橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

祝島へ行った その9 今日は一休み なごみの祝島B級写真集

2010-07-22 22:53:53 | 祝島へ行った
「祝島へ行った」も今回でその9。
10回目を迎える前に、ちょっと一休みして、
これまでの流れのなかで紹介するタイミングがなかった
写真を集めました。

これは、前回紹介した平さんの棚田でみかけたうしがえるです。


「うしがえる」がどんなかえるかはよく知らないのですが、
この鳴き声を聞いて、うしがえるだと確信しました。

祝島うしがえる


写真の姿を見る前に、この声が聞こえました。
あ、どっかに牛がいる?と思ったのですが、見渡せど牛はおらず。
で、声の方向をよくよく見ると、上の写真に写ったかえるがいたというわけです。
これ「うしがえる」ですよね。

そして、かえるの次は「くらげ」


浜で干からびかけていました。
こういうガラスのオブジェがあったらきれいですね。
よく見ると、端っこの方が干からびて石に張り付き
茶色いラインが石の模様のようになってますね。

このくらげが干からびていた入り江です。

写真では写っていないのですが、肉眼だと、水の中に15~20cmくらいの魚が
たくさん泳いでいるのが見えます。
こんな陸地の近くまでお魚がやってきてウヨウヨしてるんですよ!

バッテリーがなくなって写真とれなかったんですが、
この日、休日学校に来ていた小学生たちは、防波堤で、
バケツ一杯のアジを釣ってたなあ。入れ食いって感じでしたよ。



そんな桟橋のそば。こんなところにも黄色い花。
ただの雑草が、捨てられた(?)木枠から伸びてるだけなんですが、
その無造作な感じも自然の生け花みたいでかわいいなあ。

こちらは、朽ち果てたガードレール。絵になるなあ。


新しい白いガードレールだったら、この景色の中で浮いてしまうけど
ここまで朽ちると、鉄も自然の風景にとけ込むのだな。
鉄だって自然界の産物。

祝島は、朽ち果てたものが廃墟に見えない不思議な場所だ。

こんな場所も。

この重機もう使われてないのかな?

そして、ここは朽ち果てたものたちの集まる場所、粗大ゴミ置き場。

しかし・・・

この明るさは何なんだ・・・


天気がいいからなのかなあ。ゴミの放つ負のオーラが無い・・。
ドヨ~ンとした感じがしないのは、ゴミが成仏してるからなのか?


実は、粗大ゴミ置き場まだまだこんなに広いんです。
目の前は青い海。
ストーブ、自転車、扇風機・・ゴミとの思い出を廻らせながら
最後のお別れに酒盛りさえできそうな粗大ゴミ置き場でした。

そして、川の無い島にとってものすごーく大切な貯水槽。
蔦がからんで山にとけ込む・・。


トリはこの方。鳥です。


特等席で海を見つめて何思う。
祝島の昼下がりは、今日ものどかに過ぎてゆく。

祝島へ行った その10に続きます。

祝島へ行った その8 平さんの棚田

2010-07-18 16:33:31 | 祝島へ行った
今日みたいな、気持ちのいい晴れ渡った夏の日は、また祝島に行きたくなるなあ。
というわけで、今日は、祝島の話の続きで、「平さんの棚田」の話から。


棚田は、段々畑の上の方にあるのだが、そのまま自転車で行った。
結果、自転車で行けました。
最初の登り口は斜面の傾斜がきつくてちょっとヘタリそうになったが、しばらく行くと傾斜が緩くなってきて、降りて引くこともあったが、半分くらいは漕いで進むことができた。
 


途中で、徒歩で上っていた集団とすれ違い「徒歩だとあと30~40分くらい先だから自転車だったらもっと速いと思いますよ」と言われ、目標が見えて元気が出る。

景色が開けた場所で、自転車を止めた。

この景色。山に登ってきて本当に良かった~と思った瞬間だ。
ママチャリがまたいい味だしてるでしょ。自転車のって来て良かった~。

というわけで、縦バージョンの写真も載っけちゃお。
こっちには、海の上に、小さく船が写ってます。


日差しは強いんだけど、時々気持ちのいい風が吹きすぎる。
この時はまだ5月だが、懐かしい夏休みの風情だ。

この時の気持ちよさは、その後の私の意識に深―く刻み込まれたようで、もはや私は都会のオフィスのような場所で働けない身体になってしまった。つい3ヶ月前まで、窓も無いオフィスで毎日働いていたのに、もうそういう仕事には足が向かなくなっている自分がいる。それにネクタイした人にもう囲まれたくないしなあ。
あくせくするのがイヤだというのもあるが、
祝島のこの青い海と青い空と、そして、このあと行く平さんの棚田を見て思ったのは、もう、自分に嘘付いてやる仕事はしたくないということだ。



到着した平さんの棚田はでかかった。
幅は50mほど、高さは1段8m~9mと日本でも有数の規模の棚田だ。
なのに、岩を積むのに機械は使っていない。ましてや作業は平さんの一家だけで行ったという。自らの強い意思によって、親子3代で完成させたものだ。平地が少ない祝島では、田んぼを作るにはこうした棚田を作らねばならなかったのだろう。
この辺は掘ると岩がゴロゴロ出るからそれを積んで行ったのだと、どなたかのブログで読んだが、この大きな石を自らの手だけで運んで積む作業は並大抵ではない。
人間これだけのことができるんだと感激すると同時に、その作業を想像すると途方に暮れた。

この棚田は、平さんが、人間の力と自分の力を信じて、作業をやり続けてきた結果だ。この棚田にくる観光客や取材者は、棚田に結晶した「人間・平さんの奇跡」に驚き、感動するのではなかろうか。

棚田作り3代目の平萬次さんはもう70代で、この棚田を守るのももう自分の代で終わりだと語っているらしい(ご本人に取材できてなくて、これもどこかで読んだものです。すいません)。
人間の作り出すものは偉大だが、その大変な作業を継ぐものがなければ、潰えてしまう。人間は基本的に怠け者だから、潰えるのも簡単だ。特にこの棚田のような大変な仕事は、一人の人間の奇跡のような行動力によるところが大きい。そして、誰にでもその奇跡は起こせるものではない。中心人物がいなくなって、消えて行ってしまうものも世の中には多い。

見上げると、ボランティアの若者たちが、石垣の草刈りをやっていた。
小さくて分かりづらいかもしれないが、下の方に小さく写っているのがその人たち(石垣の巨大さが分かりますね)。


彼らは、みな島の外から来た人たちだ。中には、東京から来たという女性もいた。

当事者で無いのに、こうして石垣の草刈りをしたり、また、いっしょに原発に反対し、祝島の自然を守ろうとする人がいる。
それは、そもそも祝島の人たちが、一番一生懸命に自然を守ろうとし、伝統的な暮らしを守ろうとしているからだ。
その賢明さや奇跡のような行動力に感銘を受け、当事者でない人々もこうしてやってくる。

そういえば、数回前に書いた「祝島のスマートグリッド構想」などはそんな事業の典型ではないだろうか。外部の人々が、祝島の人々の志の高さに共鳴し、民間と有志による出資で祝島に原発のいらない社会を現出させようとしているのだ。

一人の人間の奇跡、一つの小さな島の奇跡を、日本の奇跡に広げて行くためには、私たちみんなが、小さくてもいいから奇跡の行動力を発揮せにゃならんのよねえ。

そのために最低限必要なのは、自分に嘘をつかないことなのだろうと思う。
自分に嘘をついていたら、多分いつかは投げ出してしまうから。
投げ出さず、あきらめずに続いている祝島の原発反対運動や、根気よく作られた棚田を見てそう思った。
自分に嘘をついていない証拠に、祝島で出会った人たちの表情は明るい。

山から下りて、浜で出会ったじいちゃんに、「棚田に自転車で行ってきた」と話したら。
「自転車で上ったのはあんたが初めてじゃろ」と言われ、ちょっと嬉しくなった。
いや、ただのアホって思われただけかもしんないけど、そんなことはどっちでもいい。
自転車でのぼってみて良かったと思ってるからな、自分で。
私も自分に嘘付かないでがんばろ!!

というわけで、「祝島へ行った」はもう少しだけ続きそうです。









祝島へ行った その7 祝島の第一次産業と「循環」すること

2010-07-11 09:20:57 | 祝島へ行った
前回、氏本農園さんの豚と牛のことを少し書いたが、その後のことを続ける。


氏本さんところの豚ちゃんを眺めていると、突然山からパーンという猟銃の音がした。えっ?この小さな山で猟をしてるの?と耳を疑ったのだが、しばらくするとまたパーンという音が聞こえる。
側で子供達に豚を見せていたNPOの休日学校の先生に聞いてみたが、その音の正体は知らないようだった。
近くに島の人も見当たらず、この山で一体「何」が捕れるんだろうか・・・と思いながら、再び自転車を漕ぎ始めた。
真っ青な空の下で響く銃声は、その「何」かがなんだかよくわからないのもあって、少し不安な気分になった。
誰もいない道に立っていると、島には、私と猟銃を構えた姿の見えない猟師の二人しかいないような気分になった・・・。
なーんて、文学みたいというか、ちょっと感傷的な気分に浸っていたのだが、東京で「ミツバチの羽音と地球の回転」の上映会で氏本農園の氏本長一さんに話を聞いてその謎が解けた。
あの銃声、ひどく合理的なものだった。

実はあの銃声は録音したものを流しているのだ。

山に植えてある「びわの実」をカラスから守るために定期的に鳴らしているらしい。

こうした銃声でカラスを追うやり方は、全国どこのびわ農家でもやっているというものではないらしい。
祝島のびわはほぼ無農薬なので、カラスに突かれやすいのだ。
映画「ミツバチの~」の中でも、びわの収穫の場面が出てくるが、もともと山の斜面に海からの照り返しがあり、かつて柑橘類を作っていた祝島の段々畑で、その上無農薬で、祝島のびわは作られている。まずいわけがない。
カラスはそれを一番よく知っているというわけだ。
あの銃声は、不安どころか、祝島のびわの品質を保証する音だったのである。

そして、祝島といえば、やはり漁業と海産物である。
しかし、今回は土曜日だったからか、海藻取りやその加工作業などに出会う事はなかった。また、桟橋の船の周りにもほとんど人がいなかった(たまたま私が通った時間にいなかっただけかもしれないが)。

そんな中で、唯一、船底を洗っているおじいちゃんたちに出会った。


ホースからものすごい強い水圧の水が出て、船の底にくっついたフジツボなどを剥がすのだそうだ。
写真ではよく見えないけど、特別な洗浄機がここに置いてある。
この洗浄機は、島の漁協(たしか漁協と言ってたと思うのだが間違ってたらすいません。とにかく船持ちの人たちが共同で)で買ったのだと言う。そして、この洗浄機を1回使用するごとに1万5000円払うと言っていた。こういう船の掃除も外の業者に出したりせず、全部自分たちでやっているのだ。昔はみんなそうだったわけだから当然と言えば当然だが、いまだに全て自分たちの手でメンテナンスまでやっているのは離島ならではかもしれない。

アウトソーシングするとよそに出て行ってしまうお金が、これで島の中で廻る。高度成長以降いろんな仕事を大都市圏の会社や工場にアウトソーシングするようになってから、地方の富は中央に吸い取られるようになってしまった。
こうしたおじいちゃんたちの姿勢は、今後再び地方が再生するためのヒントとなりうると思った。

氏本農園の生ゴミと豚の餌の関係といい、祝島には「循環する」ものが多い。多分これは「離島」だからなのだが、「循環」とか「サスティナブル(持続可能な)」ということが時代のキーワードとなっている今、「離島」はほかにも私たちの暮らしのヒントとなるものをたくさん持っているに違いない。

氏本さんのブログによれば、祝島も一時期は便利な農業を求めて、耕耘機や化学肥料を外部から取り入れ、そのことが離島農業の持続性や循環性や有機性を衰えさせ、逆に高コスト化をもたらして市場性を失う結果となったという。
祝島だってそうした反省から再び今があるのである。

と、今回はここまでにします。「祝島へ行った」はまだ続きます。

祝島へ行った その6 のんびりなだけじゃない インディペンデントな祝島の第一次産業 

2010-07-06 23:31:28 | 祝島へ行った
前回は、祝島にスマートグリッドが設置されるかもしれない話を書いたが、
今回はやっとやっとやーっとのことで、「祝島へ行った」の続き「その6」。

のーんびりした祝島散歩から垣間見えたインディペンデントな祝島の第一次産業について。

第一次産業についてですとは言ったものの、今回の祝島の旅、たった一日の滞在。島の人の話をじっくり聞いた訳でもない。たまーに人を見かけても、のんびりした土曜日の昼下がり、突然、話聞かせてくださいなんて素性も分からない人間に話しかけられたら地元の人も引くかなあと思ったりして、世間話の下手な私は、おのずと遠巻きに島を眺めることとなってしまった。実際、おじいちゃんたちが集まって話しているところに声をかけたが、うまく話が繋げなくて妙な空気になってしまったし(笑)。

そんなわけで、島の第一次産業を語るとはいっても、情報は限られていて、かなり勝手な希望的観測にならざるを得なかったのだが、先日(6月19日)、祝島の事をとりあげた映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を見る機会を得、その時同時に鎌仲監督と祝島の氏本農園さんのトークも行われたので、その想像の部分を埋めてもらうことができた。
「ミツバチの羽音と地球の回転」オフィシャルサイト

映画上映後の鎌仲ひとみ監督と氏本農園さんのトークショー

(ぜんぜん顔が分からんサイズですいません)

まさに、映画では、私が歩いた祝島の風景の向こう側、私が見られなかった練塀の中、平日の朝、海に出ている船の上等々の人々の生活が丁寧に描かれていたのだった。

というわけで話は再び、5月の青空の下、祝島で自転車に乗ってる私に戻ります。


<祝島でのデジャブ>

前回も書いた通り、訪れた祝島には食堂が一軒もなかった。
ガイドマップを見ると、宿はある。商店も数件あるが、当然のごとくチェーン店などというものはなく、個人経営の店しかない。家電屋などは見当たらず、確か、定期船で大きな薄型テレビが運ばれて来ていた(この時見当たらなかっただけで、祝島ホームページを見たら電器屋さんありました)。銀行はなく、金融機関は郵便局が担っている。ゆうちょしか無いのが過疎地の一つの象徴だ。

そしてその時、以前、これと似たような風景を見た事があることに気付いた。
阪神大震災の年の夏、旅番組の仕事で行った、高知県は四万十川沿いの西土佐村で見た風景だ。
川に沿って走る国道は一車線で、道のコブのところでしか車がすれ違えない(現在どうかは確認していない)。小さい郵便局があって、その側に民宿が一軒、向かいによろず屋が一軒、ちょっと離れた所に食品のお店が一軒。チェーン店なんてあるわけがない。山の奥でもないのに陸の孤島みたいなところで、だからこそ四万十のの自然が守られていたのだ。
そして、この時の取材で、将来の地元の農業を支えることになるリーダーと出会った。
当時、お茶を地場産業にしようと四万十ドラマという会社を立ち上げたばかりだった畦地履正さんだ。この事業は15年後の今、四万十川の自然を守りながら地産地消をすすめるビジネスとなり、四万十ドラマは地域を支える会社として成功をおさめている。畦地さんは「四万十のリショー」として大活躍だ。私がボヤボヤしていたこの15年の間に四万十の人々は着実に自然とビジネスを共生させてきたのだ。
そんな四万十の人々に当時私が感じたのは、田舎を「田舎だから」などと卑下しない誇りだ。銀行もスーパーマーケットも本屋もない集落でみんな楽しそうに暮らしていた。

あれから15年が過ぎた初夏、なーんにもない祝島の風景を見ながら、私は、かつて四万十川に行った時のような気分になっていた。そして、多分ここにもそんな誇りと暮らしがあるんだろうなあと想像した。


<中電さん知ってますか? 祝島の第一次産業の力>

祝島の漁業や農業については祝島ホームページ祝島市場ホームページで行く前から簡単には知っていた。
地元のひじきやイカやタコ、びわやびわの葉茶などは通販でも売られていて、多くの注文が入っているようだ。しかし今年は原発の反対運動で忙しくて思うように出荷量を確保できず、サイトには、注文になかなか対応できず申し訳ありませんというお詫びが掲載されていた。
私は、島には地元産品の販売所があって、そこに行けば、島の漁業や農業の話も聞けるだろうと安易に考えていた。
しかし、そんなもんは無かった。驚くほど祝島は観光化されていなかった。今考えれば、そんな販売所があると思っていた私のほうがおかしいかったんだという気さえする。
次の瞬間、私は農業や漁業について島の人に話を聞こうという野望はとっくに捨てて自転車を漕いでいた。
 
そんな私の目と耳に飛び込んできたのは、ブーブーという鳴き声と走り回る豚ちゃんたちの姿だった。
 
 電気の通ったこの細い柵だけで囲まれた広い敷地の中を豚たちは走り回っている。餌をもらえると思うのか、人が柵に近寄ると、豚もブーブーやってくる。
写真には写っていないが、NPOの休日学級で来ていた子供達も戯れて、豚ちゃんたちは幸せそうだ。
ここが、後に知る映画にも出る氏本農園だったのだが、この時はつゆ知らず、畜産やってる人もいるんだあくらいに思ってて、これだけ元気に飼われた豚なら、都会ではさぞかし高い値段で売れるんだろう、東京には出荷してるんだろうかなんて夢のないことを考えていた。
目の前のかわいい豚ちゃんの姿をすぐにお金に換算してしまうのは、原発に反対していることがやせがまんではないことを第三者に納得させるだけの経済力を持って欲しいという思いがあるからだ。つまり、’経済的には第一次産業で十分やってけますから’、補助金とかいらないんですとはっきり言える経済力を持って欲しいのだ。

というのも、映画「ミツバチの羽音と地球の回転」の中にはこんな場面がある。
中国電力の職員が祝島の住民に対し、「この先、第一次産業でやっていくのは無理だから、みなさんを助けてあげようと思って原発を誘致するのだ」と言って説得するのだ。

しかし、こんなことを言う中電職員は、はっきり言ってアホである。

彼ら中電さんは、氏本さんちのソーセージ(正確にはニュールンベルガー)が一体いくらで売れていると思っているのだろう。

1000円ですよ! 4本で1000円。160gで!
添加物は当然無し。その値段でも良いものならば買う人はいるのだ。
氏本さんの商品は、私が現地の豚ちゃんたちを見て思った通り、東京のレストランなどに良い値段で出荷されているのだそうだ。中電が言う第一次産業じゃやってけないなんて大嘘だ。
 
さらに言えば、そのおいしさの秘密は、放し飼いだけでなく、島の人の家から出る果物や野菜の皮などの生ゴミを餌として有効利用している点にもあったりして、ゴミも減る上においしい肉になるという一石二鳥。誰にも文句は言わせない。
その辺は「ミツバチの羽音と地球の回転」の中で詳しく描かれているので、そちらを見て下さい。

あと、余談ではあるが、こんな牛ちゃんもいた。

あんまりおとなしくてのっそり座っているもんで、一瞬我が目を疑ったが、もう普通に道路のすぐ脇に鎮座していた。刺激したら飛びかかってくるぞというようなすぐ目の前。最初はぎょっとしたけど、つぶらな瞳を見つめていたら、なんだかかわいく思えてきた。じろっとこちらをにらんだ瞬間を写真に収めようとしたんだけれど、タイミングが合わず。
 後日、氏本さんのブログ氏本農園・祝島だよりを見たら、この翌日(5月9日)に一頭の牛が出荷されて行ったそうな。それはこの牛だったんだろうか??

ちなみに、こちらは映画の会場で売っていた島のおばちゃんたちが茹でたタコ足、500円。

解凍して最初はお刺身で、残った分は翌日ソテーしたら旨旨だった。
サラダにだってできるというほど柔らかくておいしいという「ひじき」は既に完売で手に入らず。残念。
 
ネット通販祝島市場の世話をする青年、山戸孝さんは、映画の中で、まだまだ大変ですと語っていたが、「あんたら中電が来んかったら、通販の注文に全部対応できてもっと儲かるんよ」というおばちゃんたちの声が聞こえてきそうだ。絶対に可能性のある事業である。

四万十の畦地さんの例でも分かるように、ものの価値を理解するリーダーさえいれば、過疎地の第一次産業は武器となる。そして祝島には氏本さんや、まだ若い山戸さんがいる。

そんな氏本さんのブログの最新記事(6/29付け)はなんとマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』。上関原発計画に対し、共同漁業権管理委員会の多数決に従わず、祝島だけが反対している事の正当性を確認し、正義の所在を確かめたいという。これだけを読んでも、ただ感情的に反対運動をしているのではないということが分かる。
また、このブログでは、昨今の口蹄疫問題にも触れ(5/26付け)、離島の価値を再確認するなど、とても示唆にとんだ記事が多い。是非ご一読をお勧めします。
 
島の人が、こうした努力をしている一方で、電力会社など既得権にぶら下がる人々は、志しある第一次産業からの挑戦がいかにビジネスとして力を持っているかを、中々理解しない。
いや理解したとしても、もっと大きな意思のもとで原発誘致は進められ、覆す事が容易ならなくなっているのかもしれない。

しかし、過疎地とか第一次産業に対する見方を変え、世間一般の価値観に少しずつでも風穴を開けていく事で状況は変わりうるはずだ。
これからは、過疎地にこそ新しい価値が生まれ、そうした価値観がさらに新しい時代を切り開いていくと思う。
わたしも、これから「今こそ過疎地」「今こそ離島」と訴えてみようかなあ。
うちの実家のあたりも10年後には人口半減の予測が出ているらしいし・・・。

なんだかまとめに入ってしまった感があるのですが、
次回は、祝島で見かけた農業漁業に関することで、今回入れられなかった事を続けます。
 

祝島へ行った番外編  ヤバいぜ!なんと祝島にスマートグリッド構想!

2010-07-05 21:02:48 | 祝島へ行った
高城剛の本みたいなタイトルで、のっけから、おまえのそのテンションの方がヤベーだろと突っ込まれそうなんですけど、ホンッと超Cool!とか思ったんで、ってそれもちと古い?とか言われそうなアラフォーの私ですが、皆さんいかがおすごしでしょうか、ってそれはきっこの日記だろ、と一人突っ込みがうざい私ですが、本題に入ります。

私だけが無知なのかもしれませんが、今日、ツイッターのタイムラインで環境エネルギー政策研究所ISEP(@isepjapan)の飯田哲也さんらが祝島に太陽光発電のスマートグリッド構想を進めていることを知りました。

以下、飯田哲也さんとスマートグリッド開発などを行う慧通信技術工業の粟田隆央さんのやりとり引用。

<ツイッターから引用>
RT @Takao_Awata:まさにそんなイメージです。第1弾は全戸太陽光、可能な範囲で太陽熱、その後バイオガスなどへ展開予定。  @iidatetsunari 祝島は人口501人(2010年2月末現在)のうちご高齢の方が過半数のようですが、子々孫々と原料相場に影響されない電気料金と放射能の心配のない現実的な「スマートグリッド」を作りましょう!
<引用ここまで>

祝島スマートグリッド実現の資金として、現代の「講」的な市民出資を募るそうです。一般の金融機関が本来の地域振興の役割を果たしていない今、こうした志でつながる人々の出資を呼びかける動きを最近いろんなところで耳にします。善意が世の中に受け入れられ始めたというか、「偽善」という言葉に逃げ込んでいただけの現実主義者(良くない意味でね)も世の中の変化には抗えなくなってきているということですな。

にしても、あの祝島がスマートグリッドの島になったら、なんてかっちょいいんでしょうねえ!
自然と人と最先端技術が合体したすばらしい島。世界にも誇れる、21世紀の人間の生き方を提示する前線基地になりそうです。

もちろん、日本全国、地形も気候も違いますから、地域ごとにやれることは異なってくるとは思いますが、こうした祝島の動きをきっかけに、地方自らが、自分たちに合った地域の暮らし方を模索して行き始めたら最高ですね。
既得権益に縛られて動きの鈍い中央のお上なんてほっといて、地方と民間がガンガンやる時代になってきたぞって感じです。

ちょっと短いけど、今日は一旦ここでアップします。
続きは、今度こそ、祝島へ行ったその6を。

祝島へ行った 番外 コロッケ情報入手

2010-06-16 13:50:07 | 祝島へ行った
祝島へ行った その5 で、絶品コロッケのことを書いたら、なんと、祝島の方からコメントをいただいた。

コロッケについての重要情報だ。

*このコロッケは、島のお弁当屋さんである「浜本」さんの商品である。
*土曜日がコロッケの日で、他の曜日に売っている事はほとんどないとのこと。


たまたま土曜日に祝島に行った私はラッキーだったのだ。
このブログを読んでくださり、一度祝島へ行ってあのコロッケを食べてみたいと思われた方は、是非とも土曜日に島に渡っていただきたい。
私も、次回祝島に行く時も、土曜日が入るスケジュールで行きたいとおもう。
そして、今度は、弁当屋の浜本の他のメニューも是非是非食べてみたい。

今回コロッケ情報をコメントくださった祝島人さんありがとうございます。
ほかにも、こうした楽しい情報がありましたら、みなさんどしどしお寄せください。
祝島へ行った その6以降の記事でも紹介したいと思います。

祝島いいところですなー。


祝島へ行った その5 かっちょいいとおいしいは自然と時間の恵み哉

2010-06-15 14:59:22 | 祝島へ行った
祝島へ行った その1 その2 その3 その4 からの続きです。

右手に海を見ながら自転車で走り始めた。
ちいさな港には、ちいさな漁船がきちんと並んでいる。
 
土曜日だからだろうか、作業している人は誰もいない。定期船が着いた時はやってきた人や迎えの人でごった返した船着き場周辺も、いつのまにか人がいなくなって、のんびりした風景に戻っていた。


帰りの船が出るのは夕方の5時。あと6時間。
今回の目的は、ひとの話を聞くというより、人々が暮らす場所、景色を見るということだから、とりあえず、海沿いの道を走り始めた。

5月8日祝島 長磯海岸付近  ものすごーく手ぶれしてますがご容赦ください。

このあたりは長磯海岸とよばれるあたりではないかと思う。
道路には私以外誰もいなくて、聞こえるのは風と波の音だけ。寂しくないのは、空が青いからだろう。

最も賑やかな集落を離れても、ぽつんぽつんと家や倉庫が建っている。どこも、強い潮風をよけるため、石の練塀や練り壁が作られたり、屋根の上に石の重しがしてあった。練塀の石は、潮風にすり切れ、太陽に焼け、丸みを帯びたやさしい色と形になっている。どんなアートにも負けないかっこよさだ。色が褪せた板も、地中海の風情なんて言ったら、ふざけんなと怒られるだろうか。でも、自然の素材は気持ちがいいわ。
 

そして、そうした建物の背後の山に目をやると、その植生の複雑さにも感激する。
 

遠目だからはっきりとはわからないが、緑の色合いの違う様々な種類の木が、まるで生け花のように、あるものは高くあるものは低く生えている。
そんな背景をしょった、石塀の家に人々は暮らしている。確かによく見れば、石塀の中の家にはかなり古いものもある。
しかし、古い家が貧乏臭く見えるのは、都会の喧噪とか無味乾燥な鉄やコンクリートやの背景をしょっているからであって、自然とともに年を取った古い家は、立派な古民家などでなくとも、それはそれで味があるのである(もちろん鉄やコンクリしょっててもいいものはありますが・・)。
窓を開け放ち、風を通し、人の生活が窓や軒下から少しだけこぼれているというのだろうか、そういう「流れ」を感じる家というのは、全然ビンボ臭い感じがしないのだ。それは都会でも同じ事かもしれない。

ある家の畑を通りかかったら、おばちゃんがずっと土いじりをしていた。ずっと同じ姿勢で黙々と作業を続ける。
時間の流れが、ゆっくりだ。


また少し自転車をこぐと、海猫が、私がカメラで狙っているのを気にもせず、のーんびりと岩の上にとまっていた。この素晴らしいお天気の下、特等席を占拠している。
青い海青い空独り占めじゃん!とか、海猫にジェらったりして、動物と同じ目線で生きている気分になる。実際同じ世界に生きてるんだけど。

このあと、途中で、休日学級の子供達の自転車に出くわしたり、農場があったり、いろいろなポイントがあったんだが、その途中の話は、また帰りの道のりでお話しするとして、ただひたすらまっすぐまっすぐ一本道を走り続けた自転車は、とうとう行き止まりにきてしまった。この道路、島をぐるりと一周していると思っていたのに、そうじゃなかったのね。
というわけで、この行き止まりの地で、自転車を止めて、お昼ご飯にすることにした。
 

そしてこれが、「えべすや」で買ったコロッケと炊き込みご飯と十六茶。


海風を受けながら、道路の淵に腰掛けて、パックを開いた。
まず十六茶を一口飲んで、炊き込みご飯を一口。驚いた!これは旨い!!彦摩呂じゃないから、いろんな形容詞は付けないが、本当に美味しかった。
具は何が入っているのか?小さく刻んであってよく分からないが、人参ごぼうなどの定番野菜のほか、茶色っぽいのは椎茸か。ひとかけらだけど、貝柱らしきものも認識できた。後で、えべすやで聞いてみたのだが、この炊き込みはえべすやで作っているのではなく、近所で作って届けてくれるのだそうで、詳しいレシピはよくわからなかった。
とにかく、この炊き込みは旨かったのだ。
天気もいいし、旅気分で美味しく感じたんだろうというようなものではない。米の炊き具合も、しょうゆの味の具合も絶妙。こんな所でこんな旨いご飯に出会うとは(こんな所で、なんてちょっと先入観入ってますね、私も)。

そして、次に俵型のコロッケをぱくついた。それが、これもめちゃうま!
中のじゃがいもにつけた下味が絶妙。ソースや醤油がいらないのは当然のことながら、まわりのパン粉の揚がり具合もすごく私好みだったのだ。

祝島からちょっと離れるが、ここで、コロッケについてちょっと書かせてください。
最近、デパ地下などで人気のコロッケは、パン粉が大きめで、ガリガリサクサクしていることを売りにしている。でも、私はこのタイプのコロッケがあまり好きではない。神戸コロッケを代表とするこの手のコロッケというのは、あくまで洋食レストランで揚げたてが出てくる類いのもので、漬け物や梅干しやみそ汁の並ぶ日本人の家庭の食事にはフィットしない味だと常々感じてたのだ。私のコロッケ原風景は、中のジャガイモも、ホクホクというよりは、細かくペースト状くらいに潰されて、下味の醤油などの調味料の水分のせいもあるのだろうが、しっとりしていて、パン粉は細かく細かく、薄―く薄―くまぶして、揚げられたものだ。齧っても音なんかしないし、パン粉が薄いから崩れそうになる。パン粉で包むというより、ジャガイモの粘性で形を保っているようなコロッケ。昭和40年代、近所の総菜屋のコロッケはこのタイプのものだった。なぜ、その後、コロッケ界をサクサクホクホクが席巻したのか??? 
それは、コンビニおにぎりが、海苔とご飯をビニールで分離してパリパリ海苔時代に突入したのに似ている気がする。サクッとかパリッとかいう軽快な雰囲気を、バブルに突入する頃の日本は求めていたんだろうなあとも思う。私も、高校時代、自分の弁当には、海苔は別添で持って行っていた。しかし、のちのちそれほどパリパリでなくとも美味しいということに気付いた。私が、パリパリのほうが美味しいと思っていたのは、うちで使っていたのが、常に味付け海苔だったからだ。うちの家では、そんなにいい焼き海苔など使うことはほとんどなかった。私は、本物の海苔を知らずして、ただパリパリだけを求めていたのだ。分厚い良い海苔(もちろん味付けなどではない)というのは、しっとりしても旨いのだ。それが分かってから、私は、しょうがなくコンビニおにぎりを食べるような場合も、ビニールを剥がすやつは選ばなくなった。そして、最近ではしっとりおにぎりがコンビニでも高級品として復活してきている。
この話で、コロッケもサクサクは本物を知らない人の・・なんて言うつもりはない。ただ、しっとりしてる方が、日本食としてのコロッケなんだろうなと感じるだけなのだ。

とにかく、祝島の「えべすや」で買ったコロッケは、私の本来の好みを刺激し、日本の原風景的な景色も相まって、めちゃめちゃ印象に残ったのだった。しかし結局、このじゃがいもの下味の正体を私の舌は分析できず、残念ながら、後でもう一度訪ねた「えべすや」さんでも、レシピはわからなかった。「カレー粉入ってる?」なんてことも言ってみたが、「それは入っとらんと思う」と言われた。このコロッケを作った方が、私のこの興奮ぶりを見たら、笑われるかもしれないなー。
今度また祝島に行く事があったら、是非またこのコロッケを食べたい。

もとい、祝島の海岸の昼下がりに戻る。
青い海と空のもと、コロッケをほおばりながら、ふと右手の海岸に目をやると、こんなまん丸い巨大な岩が転がっていた。よく見ると、後ろにももう一つ。

潮の流れに削られて、長年の間にこうなったのだろう。それにしても、よく流されて行かなかったものだ。
瀬戸内の直島の草間弥生のオブジェ南瓜にも匹敵する、自然のオブジェじゃないだろうか。正月には注連縄かけたくなるな。

万葉集にも登場する祝島は、古来、船の安全を守る神霊を鎮める島として崇められてきた。この丸い石が、いつの頃から波に洗われているのかは定かでないが、そんな海岸の岩のビジュアル一つが、頭の中で、長―い島の歴史の記憶に繋がって行く。それもこれも、目が捉えた映像(風景)を自分の中で咀嚼するとき、思考を遮る雑念があーんまり入ってこないからじゃないんだろかと、波と風とたまに鳥の声の聞こえる誰もいない浜にて考えた。
もちろん、それまでに仕入れた知識や、パンフレットの情報や、いろんな意味での先入観が自分のなかで化学反応を起こしているとは思うが・・・。

次回 「祝島へ行った その6 
     のんびりしているだけじゃない 島のビジネス」 に続く

<あとがき>
食堂が一軒もないことに驚き、お店に弁当がないことに落胆し、ありあわせの総菜を買って臨んだ昼ご飯だったが、こんなに感激のお昼ご飯になるとは。祝島恐るべしである。
そして、昨日、コロッケと炊き込みを買った「えべすや」さんのブログを発見した。
いろんなご飯の写真が載っていて、島の食生活の豊かさが垣間見えます。
祝島の生活が見える楽しいブログ、リンク張らせてもらいました。
祝島の風物詩 from えべすや in 祝島 第2章

Actio 2010年2月号 No.1299

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祝島へ行った その4 とうとう上陸 ほんとになんにもない

2010-06-13 23:16:38 | 祝島へ行った
祝島へ行った その1 その2 その3 からの続きです

この日、祝島に向かう船は満員だった。甲板に立ちっぱなし。
いざ、走り出してみると、ものすごいスピードで、振り落とされないように一生懸命手すりにつかまりながら、片手でカメラを握った。でも、海のしぶきはバンバン降ってくるし、カメラ濡らさないように必死。一区切り回したらパーカーのポケットに仕舞っては出しの繰り返しだった。

定期船「いわい」で上関から祝島へ


上関を出た船は、蒲井、四代の2カ所の港に寄港して祝島に向かう。
地図を見ていただければわかるが、上関周辺地図 ↓が原発予定地 上関町は本州の先っちょの一部と、本州に一番近い長島、さらに祝島、八島という島で構成される。上関の役場と、蒲井、四代は長島にある。祝島と八島はその長島の先に浮かぶ島だ。長島だけは上関大橋で本州と繋がっている。
原発が計画されているのは、長島の突端、田ノ浦と呼ばれる浦で、四代の集落の裏側、四代の住民からはその施設は見づらい位置にある。逆に、祝島の住民からは、長島を臨んだ時に丁度正面に原発が見えるというわけだ。日常的に、原発の施設が目に入るか入らないかは、気分的にもずいぶん違う。実際、祝島の人もそう語っていた。

ましてや、田ノ浦は、スナメリなども生息するという瀬戸内でも屈指の自然の宝庫だ。これだけでも、原発建設に反対するに十分な理由だと思うが、世の中にはそうは思わない人もいるから不思議だ。一旦走り始めた車を止めるのは本当に難しい。
特に、温暖化ガス削減が言われ出してから、原発の危険性は、削減目標達成という課題にすり替えられるようになってしまった。事故なんか起きないように設計されてるんだとさえ言われるようになった。
でも、事故は設計のミスだけで起きるのではない。
原発の問題点を挙げればきりがないし、危険性や廃棄物の問題は重要ではあるが、今回は別の機会に譲ることにする。

私が祝島を訪れようと思ったのは、もちろん、原発建設問題でニュースになっているからではあるが、今回は、島の人に原発の話を取材するわけではない。ただ、どんなところか見るのが目的だ。

ニュースで見る上関町は、田ノ浦沖で反対派のカヤック隊が中国電力に対し、拡声器で反対のシュプレヒコールを上げている映像や、埋め立て予定地に反対派の人々が座り込みをしていたりする映像ばかりで、カメラはその周辺の風景を映す事もない。ましてや、田ノ浦で反対している人々が、実は対岸の祝島から来ていることなんてニュースを見ただけでは分からない(もちろん祝島の住民らと説明はしているが、祝島がどの辺に位置するかさえ全然分からない)。
その周辺の海がどんなにきれいかとか、祝島の人々の生活がどんなものだとかは、よほどの特集番組でもないと見えてこないのだ。それに、電力会社をスポンサーに持つテレビでは、祝島の自然を愛で、原発反対を訴える番組など期待しようもない。

上関原発の問題は、中央のメディアはそれほど関心を持っていないようだ。
東京のテレビ局で働いていた私は、たまーに地元局から送られてくる1分ほどの短いニュースをみながら、反対派のおばちゃんたちはどんなところに住んでいるんだろうなあと思っていた。

そして、やっとその機会がやってきた。

定期船「いわい」から祝島船着き場を望む


天気は最高にいい。真っ青な空に真っ青な海、ゴールデンウイーク明けたばかりの5月の風は、これが幸せということなのだと思うくらい気持ちがよかった(おおげさだなあ・・汗)。
土曜日の定期船「いわい」には、前回書いたように、上関から往診(?)の歯医者さん一行が乗っていたほか、NPOが主催する休日学校の子供達、観光で来たという大人のグループも何組かいて大混雑だった。

到着した祝島の桟橋には、島の人たちが待ち受けていた。
海月も歓迎してくれた(水温が上がると海月が増えるらしい)。

船からは大きなデジタルテレビの箱も降ろされ、島も着々と地デジ化されているようだ。

たった一人でやってきたのは私だけのようで、みなグループで思い思いの方向に散って行く。

それにしてもなーんにも無い。

桟橋を上がった所に、無人の野菜直売をやってて、おばちゃんが持ってきたネギを置いて行った。段ボール一箱程度の規模の売り場だ。その辺を見渡した限りでは、お店などは一軒も見えない。
貸し自転車があると船着き場に書いてあったので借りることにした。


1日借りて200円。写真とるのは忘れたが、貸し出し時に200円と引き換えに簡単なチケットをくれる。でも、特に名前や住所を書かされるわけでもなく、「名前書かなくていいの?」と聞く私に、「いらんいらん」。まあ、島から出る方法は船しかないから、盗まれる事もないか。この適当な感じが気持ちいい。

貸し自転車の運営は島の自治会。去年の7月に始まったらしい。

このチャリンコハウスというのは誰の命名なのか?
また、自転車には「寄贈チャーリー吉本」と書かれているが、これが誰なんだろう?聞くのを忘れたが、全てがおちゃめな祝島なのであった。

さて、朝5時に出てきて、もう11時前。お腹が空いた。まずは腹ごしらえと思って、食堂はないかと聞いてみた。すると、「食堂はない」との回答。
そっかー、当然、食堂の一軒くらいあるだろうと思っていた私が高度資本主義社会の先入観に毒されていたのだ!(笑)。

「お店に弁当あるから。早よいかんとなくなるよ。えべすやさん。」おばちゃんやおっちゃんたちが口々に教えてくれ、おお!良かったーと思ったのもつかの間、貸し自転車を借りて島散策しようとしているグループが、今まさに自転車にまたがって出発しようとしていた。弁当も早い者勝ちか!これにあぶれたら、夕方の船が出るまでなーんも食べられないかもしれない。
そう考えると心ははやるのだが、あまりののーんびりとした空気に、焦る気にもならず、店の場所さえ行った道々で聞けばいいやと、ゆっくり自転車をこぎ始めた。

パンフレットもなーんもなかったので、近くにあった宿で地図付きのパンフをもらう。
地図を見ると、道は島をぐるりと取り囲むようにあって、集落は船着き場のそばだけのようだ。500人の人口のほとんどはここに住んでいる。
家と家の間の露地は狭くて、自転車一台がやっと通れるくらいだ。

そして、上の写真でも分かるように、家々は風よけの石塀が特徴的だ。丸みを帯びた石を使って作られた塀は、やさしい景色を作り出す。
知らない人が見たら、ちょっと沖縄の風景のようだ。しかし、植生は瀬戸内のそれで、祝島独特の風景になっている。


ゆーっくりゆーっくり自転車をこぎながら、時々こうした石塀に出会いながら散策は始まった。

とりあえず、お店を見つけて弁当買っとかなきゃと思い直し、通りかかったおじさんに店の場所を聞いたが、その通りに行っても(行ったつもりかも)店が見つからない。島を取り囲む自動車道路から一旦住宅の間の露地に入ったら、もうぜんぜんどこにいるか分からなくなる。
次に出会った人に聞いたら、やっと店が見つかった。見つかったというか、最初は店とは思わなかった。

これが、「えべすや」さん。


店に入ったら、昔なつかしよろず屋さんの風情。プラスティックのコンテナにお惣菜やバンが並んでいる。地元でとれた海藻なども売っていた。
が、残念なことになんとコンテナの中には、既にお弁当はなかった。既になのか、もとからなかったのかは不明だ。コンテナの中には、石豆腐の煮たのと、おからの煮たのと、コロッケと、炊き込みご飯が透明なパックに入って売られていた。コロッケは俵型のが4個も入っていて、一人の私には多すぎたんだけど、おからと石豆腐っていうのもなあ、あまったらおやつにすればいいやと思い、炊き込みご飯一パックとコロッケを買うことにした。
コロッケは、島民の予約が入ってて、アワや手に入らない事態になりかけたのだが、「ああ、大丈夫だ、一つ余るわ」ということで、買う事が出来た。
そして、店の中でも数少ない都会と同じ仕様のものであるドリンク用冷蔵庫からペットボトルの十六茶を一本取って、これも下さいと言った(なんかもったいぶった書き方だ・・)。無事、昼ご飯もゲット。
石塀がきれいな公衆トイレにも寄って、準備万端。

石塀が美しい公衆トイレ。中も水は最小限しか使わないエコ仕様の洋式トイレでした


そして私は、島を一周するべく、時計と反対周りに走り始めたのでありました。

>>>次回 祝島へ行った その5につづく

祝島へ行った その3 祝島上陸直前、柳井の町並と上関の船着き場にて、考える。

2010-06-12 01:21:27 | 祝島へ行った
「祝島へ行った」と題しながら、祝島へ行った その1
祝島へ行った その2では祝島へ上陸できず、その上、今回の「その3」まで相当日数が空いてしまった。そんな中、祝島をとりあげた映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を観た知人から、ブログの続きはまだかとのメールももらい、焦って「その3」にかかったが、なんと、今回も祝島に向かう船に乗った所で終わる始末。って、終わらなくてもいいんだけど、分けちゃいました。すぐに続き書きます(汗)。というわけで、「祝島に行った その3」です。

早朝5時、朝焼けの中、松山三津浜港を出航したフェリーは、一路、山口県柳井港に向かった。愛媛県出身ながら瀬戸内海を船で渡るのは初めての体験だ。
小さい島がいくつも連なっているのは知っていたが、それがこんなにきれいだとは知らなんだ。

松山から柳井へ瀬戸内海を行く


フェリーの中も、円陣になったグループ用のソファ席があるなど、快適快適。
向かいのソファ席にもテーブルがちゃんと付いている。
船旅というのは、時間はかかるが、また時に船酔いという悪夢に襲われることもあるが、急いでさえいなければかなりいい感じだ。それに、松山―柳井のような対岸に位置する場所は、船で行けば意外に近いのだ。

ビデオでは島々の浮かぶ様子がよくわからなかったのでこの写真も載せときます


これは柳井港の近くにいた船。


朝の海風に吹かれながら、7時半に柳井港着。9時半まで祝島行きの船は出ない。そこで、それより40分ほど早く出発する8時51分発のバスに乗って、上関まで行き、そこから船に乗ることにした。バスの旅もいいもんです。


それまでの待ち時間は、柳井の街を散策。


柳井は元禄の頃から瀬戸内海屈指の商都として栄えた所で、今でも白壁と格子窓の古い町並みが保存され、観光資源となっている。まだ8時前で、ほとんどの商店が閉まっていたが、唯一醤油蔵だけが店を開けていた。

その醤油蔵の入り口に飾ってあった金魚。これ金魚提灯というこちらの地方の伝統的な工芸らしい。ほんとは欲しかったのだが、大きいのは1個1600円。失業中貧乏旅行だという意識もあって買わずに出た。でも、やっぱり買っときゃ良かったかな・・・。

ところで、この金魚提灯、かつて全国手広く商売をしていた柳井の商人が、なんと遠く青森のねぶたをヒントに考案したものだそうだが、この話からも、かつては、柳井がいかに瀬戸内海屈指の港町として繁栄していたかということがわかる。

船が運送業の中心にあったころは、港に適した街が栄えた。
私の故郷である愛媛の八幡浜というところもいまだに大分県との間にフェリーが走る港町だ。みかんと漁業の町だが、かつては紡績も盛んで四国のマンチェスターと称され、県内で最も早くに銀行が開業した土地だったらしい。
それが、今や、高速道路に素通りされたとかで、過疎が進み、商店街はシャッター商店街と化している。

かつて、陸地は山がちなものの、周囲を全て海に囲まれている日本にあっては、船は簡単に近隣地域と行き来できる便利な交通手段だった。
そして、その時代、祝島のような「島」は、海の中継地点として重要な交通の要所となっていた。
山口県には「上関」のほか、ご存知の「下関」、そして「中関」という地名も残っているが、これらは瀬戸内海の積み荷の検査をする番所があったらしい。
上関町にある「祝島」は、奈良時代から九州の国東半島と近畿を結ぶ海上交通の要衝で、まさに九州、本州、四国をつなぐ場所だった。
それが、高度成長期以来、森林を伐採し陸地にコンクリートの道を造りはじめたことで、船の利用が減り、過疎地域に変わっていった。
祝島だけではない、私の故郷も、そんな過疎地になった海上交通の要衝の一つだ。そして、そこにも原子力発電所が建設されている。つい先日プルサーマルを受け入れた伊方原子力発電所だ。

海水によって冷却できること、住民の住む地域が片側しかないことなどから、海岸の町に原発は立地される。ましてや過疎だと行政側には都合がいいのだろう。
コンクリートの道路建設で人を奪われ過疎になった所に、今度は原発を押しつける。もともと人が少なくなったのも、国の政策のせいなのにね。

そんなことを考えながら柳井の町を歩き、8時51分のバスに合わせて、バス停に戻ってきた。


バスの一番前の特等席に座って、上関に向け出発。


自家用車が普及したとはいえ、バスはまだまだ、庶民の足だ。自分で運転しなくていい分、おしゃべりに興じる人、本を読む人、窓から景色を眺める人、町の一角がそのまま切り取られて動いて行くようで、その町の空気を知るいい観光スポットだ。
ただ、時として貸し切りとなってしまうこともあるが・・。

50分ほどのバスの旅で上関の船着き場に着いた。
バス停のすぐ側に、船の待合室があって、切符も売っていた。


次の船に乗る人が既に何人か待っている。
この辺りまで来ると、方言がきつくなって、早口の言葉がわかりづらくなり、つい聞き返してしまう。
船を待つ間、近辺を散策した。よくある小さい漁港の町だ。民家の間に、小さい役場や小さい商店や小さい町工場があった。
そんななかに比較的新しいこんな建物があった。歯医者さんだ。よく見ると、
こんなプレートが張ってあった。

原発受け入れを前提に交付金が出て作られた施設のようだ。
歯医者なんて、交付金なくても当然近隣にあるべきものだろうに。行政は、原発と引き換えにではなく、こうした施設は整備すべきだ。

近くには、上関の特産物を集めた小さな店があったが、そこに置いてあった上関町の広報誌は、原発の必要性を訴えていた。中部電力が発行しているパンフレットもあった。
地元でとれた海藻の袋といっしょに置かれている原発推進のパンフレットには複雑な感じがしたが、地方の景気は冷えまくり、この上関町も厳しい状況にある。それゆえの原発受け入れというのは分かりすぎるくらい分かる。
しかし、補助金と引き換えのこうした原発の受け入れについて考える時いつも思う。
町の人は、補助金をもらう事で、どういう生活が訪れる事を期待しているのだろう(お金と引き換えなんて言ったら、地元の人に失礼だろう。どうしても原発を作りたい国と電力会社のごり押しに負けて、しょうがなく補助金をもらう事で首を縦に振っているのだろうから)。
過疎地で不景気なのはどこでも同じだろうに、なぜ、祝島の人は補助金をかたくなに受け取らず、島の生活を守ろうとしているのだろうか。

やっと、船が到着した。
桟橋には、お医者さん。定期的に島に行ってるようだ。
(その後、祝島に着いて、散策していたとき、彼らが歯科診療所で治療しているのが、窓越しに見えた。)


というわけで、やっと、祝島行きの船に乗り込んだのだった。

次回はやっと祝島に上陸します。
続き「その4 とうとう祝島上陸」は明日にはアップするようにします。

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祝島へ行った その2 上陸編にするつもりが、プロローグに

2010-05-20 15:23:06 | 祝島へ行った
原発建設予定地の埋め立て開始を阻止する祝島のおばちゃんたちの姿をYOUTUBEで見てから、祝島の話題をなんとなくフォローしてきた。
特にツイッター上では、普天間基地問題を語る人の一部が、同時に祝島の事もつぶやいていて、私も、気になるつぶやきがあるとリツイートしたりしていた。
そんなある日、祝島のことをつぶやいている方からツイッター上で返信をいただいた。その方は、現在アメリカのLAに在住なのだが、お父さんが祝島出身で、島の自然を守るために、中電と祝島の間に建設的な対話を成立させたいと、必死でつぶやいておられた。
たしか、埋め立て予定地にフェンスを建てようとする中電におばちゃんたちが抗議している映像がustreamで配信されたあたり、代々木公園でアースデイ2010が行われる(祝島を守る団体の人たちも参加)前日か前々日くらいだったと思う。突然、「スカイプで話ができませんか」とダイレクトメールが来たのだ。結局、私がまだスカイプを設定しておらず、やり取りはしなかったのだが、アメリカからも必死に祝島を守ろうとする人がいるのかと驚いた出来事だった。そんなこともあって、その後、アースデイ2010の祝島関連ブースを覗いたり、ゆるーく情報収集していた。

その時に買ったちりめんいりこは、まだうちの冷蔵庫にあって、毎朝の食卓に上り、少しずつ消費されている。

適当に乾燥した美しいちりめんは、生臭さもなく、さわやかな朝の食卓をキリッと引き締めてくれる。ほんとうにきれいなちりめんいりこだ。

こうして、1ミリ1ミリ祝島との距離を縮めていた私。
なぜ急に祝島に行くに至ったのか・・・。
それは、四国は愛媛への帰省途中の飛行機の中。
いつになく、ANAの機内誌を開いて、ジェット機の飛行経路の地図を見ていて、到着する松山空港のところに目をやった。すると、その左上方に上関、祝島という文字が見えたのだ。「えっ?こんなに近かったっけ?」
松山港から海を挟んですぐ対岸ともいえそうな場所に上関はあったのだ。

(Google mapで松山、上関周辺を見る場合、10km・5マイルのスケールのサイズが分かりやすいです。
 長島と書かれた島の先っちょに上関原発は予定されています。その対岸にあるのが祝島。)

長距離交通機関の主流が、船から鉄道や自動車など陸を走るものや、飛行機に変わって以来(私が生まれた時にはすでにそうなっていたが)、ある場所からある場所への距離感覚を、私たちは知らず知らずのうちに、鉄道や道路がどう通っているかを基準に考えているんだとその時に気付いた。
松山から山口県の上関に行くには、陸上ならば、今治まで北上して、本州との間のたくさんの小島を経由するしまなみ海道を渡り、尾道に上陸、それから西進して山口県に向かう。時間はかかるわ、しまなみ海道の高速代はばかにならないわで(通常料金は今治―尾道間片道 軽3800円 普通車4700円現在はご存知の通り割引もありますが)、山口県というのは愛媛県にとっては遠いところというイメージだったのだ。

こんなに近いのか・・。東京に戻ってから改めて祝島に行くとなると、交通費はバカにならない。けど、このついでに行っておけば、安上がりかもしれない。船は出てないのかなあ・・・。
その日、松山に1泊し、翌日実家のある八幡浜に帰るつもりだったが、宿に着くなり、ネットで船は出ていないか検索してみた。
すると、松山の三津浜港から山口県の柳井港に防予汽船のフェリーが出ている。そして、柳井港から祝島までの定期船があった。
私は、その翌日日帰りで祝島に行く事に決めた。ただ、行くと決めて旅程をつくるべく詳細に調べていくと、交通機関の連絡は悪いわ本数は少ないわで、海結構時間がかかることも分かった。

松山三津浜港から柳井港までは2時間半の船旅。定期船に乗り換えて、柳井港から祝島までは1時間10分。しかし、これが単純に足して3時間40分にはならない。この2つはほとんど連絡してないのだ。考えてみれば、松山から柳井に来る人のうちどのくらいが上関、祝島方面に行くかと考えれば、そんなにいないと思うのが普通だよな。
朝の5時に三津浜港を出て、祝島に着くのは10時40分。帰りは17時に祝島を出る便が最終だ。6時間ちょっとの祝島の旅。

翌日に祝島ツアーを控え、その日は、松山城から松山の街を見下ろしながら戦国時代を思い(へうげものにハマってるだけですw)、愛媛の物産を紹介するアンテナショップで菊間瓦のミニ苔盆栽を買い、アンテナショップなのにパンフレットが充実してない上に、なんで撮影禁止なんだと店員に文句を言い、日本一旨い珈琲豆屋(主観です)で豆を買い、その後、混雑する道後温泉の玉の湯につかり、地元のスタンド定食という不思議な看板を掲げた料理屋さんの最終の客となり、定食を食べながら地方の疲弊について語り、結局ホテルに帰ったのは夜11時すぎで、それほど寝る間もなく、せっかく付いているANAホテルの豪華バイキング朝食もふいにして朝4時半にホテルを後にした。すいません、祝島に関係ない事が長くなってしまいました。長くなりついでに言えば、今回利用した東京松山間1泊ホテル付き帰着日延長可能プランは、ANA往復航空券+松山全日空ホテルアネックス(アメックスというのは別館ですね。でもレストランは本館といっしょ)1泊朝食付き。朝食はそれだけで食べたら1850円もするんだが、それで1名利用で25000円。以前はこうしたプランは朝食が付いてなかったものだが、さらにデフレ極まれりという感じで、ちょっと悲しかった。松山の事はまた別の機会に書きたいと思います。

松山県庁前 路面電車が走る



とまあ脱線はこのくらいにして祝島である。
朝4時半に出発した私。フェリー乗り場にはそれなりに乗船しようとする人が待っていた。切符は、前日ネットで調べた時には往復で6600円との事だったが、このところの高速道路割引に対抗してだろうか、こちらも割引中で、往復で6000円丁度だった。

朝4時45分 三津浜港フェリー乗り場


切符売り場と切符
 


フェリー乗り場にあったコインロッカーに大きな荷物を入れ、私は、布バッグ一つ持って早朝のフェリーに乗り込んだのであった。

そして、AM5時、フェリーは、朝焼けの中を出発したのであった。
祝島上陸編とするはずだったが、松山からの出発まででこんなに長くなってしまったので、またここで一旦分けさせていただきます。

三津浜港を出たフェリーの朝焼けの様子をビデオで見ながら・・・
祝島へ行った その3 今度こそ上陸編 を乞うご期待


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祝島へ行った その1

2010-05-20 00:13:03 | 祝島へ行った
今月の8日に山口県の祝島に行った。
この祝島は、中国電力の上関原発の予定地である田ノ浦を対岸に見る場所にあり、島の人々の9割以上は原発建設に反対している。
去年から建設地の埋め立て準備作業が始められようとしたため、祝島の住民が阻止行動に出て、何度かニュースになっていた。
Youtubeで「祝島 原発」で検索すると、島のおばちゃんたちが中国電力の職員に抗議する映像がたくさん見つかる。

祝島に行った時のことを書く前に、まずは、祝島が現在置かれている状況を書いておく。

人口およそ500人の島は、ほとんどの人が漁業と農業で生計を立てている。
国は、漁業補償金として、祝島の人々に5億4000万円を提示したが、彼らは受け取りを拒否している。しかし、祝島が属する上関町は原発推進を掲げていて、補償対象となっている8漁協のうち7漁協は既に補償金を受け取り、祝島の分は山口県の漁協が預かっている形になっている。今後、祝島には受け取ってもらって使い道を決めるよう働きかけると県漁協は語っているという。

とはいえ、原発に反対しているのは祝島の人たちだけではない。自然保護団体なども地元の人々と共闘している。その一つ、「長島の自然を守る会」(田ノ浦は長島という島にある)は、原発建設が予定されている田ノ浦はスナメリやナメクジウオなど希少生物の宝庫で、埋め立てると貴重な生態系を壊す事になるとしている。
今年は、日本でCOP10=生物多様性条約第10回締約国会議が行われる。もし、希少生物が確認されている田ノ浦の埋め立てが始まれば、COP10の議長国としてどう説明するのだと訴えている。

「長島の自然を守る会」のHP

また、この祝島については、今年、島の暮らしを描いた映画が2本完成していて、近々公開される。これらは原発建設に反対する立場の映画だ。
映画「祝の島」HP

映画「ミツバチの羽音と地球の回転」HP


実は、私の実家の近くにも原発がある。まだ私が小さかった頃に建設されたので、反対運動などもうろ覚え、かすかに、「雨にぬれたらだめだよ、禿げるよ」と言われていたことを憶えている。
それで、原発建設のニュースはいつも気になっていた。また、近年、中国新聞の東京支社の方と知り合ったこともあって、飲み会の席などで祝島の話を聞くにつけ、一度行ってみたいと思っていた。
 
原発、基地、ダム。

政権交代によって、これらの問題が注目されている。
近くに来てほしくないものを、補償金というアメで受け入れさせるという意味では、この3つの問題は同根とも言える。
普天間しかり八ッ場しかり。新政権はコンクリートから人へと銘打ち、ダム建設を凍結し、普天間も県外国外と語った(今風前の灯になりかけてますが・・)。
しかし、原発だけは、地球温暖化対策という名の下、いつのまにやらクリーンエネルギーという地位を獲得して、政府も推進の立場をとっている。国内での建設推進やプルサーマルの開始、もんじゅ再開だけでなく、日本の技術を世界に売り込むなど、まるで日本の救世主のような扱いだ。そのため、普天間や八ッ場に比べ、ニュースでの扱いはずっと小さい。
ともすると、また反対派の活動家が騒いでるよくらいの受け止め方をされかねない扱いだ。

しかし、YOUTUBEで見た、祝島のおばちゃんたちの声は、本当に生活を守ろうとしている人たちのものだった。
祝島のおかあさんの声 09.10.1 田名埠頭


この映像が張られているuminomukoukara60さんのyoutube

補償金をもらえればどこかよそに移って生活を始める事は可能かもしれない。
しかし、ずっと海と山で生きてきた人たちが、人生の最後、それを捨ててどこでどう暮らせというのか。晩年、子どもの住む都会に出て行ってすぐに弱ってしまうお年寄りの話をよく聞く。人はどこでも生きられるが、よりよく生きられるかどうかは別だ。憲法25条が国民に保証する、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が指すものとは何なのか考えさせられる。

ニュース番組の仕事を辞めた私は、今は取材はしない。
ただ、あのおばちゃんたちが守りたい祝島とはどんなところか見てみたい。
そう思って、時間だけはあるので四国への帰省の途中で足を伸ばしてみた。

長くなるので、祝島上陸編は分けますね。

その2 祝島上陸編に続く>>>
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