橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

酒井順子著「下に見る人」、著者インタビューを読む

2016-01-08 00:22:54 | 書評/感想

以下は「下に見る人」という酒井順子さんの新刊の著者インタビュー記事。

「人を下に見てしまうという不治の病はせめて表に出さないという自覚が大事」

この本のタイトルの感じ悪さにちょっとひっかかって、記事を読んだ。確かにそうなんだろうし、本も読んでもいないのに、後味の悪さが残る。

自分が他人を「下に見る人」と定義しての本書。「せめて表に出さないという自覚が大事」と著者は語る。けれど、こういうものは表に出していないと本人が思っていても、そこはかとなく表面に現れてしまうもので、自覚などあまり意味が無いように思う。

その昔、地方から出てきたばかりの私は、彼女と同じ都内有名私立女子高出身の女性から「下に見られてる」と感じたことがあった。彼女は別に私をバカにするわけでもなく、フレンドリーに付き合ってくれていたのだけれど、時々、その言葉の端々に「下に見ている」感じを感じ取ってしまうことがあった。もちろんそれは私の思い過ごしかも知れない。それに、だからといって、仲が悪くなる事もなく、すごく仲良しになることもなく、普通の友人として大学時代を過ごした。そこから思うのは、わざわざこういうこと書かなくていいんじゃないのということだ。

いじめはいじめた側を見なければ絶対に無くならないから…というのは分かる。だからといって、「私いじめる側だったんですが…」と、強者の側から自分の行動に対する分析を聞かされるのはあまり面白いものではない。また、「下に見る人」なんてチャレンジングなタイトルつけときながら、「せめて表に出さない自覚」なんていう教育的な態度をとることにも違和感は否めない。

しかし、やっぱりこの本は書いてもいいんだろうなと思う。

自分の心の悪と闇を表に出さずにはいられない彼女の切実さと、こんなあからさまなタイトルで本を出すことにした決断には、もしかしたら本気があるかもしれないと思ったからだ。アラフィフとなってさらに円熟味を増した彼女の感じ悪さは文学の域に達しようとしているのかもしれない。

多分、問題なのは、以下の記事中で「…常に私たちが共通して抱えている普遍的な問題の真ん中を射抜いていて、読むたびに、やられた思う」と、彼女の分析力を褒め称えるインタビュー記事の見方の方だ。少なくとも、記事で引用されている『日本人は「下に見られたくないから」がんばってこれたんじゃないか』という分析に関しては、ちょっと無理があるんじゃないか。

別に感じ悪いのはいいのだ。普遍化なんかしないで、私感じ悪いでしょと、個人的なことを個人的なこととして書いてくれたほうがよかった。「人を下に見てしまうという不治の病」があるとまで言うのならば、「せめて表に出さないという自覚が大事」などと言わず、「私はこんなにヒドいんです」で終ってくれてた方が、人間の業の恐ろしさに、よっぽど普遍を感じたんじゃないかと思う。

人は人を下に見たがる。それはそうだと思う。しかし、それが分析すべきことなのかは、この本を読んでも分かりそうにない。


2006年談志の芝浜「女房酔わせてどうするつもり?」の100倍かわいいおかみさん

2011-11-30 14:38:23 | 書評/感想

先週末のテレビの情報番組は、立川談志追悼企画が花盛りだった。花盛りと言っていいのか分からないが、どこの番組もやっていた。たいてい、みんな芝浜のVTRを使っていて、撮影の年代はバラバラだった。

先日、このブログで、同じ芝浜でも演者によってずいぶん違うと書いたが、いろんな時代の談志の芝浜を見ていて、演者によってどころか、同じ演者の落語でも、演じる時々で随分と違うものだということにあらためて気づかされた。

日曜の朝の番組で使っていたのはいつの芝浜だろう、結構昔、たぶん90年代。土曜日の午前中、NHKのBSプレミアムで使っていた芝浜は2006年の立川談志独演会。どちらの番組も、下げの部分を使っていたが、おかみさんの演じ方が全然違っていた。後者の方が断然良かった。

06年の独演会。旦那が3年断ってたお酒を、「私も飲むからさ」と勧める女房のことば。

「酔っちゃえよぉ、ベロベロんなっちゃえ」

かわいくて、ちょっとドキッとした。だってこのあとに続くのは、口には出さずとも「私も酔っちゃうからさ」でしかない。これ、90年代初頭に流行ったCM「女房酔わせてどうするつもり?」の100倍素直でかわいくないですか?

そこにいるのは糟糠の妻ではなく、旦那のことが好きでたまらないおかみさんで、いい夫婦なんかじゃなくて、仲の良い男と女。相手のことを好きだと思っている時にだけ生まれる会話の初々しさとなれなれしさ、そしてちょっとの照れくささ。おちついた夫婦愛じゃなくて、そわそわする恋。何年も連れ添っているのに、この夫婦まだ恋してる。恋と愛が同居してる。そんなかんじを抱かせる演出なのだ。それを71のダミ声のジジイが演じている。

なんだか、女子高生のようでもある(意外に好きな男には一途であるとかそういう意味で)。バブル直後のアラサー女みたいに打算がない。「あの人の為なら私がんばる」と、旦那を支え、背筋延ばしてがんばってきた末の「酔っちゃえよぉ」。書いてる私もなんだか照れくさい。そんなキュンとする芝浜のラスト。

日曜日の情報番組で紹介していた十年以上前の芝浜のおかみさんには、恋しているような初々しさは感じなかった。あれは夫婦愛。昔見た時には、それはそれで、かわいいおかみさんだったような気がしていたけれど、談志の芝浜は自らはジジイになりながら、その初々しさを増していたのだった。

その時の芝浜の全体像を見ないで、「酔っちゃえよお、ベロベロんなっちゃえ」の一言で語るのは乱暴かもしれないが、あの一言がすべてを表している気がした。

談志の落語の登場人物には、今を生きる人が見える。そしてその今とは、私たちが生きる現代でもあり、話の設定の江戸時代でもあり、その間はタイムトンネルで繋がっている。一瞬と永遠の同居。恋と愛を同時に演じることができる落語家は談志のほかにいるだろうか?

「落語を現代に」っていうのは、こういうことなのかもしれない。

2000年代を象徴する女性像というか、消費に明け暮れてもったいぶってるバブルの残党女でなく、自分って何?とか探してる場合でもなく、焼け野が原でも、何もなくとも、べそかきながらでも、よくわかんないままでもわかってても、まっすぐ突っ走って、最後に好きな男に「いっしょに酔っちゃおう」と言える女。そんな女たちこそ、この沈みかけた日本って国をなんとかできるんじゃなかろうか。

談志の演じるかわいいおかみを見ながら、こんなことを考えた。

しばらく落語に接していない自分がこんなことをつらつら書くのも気が引けるが、談志の「酔っちゃえよお」があまりにリアルだったので、こんなことを書くに至ってしまった。いや、あまりにリアルは嘘だ。あんなおおげさな身振り口ぶりの子はいないのかもしれない。でも、そんな人間描写で見るものドキッとさせるのが、談志のイリュージョンなんだろうなあ。ああ、うまく伝わらない・・・。でもそろそろ仕事に戻ります。銀行いかにゃあ。もうすぐ3時。

 

 


国立新美術館「シュルレアリスム展」に行った~神の存在が絶対的な世界の人々の芸術

2011-05-15 16:04:11 | 書評/感想

友人からチケットをもらったので六本木に行った。

この黒川紀章設計のガラス張りの新国立美術館は、

ロビーからガラスの向こうに緑と空が見えて清々しい。

通路には椅子とテーブルがたくさん置かれていて、

観賞後思わずそこに座ってうたた寝してしまった。

ガラス張りで明るい上に、やはり身ぎれいにした人が多く、

併設のカフェレストランもポールボキューズだったりして、

やはり私がいつもうろうろしている上野界隈のような、

ホコリと油の膜が1枚薄ーく張ったような感じはみじんもない。

やたら5月のさわやかな風が吹く。上野も美術館たくさんあるけど重厚。

旧と新にどういう差があるのか分からないが、

こっちのほうは近現代美術が多いのかな?と思ってちょっとググったら、

この美術館は展示のみで美術品を所蔵しないんだとか。

また、ロゴの新のマークは佐藤可士和らしい。ポップなはずだ。

シュルレアリスムとか、以前やってたルーシー・リー展とか、

こういう時代のものがこの美術館には似合うな。

 

シュルレアリスム展は今日まで。

土曜日はかなり込んでいた。込んでいたので、列の後ろから遠巻きに、

見られる絵から見ながら順不同でうろうろしていた。

シュルレアリスムって、ダリやマグリットの名まえや有名な絵こそ知っているが、

その時代背景や思想背景はちゃんと知らない。勝手なる想像の範囲。

けれど今回、解説音声を聞いたり、プログラムを読むこともなく、

見たまんま感じたまんまで、ちょこっとメモをとってきた。

ここは「素人たれ」という岡本太郎の言葉にならい、

その辺をすべてねぐって、絵を見た直感的な印象だけメモっとく。

 

というわけで、何の役にも立ちませんが、

絵を見ながら気になったことだけ書き留めたメモを以下紹介します。

あくまでも印象です。

 

<デ・キリコ>

展示最初の方にあったキリコの絵。

「ギョーム・アポリネールの予兆的肖像」ドロップ型のサングラスかけた男。

たむけん(たむらけんじ)そっくりw

日本のお笑い感性をもつものには笑いに見えてしまう。

日本ではシュルレアリスムが「シュール」となり

「シェー」のイヤミとなっていたりすることの象徴であろうか。

サングラスの男は、オルフェウスの石膏像らしいが、

それに黒いサングラスをかけさせる感覚は、

教科書の歴史上の人物に落書きする感覚だよな。

森鴎外はぷんぷんマーク、孫文にはお下げがあったよ、確か。

 

「ある午後のメランコリー」は野菜。アーティーチョークかな。

これも笑える、って言ったら怒られるかな?

 

 

<シュルレアリスムの画家や詩人の集合写真>

その隣の部屋の壁にシュルレアリスムの意味がかかれていて、

記録してこなかったので、その文言は忘れたが、

それを読んで「結局シュルレアリスムって、人の目を気にしないってこと?」とメモしている。

今、ネットでシュルレアリスムの意味を調べると

「理性の支配を退け、夢や幻想等非合理な潜在意識の世界を表現することによって、

人間の全的開放をめざす20世紀の芸術運動」とある。

一方で、集合写真におさまる人々は、みな身ぎれいで、

十分に人目を気にした理性全開の状態にあるように見える。

しかし、それも私の偏見なのだろうか。人目を気にしないということが、

衣服や身なりに気を遣わないということとイコールではないものな。

彼らにとって、身なりを整え、オシャレすることは生活の一部であり、

芸術とは別の括りだったのか?

これを考えてると長くなりそうなので、今はやめて、次の絵へ。

 

<マン・レイの「数学的オブジェ」>

関数曲線を形にしたオブジェを写真に撮った作品。

数学的関数で表される曲線というのはもっと美しいのかと思っていた。

個人的な感想だが、あまり美しいとは思わなかった。

ただ、一点美しいかもと感じたのは、私がもし蟻になって、

そのオブジェの上にちょこんと乗っかって、蟻の視点で巨大なオブジェを見上げていたら

美しいと思うのかもしれないということだ。

今、小さな写真を見ている私は、言ってみれば、神の視点でこの作品を見ている。

数学が美しく、自然が美しいと感じるのは、

それに囲まれた人間の視点で世界を見ているからなのだろうか?

 

<ジャコメッティ「処分されるべき不愉快なオブジェ」>

私からすると、処分されるべきと思う程不愉快じゃない。

私が不愉快と思うポイントは、一番に、

置こうとしてもすぐに倒れてイライラするとかそういう点だ。

その点、このオブジェは表面から生えた三角錐の角が支えとなって、

しっかり床に置かれている。そのほかの造形から言っても、何が不愉快なのかわからなかった。

不愉快という感情は人によって随分異なるから、

そういう意味では、他人の目や考えを意識しないという

(私の勝手な解釈ですが)シュルレアリスムの思想に沿っているのかもしれない。

 

ジャコメッティのもうひとつの彫塑「男と女」は

男と女というよりは、どっかの国の国旗みたいだった。

 

<マッソン>

マッソンの絵がたくさんあった。

マッソンは、いかにもこの時代っぽい感じがした。

大正から昭和初期の日本の漫画みたい。

戯画的であり、明るさを感じる。

「恐慌」というタイトルの絵でさえも楽しそうだ。

 

<ポロック「月の女が円を切る」>

無意識の共有という意味では、ポロックの「月の女が円を切る」。

この絵を見て、月がどこにあるか女がいるのか、円はどれかなど全然わからないのに、

このタイトルがぴったりな気がしたのは、

私もこの絵からこのタイトルの言葉に現れたイメージを共有したということだろう。

もし、この絵にタイトルがついていなかったら、私は何というタイトルをつけただろうか。

 

<マリー・トワイヤン「早春」>

この絵は・・・・。第二次世界大戦直後に書かれた絵らしいが、

荒野に、墓石もない棺桶の形に土が盛り上がっただけの墓が延々と並ぶ。

その墓の上には小さな蝶々が何匹か止まっている。暗い絵だ。

戦争という人災がもたらした暗さ暗鬱が全面を覆っている。

震災、津波に襲われた日本の姿を思い出した。しかしすぐに思い直した。

これはあくまでも人災のもたらした暗鬱さの絵である。

天災を乗り越えようとする日本の姿とは根本的に違う。しかし、またすぐに思い直した。

今まさに日本を襲っている人災、原発事故。

この暗さは、その表出の形こそ違え、まさにこの絵の表現する暗鬱に重なる。

この絵がシュルレアリスムであることは、そういうことなのか。

具象的であれ、その絵に描かれたそのものを表すのみでなく、

別の事象における同様の心象や感情を表すことに成功している。

人為による災難のもたらす絶望的な暗さをこの絵に感じた。

蝶々が希望の徴という解釈があるそうだが、

それは放射線を吸い取ってくれるひまわりや菜の花といった種類の希望のような気がする。

 

エルンスト「最後の森」

ヨーロッパの森は怖いんだな。

自然と対峙する西欧思想を感じる、

なんて簡単には言えないのかもしれないけれど、

なんか共生してる感じはしないんだよな。怖がってる感じ。

 

上のトワイヤンの「早春」からも、また他の絵からも感じたが、

やっぱり、どうやっても西欧ってヒューマニズムなんだよな。人間が中心。

 

このシュルレアリスム展を見渡して感じたことだが、

自動筆記とか、いろいろ「解放」を模索している割りには窮屈なんだよな。

窮屈だから解放を求めるんだろうし、そういう心情がよく表れていると言えば言える。

先に書いた、きちんとした身なりの話ではないが、

みなちょっと無理しているように見える。

 

神を畏れ、なのに神をも乗り越えようとする西欧人のアンビバレントは、

日本人の私には窮屈に見えるのかもしれない。

マンレイの数学的オブジェがちっともいいと思えない私は、

そうした西欧の視点を理解出来ていないのかもしれない。

いいとか悪いとかいう事ではない。

 

<ダリ>

そんな中、ダリの絵は私にも分かりやすく、やっぱ良かった。

彼の絵には、神に規定された人間という制限に対してあがこうとする形跡が感じられない。

かといってそれは神の否定でもない。神はいるよ、でもオレはオレ的な。

 

今回、初めてみた「部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの6つの幻影」。

ピアノの鍵盤の上に小さなレーニンの頭が黄金に光りながら転がっている。それも6つも。

どこでも見たことがないはずだけど、どっかで見たことがあるような風景だ。

つまり、ダリの絵は、まさに眠っている時の夢で見た風景を描きましたという絵である。

 

ピアノの楽譜にはう蟻。椅子の上にはさくらんぼが転がる。

座る紳士の背中にはピンで布ナプキンが止められ、

すこし開いたドアの外にはなにやら見えるが、それが人なのか、なにかの固まりなのかわからない。

絵の中の全ての登場物が、すべて意味ありげに、すべて意味を探って欲しいと求めてくる。

それは、私たちが夢占いに自らが見た夢の意味を求めるような感じだ。

 

今回展示されたシュルレアリスムの絵で、

ダリ以外の絵には、この夢占いのような感覚を感じることはなかった。

ダリのみが絵の中に夢占いの要素、つまりフロイト的な解釈を、見るものに要求していた。

 

<マグリットとダリ>

シュルレアリスムの画家で日本でも有名なもう一人、

マグリットの絵の印象もダリのそれとは異なる。

ダリの絵が「夢で見た場面」だとしたら、マグリットの絵は「白昼夢」だと思う。

昼間、実際になにかを見ていて、「そう見えちゃったのよね」という感じ。

「陵辱」も「ストロピア」もまさにそんな感じの絵だ。

 

ダリの絵が、夜眠っている時に見る夢だと思う理由のひとつに、

高さとか距離とか大きさの感覚がある。

自分の見る夢が基準になっているので、他の方はどうか分からないのだが、

夢の中のシーンで特徴的なのは、

大きさとか高さとか距離の感覚が現実を完全に超えてしまう点だ。

実際には存在しないはずの大きさのものが登場する、

距離感がめちゃくちゃである、

そうした点は、まさに私たちが夢で見る世界である。

ダリの絵はそうした縮尺や距離感のめちゃくちゃさが

他の画家と比べて突出している。

時間をワープするように、ビヨ~~~ンと水飴を延ばしたり縮めたりするように

ものの縮尺をぐちゃぐちゃにする。

しかし、多くが現実世界に存在するものの変形であることが多い。

この世には存在しない(と思われる)けど、抽象ではない。

そういう感覚、場面って、自分も夢で体験しているので共感しやすいのだ。

 

あと、夢の中にあるのは、見ちゃいけないものを見る感覚。

夢の中に昼間の現実の生活の中での抑圧が表れるからだろうが、

ダリの絵はそういう見ちゃいけないものを見る感覚も感じさせる。

 

マグリットの絵には(少なくとも今回の展覧会に来ていた絵には)、

そうした深層心理の”無意識の”表出といった風情は、私には感じられない。

例えば、顔の中に球体(鈴らしい)が流れている「秘密の分身」。

ああいうのって夢では見ない気がする。あれは、目覚めている時に想像する画像だ。

 

そういう意味で、シュルレアリスムの2代巨匠ダリとマグリットは、

シュルレアリスムの裏と表というか、内と外というか、夜と昼みたいだなと思った。

 

で、最後にまとめ。

私にとっては、ミーハーチックではあるが、やはりダリがもっともよかった。

さっき、少しだけ西欧人における神の問題に触れたが、

日本人にとっては、彼がもっとも理解しやすいのではないだろうか。

何をもって理性からの解放とするか、精神の自由とするかは人によって解釈が違うと思うが、

自分では制御出来ない眠っているときの夢を描くこと(実際にはそうじゃないんだろうけど)、

そういう風に見えるものを描くことが、私からはもっともシュルレアリスムに見えた。

 

そのほかの多くの作品からは、自由にならねばという窮屈さとか抑圧とかを感じ、

そこからの解放が目的化している気がした。

そして、その理性から解放された所に何があるのかが見えてこない気がした。

「神というものが絶対的にある世界」の外側はあるのか?

それとも理性から解放された所に神がいるのか?

それを考えるには、私には知識も勉強も足りない。

ただ漠然と、西欧近代とは何だったのか、なんであるのかに思いを廻らした。

 

腰痛と闘いながらの鑑賞で、あんまりゆっくり鑑賞できていない。

そういう、せっかちな鑑賞が、分析もせっかちなものにしてるかもしれない。

 

こういうのって、印象批評って片付けられちゃうのかな。

未来派、キュビズム、岡本太郎etc、そしてその時代背景

いろいろちゃんと勉強して、ちゃんと分析してみたい気もするが、

時間がそこまでない。

というわけで、私はあくまでも橋本治の「わからないという方法」よろしく、

必要に応じて調べようと思う。

 

せっかくレビューを書いたのだが、あと1時間程で入場時間終了。

もし、間に合う方がいたら是非に(いないと思うけど)。

 

 

 

 

 

 


音楽ファンじゃない方にこそ贈りたい「ワールドハピネス2010」よかった~レポート その1

2010-08-12 11:42:00 | 書評/感想
この前の日曜日、8月8日。8並びで末広がりのハッピーだらけの日、夢の島で行われ
た夏フェス「World Happiness2010」に行った。
いや~、めちゃめちゃよかった~。
夏フェスなんて何年ぶり?いや十何年ぶり。急にキャンセルが出てチケットが余ってる
という知人からの誘いに、「YMOも出るし」、と気軽に出かけたのだが、なんか狐につ
ままれたみたいに良かった。ライブに行った前と後では空の色が別物に見えた(大げさ)。

空の色だけじゃない。
ライブは昼の12時半から夜8時すぎまで約8時間。そのうち半分くらいは年甲斐も無く踊ったり飛び跳ねていて、腰痛がある私は、帰る頃には腰はぎしぎし、足はガクガク。
やっとのことで家にたどり着き、明日はどうなることかと40代になった自分を呪ったが、なんとなんと驚いた事に、翌朝目覚めると、そのぎしぎしガクガクはすっきり消えていた。もちろん基本の腰痛は残っているけれど、あんなにヒドかった夕べの痛みはなくなっている。音楽に乗って身体動かして、毒が抜けたっていうのかなあ、足腰の痛みだけじゃなくて、心の痛みも抜けたような爽快な気分だった。

ほんと大げさなんだけど、久しぶりに行った野外フェスは、YMOの生演奏が凄かったのは言うまでもなく、もうどのミュージシャンのパフォーマンスも思った以上で、私の眠ってた音魂を揺り起こした。YMOもムーンライダースも、オヤジたちなんだかすごく進化してやがる。置いてかれたーって感じ。オレもがんばらにゃあって感じ。
でも、一方で、「まあいっか、のんびり行こ」と思えるような、看板に偽りなき「Happiness」なフェスだったのだ。

というわけで、前置きがこんなに長くなってしまいましたが(ホンッとなげーよ!)、
早速、今回のライブを紹介。

参加ミュージシャンは以下の通り
○ にほんのうた楽団(小池光子+高田漣+ASA-CHANG+鈴木正人)
○ LOVE PSYCHEDELICO
○ 清 竜人
○ MONGOL800
○ 大橋トリオ
○ Cocco
○ カヒミ・カリィ 
○ RHYMESTER 
○ □□□(三浦康嗣、村田シゲ、いとうせいこう)
○ pupa(高橋幸宏+原田知世+高野寛+高田漣+堀江博久+権藤知彦)
○ 安藤裕子
○ ムーンライダーズ guest 小島麻由美
○ サカナクション
○ 東京スカパラダイスオーケストラ
○ プラスチックス
○ Yellow Magic Orchestra with 小山田圭吾・高田漣・権藤知彦
 
みなさん、この中のどれだけ知ってる?
ここのところずーっと音楽と疎遠だった私は、つーか、YMOファンというだけでここに来た私は、恥ずかしながら、安藤裕子、□□□(三浦康嗣、村田シゲ、いとうせいこう)サカナクション、大橋トリオ、清 竜人の5組は知らなかった。もう、ニュースキャスターと同姓同名? ん?四角四角四角? さかなくん?って感じ。
ちなみに□□□は「くちろろ」と読む(正式表記は□(四角)を三個書く)。
ほかのミュージシャンも詳しいわけじゃなくて、最近どういう活動してるかはほとんどチェックしていない。

こんな私なので、音楽を批評するなんておこがましい。
もちろんそんな私でも分かるほど、今回のフェスの音楽性の高さは特筆ものだったんだけれど、それについてはいろんな人が語るだろうと思うので、私は、ここであえて別の点を挙げたい。

私が、このフェスでいいなあと思ったのは、人と人の関係性の気持ちよさなのだ。
ズギュンときたのは、我がサブカル世代の星、いとうせいこうをめぐる関係性。

いとうせいこうは□□□にラッパーとして参加している。
しばらく彼ののラップって聞かないなあと思っていたが、復活してこんなことになってるとは! まず、彼のパフォーマンスの凄さに舌を巻いた。腹筋鍛えてんだろうなあと思わせる声の良さと滑舌。お客を煽るあの目つき、間の取り方も完璧。ちょっと怖いくらい(笑)。ファンの方には当然じゃないスカ!そんなことも知らないんすかと怒られそうだが、なにぶん素人なもんで・・・。
そんでだ。そのパフォーマンスで、あと二人のメンバー、息子のような年代の三浦くんと村田くんを、もうグイグイひっぱってるのだ。ライブパフォーマンス的には、いとうせいこうは若い2人より格段に上なのは明らか。ステージ上でなんか黒光りしてたもの。
だから、最初は私も、この若い2人ダメだなあ・・・と思いましたよ。
でも、聞いているうちに、ふと気付いたのだ。
「この楽曲良いわ」。

たしかに、若い2人はライブパフォーマンスは負けている。いとうせいこうがいなかったら、へなちょこだ。しかし、「この曲結構いいじゃん。作ったの若い人たちだよね」、そう思ったら、いとうせいこうが、彼らのそんな才能に惚れて、このバンドに参加したんじゃないかということがステージからなんとなく見えてきた(勝手な想像)。
だって、めちゃめちゃ楽しそうなんだもんいとうさん。

最初、年長のいとうせいこうに寄っかかってるだけに見えた若い2人が、実はいとうせいこうにも刺激を与えている。徐々にそれがステージから伝わってきて、こっちまでドキドキして、身体が自然に動いてた。

老いも若きも一緒になって、歌い踊ればさあ楽し。
客席では、80年代サブカル世代と、
00年代がごちゃごちゃになって跳ねている。
ステージ上では、親子ほど年の違う3人がお互い刺激し合って、STEP UP
なんてかっちょいいんだ。
年上だから年下だからとか、遠慮や気兼ねなんてない。
年寄りには年寄りなりの経験と築き上げた技術があるだけで、
見栄や勘違いのプライドを振りかざす下品さは無い。
下の世代も、自信もって、勇気持って先輩世代に立ち向かってる。

こう書くと、なんだかキレイゴトみたいだけど、今の私にはストレートに書く技術しか無い。くそーくやしい、この人間関係のかっこよさを、ステージの□□□のかっこよさみたいな文章で表現できないのが残念無念はげちょびんでござる。

多分、私が、この口ロロのパフォーマンスにこんなことを感じたのは、先日このブログに書いて大反響をいただいた朝まで生テレビ「若者不幸社会」のことが頭にあったからだと思う。番組では「世代間格差」が話題にされた。たかが私のブログに1日で4万PVものアクセスがあったのは、多くの人が多かれ少なかれ「世代間格差」を感じているからではないかと思う。

でも、このステージ上には「世代間格差」なんてないじゃんか。
それとこれとは話は別と言われるだろうし、才能ある人たちの集まりだからと言われるかもしれない。にしても、本当に才能あるところには「世代間格差」なんて生まれないんだということを見せつけられた。

若いもんの意見に耳を貸さないおじちゃんは、いい歳こいて、自分に自信がないんだということを自覚すべしではないんじゃろか。上の世代にアイディアを伝えられない若いもんは、自分の努力と勇気が足りない事を自覚すべきじゃないんじゃろか。
お互い歩み寄れ。

夢の島のグラウンドで跳ねながら、こんなことを考えさせてしまう音楽ってすごいな。
一体お前は何者なのじゃ。

いい感じの関係性を見せてくれたのは、□□□だけではない。
今回初めて知った「サカナクション」も衝撃だった。
なんだか新しいバンドの形を見た気がした。
ボーカルの一郎くんが飛び出してきた時は、コミックバンドかと思ったが(ゴメン)、プログラムの紹介文には「文学性の高い歌詞・・・」なんて書いてある。
一瞬、骨太の「スピッツ」かとも思ったが(髪型も似てるし)、ベースとキーボードの女の子を見て、これはまた違うなと思った。

サカナクションは同世代の男3人女2人のバンドだ。
そんで、見た感じ女の子2人のほうが、腹が据わってるように見える(実際にどうかは知らないが)。お調子者でリリカルな男の子ボーカルを、冷静な女の子がバックで支えてる感じ。あとの男子2人も実は彼女らに頭が上がらない。この座組はそんな情景を彷彿とさせる。何度も言うようだが、ほんとにどうかは知らない。でも実際がどうかは重要ではない。
これまで、男女混成バンドで、こんな風に女が強く見えるバンドってあっただろうか?

私の素人知識の範囲なので、間違っていたらご指摘いただきたいのだが、間違いを恐れず言えば、これまで女性は、バンドの花としてボーカルをとるか、バックで支えるにしても、例えばサザンの原由子のように女房役のようなポジションだったり、マドンナ的な存在として支えることが多かったんじゃないだろうか。
サカナクションの二人は、女房やマドンナとしてではなく、あくまでも同僚として、男のボーカルを支える。しかし、2人とも大人の女として、お洒落で、かつ自分の雰囲気を持っている。

誇大妄想癖のある私は、この「サカナクション」に新しい時代の男女の関係性を見てしまった。若い人は、もう一歩も二歩も私たちの世代の先を行ってるのかもしれないなあ。
「男女間に友情は成り立つのか?」みたいな古典的な命題を軽々と超えていく。実際に恋愛関係にあるかどうかは関係ない。そう見せるか見せないかが重要なのだ。

「音楽」が、世代の壁、男女の壁を超えさせてくれるのだろうか。
それとも今回このWorldHappinessに集まったメンバーが、ピースフルな人たちだったのか。どっちにしろ、音楽ってすげーと思ったのである。
なんだか、勝手な想像がふくらんで妄想気味にいろんなこと書いちゃってるけど、これって私の願望が反映してんだろうなあ・・とか思いながら、再び音楽の力を思う。
もしかして、私って今まですごく抑圧されていた??なんて思っちゃいました。

ちょっと感想を書くつもりがものすごく長くなっている。
なのに肝心のYMOの事がまだ一言も書けてない。それはマズい。
なので、一旦この辺で章を分けて、YMOのことは次回書きたいと思います。
everyday is a symphony

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