旅のウンチク

旅行会社の人間が描く、旅するうえでの役に立つ知識や役に立たない知識など。

共同体意識の閉鎖性

2007年04月26日 | 旅行一般
戒律で連帯で触れたように、いくつかの宗教の一つの機能として、一定の価値観を共有する事によってお互いが猜疑心を抱きながらしか接する事ができない不幸を回避しようというものがあると思います。今の日本のように資本原理主義が進展しはじめると、交渉というのは相手を陥れて自分だけが利益を得ようと考える事であったり、いかに相手のミスを探し出して自分に最大限有利な条件を引きだすかという事だと考えるようになったりする事に歯止めが無くなって、そういった事に長けた人間が交渉上手とかビジネスセンスのある人間であるという事になったりしていくわけですが、そんな中で日々周囲に猜疑心を覚えながら見えない心配事を抱えて暮らしていくのは不幸であるという事を発見した立派な人が今から2000年とか1500年前に存在したとも言えますし、その頃も今みたいに社会の弱肉強食化が進んでいたのかもしれないとも想像できます。

この点では仏教思想というのは弱い所があって、本来の思想が自己の中での"発想の転換"的なところに不幸を感じる心の解決を求めているものなので、社会全体の価値観というものを統一していく指向に薄いため、その後の人間社会の変化で異った民族の接点が増えるに従って上手く機能しなくなっていったのかと想像しますが、仏教は歴史の長い思想でもありますので、仏教思想の流れの中で、キリスト教やイスラム教の流れを取り入れた宗派も存在します。

ところが、この方法論は両刃の剣の部分があって、同じ価値観を持った人間をより多くしていく事がより広い範囲での安心に繋るため、思想を広めるという必要性があります。ところがこれを広めていくと、どこかで別の思想との接触が発生し、その際に他の価値観に対して寛容になれない部分が出てきてしまいます。このあたりが宗教紛争というものに結びついているのではないかと思えます。そして、仏教的な発想をベースにしている日本人の多くにはなかなか理解できない部分でもあるのでしょうが、同好の志が集るソーシャルネットワークサービスや同好会が閉鎖的な方向に走りやすい事と似ていると考えれば少しは身近なものに思えるのではないでしょうか。

バイクの世界なんかにもありますね。"オフロード派"、"オンロード派"、"レース派"、"ツーリング"派"などから始まって、"ホンダ党""ヤマハ党"、"スズキ党"、"カワサキ党"などなど、とかく人は自分をどこかに分類して、同じ仲間を探して安住の地を見つけだしたいもののようですね。

キリスト教よりも更に新しい宗教であるイスラム教がより異教徒に対する"改宗"への働きかけに積極的な意見をもっているのは既存の宗教が存在している事を前提に思想が組まれているからだと考えられます。このあたりは既存の"資本主義"という体制に対して新しい秩序を生み出そうと考えたマルクス/レーニン主義が革命という方法論を思想の中に持っている事と似ているといえば似ていますね。

こういう部分は思想が組まれた社会の背景に関連している事であって、キリスト教やイスラム教の思想が組まれた頃にはここまで広範囲の人間が密接に接点を持つ事が想定されていなかったのではないでしょうか。馬やラクダ、徒歩での行動半径から人間はジェット機で移動するまでに行動範囲を広げたわけで、そこで上手く機能しない部分が出てくるのはやむを得ない事だと思われます。

ただ、そういった上手く機能しない部分が出てきたからといって、宗教が人の幸福を考えて練られた思想である事は変わりないと思うのです。それは仏教もキリスト教もイスラム教も同じなのです。ですから、各地で今も続く宗教紛争を見て宗教に対してアレルギー的な反応を示したりするよりも、これらの中に込められた人がより幸福に呑気に生きていくための知恵を汲み取っていく方が良いのではないかと思うのです。

それから、日本人の多くには各地で発生する宗教紛争そのものが理解できないという事に、もしかすると宗教紛争を収束させるヒントがあるのかもしれないと思うのです。"宗教は恐いねぇ"などと他人事のように評論していばかりに終始していないで、自分たちに何ができるのかを考えてみるべきなのかもしれません。


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