友人からチケットをもらったので六本木に行った。
この黒川紀章設計のガラス張りの新国立美術館は、
ロビーからガラスの向こうに緑と空が見えて清々しい。
通路には椅子とテーブルがたくさん置かれていて、
観賞後思わずそこに座ってうたた寝してしまった。
ガラス張りで明るい上に、やはり身ぎれいにした人が多く、
併設のカフェレストランもポールボキューズだったりして、
やはり私がいつもうろうろしている上野界隈のような、
ホコリと油の膜が1枚薄ーく張ったような感じはみじんもない。
やたら5月のさわやかな風が吹く。上野も美術館たくさんあるけど重厚。
旧と新にどういう差があるのか分からないが、
こっちのほうは近現代美術が多いのかな?と思ってちょっとググったら、
この美術館は展示のみで美術品を所蔵しないんだとか。
また、ロゴの新のマークは佐藤可士和らしい。ポップなはずだ。
シュルレアリスムとか、以前やってたルーシー・リー展とか、
こういう時代のものがこの美術館には似合うな。
シュルレアリスム展は今日まで。
土曜日はかなり込んでいた。込んでいたので、列の後ろから遠巻きに、
見られる絵から見ながら順不同でうろうろしていた。
シュルレアリスムって、ダリやマグリットの名まえや有名な絵こそ知っているが、
その時代背景や思想背景はちゃんと知らない。勝手なる想像の範囲。
けれど今回、解説音声を聞いたり、プログラムを読むこともなく、
見たまんま感じたまんまで、ちょこっとメモをとってきた。
ここは「素人たれ」という岡本太郎の言葉にならい、
その辺をすべてねぐって、絵を見た直感的な印象だけメモっとく。
というわけで、何の役にも立ちませんが、
絵を見ながら気になったことだけ書き留めたメモを以下紹介します。
あくまでも印象です。
<デ・キリコ>
展示最初の方にあったキリコの絵。
「ギョーム・アポリネールの予兆的肖像」ドロップ型のサングラスかけた男。
たむけん(たむらけんじ)そっくりw
日本のお笑い感性をもつものには笑いに見えてしまう。
日本ではシュルレアリスムが「シュール」となり
「シェー」のイヤミとなっていたりすることの象徴であろうか。
サングラスの男は、オルフェウスの石膏像らしいが、
それに黒いサングラスをかけさせる感覚は、
教科書の歴史上の人物に落書きする感覚だよな。
森鴎外はぷんぷんマーク、孫文にはお下げがあったよ、確か。
「ある午後のメランコリー」は野菜。アーティーチョークかな。
これも笑える、って言ったら怒られるかな?
<シュルレアリスムの画家や詩人の集合写真>
その隣の部屋の壁にシュルレアリスムの意味がかかれていて、
記録してこなかったので、その文言は忘れたが、
それを読んで「結局シュルレアリスムって、人の目を気にしないってこと?」とメモしている。
今、ネットでシュルレアリスムの意味を調べると
「理性の支配を退け、夢や幻想等非合理な潜在意識の世界を表現することによって、
人間の全的開放をめざす20世紀の芸術運動」とある。
一方で、集合写真におさまる人々は、みな身ぎれいで、
十分に人目を気にした理性全開の状態にあるように見える。
しかし、それも私の偏見なのだろうか。人目を気にしないということが、
衣服や身なりに気を遣わないということとイコールではないものな。
彼らにとって、身なりを整え、オシャレすることは生活の一部であり、
芸術とは別の括りだったのか?
これを考えてると長くなりそうなので、今はやめて、次の絵へ。
<マン・レイの「数学的オブジェ」>
関数曲線を形にしたオブジェを写真に撮った作品。
数学的関数で表される曲線というのはもっと美しいのかと思っていた。
個人的な感想だが、あまり美しいとは思わなかった。
ただ、一点美しいかもと感じたのは、私がもし蟻になって、
そのオブジェの上にちょこんと乗っかって、蟻の視点で巨大なオブジェを見上げていたら
美しいと思うのかもしれないということだ。
今、小さな写真を見ている私は、言ってみれば、神の視点でこの作品を見ている。
数学が美しく、自然が美しいと感じるのは、
それに囲まれた人間の視点で世界を見ているからなのだろうか?
<ジャコメッティ「処分されるべき不愉快なオブジェ」>
私からすると、処分されるべきと思う程不愉快じゃない。
私が不愉快と思うポイントは、一番に、
置こうとしてもすぐに倒れてイライラするとかそういう点だ。
その点、このオブジェは表面から生えた三角錐の角が支えとなって、
しっかり床に置かれている。そのほかの造形から言っても、何が不愉快なのかわからなかった。
不愉快という感情は人によって随分異なるから、
そういう意味では、他人の目や考えを意識しないという
(私の勝手な解釈ですが)シュルレアリスムの思想に沿っているのかもしれない。
ジャコメッティのもうひとつの彫塑「男と女」は
男と女というよりは、どっかの国の国旗みたいだった。
<マッソン>
マッソンの絵がたくさんあった。
マッソンは、いかにもこの時代っぽい感じがした。
大正から昭和初期の日本の漫画みたい。
戯画的であり、明るさを感じる。
「恐慌」というタイトルの絵でさえも楽しそうだ。
<ポロック「月の女が円を切る」>
無意識の共有という意味では、ポロックの「月の女が円を切る」。
この絵を見て、月がどこにあるか女がいるのか、円はどれかなど全然わからないのに、
このタイトルがぴったりな気がしたのは、
私もこの絵からこのタイトルの言葉に現れたイメージを共有したということだろう。
もし、この絵にタイトルがついていなかったら、私は何というタイトルをつけただろうか。
<マリー・トワイヤン「早春」>
この絵は・・・・。第二次世界大戦直後に書かれた絵らしいが、
荒野に、墓石もない棺桶の形に土が盛り上がっただけの墓が延々と並ぶ。
その墓の上には小さな蝶々が何匹か止まっている。暗い絵だ。
戦争という人災がもたらした暗さ暗鬱が全面を覆っている。
震災、津波に襲われた日本の姿を思い出した。しかしすぐに思い直した。
これはあくまでも人災のもたらした暗鬱さの絵である。
天災を乗り越えようとする日本の姿とは根本的に違う。しかし、またすぐに思い直した。
今まさに日本を襲っている人災、原発事故。
この暗さは、その表出の形こそ違え、まさにこの絵の表現する暗鬱に重なる。
この絵がシュルレアリスムであることは、そういうことなのか。
具象的であれ、その絵に描かれたそのものを表すのみでなく、
別の事象における同様の心象や感情を表すことに成功している。
人為による災難のもたらす絶望的な暗さをこの絵に感じた。
蝶々が希望の徴という解釈があるそうだが、
それは放射線を吸い取ってくれるひまわりや菜の花といった種類の希望のような気がする。
エルンスト「最後の森」
ヨーロッパの森は怖いんだな。
自然と対峙する西欧思想を感じる、
なんて簡単には言えないのかもしれないけれど、
なんか共生してる感じはしないんだよな。怖がってる感じ。
上のトワイヤンの「早春」からも、また他の絵からも感じたが、
やっぱり、どうやっても西欧ってヒューマニズムなんだよな。人間が中心。
このシュルレアリスム展を見渡して感じたことだが、
自動筆記とか、いろいろ「解放」を模索している割りには窮屈なんだよな。
窮屈だから解放を求めるんだろうし、そういう心情がよく表れていると言えば言える。
先に書いた、きちんとした身なりの話ではないが、
みなちょっと無理しているように見える。
神を畏れ、なのに神をも乗り越えようとする西欧人のアンビバレントは、
日本人の私には窮屈に見えるのかもしれない。
マンレイの数学的オブジェがちっともいいと思えない私は、
そうした西欧の視点を理解出来ていないのかもしれない。
いいとか悪いとかいう事ではない。
<ダリ>
そんな中、ダリの絵は私にも分かりやすく、やっぱ良かった。
彼の絵には、神に規定された人間という制限に対してあがこうとする形跡が感じられない。
かといってそれは神の否定でもない。神はいるよ、でもオレはオレ的な。
今回、初めてみた「部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの6つの幻影」。
ピアノの鍵盤の上に小さなレーニンの頭が黄金に光りながら転がっている。それも6つも。
どこでも見たことがないはずだけど、どっかで見たことがあるような風景だ。
つまり、ダリの絵は、まさに眠っている時の夢で見た風景を描きましたという絵である。
ピアノの楽譜にはう蟻。椅子の上にはさくらんぼが転がる。
座る紳士の背中にはピンで布ナプキンが止められ、
すこし開いたドアの外にはなにやら見えるが、それが人なのか、なにかの固まりなのかわからない。
絵の中の全ての登場物が、すべて意味ありげに、すべて意味を探って欲しいと求めてくる。
それは、私たちが夢占いに自らが見た夢の意味を求めるような感じだ。
今回展示されたシュルレアリスムの絵で、
ダリ以外の絵には、この夢占いのような感覚を感じることはなかった。
ダリのみが絵の中に夢占いの要素、つまりフロイト的な解釈を、見るものに要求していた。
<マグリットとダリ>
シュルレアリスムの画家で日本でも有名なもう一人、
マグリットの絵の印象もダリのそれとは異なる。
ダリの絵が「夢で見た場面」だとしたら、マグリットの絵は「白昼夢」だと思う。
昼間、実際になにかを見ていて、「そう見えちゃったのよね」という感じ。
「陵辱」も「ストロピア」もまさにそんな感じの絵だ。
ダリの絵が、夜眠っている時に見る夢だと思う理由のひとつに、
高さとか距離とか大きさの感覚がある。
自分の見る夢が基準になっているので、他の方はどうか分からないのだが、
夢の中のシーンで特徴的なのは、
大きさとか高さとか距離の感覚が現実を完全に超えてしまう点だ。
実際には存在しないはずの大きさのものが登場する、
距離感がめちゃくちゃである、
そうした点は、まさに私たちが夢で見る世界である。
ダリの絵はそうした縮尺や距離感のめちゃくちゃさが
他の画家と比べて突出している。
時間をワープするように、ビヨ~~~ンと水飴を延ばしたり縮めたりするように
ものの縮尺をぐちゃぐちゃにする。
しかし、多くが現実世界に存在するものの変形であることが多い。
この世には存在しない(と思われる)けど、抽象ではない。
そういう感覚、場面って、自分も夢で体験しているので共感しやすいのだ。
あと、夢の中にあるのは、見ちゃいけないものを見る感覚。
夢の中に昼間の現実の生活の中での抑圧が表れるからだろうが、
ダリの絵はそういう見ちゃいけないものを見る感覚も感じさせる。
マグリットの絵には(少なくとも今回の展覧会に来ていた絵には)、
そうした深層心理の”無意識の”表出といった風情は、私には感じられない。
例えば、顔の中に球体(鈴らしい)が流れている「秘密の分身」。
ああいうのって夢では見ない気がする。あれは、目覚めている時に想像する画像だ。
そういう意味で、シュルレアリスムの2代巨匠ダリとマグリットは、
シュルレアリスムの裏と表というか、内と外というか、夜と昼みたいだなと思った。
で、最後にまとめ。
私にとっては、ミーハーチックではあるが、やはりダリがもっともよかった。
さっき、少しだけ西欧人における神の問題に触れたが、
日本人にとっては、彼がもっとも理解しやすいのではないだろうか。
何をもって理性からの解放とするか、精神の自由とするかは人によって解釈が違うと思うが、
自分では制御出来ない眠っているときの夢を描くこと(実際にはそうじゃないんだろうけど)、
そういう風に見えるものを描くことが、私からはもっともシュルレアリスムに見えた。
そのほかの多くの作品からは、自由にならねばという窮屈さとか抑圧とかを感じ、
そこからの解放が目的化している気がした。
そして、その理性から解放された所に何があるのかが見えてこない気がした。
「神というものが絶対的にある世界」の外側はあるのか?
それとも理性から解放された所に神がいるのか?
それを考えるには、私には知識も勉強も足りない。
ただ漠然と、西欧近代とは何だったのか、なんであるのかに思いを廻らした。
腰痛と闘いながらの鑑賞で、あんまりゆっくり鑑賞できていない。
そういう、せっかちな鑑賞が、分析もせっかちなものにしてるかもしれない。
こういうのって、印象批評って片付けられちゃうのかな。
未来派、キュビズム、岡本太郎etc、そしてその時代背景
いろいろちゃんと勉強して、ちゃんと分析してみたい気もするが、
時間がそこまでない。
というわけで、私はあくまでも橋本治の「わからないという方法」よろしく、
必要に応じて調べようと思う。
せっかくレビューを書いたのだが、あと1時間程で入場時間終了。
もし、間に合う方がいたら是非に(いないと思うけど)。