橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

なぜ支援するのか? イラク現状報告会in衆院議員会館 その2

2010-06-23 00:39:34 | 中東・アフガニスタン
これは、「イラク現状報告会 その1」からの続きです。

「その2」は、まず私のつたない知識の中から、イラクでのテロや宗派対立に関する誤解について述べてから、報告会の内容に移りたいと思う。

<アルカイダと宗派対立に関する誤解>

これだけ多くの難民が出るのは、当然の事ながら、国内での戦闘やテロがおさまらないからだ。
スンニ派とシーア派の宗派対立が2006年頃から激しくなり(注1)、アルカイダ系のテロがそうした対立を煽っているふしもある。

*(注1)・・この宗派対立のきっかけともいわれるのが、06年2
       月に起こった、スンニ派によるシーア派のモスク・ア
       スカリ廟のドームの爆破だ。このアスカリ廟はイラク
       のシーア派四大聖廟の一つで、このモスクのあるサマ
       ラの考古学都市は世界遺産にも指定されており、現在
       はその状態から危機遺産となっている。このサマラの
       考古学都市は、かつて世界史を履修した方なら懐かし
       いでしょう、アッバース朝の首都となった土地である。
       ・・・注1ここまで

しかし、こうした宗派対立もアルカイダの存在も、2003年のイラク戦争以前にイラク国内に存在していなかったことは、まだまだ広くは知られていない。
大量破壊兵器とともに開戦の理由となったサダム・フセインとアルカイダとの繋がり。これは真っ赤な嘘である。サダムはむしろイスラム過激派であるアルカイダを自らの体制への脅威だとみなし嫌っていた。
アルカイダ系の過激派は、戦争後に、イラクから米軍を排除するため、もしくは国内を混乱させ復興を遅らせることでアメリカを困らせるためにイラクに入ってきたと言われている。

そして、その過激派が煽ってもいると言われる宗派対立。
フセイン政権時代、政権はスンニ派によって占められ、シーア派の人々は不満をもってはいたが、都市部などではスンニ派とシーア派で結婚した夫婦なども普通にいたようで、イラクという国は、イスラム諸国の中でも宗教色の薄い国として知られていた。湾岸戦争以前は、石油収入もあり、経済成長に向けて町には活気があふれ、女性の大学進学率も高かった。イスラム諸国の中では、極めて世俗的な国だったのである。また、政府の官僚などもかなり訓練され、能力は高かったという。

イラク戦争後、サダム・フセインを倒し、フセイン政権の官僚たちを全て排除してしまったため、新しいイラクの政権は素人集団となり、それが、混乱を収束できない原因ともなってきた。そして、その排除ゆえに、こんどはシーア派とクルドが政権を占め、フセイン政権下で働いていたスンニ派の不満を呼ぶこととなったのだ。現在、その反省のもと、スンニ派の取り込みも徐々に行われ始めてはいるようだが、また、宗派対立はやめようといのが前回選挙のスローガンともなっていたが、状況はまだまだだし、これまでに生まれた犠牲も大きすぎる。

フセイン政権のもとで、なんとか開かないでいた宗派対立というパンドラの箱をアメリカが開けてしまったのかもしれない。
ものすごーく簡単に書いてしまったけれど、そしてもちろんサダム・フセインを擁護する訳じゃないが、現実はそんなに単純じゃないってことだ。誰が善で誰が悪かなんてそう簡単には決めつけられない。

そう考えると、イラク戦争を開戦した責任はものすごく大きい。

そして、今、その戦争の代償を払わされているのは、戦争開始の決定をした人たちではない。ブッシュ元大統領も、小泉元首相も、批判などどこ吹く風で、ぬくぬくと暮らしている。代わりに代償を払わされているのは、アメリカを始めとした多国籍軍やイラク軍の名も無き一兵士であり、イラクで犠牲となっている多くの普通の人々だ。もちろんテロリストだって死んでいる。


こうした歴史的経緯も含めて、今後、少しでもイラクの人々が救われるために、また今後こうした悲劇を生まないために、戦争の検証と対症療法ではない本質的な対策が必要だ。

報告会に戻る

<佐藤氏が挙げたイラク支援から見た検証のポイント>

最後にまとめとして、佐藤氏は、以下のポイントを挙げた。

① 政府が行ってきた事が「人道的」であったかどうか(単なるパフォーマンスでなかったかどうか)
② イラクに破綻国家のごとき被害を与えてしまった責任

 今回佐藤氏が強調していたのは、「人道」の部分の検証が必要だと言うことだ。「政治」的な検証のみになると、日本の「国益」としてどうだったのかという話だけになりがちで、現地イラクの人がどういう犠牲を払ったかが置き去りにされる可能性があるからだ。
イラクの人たちがどれだけ苦しい思いをしてきたかは検証すべきだし、戦争に加担した国として、その人たちへの支援を続けて行かねばならないと語った。


③ 費用対効果

費用対効果については、前回も少し書いたが、難民用のテント160張りを運ぶだけで、1億円もかかったりして言語道断である。

JIM-NETが行っている医薬品を中心とした支援の費用は年間4000万円ほど。彼らはこれを募金でまかなっている。
日本政府は、04年から08年までの4年間の支援として、15億ドルの無償支援と35億ドルの円借款での支援を決めた。実際、無償支援には当初計画より多い17億ドルが使われたようだ。「外務省:我が国のイラク復興支援」それだけでも、日本円にすると約1500億円だ。そのお金は本当に役に立ったのだろうか?


そして、支援の効果について、佐藤氏がもうひとつ強調したのが、それぞれの支援主体の役割分担の重要性だ。
自衛隊、NGO、商社など、様々な支援の担い手がいる。
軍隊がやるべきことやるべきでないこと、NGOがやったほうがいいこと、商社がやったほうがいいことなどなど、得意分野を評価して役割を振り分けるべきだ。現在は、それぞれの役割が全く検証整理されておらず、効果的な支援ができていない。
そうした行き当たりばったりな状況下、イラク国内で虐殺が行われているような時に、学校を建てましょうとか、現状に合わない支援が行われている。その辺も見直さねばならない。

ところで、去年12月、日本の官民およそ100人が、バグダッドとバスラを訪問し、戦後初の日本イラク経済フォーラムを開催された。当時の報道によれば、イラクの石油が欲しい日本と日本のような戦後復興に憧れるイラクの関係者が集まり盛況だったらしい。
佐藤氏は、小川郷太郎イラク復興支援担当大使がその時の会見で「日本は援助ではなくビジネスに舵切りする」と語ったことを挙げて、ビジネス(で自立的な復興を促す事)もやってほしいが、まだまだ続けねばならない援助もあると強調した。

ビジネスで、日本とイラクのウィンウィンの関係を築き、イラクの経済的自立を促すのはいいことだが、戦争で大けがをしたり、がんになったりして働けず、ウィンウィンの恩恵にあずかれない人たちへのフォローも忘れてはならないのだ。


報告のまとめの部分ではなかったが、佐藤氏がもうひとつ強調していたものに、兵器削減の重要性がある。


<兵器を無くす予防政策を>

民間人に多くの犠牲者を出しているクラスター爆弾、劣化ウラン弾、白リン弾などの兵器のうち、クラスタ-爆弾については、使用や製造を禁止するクラスター爆弾禁止条約に日本も署名し、30カ国が批准、今年の8月に発効する。
しかし、アメリカやロシア、中国などの大国が参加していない。
また、劣化ウラン弾については、規制の声が上がり始めてはいるが、また国際条約の段階ではない。
参考記事「劣化ウラン弾 高まる規制機運」

これらの兵器の問題点は、攻撃時だけでなく、その5年後10年後にもその被害が増えて行く事だ。がんは時間が経って発症する。アメリカ軍が8月末で撤退した後にも、被害者は増えるのだ。
だから、支援も継続させる事が必要だし、予防的措置として、こうした兵器の廃絶に努力せねばならないと佐藤氏は語った。
日本は、唯一の被爆国として、クラスター爆弾条約に批准に続き、劣化ウラン弾禁止でもリーダーシップを見せるべきだ。


以上が、佐藤氏によるイラク現状報告と提言のあらましだ。途中、自分なりに情報を追加したりして、佐藤さんの報告と混乱してしまったかもしれない。すいません。文章修行が必要ですね。

最後に、私自身の考えを書きます。

<なぜ、私たちはイラク戦争を検証し、イラクの人々を支援すべきなのか>

私は、「足下の日本のホームレスさえ救えないのに、なぜそっちは見て見ぬ振りして、外国の人にばかり支援をするのか?」という疑問を口にする事がある。このグローバル時代、世界の紛争や貧困の原因に、自分もどこかで関わっている事は分かっている。だから、誰でも分け隔てなく助けるべきではある。しかし、国内のホームレスなど貧困者が、「自己責任」という言葉であまりにも簡単に切り捨てられる状況を見ると、「なぜ外国の人ばかり」と言いたくもなるのだ。

では、なぜイラクについては、このようにブログにまで書くのか?

それは、彼らの国イラクを混乱に陥れたイラク戦争の開戦に日本政府は賛成し、その政府を選んだのは私たち日本国民だからだ。
グローバル時代だからどこかでは繋がっているという不明確な理由ではなく、「戦争に賛成した」という明確な理由がある。

9・11同時多発テロのほぼ半年前、私は、自民党総裁選に出馬した小泉純一郎氏の街頭演説を喜々として眺めていた。そんなかつての自分を振り返りながら、こうしてイラクやアフガンにわずかながらでも興味を持ち続ける事が、自らの責任のような気がしている。
アホな私は、あのツインタワーの崩壊をきっかけに、インターネットを通じて、世の中にはもうひとつの情報があることを遅ればせながら知った。
無知は罪だと悔いるのみである。

追記
とはいえ、世の中には責任感じなきゃ行けない事がいっぱいありすぎて、全てに対応すると泡吹きそうになってしまうので、できることをできるところからやりまっしょい。

JIM-NET佐藤さんの報告では、がん患者や難民については、写真も交え具体的な状況説明がありましたが、そこまではフォローしきれませんでした。伝えきれていない部分も多いです。
支援先の病院にはベッドが足りず、白血病の患者さんが床で寝ている事(日本じゃ無菌室ですからね)、イラクは医療費は無償だが、交通費がなくて病院に来れないという人がいて、その人たちに交通費の支援などもしていることなどなど、イラクの現状は厳しいものがあります。

さらなる情報や募金先などはJIM-NETのサイトを参照ください。
JIM-NET 日本イラク医療支援ネットワーク

あと、6月25日(金)にカタログハウスセミナーホールでJIM-NET佐藤さんが撮ったイラクの写真展とトーク&ミニライブがあります。これも上記サイト参照を。

最後にもう一度「イラク戦争なんだったの?」のサイトのURLも
「イラク戦争なんだったの!?ーイラク戦争の検証を求めるネットワークー」

イラク現状報告 その3番外編に続く・・・と思います。

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戦争の検証を イラク現状報告会in衆院議員会館 その1

2010-06-22 17:12:02 | 中東・アフガニスタン
このまえの日曜日は世界難民デーだった。
まだまだイラクの治安はいいとは言えず、先日もバグダッドでテロがあり、26人が死亡というニュースをやっていた。
ナレーションでは、「新政権の発足も困難を極め、こうしたテロ攻撃は増える事が予測される」とかなんとか、人ごとのように言っていたが、アメリカ軍の撤退期限も、いつのまにか今年の8月末に迫っている。

ブッシュみたいなヒールスターもいなくなって、叩きがいがある相手が見つからないからなのか、マリキだのアラウィだのイラクの政府関係者が出てきても一般の人にはよくわからんと思うのか、アメリカが撤退さえすればそのあとはどうにかなるんじゃないのと思っているのか、自分たち日本の政府が加担した戦争について反省してみようという空気は世の中にあまり感じられない。

そんな世間の空気の中、6月16日、衆議院の第一議員会館で、イラクの現状報告会が行われた。「イラク戦争なんだったの?―イラク戦争の検証を求めるネットワークー」という団体の主催だ。

実は現在、イラク戦争の検証委員会を立ち上げようという動きが日本でも出てきている。
戦争を開始した張本人の片割れであるイギリスでは、昨年、大規模なイラク戦争検証の第三者委員会が作られ、戦争に至る政策決定に問題はなかったか、与野党、行政協力のもと現在も検証作業が行われている。ブレア元首相も証人喚問に応じ、その模様はインターネットで中継された。こうした検証作業はオランダでも行われている。

そうした状況を受け、「アメリカのイラク戦争開戦に賛同した日本でも検証作業が行われてしかるべきではないか。」そう考える人たちが、「イラク戦争なんだったの?―イラク戦争の検証を求めるネットワーク」「イラク戦争なんだったの?」のサイトを作って賛同者を募り、政府に対し、独立の「第三者検証委員会」の設立を求め始めたのだ。
100名の国会議員から賛同を得ており、そうした議員の一部が中心となって、第三者委員会設立を政府に求めて行きたいとしている。(賛同議員は上記「イラク戦争なんだったの?」のサイトに掲載されています)

16日の午後行われた院内集会は、新しく発足した菅直人内閣に向けて、イラクの現状をアピールし、検証委員会の立ち上げを促すべく行われた。

(この日は、通常国会閉会で5時から本会議も予定。議員の出席は少なかったが、写真上から 斉藤勁議員(民主)、服部良一議員(社民)、阪口直人議員(民主)、福島みずほ社民党党首、も一時顔を出した。)

集会では、先月、イラクの難民キャンプを訪れていた、日本イラク医療支援ネットワーク(JIM-NET)事務局長の佐藤真紀氏が「イラク復興支援の課題」と題して現地報告を行い、人道の見地からのイラク戦争検証の必要性を訴えた。

以下、その報告内容をもとに、あらためて日本のイラクへの対応を考えてみたい。

佐藤氏が、データを上げながら語ったのは、以下の3つの点だ。

<あなたはこれらの事実を知っているだろうか?>

①イラク戦争による犠牲者数
②イラク人の被害者の状況
(特に戦争が原因と見られるがん患者急増の実態)
③難民について


以下、佐藤氏の話に、筆者が出典など一部補足
<①犠牲者数>
イラクでの犠牲者は、多国籍軍の死傷者数については、当然の事ながらきちんと確認される。
イラクとアフガニスタンの多国籍軍の犠牲者数
現時点で、米軍4400人あまり、イギリスは180人ほどだ。
しかし、一方のイラクの民間人の犠牲者数ははっきりわかっていない。

有名な欧米のNGO 「IRAQ BODY COUNT 」「Iraq Body Count」のサイトが、報道された死者数などを集計する形で、イラク民間人の死者数を割り出して更新しており、現在96,803~105,553人(この記事のアップ時点で)が犠牲になっているとしているが、これは報道されたものだけなので、かなり実数より少ないとみられる。
 イギリスのランセットという医学誌に掲載された「THE HUMAN COST OF THE WAR IN IRAQ」という調査報告では、03年の戦争開始から06年までに60万人以上が犠牲となっているとしている。また、このデータから推測した「JUST FOREIGN POLICY」というNGOは130万人以上が犠牲になったとしている。これらの数値に対しては多く見積もり過ぎとの声もあるが、にしても、十万人単位の犠牲者が出ている事は確実だ。

日本もこれまでに、事務官が2名、民間警備会社の人(アメリカの会社に所属してた人らしい)やジャーナリストのほか、イラク特措法、テロ特措法でイラクやインド洋に派遣された自衛隊員およそ2万人のうち、在職中に(帰国後も含む)35人が亡くなっている。そのうち死因が自殺の人が16人もいる。病死が7人、死因が事故または不明の人は12人。
これらの事実について、当時の福田康夫首相が、07年11月の国会答弁で、答えている。福田康夫元首相の答弁

これだけの犠牲を強いたイラク戦争の開戦に賛成し、自衛隊まで派遣した政府の決定はやはり検証されるべきである。



<②イラクのがん患者の実態>

イラクでは湾岸戦争以降、がんの子供達が増えている。
このグラフは、小児がんの増加を示している。


こうした状況を受けて、医療支援を行うJIM-NETは、小児がん(おもに白血病)の子供たちへの支援を行っている。

アメリカはがんとの因果関係には言及していないが、戦闘で使用される劣化ウラン弾や白リン弾などの影響があることは想像に難くない。
報告の中で、ホジキンリンパ腫というがんで、あごに20cm以上もあるのではないかと思える巨大な腫瘍がある少年の写真が紹介されたが、このがんの症状はかなり特殊なケースであり、イラクに何か特有のがんが起こっている可能性を日本の医師も指摘しているという。
また、現地では、小児がんだけでなく、妊婦の異常出産も増加しているという。
さらに問題なのは、がんは被爆してから数年後に発症するケースが多いという事だ。
上のグラフで湾岸戦争後、すぐにはがん患者数は伸びていない。そう考えると、03年に始まったイラク戦争によるがん患者は今後も増えると考えられる。

しかし、湾岸戦争以降、経済制裁を科されたイラクでは、治療の設備や技術を整えることができず、日本では8割が治る小児白血病も死の病となってしまっている。現政権下では経済制裁は解除されているものの、まだまだ治安の安定、政治の安定はほど遠く、十分な医療が受けられずに命を無くす人が多い。

そのため、治療さえすれば、十分治る可能性のある小児がんの子供達は、
「がんになった自分は絶対に死ぬ運命なのだ」と思い込んでしまっているという。こうした先入観は、医療の整った日本でもいまだに根強いが、実は、こうした先入観を取り除き、前向きに治療に望む事が、サバイバルするために最も重要なことだったりもする。人それぞれ病状は違う。希望を持ちすぎるのも問題だが、悲観しすぎて冷静に事実を判断できなくなっている人が多いのも事実だ。
JIM-NETでは、こうした子供たちのメンタル面のケアも今後行っていくという。がんを克服した子供達の協力をあおぎ、患者の子供達に生きる可能性をきちんと認識させるモラルサポートを行いたいという。


<③難民の問題 日本の受け入れは・・・>

現在、イラクの難民は470万人に及ぶという。
270万人が国内避難民で、200万人が国外に出ている。

イラク戦争開始前、日本の川口外相は、日本は世界第2位の経済大国として、難民支援を積極的に打ち出した。
しかし、日本が国内に受け入れた難民は0人。これまでに一人も受け入れていない。アメリカ、カナダ、オーストラリア、スウェーデンなどの国は数千人から数百人レベルで受け入れている。

また、日本は、難民支援としてテント160張りを送っているのだが、一張り5万円ほどのテントを160送るために、政府専用儀2機を使用し、輸送費に1億円をかけたという。

費用対効果の問題といい、難民受け入れが進まない状況といい、日本政府の硬直した対応の象徴のような事例である。

難民キャンプには親を失った子どもも多い。パレスチナ人だからという理由だけで親を殺されたり、また、目の前で一家全員を殺された少年は、話しかけても反応がなく、そうした子どもの難民のメンタル面でのケアも必要だという。

報告会はまだ続いたが、ちょっと長くなったので、その1はここで。
次回は、報告会の続きと、イラク戦争前のイラクの状況なども含めて、イラクの現状を見てみる。

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祝島へ行った 番外 コロッケ情報入手

2010-06-16 13:50:07 | 祝島へ行った
祝島へ行った その5 で、絶品コロッケのことを書いたら、なんと、祝島の方からコメントをいただいた。

コロッケについての重要情報だ。

*このコロッケは、島のお弁当屋さんである「浜本」さんの商品である。
*土曜日がコロッケの日で、他の曜日に売っている事はほとんどないとのこと。


たまたま土曜日に祝島に行った私はラッキーだったのだ。
このブログを読んでくださり、一度祝島へ行ってあのコロッケを食べてみたいと思われた方は、是非とも土曜日に島に渡っていただきたい。
私も、次回祝島に行く時も、土曜日が入るスケジュールで行きたいとおもう。
そして、今度は、弁当屋の浜本の他のメニューも是非是非食べてみたい。

今回コロッケ情報をコメントくださった祝島人さんありがとうございます。
ほかにも、こうした楽しい情報がありましたら、みなさんどしどしお寄せください。
祝島へ行った その6以降の記事でも紹介したいと思います。

祝島いいところですなー。


祝島へ行った その5 かっちょいいとおいしいは自然と時間の恵み哉

2010-06-15 14:59:22 | 祝島へ行った
祝島へ行った その1 その2 その3 その4 からの続きです。

右手に海を見ながら自転車で走り始めた。
ちいさな港には、ちいさな漁船がきちんと並んでいる。
 
土曜日だからだろうか、作業している人は誰もいない。定期船が着いた時はやってきた人や迎えの人でごった返した船着き場周辺も、いつのまにか人がいなくなって、のんびりした風景に戻っていた。


帰りの船が出るのは夕方の5時。あと6時間。
今回の目的は、ひとの話を聞くというより、人々が暮らす場所、景色を見るということだから、とりあえず、海沿いの道を走り始めた。

5月8日祝島 長磯海岸付近  ものすごーく手ぶれしてますがご容赦ください。

このあたりは長磯海岸とよばれるあたりではないかと思う。
道路には私以外誰もいなくて、聞こえるのは風と波の音だけ。寂しくないのは、空が青いからだろう。

最も賑やかな集落を離れても、ぽつんぽつんと家や倉庫が建っている。どこも、強い潮風をよけるため、石の練塀や練り壁が作られたり、屋根の上に石の重しがしてあった。練塀の石は、潮風にすり切れ、太陽に焼け、丸みを帯びたやさしい色と形になっている。どんなアートにも負けないかっこよさだ。色が褪せた板も、地中海の風情なんて言ったら、ふざけんなと怒られるだろうか。でも、自然の素材は気持ちがいいわ。
 

そして、そうした建物の背後の山に目をやると、その植生の複雑さにも感激する。
 

遠目だからはっきりとはわからないが、緑の色合いの違う様々な種類の木が、まるで生け花のように、あるものは高くあるものは低く生えている。
そんな背景をしょった、石塀の家に人々は暮らしている。確かによく見れば、石塀の中の家にはかなり古いものもある。
しかし、古い家が貧乏臭く見えるのは、都会の喧噪とか無味乾燥な鉄やコンクリートやの背景をしょっているからであって、自然とともに年を取った古い家は、立派な古民家などでなくとも、それはそれで味があるのである(もちろん鉄やコンクリしょっててもいいものはありますが・・)。
窓を開け放ち、風を通し、人の生活が窓や軒下から少しだけこぼれているというのだろうか、そういう「流れ」を感じる家というのは、全然ビンボ臭い感じがしないのだ。それは都会でも同じ事かもしれない。

ある家の畑を通りかかったら、おばちゃんがずっと土いじりをしていた。ずっと同じ姿勢で黙々と作業を続ける。
時間の流れが、ゆっくりだ。


また少し自転車をこぐと、海猫が、私がカメラで狙っているのを気にもせず、のーんびりと岩の上にとまっていた。この素晴らしいお天気の下、特等席を占拠している。
青い海青い空独り占めじゃん!とか、海猫にジェらったりして、動物と同じ目線で生きている気分になる。実際同じ世界に生きてるんだけど。

このあと、途中で、休日学級の子供達の自転車に出くわしたり、農場があったり、いろいろなポイントがあったんだが、その途中の話は、また帰りの道のりでお話しするとして、ただひたすらまっすぐまっすぐ一本道を走り続けた自転車は、とうとう行き止まりにきてしまった。この道路、島をぐるりと一周していると思っていたのに、そうじゃなかったのね。
というわけで、この行き止まりの地で、自転車を止めて、お昼ご飯にすることにした。
 

そしてこれが、「えべすや」で買ったコロッケと炊き込みご飯と十六茶。


海風を受けながら、道路の淵に腰掛けて、パックを開いた。
まず十六茶を一口飲んで、炊き込みご飯を一口。驚いた!これは旨い!!彦摩呂じゃないから、いろんな形容詞は付けないが、本当に美味しかった。
具は何が入っているのか?小さく刻んであってよく分からないが、人参ごぼうなどの定番野菜のほか、茶色っぽいのは椎茸か。ひとかけらだけど、貝柱らしきものも認識できた。後で、えべすやで聞いてみたのだが、この炊き込みはえべすやで作っているのではなく、近所で作って届けてくれるのだそうで、詳しいレシピはよくわからなかった。
とにかく、この炊き込みは旨かったのだ。
天気もいいし、旅気分で美味しく感じたんだろうというようなものではない。米の炊き具合も、しょうゆの味の具合も絶妙。こんな所でこんな旨いご飯に出会うとは(こんな所で、なんてちょっと先入観入ってますね、私も)。

そして、次に俵型のコロッケをぱくついた。それが、これもめちゃうま!
中のじゃがいもにつけた下味が絶妙。ソースや醤油がいらないのは当然のことながら、まわりのパン粉の揚がり具合もすごく私好みだったのだ。

祝島からちょっと離れるが、ここで、コロッケについてちょっと書かせてください。
最近、デパ地下などで人気のコロッケは、パン粉が大きめで、ガリガリサクサクしていることを売りにしている。でも、私はこのタイプのコロッケがあまり好きではない。神戸コロッケを代表とするこの手のコロッケというのは、あくまで洋食レストランで揚げたてが出てくる類いのもので、漬け物や梅干しやみそ汁の並ぶ日本人の家庭の食事にはフィットしない味だと常々感じてたのだ。私のコロッケ原風景は、中のジャガイモも、ホクホクというよりは、細かくペースト状くらいに潰されて、下味の醤油などの調味料の水分のせいもあるのだろうが、しっとりしていて、パン粉は細かく細かく、薄―く薄―くまぶして、揚げられたものだ。齧っても音なんかしないし、パン粉が薄いから崩れそうになる。パン粉で包むというより、ジャガイモの粘性で形を保っているようなコロッケ。昭和40年代、近所の総菜屋のコロッケはこのタイプのものだった。なぜ、その後、コロッケ界をサクサクホクホクが席巻したのか??? 
それは、コンビニおにぎりが、海苔とご飯をビニールで分離してパリパリ海苔時代に突入したのに似ている気がする。サクッとかパリッとかいう軽快な雰囲気を、バブルに突入する頃の日本は求めていたんだろうなあとも思う。私も、高校時代、自分の弁当には、海苔は別添で持って行っていた。しかし、のちのちそれほどパリパリでなくとも美味しいということに気付いた。私が、パリパリのほうが美味しいと思っていたのは、うちで使っていたのが、常に味付け海苔だったからだ。うちの家では、そんなにいい焼き海苔など使うことはほとんどなかった。私は、本物の海苔を知らずして、ただパリパリだけを求めていたのだ。分厚い良い海苔(もちろん味付けなどではない)というのは、しっとりしても旨いのだ。それが分かってから、私は、しょうがなくコンビニおにぎりを食べるような場合も、ビニールを剥がすやつは選ばなくなった。そして、最近ではしっとりおにぎりがコンビニでも高級品として復活してきている。
この話で、コロッケもサクサクは本物を知らない人の・・なんて言うつもりはない。ただ、しっとりしてる方が、日本食としてのコロッケなんだろうなと感じるだけなのだ。

とにかく、祝島の「えべすや」で買ったコロッケは、私の本来の好みを刺激し、日本の原風景的な景色も相まって、めちゃめちゃ印象に残ったのだった。しかし結局、このじゃがいもの下味の正体を私の舌は分析できず、残念ながら、後でもう一度訪ねた「えべすや」さんでも、レシピはわからなかった。「カレー粉入ってる?」なんてことも言ってみたが、「それは入っとらんと思う」と言われた。このコロッケを作った方が、私のこの興奮ぶりを見たら、笑われるかもしれないなー。
今度また祝島に行く事があったら、是非またこのコロッケを食べたい。

もとい、祝島の海岸の昼下がりに戻る。
青い海と空のもと、コロッケをほおばりながら、ふと右手の海岸に目をやると、こんなまん丸い巨大な岩が転がっていた。よく見ると、後ろにももう一つ。

潮の流れに削られて、長年の間にこうなったのだろう。それにしても、よく流されて行かなかったものだ。
瀬戸内の直島の草間弥生のオブジェ南瓜にも匹敵する、自然のオブジェじゃないだろうか。正月には注連縄かけたくなるな。

万葉集にも登場する祝島は、古来、船の安全を守る神霊を鎮める島として崇められてきた。この丸い石が、いつの頃から波に洗われているのかは定かでないが、そんな海岸の岩のビジュアル一つが、頭の中で、長―い島の歴史の記憶に繋がって行く。それもこれも、目が捉えた映像(風景)を自分の中で咀嚼するとき、思考を遮る雑念があーんまり入ってこないからじゃないんだろかと、波と風とたまに鳥の声の聞こえる誰もいない浜にて考えた。
もちろん、それまでに仕入れた知識や、パンフレットの情報や、いろんな意味での先入観が自分のなかで化学反応を起こしているとは思うが・・・。

次回 「祝島へ行った その6 
     のんびりしているだけじゃない 島のビジネス」 に続く

<あとがき>
食堂が一軒もないことに驚き、お店に弁当がないことに落胆し、ありあわせの総菜を買って臨んだ昼ご飯だったが、こんなに感激のお昼ご飯になるとは。祝島恐るべしである。
そして、昨日、コロッケと炊き込みを買った「えべすや」さんのブログを発見した。
いろんなご飯の写真が載っていて、島の食生活の豊かさが垣間見えます。
祝島の生活が見える楽しいブログ、リンク張らせてもらいました。
祝島の風物詩 from えべすや in 祝島 第2章

Actio 2010年2月号 No.1299

一般社団法人アクティオ

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中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録
那須 圭子,福島 菊次郎
創史社

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祝島へ行った その4 とうとう上陸 ほんとになんにもない

2010-06-13 23:16:38 | 祝島へ行った
祝島へ行った その1 その2 その3 からの続きです

この日、祝島に向かう船は満員だった。甲板に立ちっぱなし。
いざ、走り出してみると、ものすごいスピードで、振り落とされないように一生懸命手すりにつかまりながら、片手でカメラを握った。でも、海のしぶきはバンバン降ってくるし、カメラ濡らさないように必死。一区切り回したらパーカーのポケットに仕舞っては出しの繰り返しだった。

定期船「いわい」で上関から祝島へ


上関を出た船は、蒲井、四代の2カ所の港に寄港して祝島に向かう。
地図を見ていただければわかるが、上関周辺地図 ↓が原発予定地 上関町は本州の先っちょの一部と、本州に一番近い長島、さらに祝島、八島という島で構成される。上関の役場と、蒲井、四代は長島にある。祝島と八島はその長島の先に浮かぶ島だ。長島だけは上関大橋で本州と繋がっている。
原発が計画されているのは、長島の突端、田ノ浦と呼ばれる浦で、四代の集落の裏側、四代の住民からはその施設は見づらい位置にある。逆に、祝島の住民からは、長島を臨んだ時に丁度正面に原発が見えるというわけだ。日常的に、原発の施設が目に入るか入らないかは、気分的にもずいぶん違う。実際、祝島の人もそう語っていた。

ましてや、田ノ浦は、スナメリなども生息するという瀬戸内でも屈指の自然の宝庫だ。これだけでも、原発建設に反対するに十分な理由だと思うが、世の中にはそうは思わない人もいるから不思議だ。一旦走り始めた車を止めるのは本当に難しい。
特に、温暖化ガス削減が言われ出してから、原発の危険性は、削減目標達成という課題にすり替えられるようになってしまった。事故なんか起きないように設計されてるんだとさえ言われるようになった。
でも、事故は設計のミスだけで起きるのではない。
原発の問題点を挙げればきりがないし、危険性や廃棄物の問題は重要ではあるが、今回は別の機会に譲ることにする。

私が祝島を訪れようと思ったのは、もちろん、原発建設問題でニュースになっているからではあるが、今回は、島の人に原発の話を取材するわけではない。ただ、どんなところか見るのが目的だ。

ニュースで見る上関町は、田ノ浦沖で反対派のカヤック隊が中国電力に対し、拡声器で反対のシュプレヒコールを上げている映像や、埋め立て予定地に反対派の人々が座り込みをしていたりする映像ばかりで、カメラはその周辺の風景を映す事もない。ましてや、田ノ浦で反対している人々が、実は対岸の祝島から来ていることなんてニュースを見ただけでは分からない(もちろん祝島の住民らと説明はしているが、祝島がどの辺に位置するかさえ全然分からない)。
その周辺の海がどんなにきれいかとか、祝島の人々の生活がどんなものだとかは、よほどの特集番組でもないと見えてこないのだ。それに、電力会社をスポンサーに持つテレビでは、祝島の自然を愛で、原発反対を訴える番組など期待しようもない。

上関原発の問題は、中央のメディアはそれほど関心を持っていないようだ。
東京のテレビ局で働いていた私は、たまーに地元局から送られてくる1分ほどの短いニュースをみながら、反対派のおばちゃんたちはどんなところに住んでいるんだろうなあと思っていた。

そして、やっとその機会がやってきた。

定期船「いわい」から祝島船着き場を望む


天気は最高にいい。真っ青な空に真っ青な海、ゴールデンウイーク明けたばかりの5月の風は、これが幸せということなのだと思うくらい気持ちがよかった(おおげさだなあ・・汗)。
土曜日の定期船「いわい」には、前回書いたように、上関から往診(?)の歯医者さん一行が乗っていたほか、NPOが主催する休日学校の子供達、観光で来たという大人のグループも何組かいて大混雑だった。

到着した祝島の桟橋には、島の人たちが待ち受けていた。
海月も歓迎してくれた(水温が上がると海月が増えるらしい)。

船からは大きなデジタルテレビの箱も降ろされ、島も着々と地デジ化されているようだ。

たった一人でやってきたのは私だけのようで、みなグループで思い思いの方向に散って行く。

それにしてもなーんにも無い。

桟橋を上がった所に、無人の野菜直売をやってて、おばちゃんが持ってきたネギを置いて行った。段ボール一箱程度の規模の売り場だ。その辺を見渡した限りでは、お店などは一軒も見えない。
貸し自転車があると船着き場に書いてあったので借りることにした。


1日借りて200円。写真とるのは忘れたが、貸し出し時に200円と引き換えに簡単なチケットをくれる。でも、特に名前や住所を書かされるわけでもなく、「名前書かなくていいの?」と聞く私に、「いらんいらん」。まあ、島から出る方法は船しかないから、盗まれる事もないか。この適当な感じが気持ちいい。

貸し自転車の運営は島の自治会。去年の7月に始まったらしい。

このチャリンコハウスというのは誰の命名なのか?
また、自転車には「寄贈チャーリー吉本」と書かれているが、これが誰なんだろう?聞くのを忘れたが、全てがおちゃめな祝島なのであった。

さて、朝5時に出てきて、もう11時前。お腹が空いた。まずは腹ごしらえと思って、食堂はないかと聞いてみた。すると、「食堂はない」との回答。
そっかー、当然、食堂の一軒くらいあるだろうと思っていた私が高度資本主義社会の先入観に毒されていたのだ!(笑)。

「お店に弁当あるから。早よいかんとなくなるよ。えべすやさん。」おばちゃんやおっちゃんたちが口々に教えてくれ、おお!良かったーと思ったのもつかの間、貸し自転車を借りて島散策しようとしているグループが、今まさに自転車にまたがって出発しようとしていた。弁当も早い者勝ちか!これにあぶれたら、夕方の船が出るまでなーんも食べられないかもしれない。
そう考えると心ははやるのだが、あまりののーんびりとした空気に、焦る気にもならず、店の場所さえ行った道々で聞けばいいやと、ゆっくり自転車をこぎ始めた。

パンフレットもなーんもなかったので、近くにあった宿で地図付きのパンフをもらう。
地図を見ると、道は島をぐるりと取り囲むようにあって、集落は船着き場のそばだけのようだ。500人の人口のほとんどはここに住んでいる。
家と家の間の露地は狭くて、自転車一台がやっと通れるくらいだ。

そして、上の写真でも分かるように、家々は風よけの石塀が特徴的だ。丸みを帯びた石を使って作られた塀は、やさしい景色を作り出す。
知らない人が見たら、ちょっと沖縄の風景のようだ。しかし、植生は瀬戸内のそれで、祝島独特の風景になっている。


ゆーっくりゆーっくり自転車をこぎながら、時々こうした石塀に出会いながら散策は始まった。

とりあえず、お店を見つけて弁当買っとかなきゃと思い直し、通りかかったおじさんに店の場所を聞いたが、その通りに行っても(行ったつもりかも)店が見つからない。島を取り囲む自動車道路から一旦住宅の間の露地に入ったら、もうぜんぜんどこにいるか分からなくなる。
次に出会った人に聞いたら、やっと店が見つかった。見つかったというか、最初は店とは思わなかった。

これが、「えべすや」さん。


店に入ったら、昔なつかしよろず屋さんの風情。プラスティックのコンテナにお惣菜やバンが並んでいる。地元でとれた海藻なども売っていた。
が、残念なことになんとコンテナの中には、既にお弁当はなかった。既になのか、もとからなかったのかは不明だ。コンテナの中には、石豆腐の煮たのと、おからの煮たのと、コロッケと、炊き込みご飯が透明なパックに入って売られていた。コロッケは俵型のが4個も入っていて、一人の私には多すぎたんだけど、おからと石豆腐っていうのもなあ、あまったらおやつにすればいいやと思い、炊き込みご飯一パックとコロッケを買うことにした。
コロッケは、島民の予約が入ってて、アワや手に入らない事態になりかけたのだが、「ああ、大丈夫だ、一つ余るわ」ということで、買う事が出来た。
そして、店の中でも数少ない都会と同じ仕様のものであるドリンク用冷蔵庫からペットボトルの十六茶を一本取って、これも下さいと言った(なんかもったいぶった書き方だ・・)。無事、昼ご飯もゲット。
石塀がきれいな公衆トイレにも寄って、準備万端。

石塀が美しい公衆トイレ。中も水は最小限しか使わないエコ仕様の洋式トイレでした


そして私は、島を一周するべく、時計と反対周りに走り始めたのでありました。

>>>次回 祝島へ行った その5につづく

祝島へ行った その3 祝島上陸直前、柳井の町並と上関の船着き場にて、考える。

2010-06-12 01:21:27 | 祝島へ行った
「祝島へ行った」と題しながら、祝島へ行った その1
祝島へ行った その2では祝島へ上陸できず、その上、今回の「その3」まで相当日数が空いてしまった。そんな中、祝島をとりあげた映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を観た知人から、ブログの続きはまだかとのメールももらい、焦って「その3」にかかったが、なんと、今回も祝島に向かう船に乗った所で終わる始末。って、終わらなくてもいいんだけど、分けちゃいました。すぐに続き書きます(汗)。というわけで、「祝島に行った その3」です。

早朝5時、朝焼けの中、松山三津浜港を出航したフェリーは、一路、山口県柳井港に向かった。愛媛県出身ながら瀬戸内海を船で渡るのは初めての体験だ。
小さい島がいくつも連なっているのは知っていたが、それがこんなにきれいだとは知らなんだ。

松山から柳井へ瀬戸内海を行く


フェリーの中も、円陣になったグループ用のソファ席があるなど、快適快適。
向かいのソファ席にもテーブルがちゃんと付いている。
船旅というのは、時間はかかるが、また時に船酔いという悪夢に襲われることもあるが、急いでさえいなければかなりいい感じだ。それに、松山―柳井のような対岸に位置する場所は、船で行けば意外に近いのだ。

ビデオでは島々の浮かぶ様子がよくわからなかったのでこの写真も載せときます


これは柳井港の近くにいた船。


朝の海風に吹かれながら、7時半に柳井港着。9時半まで祝島行きの船は出ない。そこで、それより40分ほど早く出発する8時51分発のバスに乗って、上関まで行き、そこから船に乗ることにした。バスの旅もいいもんです。


それまでの待ち時間は、柳井の街を散策。


柳井は元禄の頃から瀬戸内海屈指の商都として栄えた所で、今でも白壁と格子窓の古い町並みが保存され、観光資源となっている。まだ8時前で、ほとんどの商店が閉まっていたが、唯一醤油蔵だけが店を開けていた。

その醤油蔵の入り口に飾ってあった金魚。これ金魚提灯というこちらの地方の伝統的な工芸らしい。ほんとは欲しかったのだが、大きいのは1個1600円。失業中貧乏旅行だという意識もあって買わずに出た。でも、やっぱり買っときゃ良かったかな・・・。

ところで、この金魚提灯、かつて全国手広く商売をしていた柳井の商人が、なんと遠く青森のねぶたをヒントに考案したものだそうだが、この話からも、かつては、柳井がいかに瀬戸内海屈指の港町として繁栄していたかということがわかる。

船が運送業の中心にあったころは、港に適した街が栄えた。
私の故郷である愛媛の八幡浜というところもいまだに大分県との間にフェリーが走る港町だ。みかんと漁業の町だが、かつては紡績も盛んで四国のマンチェスターと称され、県内で最も早くに銀行が開業した土地だったらしい。
それが、今や、高速道路に素通りされたとかで、過疎が進み、商店街はシャッター商店街と化している。

かつて、陸地は山がちなものの、周囲を全て海に囲まれている日本にあっては、船は簡単に近隣地域と行き来できる便利な交通手段だった。
そして、その時代、祝島のような「島」は、海の中継地点として重要な交通の要所となっていた。
山口県には「上関」のほか、ご存知の「下関」、そして「中関」という地名も残っているが、これらは瀬戸内海の積み荷の検査をする番所があったらしい。
上関町にある「祝島」は、奈良時代から九州の国東半島と近畿を結ぶ海上交通の要衝で、まさに九州、本州、四国をつなぐ場所だった。
それが、高度成長期以来、森林を伐採し陸地にコンクリートの道を造りはじめたことで、船の利用が減り、過疎地域に変わっていった。
祝島だけではない、私の故郷も、そんな過疎地になった海上交通の要衝の一つだ。そして、そこにも原子力発電所が建設されている。つい先日プルサーマルを受け入れた伊方原子力発電所だ。

海水によって冷却できること、住民の住む地域が片側しかないことなどから、海岸の町に原発は立地される。ましてや過疎だと行政側には都合がいいのだろう。
コンクリートの道路建設で人を奪われ過疎になった所に、今度は原発を押しつける。もともと人が少なくなったのも、国の政策のせいなのにね。

そんなことを考えながら柳井の町を歩き、8時51分のバスに合わせて、バス停に戻ってきた。


バスの一番前の特等席に座って、上関に向け出発。


自家用車が普及したとはいえ、バスはまだまだ、庶民の足だ。自分で運転しなくていい分、おしゃべりに興じる人、本を読む人、窓から景色を眺める人、町の一角がそのまま切り取られて動いて行くようで、その町の空気を知るいい観光スポットだ。
ただ、時として貸し切りとなってしまうこともあるが・・。

50分ほどのバスの旅で上関の船着き場に着いた。
バス停のすぐ側に、船の待合室があって、切符も売っていた。


次の船に乗る人が既に何人か待っている。
この辺りまで来ると、方言がきつくなって、早口の言葉がわかりづらくなり、つい聞き返してしまう。
船を待つ間、近辺を散策した。よくある小さい漁港の町だ。民家の間に、小さい役場や小さい商店や小さい町工場があった。
そんななかに比較的新しいこんな建物があった。歯医者さんだ。よく見ると、
こんなプレートが張ってあった。

原発受け入れを前提に交付金が出て作られた施設のようだ。
歯医者なんて、交付金なくても当然近隣にあるべきものだろうに。行政は、原発と引き換えにではなく、こうした施設は整備すべきだ。

近くには、上関の特産物を集めた小さな店があったが、そこに置いてあった上関町の広報誌は、原発の必要性を訴えていた。中部電力が発行しているパンフレットもあった。
地元でとれた海藻の袋といっしょに置かれている原発推進のパンフレットには複雑な感じがしたが、地方の景気は冷えまくり、この上関町も厳しい状況にある。それゆえの原発受け入れというのは分かりすぎるくらい分かる。
しかし、補助金と引き換えのこうした原発の受け入れについて考える時いつも思う。
町の人は、補助金をもらう事で、どういう生活が訪れる事を期待しているのだろう(お金と引き換えなんて言ったら、地元の人に失礼だろう。どうしても原発を作りたい国と電力会社のごり押しに負けて、しょうがなく補助金をもらう事で首を縦に振っているのだろうから)。
過疎地で不景気なのはどこでも同じだろうに、なぜ、祝島の人は補助金をかたくなに受け取らず、島の生活を守ろうとしているのだろうか。

やっと、船が到着した。
桟橋には、お医者さん。定期的に島に行ってるようだ。
(その後、祝島に着いて、散策していたとき、彼らが歯科診療所で治療しているのが、窓越しに見えた。)


というわけで、やっと、祝島行きの船に乗り込んだのだった。

次回はやっと祝島に上陸します。
続き「その4 とうとう祝島上陸」は明日にはアップするようにします。

Actio 2010年2月号 No.1299

一般社団法人アクティオ

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中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録
那須 圭子,福島 菊次郎
創史社

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近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷
深井 甚三
東京堂出版

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日本の港の歴史―その現実と課題 (交通ブックス)
小林 照夫
交通研究協会

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世界は小沢一郎で廻っている? 総理交代記念・テンプレート変更

2010-06-05 01:16:16 | 国内情勢
総理大臣が変わったので、気分を変えてテンプレートも変えてみました。
飽きたらまたすぐ変えるかも。って、それじゃまるで日本の総理大臣みたいだ。
菅さんだって、選挙管理内閣なんて言われちゃってはいるが、本人の表情を見ていると、9月以降も続けるつもりのように見える。

それに、今回の総理交代は、「小沢一郎の影響力を排除する」記念すべき総理交代劇になるのではという妙な期待も、いろんなメディアの報道から垣間見える。

一部では(いや、ほとんどか)、今回の小鳩ダブル辞任は鳩山さんのクーデターみたいなもので、あのサムアップ(親指ガッツ)は、小沢さんを道連れに出来たことに対するガッツポーズだと解説されている。
官房長官と幹事長という2大要職も、仙谷由人と枝野幸男という2大反小沢勢力が占めようとしていて、今回の一連の動きは小沢一郎の影響力を党内から排除する方向に動いていると、マスメディアは嬉しそうに伝える。
マスメディアだけではない。これまでマスメディアを批判してきたインターネットを主戦場とするメディアやフリージャーナリストも、民主党の中枢から小沢一郎の影が消えることに関しては、マスメディアとそう変わらない論陣を張るものもある。
ニュースで紹介される街の声も、鳩山さんには同情的なものもあるが、小沢さんに対して同情票はほとんどない。
かろうじて、小沢さんを擁護する声が聞かれるのはツイッター上くらいだ。

日本中がそうまでして排除したい「小沢一郎」とは何なのか?

なぜみんなそんなに小沢一郎が嫌いなのだ?

金権政治の象徴のようになってるから?でも、実際に利権をむさぼっている人は他にもいるだろう。
湾岸戦争を機にPKO法を成立させ自衛隊の海外派遣の道筋を作ったのが小沢一郎だから? でも、今回の普天間問題で、大臣を罷免された社民党の福島さんに「あんたたちが正しいよ」と言ったのも小沢一郎だ。
それともやっぱ、あの悪人顔のせいか?

確かに、政策調査会をなくし、政策立案を一元化したことに対する独裁だとの声は分からなくもない。
原理主義者だから周りを排除しちゃうこともあるんだろう。
記者会見のやり取りを見ても分かるけど、勉強不足の人や権力に対して媚びへつらうタイプも嫌いそうだしな。
基本的に小沢一郎っていわゆるエリート面した似非セレブが嫌いなんだと思う。

また、政治記者などの話では、小沢さんって急に態度が豹変したりするらしい。
これまで親しくしてたのに、突然、電話にも出なくなったりするというのだ。記者の方では理由が分からない。でも、小沢一郎は電話に出ない・・。それで記者は嫌いになっちゃう。
小沢さんは小沢さんなりになんか理由があるんだろうけど、往々にしてそういうのって本人にしか分からない理由だったりするからな・・。そういうのが敵を増やしてるということに無頓着なのも小沢一郎という人なのだろう。

とはいえだ、そういう政策以外のことが、これほどまでに政治家小沢一郎を否定する理由となろうか??

他に、小沢さんはやりたい政策なんかない、選挙で勝って政権交代することだけが目標だという批判もある。
じゃあ、もし参院選に大勝して、政権が盤石になれば、小沢一郎は満足して引退するのか?それは否じゃないのか?
ああ、わからん。


うわー、明日朝早いのにもうこんな時間だ!

とにかく、小沢一郎さえいなくなれば、なんか問題解決~みたいな空気がちょっと気持ち悪い。みんなが妙に明るいのが気持ち悪い。小沢さんの影響力が低下しただけで、これまで民主党をぶったたきまくってたマスコミは手のひら返しそうな勢いだ。

まあ、実際どうなるかはわからないが、反小沢とか親小沢とか、小沢一郎という人物を軸にしてしか日本の政治の話は成り立たないということが、ここ数日でさらに浮き彫りになったのだった。

そんな小沢一郎は、一体、日本の中の何を象徴しているのか?

もう、ねむねむで頭が動かないけど、眠くなくても、その答えなんて簡単にでるはずない。

こんなとき、橋本治だったらなんて言うんだろう。聞いてみたいけど、今は彼のコラムを読める雑誌ってないんだよね(もしあったら教えてください)。それに、このブログのタイトルであるナンシー関も生きてたら、あの鳩山さんの親指サムアップをどう解釈したんだろ。小鳩の消しゴムハンコ見たかったよ・・・。

小沢一郎とは日本人にとって何なのか・・・?

高橋源一郎はナロードニキと言っていた。農村部から中央に対する恨みを代表して小沢一郎が抱えている。そうしたルサンチマンが彼の政治の原動力だという。だとすると、理念が無いわけでもなさそうなんだけどな・・。
本棚にある小沢一郎著「日本改造計画」もあらためて読んでみるか。

あ、ほんと眠い。
頭がクリアなときに少しずつ考えていこう。何か重要なことのような気がする。
今日は、もうまぶたが・・・。
ちなみに、明日から能登半島に行ってきます。

世界は小沢で廻っている。

日本改造計画
小沢 一郎
講談社

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小沢一郎 嫌われる伝説
渡辺 乾介
小学館

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剛腕維新
小沢 一郎
角川学芸出版

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小沢一郎の功罪 佐高信の政経外科 XII
佐高 信
毎日新聞社

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虚像に囚われた政治家 小沢一郎の真実 (講談社プラスアルファ文庫)
平野 貞夫
講談社

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