旅のウンチク

旅行会社の人間が描く、旅するうえでの役に立つ知識や役に立たない知識など。

知識と体験

2007年04月09日 | 旅行一般
いろいろな人と話をしていて感じる事の一つに知識と体験の関係があります。知識というものも源泉には誰かの体験があり、誰かの体験の追体験として知識があると考えると、この2つには同じようなパワーがあると思うのですが、知識だけを元になされる話と、体験から出てくる話の間には全く反対の方向性を感じていたのです。

知識だけから出てくる話はどうも偏狭で柔軟性に欠けるように感じられるし、逆に体験を元に語られる話には、視野の広さを感じるという点でこの2つはまったく反対の方向性を持っているのではないかという事です。

知識というものは、元となった人の体験を追体験する中で類似した状況においてどのように判断すればよいかの判断材料となるのですが、一方で知識だけを頼りに物事を考え、判断しようとする場合、元となる知識に自分が今考えている内容を知識の中から類似した状況を探し出してあてはめようとするように思えます。もし、こういう方法だけを頼りに様々な事を判断しようとするのであれば、それは膨大な知識を有している必要性があると言えます。

また、自分があてはめた知識が全くオカドチガイという場合もあります。何でもかんでも資本主義や民主主義という知識で説明しようとすると、たとえば貧富の格差拡大という資本主義というシステムが抱える問題を論じる際に、"資本主義なのだから仕方がない"という本末転倒で偏狭な意見しか持てなくなったりするのではないかと思うのです。だいたい資本主義を肯定するのであれば、その構造が抱える問題点をいかにして解決していくかを考えるのが意見というものであって、資本主義を発展させていくうえで必要なものだと思うのですが。

一方、体験というものは"百聞は一見にしかず"という言葉もあるように、自分の今まで頭の中にあったものが現実といかに遊離していたかを気づかせてくれるものであると言えます。

ただし、体験というのはあくまで自分の主観的な考えを作り出していくだけであるという側面もあるのです。自分が体験から得た考えに対して、より多くの角度から見直しをかける上では知識というものはこの上なく約に立つものであります。

知識は単体では視野を狭める作用を持ち、体験の上に立脚すると自らの視野をより広げる作用を持つと言えるのではないでしょうか。

テレビ、雑誌、インターネットなどなど、情報や知識を得る手段は身のまわりに溢れています。でも、体験を得る手段は今でもたった一つ。自らの身をそこへ運ぶ事しかありません。しかし、そこに自らの身を置く事には日常よりも常にリスクが伴います。その事に怯えて、知識だけで武装しようとしてはいないでしょうか。

知識ばかりが先行して、体験の不足した偏狭な話が溢れてきたと感じるのは私だけなのでしょうか。


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