橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

風をあつめて

2015-10-18 09:57:24 | ガン

生きながらえるために大切なのは

自分の周りに深刻な空気を纏わない

ということのような気がしています。

 

それは風の流れの中にあるということ。

常に自分の身体もよどみなく流れる状態にしておくということ。

 

そんな私が今最もやらねばならないのは…

「部屋の掃除」です。

私、片付けられない女なのです。

 

ものを減らして、部屋の風通しを良くする。

部屋がすっきりすれば、私のがんも消えると

ちょっと本気で思っています。

 

なら、早く掃除しろよ!

心の声はそう叫んでいますが、

ああ、何が私の身体が動こうとするのを邪魔するのか…。

 

怠惰の虫はなかなか駆除するのが難しい。

これもガンと同様、うまいこと飼いならさねばなりません。

 

木枯らしや ダスキンサービスマスター雇う 金も無し

                               バカボンのオバ


最近、世の中にがんの話題が多いので、ついつい自分のことも語りたくなってしまう

2015-10-18 00:38:03 | ガン

乳がん再発と言われて、一時はかなり深刻な気持ちになったものの、はや慣れてしまい、ガンだか何だかよくわからなくなっている私。多くの人はガンになったことをきっかけに新しい人生をみつけるのに、どうも私はそれさえもぐずぐず。がんを特別視しすぎる世の中に疑問を感じているから、自分のことも特別視したくなくて、ぼーっとしているのかもしれない。「闘病」という言葉を使いたくないのもそんな気持ちの表れ。でも、もう少し真剣にならないと、いつか痛い目を見そうで、自分の怠惰な性格もときどき嫌になるけど、もうちょっとだけ真剣になった程度でいいかなとも思っている。

今日、本屋で「ひとりぐらしも何年目?」というコミックエッセイが置いてあって、そうか、ひとりぐらしというだけでもネタになるもんなんだなと思ったのだが、このくらいのノリで「がんとのくらしも何年目?」みたいなものを書いてみないなあと思った。

「闘病記」というほどのことはしてないし、これが効きますみたいな治療法案内は意味が無いと思っているし、書けるとしたら、「がんという状況」に翻弄される私の右往左往くらい。そして、その右往左往はハタから見たら多分、バカボンのパパみたいなんじゃないかと思う。

「あの女医さんは怖いのだ。マンモやらないと診ませんと脅すのだ。マンモなんて嫌だったんだが、一瞬ひるんで思わず乳挟まれたらものすごく痛かったのだ。おかげで、皮膚がポツポツと赤くなって、多分、がん細胞が広がったのだ。でも、我が輩、お菓子をやめて、毎朝神様に祈っていたら、赤いのがどんどん消えてきたのだ。これでいいのだ。」

まあ、41歳の春もとっくに過ぎて、バカボンのパパよりもっとバカになってもいいはず。もう頭おかしいひとになっちゃおっかなーなどと思う40代も終わりに近い晩秋なのであります。

携帯大喜利見たら、サウナ入って寝よー。
明日はカラオケ後、ゴスペルワークショップ参加。
声出してミトコンドリア活性化してきます!

目下の目標は楽して稼いで、がっつり休む。
でも道は遠そうやなあ~、というのがフリーランスのがん患者の現実なのでありますわ。

最後に一応一言。私がこれだけのほほんとしているのも、自分の身体についていろいろ真面目に考えた末のことではあります。

 


乳がん検診について思うこと~今日からピンクリボン月間だが…

2015-10-01 01:19:53 | ガン

今日から乳がんのピンクリボン月間。正しい知識を広め、乳がん検診の早期受診を推進する啓発キャンペーン期間だ。それに先立ち、ライブドアニュースでこんな記事を見つけた。

「北斗晶の影響力に医療関係者が驚き。公表後、乳がん検診5倍の病院も」http://news.livedoor.com/article/detail/10638582/

自らも乳がん保持者である私はちょっとこの記事に違和感がある。そんなに検査ってすればいいもんでもないだろってこと。あくまで、私の体験からの実感、経験値とリサーチなどからの知識による判断だが、そのへん書くことにした。万人にあてはまるものではないとも思うので、あくまで参考までですが。

乳がんの予防は、まずは自らによる触診が基本だ。触診をやって何にも感じない人は、特にマンモグラフィーとかはやらないほうがいいと思う。国際標準で40歳未満の人にはマンモは意味が無いというデータも出ている。どうしてもという人は専門の先生による触診と超音波検査までにしといたほうがいいんじゃないだろうか?自らの体験からもそう思うし、その体験から言えば、40歳以上だって、まずは触診と超音波と思っている。

以下は私のマンモグラフィー体験。

去年、乳がん再発の気配があった時、急に痛みが出た日があって、いつもの担当医がすぐに見れない状況にあったため、近くの大学病院に行ってみた。マンモは嫌だなあと言ったが、やらないと見ませんと強い口調で言われ、その時は私も心が弱っていたので、我を失ってマンモをやった。しかし、これが失敗だったと今は後悔している(その時点でもマンモは意味ないと思っていたのに、本当心が弱ってると、人は思いもかけない行動に出るとつくづく思った)。というのも、やはりマンモはすごく痛くて、さらに放射線も当たるので、がん細胞に刺激を与えてしまったのではないかと思うのだ。この後、急に、私の乳がんは、再発しているだろうというのが外からもはっきり分かる程、皮膚が赤くなり、ちょっとポツポツと蚊に刺されたようなぶつぶつができてしまった。このぷつぷつは多分がん細胞じゃないかと、その後訪れた、現在の担当医も言っていた。

にしても、この大学病院の女医さん、40代以上はマンモは意味ないというのが最近の国際的定説であるにもかかわらず、再発疑いの45歳越えの私にマンモやらないと診ないなどと脅すのは、今考えるとヒドい。結局、彼女、そのマンモの画像からは判断出来ず、そのあと撮った超音波の画像で判断していたのだから、噴飯ものだ。マンモって被爆する割りにはその程度なのだ。

その後、必死の糖質制限(糖はがんの栄養分だから)と温熱療法などで、蚊に刺されたようなプツプツと皮膚の赤味は随分治まってきたが、この経験で、検査もそんなに頻繁にやるのはどうかな…と思うようになった。ちなみに、現在の担当医のもと、ホルモン剤も一ヶ月だけ飲んだが、やはりがん細胞に耐性がついては嫌だと思い、自分の判断でやめた。とある大学病院の乳がん細胞のホルモン剤耐性発現についての論文をネットで見つけたせいもある。まあ、それだけでは判断出来ないことも分かってはいるが、やはり直感も含め、やめることにした。

私は10年前の初発のときに放射線治療で腫瘍を消していて、その後、何度かpet検査もやっているので、放射線を結構浴びている。その上、4年前の原発事故で東京にも一時放射性物質がやってきていた。検査の被爆は大丈夫とはいうけれど、何度もやってるとやっぱり良くないんじゃないかと思う。

最後に一言。誤解を恐れずに言えば、私の再発は原発事故と遠い所で関係しているのではないか…。その思いが払拭出来ない。

ちょっと話は飛ぶが、私の再発がわかる半年前、上野公園の大木が雪でバキバキに折れていた。例年にない大雪だったとはいえ、そのまっぷたつになった折れ方は尋常ではない感じだった。もちろん、公園の木の老朽化もあると思う。しかし、その姿を見た時、なんとなく、これは原発事故のせいじゃないのか…という思いがよぎった。事故の翌年の春は東京中、とても植物の成長が旺盛だったのを記憶している。しかし、3年目、4年目となんだか公園の草木は元気がなくなっている気がしていた。そして、なんとなく自分の身体にも同じようなことが起こっているのではないかと、無意識と意識の半々の所で感じていた。

陽子線治療を行ったなかにし礼さんのガンが再発したり、北斗晶さんのがんの進行がここ1、2年と急速だったりするのを見るにつけ、その思いはどんどん拭えなくなっている。

検査とはいえ、被爆は被爆。放射線を使う検査は、むやみやたらにやらずに、最後の手段にすべきではないかと思っている。

 


テレビは芸能人の癌について騒ぎ過ぎだよな

2015-09-26 22:39:53 | ガン

昨日と今日の情報番組。北斗晶さんと川島なお美さんのことがあったとはいえ、あまりにも癌のことばかりやりすぎだ。
世の中には他にたくさん難病や大病はある。糖尿病患者も増え続けている。なのに、癌ばかりがなぜこうも大騒ぎされるのか、一度よく考えてみた方がいいのではないか。

最近では、早期の癌なら治ることが多いと言うようになってきてはいるが、それでも、これだけ芸能人の癌に大騒ぎすることで、「癌は死の病」という社会的なイメージはなかなかなくならない。そうしたイメージのために、早期の癌なのに自分は死ぬと思い込んでしまい、本来なら助かるはずの人が、気持ちも体力も落ち込んで本当に亡くなってしまうこともあるそうだ。思い込みというものは思うよりも心身への影響が大きい。なのに、世の中には癌というと、悲壮なイメージばかりが溢れる。

私自身、乳がんを身体の中に持っている。治療後10年以上経って、再発しているみたいだと去年の夏に知った。自分の話をすることには躊躇があったが、昨日今日の報道があまりにひどいので、重い腰をあげることにした。

私は去年の夏以降も、ずっとふつうに仕事し(最近、必要最低限しかやってなくて、そろそろもっとちゃんと仕事せねばと思っているけど)、ふつうに暮らしている。自分なりに、食事を変えたり、砂糖と乳製品やめたり、遠赤外線サウナに入ったり、整体行ったり、ミネラル飲んだりとかして、癌を抑えるための諸々をやっているが、必死の形相で「闘病」とかしているつもりはない。経済的に頼れる人もいないから、ちょっとでも仕事休んだら暮らして行けないし(フリーランスという不安定な仕事だが、こういうときは、時間が自由になるのでありがたい。ただ、収入の不安はありますが…。収入源募集ですw)、サウナや整体もできない。ご飯も自分で作らなきゃいけないし、必然、「闘病」なんてできないのだ。それに、私はへたれなので、苦しい治療しながら仕事続けられるほど、根性が座っていない。経済的に余裕があれば、ハワイや沖縄にでも行って、日がな一日、泳いだり、歌ったり、踊ったりして療養したいところだが、そんな余裕もないので(かわりにカラオケよく行ってます。歌うのは身体に良いのです!)、この東京で仕事しながら、こうしたヒドい癌報道なども目にしてしまうのだった。

もし私が有名人だったら、テレビでは眉間にしわ寄せて「病と闘って下さい」と言われるのだろうか…。そして、全国の人々からは「いずれは死ぬのかなあ…」なんて、心の中で思われちゃうのだろうか。もちろん、多くの人は応援してくれるのだろうけど、今の世の中の認識だと、その応援は「治してね」というより、「死なないで」という意味だ。多くの人が無意識にでも、私のことを「死ぬかもしれない」と考えると思うと、ちょっと怖い。そうした無意識が塊になって襲って来て、死んじゃいそうだよ。こういう癌報道の洪水を見ていると、あー、有名人でなくてよかった…とつくづく思う。

自分もテレビの仕事をやってるからわかるが、テレビのような時間の制約を受けるメディアは一度に伝えられる情報量が少ない。そんな特性のメディアには、癌のような、人それぞれ原因や症状、治療法も対処法も千差万別なものの報道は向かない。
けれど、多くのマスメディアは癌の「死の病」というイメージを利用して、視聴率や部数をかせぐために大々的に報じるのだ。

例えば、今、私がやっていることも、あくまでも私自身が自分の現在の身体の状態や経済的状況などから総合的に判断した上でやっているのであって、状況の異なる他の人に勧められることではない。そうした状況も説明できる土壌が無い限りは、無闇に情報を垂れ流しにすべきではないと思う。

「癌」は今や単なる病気ではなく「社会的な病」になってしまっている気がする。


乳がん治療から8年。癌について、やはり書こうと思う

2012-10-01 00:44:08 | ガン

(以下のブログを書いてから2年後、2014年夏、乳がん再発がわかりました。けれど、三大治療はやらずに、生活習慣を変えることで、がんと共存をめざしています。2015年秋現在、今のところ、大きな問題は無く、仕事しながら普通に生活しています。)

先日、がんを患っていた知人が亡くなった。寝たきりなどではなく、抗がん剤治療を行いながら、普通に働けていた。このところちょっと体調が悪いとは聞いていたが、つい、1ヶ月ほど前に仕事関係の相談の電話を受け、まだまだ大丈夫だと思っていた。死の知らせは寝耳に水で、しばらく呆然とした。

私もがんを体験しているため(8年前に乳がん治療)、治療法を変えた方がいいのではないかとか、抗がん剤治療についても見直す時期ではないのかとか、会った時には治療についての話をした。けれど、その知人のがんは転移していたし、その不安の大きさや、実際の体調についてなど、私の乳がん治療体験など思いも及ばない領域で、彼にとって有効な話が出来たとも思えない。逆に自らもがんを体験したことで、転移したという事実の持つ意味の重さを感じ、彼とのがんについての会話は、核心に近づかず、中島を遠くから眺めながら池の周りを歩いているような感じでもあった。

彼の話によれば、抗がん剤治療をやることで、肺に転移したがんが急激に大きくなるのはなんとか抑えられていたようだ。ただ、小さながんがたくさん散らばっていた。抗がん剤を投与することで、体調を崩す様々な副作用も出ていた。抗がん剤ががん細胞を殺す効果の大きさと、副作用とどちらをとるべきなのか・・・。最後の1年の彼の状態を見ると、ちょっと判断が難しかったと思う。

抗がん剤治療を続ける患者は常に死を意識せざるを得ず、その治療をやめることは死に近づくことを意識させる。抗がん剤をやめて体調が一時的に良好になったとしても、がんが再び大きくなり始めるのではないかという恐怖もつきまとう。

亡くなる前の数ヶ月は身体の不調を訴えることが多かったようだ。普通に働いてはいたが、職場で無理をして(徹夜に近い激務で本当に大変な仕事だったようだ)倒れたとも聞いた。あまりに体調が悪いので、家の方が心配して一時入院したこともあった。

がん自体は突然大きくなったりしていたわけではないらしい。担当医も、この体調の悪さが何に起因するものなのか原因がわからないと語っていたそうだ。「がんが大きくなってないんだとしたら、この体調の悪さの原因が何なのか、それを突き止めて、その治療をしてほしい。」彼は入院中のベッドでそう言っていた。そして、その後、1ヶ月あまりで逝ってしまった。

手術で、腎臓もひとつとっていた彼の身体で抗がん剤を解毒することはかなり身体に負担であったと思う。その上、大腸を切り、直腸を切りしている身体だ。糖尿の気が出ていたのも、内蔵の働きが通常ではなかったからだと思う。医者に体調不全の原因が分からないのだとしたら、抗がん剤の内蔵への影響は、体調不全の原因にカウントされていないからだとしか思えない。もちろん、私の言っていることは状況から見た想像でしか無く、彼に関する検査データなどに基づくものではない。しかし、データを持っている医者でさえ、原因はわからないという判断しかできないのだ。

彼の死因は何になるのか・・・。

それを専門としている人の世界は別としても、一般的には「がん」という病は死の病として恐れられている。がんを宣告されるのはこの世の終わりと言わんばかりの認識が世の中に広まっている。世の中の、特にメディアから流れてくるがんに関する情報は、がんは死の病と思わざるを得ない煽りに満ちている。

亡くなった知人は最後まで働き、寝込むことも無く果敢にがんと戦いながら日々生きていたと思う。そして、そんながんばっている人も、時にそうした煽りに満ちた情報を目にしてしまう。リテラシーもあって、そんなものは煽りだと分かっていても、患者の立場になるとどうしても不安がもたげてしまう。これは私が治療を始めたときもそうだった。そんなに脅かさなくてもいいではないかと思う。

なにごとも周到な準備と防御の姿勢は重要ではあるが、やり過ぎはかえって、その防御の対象に対する恐れや怯えを生む。実際、「がん」という言葉に怯え、過剰に防御的になり必要の無い治療まで行っている人も多い。がん患者を取り巻く状況は煽りに満ちている。

恐怖心に煽られること無く、もっと冷静に自分の病状を見つめられる余裕の持てるような状況が作れないものか・・・。

「がん」に関しては考えるべきことが多すぎる。

私自身はといえば、乳がんの治療を終えてもう8年が経とうとしている。ある医師によれば、私の乳がんなど、がんとも言えない「がんもどき」程度、恐れることは無いと言う。実際にそうかもしれない。ほとんど後遺症も無く、乳房も切ってはいない。そんな私に偉そうにがんを語ることなどできるのかとも思う。しかし、私と同タイプの乳がんを体験したタレントが、雑誌で「私のがんは珍しいタイプで・・・」と語るのを目にし、その「珍しい」という言葉を「難しい」とか「面倒な」と誤読し、不安になる患者がいるのではないかなどと考えると、やはり自分の体験も語る価値はあるのではないかとも思うのだ。

治療が終わってから8年。結局、がんについての話をまとまった形では書いてこなかった。書くということは、自分の中で曖昧になっていることを明確にする意味もある。つまり、まだ私は自分の中のがん体験も曖昧なままで放置しているということだ。亡くなってしまった知人と今後話そうと思っていたこと、言い残してしまったこともある。再びがんについて書き始めることで、今一度、がんとは何かを自分の中で整理していきたいと思う。

それに思うのだ。がんを取り巻く状況は、原発事故以来の放射能という言葉への人々の反応に似ている。自分にとって未知の領域への恐怖が冷静に考えることを拒否させる・・・。

自分が放射線治療を選んでいることも、何かそのへんを考えるとっかかりになる気もする。この放射線治療が最善であったかは分からないが、私の乳がんが放射線治療で消えたことは事実だし、そんな私は原子力でエネルギーを作る原発には反対だ。

やはりもう少し、がんのことを考えることにしようと思う。

2年前にも一度、がんのことを書き始めようとして、一度書いたきり挫折している。その時読んでくださっていた方は、またか・・・と思われるかもしれない。考えてみれば、あれから紆余曲折、いろいろなことをやっては挫折したり、考えが変わったり…。しかし今、やはり自分の本分は「伝える」ことであると感じている。それも言葉を使って伝えたい。下手だけどそう思う。

これから時々、自らの体験を交え、がんのことを書いていこうと思います。

 


これからの「がん」の話をしよう その1 ~なぜ書き始めるのか~

2010-07-12 22:56:28 | ガン
<今日から始める「乳がん」の話>

今日、7月12日は私の誕生日。
忘れないように誕生日の今日、乳がんの定期検診を入れていた。
2004年の6月に乳がんのしこりを左胸に発見してからもう7年目になる。超音波検査の結果は異常なし。またほっと胸を撫で下ろした。通常のがんは5年で治癒と言われるが、乳がんでは10年だ。あと4年は検診に通う。

組織で働くことを辞めて、これからは一人でやって行くと決めてから初めての誕生日を機に、このブログ上で、自らのガン体験を書き始めることにした。
かつて治療中にも断片的にブログを書いていて、そっちのブログもあるが(今は更新していない)、6年が経ち、より冷静になって、自分の体験だけでなく、現在の社会におけるがんの受け止められ方などについても考えていきたいと思った。
そして、この日を機に、いま一度新たに始めることにした。

私の書く事が全ての乳がん患者さんの役に立つとは思っていない。むしろ役に立たない事のほうが多いかもしれない。
というのも、私のケースはある意味特殊だし、ある意味常識はずれであるからだ(なぜ特殊かは後で説明します)。また、転移や再発のケースについては、取材者の立場でしか伝える事ができない。

しかし、それでもやはり乳がんについて書いておこうと思うのは、私の特殊な体験でも、誰かの役には立つかもしれないと思うからだ。例えば、今、乳がんの宣告を受け、これから治療方法を決めようとしている人や、乳がんかもしれないと不安に怯えている人。そうした人たちになら、幾ばくか役に立つかもしれないと思ったのだ。

また、私は自らががんを体験する事で、現在の「がん」というものに対する世間の認識やメディアのとりあげ方が、いかに偏見に満ち、先入観に捕われているか、また、それが患者を不安に陥れているということを実感した。
そうした「がんに対する認識」から少しずつでも偏見や先入観を減らして行くことで、がん患者が少しでも平穏な気持ちで過ごせたらと思うのだ。

さっき、私のケースは特殊だと書いたが、私が選んだ治療法というのは、私が治療を開始した04年秋の時点で、乳がん治療においては、まだ全国で60人程しか臨床例のない新しい方法だった。
 
その治療法とは、放射線治療である。
通常の外科手術の後に予防的に行う放射線治療とは放射線の当て方が本質的に異なる治療法で、放射線のピンポイント照射という。簡単に言えば、がんの腫瘍だけにピンポイントで放射線を当てて腫瘍を殺すものだ。乳がん以外の例えば肺がんなどではすでに標準治療となっている。しかし、その方法を乳がんに適用した人数は、当時全国でまだ60人程だったのだ。

しかし、6年経った今、私の左胸のしこりは消え、再発転移はしていない。
そして、私は当然の事ながら乳房をまったく切っていない。
さらに、乳がん治療の手術後によく行われるホルモン剤の服用も全くやっていない。

もちろんこうして治療が成功しているのも(まだ10年経っていないから成功と言えるかどうかはわからないが)、私の乳がんが粘液がんといわれる比較的転移しづらく、予後が良いとされている優しい顔つきのがんだったからかもしれない。リンパ節にも転移はなかった。しかし、発見した時の腫瘍の大きさはすでに2、5~3cm。これは、医学用語でいう病期でいえば、a期という段階だった。

そして、そんな私の乳がんも、最初に行った大学病院では左乳房全摘出と宣告されていたのだ(放射線科は3軒目にいきました)。2、5cmで今時全摘出?と思われるかもしれないが、しこりが乳腺の集まる乳首に近く、場所が悪いという説明だった。

私はその後、セカンドオピニオン、サードオピニオンと凝りもせず、5つのがん専門病院と大学病院を廻った。東洋医学の先生の話も聞いたし、全摘出した場合の再建手術の先生にも会った。

治療法を決定するまでにかかった時間はおよそ3ヶ月。

がんについてほとんど何も知らない当初の私だったら、転移が怖くて、治療を始めるまでに3ヶ月もかけるなんて考えられなかっただろう。しかし、治療法を探してがんを学んで行くうちに、そこに時間をかけていいか急ぐべきかは、その人それぞれのがんの性質によって異なることが分かってきた。私の場合は、乳房全摘出を勧めた最初の病院の医師も、2ヶ月までなら大丈夫と言っていた(なのに3ヶ月かよと突っ込まれそうだが、それは自分の体ですからそれこそ自己責任である)。

私の非常識は治療法を決めるまでの時間だけではない。

その3ヶ月間で廻った5つの大病院の診療科のうち、最終的に選んだ放射線科以外は全て乳腺外科だったのだが、その乳腺外科4つのうち3つで全摘出および再建手術を勧められ、残りの一つは、部分摘出でも可能だが、手術で開いてみて急遽全摘出にする可能性もあるとの判断だった。
普通に考えたら、1対4で全摘出の勝ちだろう。
乳腺外科の医師たちは、ことごとく「あなたのがんのタイプには放射線はあまり効果がないと思う」と語り、さらに、親戚の看護士経験者も4つの乳腺外科の判断に軍配を上げた。私自身も一時期はほとんど全摘出をする心構えをしていた。
しかし、最後の最後で大逆転、思い直し、1の方の全国でまだ60人程しかやったことのない治療に踏み出した。
それは単に乳房を切りたくないという理由だけではない。多分こっちのほうが、再発転移無く元気に生きて行けるはずだという自分なりの合理的な判断の結果なのだ。
それが、3ヶ月間、物理的にも精神的にも流浪を経て、得た自分なりの答えだった。

がんというものは、同じ乳がんといっても、人によってその顔つきがそれぞれ異なる。医学的なデータについては、一概に私のパターンを誰にでも当てはめる事はできない。
しかし、こうした治療法を決める上での心の動き、なぜそちらを選んだのか、どういう判断基準でそうしたのか、その時一体何を考えていたのかというプロセスの中には、参考にしていただけるものがあるかもしれない。

実は私の母も、その後(2007年に)私と同じ2~3cmほどの大きさの粘液がんが発覚した。しかし私とはまた違う治療法を選んだ。
腫瘍の廻り1~2cmほどの大きさでくり抜いてもらう部分摘出手術。治療はそれだけだ。
胸にはちいさな赤い跡があるだけで、乳がんの手術跡だと言われなければわからない。そして、抗がん剤も放射線もホルモン剤もなにもやっていない。ホルモン剤は医師からどちらでもいいですよと言われ、最初は錠剤を飲んでみたのだが、体調が悪くなるので、すぐにやめた。

母も乳がんが見つかった当初は狼狽えていたが、私の体験をもとにしつつ、それを母に合ったバージョンに解釈し直し、その後新しく改訂された情報も考慮しつつこの治療法を決めていくうちに落ち着いていった。
治療後の今では、乳がんよりも、持病の高血圧の方が圧倒的に心配だ。

というわけで、次回以降は、まず私の乳がん発見から治療法探しの体験をより具体的に語ってゆきたいと思います。

もし、質問などがあれば、コメント欄に書き込んでください。公開したくない場合は、プロフィール欄のメールアドレス yurys@goo.jpまで。
質問には、分かる範囲でお答えします。医学的な情報については医師ではないので、一般論もしくは参考情報となる場合もあると思います。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル,Michael J. Sandel
早川書房

このアイテムの詳細を見る