりしているのをなんとなく”他人事”として眺めていたのです。
カラコルム・ハイウェイ上では大きな街であるギルギットのこと。そのうちにスカルドゥから返ってきた旅行者が現れはじめます。沢山の旅行者が噂を聞きつけて情報をもらいにやってきます。以前ここでも触れたように体調を崩して長期滞在していた私は”他人事”とはいえ、ヒマでもあるのでその会話に加わって話を聞いていたのです。
そんなある日、ふと”あれ?皆と違って自分はスカルドゥへ行けるんじゃない?”と気が付きました。皆が苦労しているのは移動手段の確保なのですが、なんと、私には自前の移動手段、バイクがあるわけです。そうすると、皆がザワザワしているスカルドゥ行きが何だか魅力的なオプションに思えてきたのです。
思いついてしまったものの、ついさっきまで他人事だった私はあまり真面目に情報を集めてはいません。心配なのでテントやシュラフを積んだフル装備で出発したのです。
理由は忘れましたが、出発が遅れてしまった私、カラコルム・ハイウェイからの分岐には当時はかなり緊張感のあふれる検問所があって、荷物も厳しく調べられました。これで更に予定は遅れてスカルドゥへ向かう道すがら野宿する場所を探す羽目になりました。まあ、それ自体は何度も経験していることなので動揺するようなことではないのですが、渓谷沿いの道ではなかなか適した場所が見当たりません。
少し日が傾き始めた頃、道路の右手、少し土手道を下ったところに広場になった場所を見つけました。オフロードバイクとは言え荷物を満載しているので、慎重に広場へ下ります。バイクを停めて荷物を下ろした頃になって、急に腹痛に見舞われました。ずっとお腹の調子が悪い私はガソリンストーブの燃料ボトルのガソリンをバイクのタンクに移して、代わりに水筒から水を入れて岩陰に用を足しに向かいます。手にした水はトイレットペーパー代わりというわけです。
用を足してバイクのところへ戻る途中、この広場に何か人工的なモニュメント状の物が沢山あることに気が付きました。小さいものなのでこの場所へ来た時にはわからなかったのです。小石を長方形に並べた”地上絵”のようなものがいくつもあるのです。
どうやら、ここは墓地のようです。
驚いた私は大急ぎで荷物を積み込んでエンジン始動。土手道を戻って再び道路へ。薄暗くなり始めた道を進みます。今度は道路の左側にそれほど広くはない広場を見つけました。地面に長方形の模様が無いかを慎重に見極めてからその広場にバイクを乗り入れてテントを設営したのです。
先程水を詰めたガソリンストーブの燃料ボトルに今度はバイクのタンクからガソリンを移して夕食の準備です。バザールで適当に買い集めた根菜類を水で煮て、コンソメスープの素で調味するのがそこの頃よく食べていた定番の食事だったのです。
食事を終えたらもう周囲はすっかり真っ暗です。やることも無いので眠る事にしたのですが静かになってみると、”カラカラ””カラカラ”と不思議な音が聞こえてきたのです。
ヘッドランプを手に持ってテントから這い出た私は耳を澄ませながら音のする方を照らしてみます。広場の端から立ち上がっている崖の岩が少しずつ崩れて落ちてきている様子です。そういえば崖の下には大きな岩もいくつも落ちています。
一瞬、ここで寝るのは危険かとも思いましたが、もう動く気力もなく、崖の下から少し離れているから大丈夫だろうと思うことにしたのです。
さてその夜のこと。
私は定番の悪夢、何かに追われて逃げ惑う夢を見たのです。その夢の中で私は呼吸が上手くできずに懸命に酸素を求めてアップアップしているのです。低い草に覆われた広場を抜けながら呼吸をしようともがいているのです。
そんな私の前に野原を流れる小川が現れたのです。そしてその小川の向こうには母が立っているのです。
”どうや?元気にしてるか?”
母は私に声をかけます。
”元気は元気なんやけど、なんでか息ができひんのや”
と答える私に
”とりあえずこっちへ来てみいな”
母に言われるまま、私は小川をポンと飛び越したのです。
その瞬間に呼吸ができるようになって、母の姿も消え、野原も消え、テントの中でゼーゼーと息を弾ませている私に気がついたのでした。
思えばここは標高の高い場所。寝ている間に何かの拍子で酸素を求めてあえぐ事になったのでしょうか。
野宿していて悪夢を見るのは決まって、何か不安材料を抱えたまま妥協して眠ってしまった時なのです。今回はおそらく崖崩れの不安だったのかなとも思います。
この話は最初に墓地で野宿しそうになった話と絡めたり、小川を三途の川にたとえてみたりして、飲んだ席などでチョットした怪談風に仕上げて話すネタとなっています。その意味での”夏っぽい話”でありました。
結局のところ、崖崩れに巻き込まれることもなく、墓地から追いかけてきたお化けに襲われることもなく、翌日にはスカルドゥへ。
更に進んでサトパラ湖畔のビジターセンター...みたいなところの庭で野宿させてもらったのでありました。
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