橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

9月29日(水)のつぶやき

2010-09-30 02:01:39 | ツイッターつぶやき
00:10 from web
いま一度ポスト。今日のブログ「近所の店の売れ筋商品とは?」http://www.dejima2010.com/「記号性」を求められない有象無象の中に突如として現れた「突然変異」ファッション業界の人@tabbata @voguejpデフレについて考えてる人に読んで欲しい。 
00:21 from web (Re: @mamio_
@mamio_ ごめーん。入ってなかった?
09:37 from web
今日は資源ゴミの日。ものすごいペットボトルの量に反省。今年の夏は暑かったから外で飲み物をよく買った。昨日飲んだウィルキンソンみたいなデポジット復活を願う
09:41 from web
やっぱ、主婦と外の仕事を両立するのって大変ですよね。外に出なくなってよくわかる。洗濯したり、ゴミ出したり、ご飯作ったりしてたら仕事間に合わないよ。ましてや掃除は・・・。私にはそんなにがんばる体力無いな。労働力とお金を取っ替えてるのを実感する。
09:45 from web (Re: @buonpaese
@buonpaese ギャルソンも好きだけど、ごちゃごちゃしたアメ横とか上野とか好きなんですよね。それにギャルソン買ってたらおのずと他にはお金回せないし。必然が生んだコーディネートだったりしてw でもそれが楽しいんですよね。経済学は幸福を実現する学問になって欲しいなあ。
09:46 from web
今朝は気持ちいい朝ですね。ゴミ捨てに階段を下りる時の空気感で、その日一日の気分が決まる気さえします。
11:04 from web
8時10分に起きて、資源ゴミ出して(ペットのビニールを剥ぐ作業が大変だった)、朝ご飯作って食べて、bloggerのbad request 400error解決して、洗濯物を洗濯機に放り込んだら、もう11時である。お風呂のお湯ためたのに入ってない。時間がもっとゆっくり流れないかな。
11:06 from web
さて、今日は礼状を書く。ブログの構築をすすめる。読む本もある。やばい、また新聞が積まれる。ちょっと今開いとこ。とーきょーしんぶん。
11:07 from web
あ、振り込みもあった。忘れずに。Macの電源アダプターのプラグ部分の料金送料なり。
12:00 from web
涼しくなって分かる、やっぱ今年の夏は異常に暑かったんだ。身体がダルかったのも、眠かったのも、気候のせいかもしれない。
12:00 from web
お昼でーす
15:01 from web
検察の話とか、もうなにがなんだかわかりませんね。何がうそで何がホントか。
17:03 from web
緊急地震速報 NHKのアナウンサー冷静に対応してんな。ニュース中に出たの初めてみた。
22:58 from web
山口百恵のSONGSなう
23:28 from web
山口百恵のSONGS終わった。途中沢田研二や桜田淳子の歌もちょっと出たけど、この頃のアイドルのほうが、声に一人一人の特徴がある気がする。今はグループ売りが多いから、グループになじむ子が選ばれてんのかな?いや、昔の人の声はベタなイガイガがあるんだな。今は洗練という名の平準化が。
23:33 from web
70年代のアイドルの声は土着の湿り気みたいなもんがあるもんな。土着を脱ぎ捨てようとしたのが80年代以降。TOKIOが日本の全てに・・はならなかったけどね。 そういえば、今日永江朗13年の意欲作「セゾン文化は何を夢みた」を購入。2300円もしたけど、私たち世代は手に取ってしまうよな
by yurys on Twitter

9月28日(火)のつぶやき

2010-09-29 02:02:05 | ツイッターつぶやき
15:00 from web
久々にブログ更新です。「What is value? 近所の店の売れ筋商品とは?」http://bit.ly/bKvMSd 広い層に受けているかわええバッグをコムデギャルソンとコーディネート。そして「実用性」について考えてみました。
18:07 from web
今日のブログ「What is value? 近所の店の売れ筋商品とは?」http://bit.ly/bKvMSd なんだけど、新たなデザインのブログを作ってこちらにも同じ記事を載っけてます。徐々に移行したいのですがhttp://www.dejima2010.com/どっちがいい?
18:15 from web
ブログを移行すると、はてなブックマークとかが外れてもったいないのである。かつて、朝生のことを書いて3日で8万PVとかあった時の遺産が今も続いている。でも、今のブログはなんか今イチなのである。新しいブログhttp://www.dejima2010.com/まだ工事中頁もありますが
19:04 from web
今日のブログ「近所の店の売れ筋商品とは?」http://www.dejima2010.com/「記号性」を求められない有象無象の中に突如として現れた「突然変異」~この記事ファッション業界の人にも読んで欲しいので @tabbata さんと @voguejp さんにも送っとこ 
21:10 from web (Re: @takosan
@takosan ウィルキンソンのジンジャーエール飲んでます。確かに美味い!瓶もデポジットでお金返してくれるし、これは酒の河内屋に通う事になりそう。考えてみれば、デポジットってリピーターを増やすいい方法なのになあ・・。復活願う。
22:16 from web
ここ数日、新聞開いてない。やばい。もったいない。まとめ読み。
22:17 from web
先週発売のモーニング。ピアノの森落ちて、主に泣いてますも休載で、ちとがっくり。やっと今日読んだのでした。
22:19 from web
そんなに遊んでるわけじゃないのに、ブログの構築とかやってるとすぐ時間が経つ。私の場合、迷ったり直したりが多いからだろうか。あと、PCの使い方よく知らないしな。全部自己流だし。あと、PHOTOSHOP欲しい。
23:45 from web
今日のブログ「What is value? 近所の店の売れ筋商品とは?」http://bit.ly/bKvMSd 新たなデザインのブログを作ってこちらにも同じ記事を載っけてます。徐々に移行したいのですがhttp://www.dejima2010.com/ こっちも見てみてね。 
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What is value? 近所の店の売れ筋商品とは? 

2010-09-28 14:44:57 | 発掘!価格崩壊コーディネート
ごぶさたしちゃってました。
先週は田舎に帰って、茶の湯炭の大会に参加したりとか、地元の市長に会いに行ったりとか、地域振興とジャーナリズムを両立する仕事を確立するための布石みたいなものを打てたのか打ててないのかわからないけれど、いろんな人と話をしてきました。その中には、いろんなヒントもあって、いくつかのアイディアが浮かんだので、形にすべく年内ダッシュだー。なんて言うほどの余裕も無いほど尻に火がついた状況です。
一方で、その間テレビでは日中関係のニュースばっかりで、民主党代表選のことをあれだけ書いてたのがうそのように脱力中です。

というわけででもないんですが、今回は、前回のものの値段のこととちょっと関係があるのかないのか、最近、近所のお店で売れている商品の話から、what is value?を考えたいと思います。


<近所の店の売れ筋商品>

うちの近所のある店で、ちょっとした売れ行きを見せている人気の商品とは、ショッピングバッグである。ルイヴィトンみたいに、持っている人に街で何人も出くわすわけじゃないのだが、お店に行くたびに売り切れては補充されている。
それがコレ。



ただの水玉のビニールバッグだ。
0が何個違うのか?ヴィトンなんかとくらべてすんません。

それにしても、このバッグ本当によく売れてるのだ。
この前、店に行った時も売り切れ。
店員さんに「よく売れてるの?」と聞いたら、「売れてマスよ~。次もすぐ入荷します。」と言っていた。

最初、私がこのバッグを買ったのは、黒のバージョン。


見たとたん、「かわええ!これは買いだ!」と心の中で叫んだ。
ちょっと安普請ながら、持ちようによっては、私の好きなコムデギャルソンの服にも合いそうだし、水玉といえば、草間弥生みたいじゃんねえ。
そこで、コムデギャルソンの今年の春夏モノでたまたま企画された草間弥生コラボTシャツに、このバッグを合わせてみた。


いっぱい写真とったので、せっかくだから載っけた。

どうだろう?
ちょっといい感じだと思わん?

このコーディネートの足元のシューズはやっぱこの黒に白の水玉っしょ。
以前このブログでも紹介したアメ横のフットモンキーで買ったK-SWISSの型落ち。
3000円だったか4000円だったか?



たまたま昔のギャルソンの水色とピンクのシャツも持っていたので、こんな感じでピンクとブルーの袋も合わせてみた。


うふふふふ。
いつも、小沢一郎だ、アフガンだとおどろな話ばかり書いてる私ですが、こういうのも大好きなのだ。楽しいなあ~。


<このバッグを売ってるお店>

というわけで、この水玉バッグ、どこで買う事ができるのかというと。
実はこちら、上野の100円ショップ「シルク」なのだ。

つまり、このバッグ105円。

さっきの草間弥生柄のギャルソンTシャツは確か9800円くらい。
水玉バッグは105円。超格差コーディネートである。

こんなにたくさん入荷していても、


すぐに、こんなに売り切れてしまう


そして、さらに入荷。





そして、愛用者はここにまで拡大。


水玉バッグがやけにハマっている。
それに、このおじさんよーく見るとかっこ良くない?
帽子といい、ややダボ系のクロップドパンツの長さは絶妙。つうかくるぶしの出し方と草履がいい。
そのほか、ジャケットのピタ感とか。水玉バッグの年期入った使いこなし感とか。
まあ、水玉バッグ持ってたから、というひいき目もあるけど、それでも、このおじさんがこの黒の水玉バッグを持っているのを見つけたときは、「かっこいいとはどういうことか」を考えさせられた気がした。

さらに、このおじさんを見かけた後、今度はテレビで、衝撃的なシーンを目撃した。
NHKの夕方のニュースの特集コーナーで、年間200万円万引きされる店として、この「上野シルク」が登場。
なんと、つかまった万引き犯がこの黒い水玉バッグを持ってたのだ。

いろんな目的で買う人がいるもんだ・・。
こんなに幅広い層に売れてるんだもん、すぐ在庫が無くなるわけだ、なんて妙な納得をしたりしてしまった。
もちろん万引きのために買う人なんて例外だし、万引きなんてしちゃいけないんだけど、なんだかこの水玉バッグの懐の深さのようなものを感じてしまったのだった。

実際には、上野やアメ横で沢山の買い物した人が、袋を一つにまとめるためにこのデカイ水玉袋を買っているという辺りが、よく売れている最大の理由なんじゃないだろうかと思う。店側もそうした客の行動を見越して、店頭の一番目立つところにこの袋をぶら下げているのだろう。

とはいえ、私は、実用全く抜きで、この黒の水玉のデザインとビニールの質感が妙にマッチした袋に草間弥生を思い、かっこいいと思って買った。縫製の悪さもパンクだとかなんとか言って・・。
1000円だったら買わないでしょ?と聞かれれば、確かに買わない。しかし、300円なら買っている。いや350円でも買うかな。

+250円は自分だけのウキウキワクワク代だ。

私はデフレを助長する激安商品がはびこるのはどうかと思うが、全てダメだと言う気にもならない。というのも、100円ショップはある意味、買い物の楽しさを教えてくれることがあるからだ。


<100円ショップは「実用的」か?>

100円ショップの商品というと、実用性のみの追求のように思われがちだが、
実のところは、実用性を求めて買うと失敗することも多い。やはり品質とか使い勝手の部分で劣るものが多いからだ。
やはり、それなりの値段のきちんと作られたもののほうが実用的なのだ。たとえば、布ガムテープとか画用紙とか。

むしろ、100円ショップでの掘り出し物は、この水玉バッグのように、たま~に突然変異のように生まれるグッドデザインだ。もしくは倒産品に類するものと思われる見切り品。そもそもはもっと高いものが、やむなく100円になっている。

ブランドものが、高い値段で人の選択眼を惑わすとしたら、100円ショップは、100円という均一の激安価格が、その商品の本当の価値を見えなくする。均一価格の商品の中には、実質的な価値は100円以上のものも以下のものも混ざっている。
また、あの水玉バッグが私の胸にズギューンと来たように、人それぞれその価値の意味や大きさは違う。

そして今、私は、そんな均一ラベルの下に隠れた価値を見いだす遊びに夢中なのだ。

なんて、シルク通いをしていたら、バラエティ番組でそんな遊び(どれが100均のものか当てるゲーム)をやっていた(とほほ)。

骨董にしろ何にしろ、目利きの楽しさっていうのはそういうもんなんだろうと思う。
私は今お金が無いので、100円ショップでそういう楽しさ味わわせてもらっている。

ただ、100円ショップでは、失敗しても痛みが小さいから、危機感もほとんど無くて、安易な買い物になってしまう恐れもある。「大量消費社会もそろそろちょっとね・・」なんていいながら、いるのかいらないのか分からないこんな水玉のバッグを買っている自分に後ろめたさがないとは言わない。

しかし、店先にこんなカラフルでポップなバッグを無造作に山のようにぶら下げてる店員とか、売れる売れるとどんどん量産している工場とか、その袋を買って空き缶集めてるおじさんとか、草間弥生Tシャツと合わせてる自分とか、アメ横で買い物してこの袋にまとめてるおばちゃんとかおにいちゃんとか、このバッグに関わるいろんな人の姿を思い浮かべると、みんなたくましく生きてるなあという気がして、それが一番ヒップでパンクなんじゃないかという気がするのだ。

多分それは、みんな使う目的がはっきりしてて潔いからじゃないかと思う。

「なんとなくクリスタル」じゃないけど、この水玉バッグにはあんまり「記号性」がない。買ってる人はほぼ実用で買っているのだろうし、売る側も単純に売れてるから増産しているのだろう。そこには戦略とかマーケティングがあまり見えてこない。いや、実はものすごい戦略が・・なのかもしれないけど、それは商品を「記号化」するという類いのものではないだろう。
そんな商品をコムデギャルソンと合わせようとしている私が最も記号性の虜なのかもしれないくらいだ。

なのに、この水玉バッグは、そんな「実用需要」のただ中で、自らの超ポップな異形によってオーラを放っている。

「記号性」を求められない有象無象の中に突如として現れた「突然変異」。
人は「実用性」「合理性」だけでは生きて行けない事を主張するかのように異彩を放つ。

この「記号」であふれかえる世の中で、私の目にこの水玉バッグが魅力的に映ったのは、その辺に理由があるのかもしれない。
そして、100円ショップ探検の魅力も、そうした実用性の森の中で、実用性に飽き足らず自ら叫び出しそうな変なデザインの商品を見つける事にあるのだろう。

そして、そうした異形のデザインは、一見、実用性のみを求められているかに見える100円ショップの商品を作るデザイナーたちの無言の自己主張であり反乱なのかもしれない。

人は「実用」に生きる時に美しい。
しかし、人は「実用」と「合理性」だけでは生きては行けない。

買い物は「実用」と「楽しさ」のバランスがうまくとれていないと不幸を生むよね。
実用にくらべて、見栄とか、ストレス解消とかの分量が大きすぎると大変なことになる。

<最後にちょっとデフレについて>

私が一番嫌なのは、モノに対してたいした思いも無く漫然とお金を使う事だ。

本当に手が込んでいていい素材で作ったものが値段が高いのは当然で、そういうものが欲しい自分もいる。一方、100円ショップの商品にグッときて買ってしまう自分もいる。どちらも欲しいと思うのは、どちらの商品にも違った意味で魅力があるからだ。

デフレの問題とは、ただ単に100円ショップや激安商品を無くせばいいという問題ではないと思う。
それなりに手が込んで、良い素材を使ってきっちり作られたものにまで、「高い高い」と文句をつけ、値切るという、労働力の価値を冒涜したような態度こそが、デフレの元凶なのだと思う。

そうした価値観が淘汰されれば、コスト削減女工哀史工場からの商品が並ぶ激安ショップは淘汰されていくのではないだろうか。
ユニクロ型デフレと国家破産 (文春新書)
浜 矩子
文藝春秋

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100均フリーダム
内海 慶一
ビー・エヌ・エヌ新社

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9月27日(月)のつぶやき

2010-09-28 02:01:56 | ツイッターつぶやき
09:18 from web (Re: @TerraRicca
@TerraRicca 勉強会、今度私も参加させてください。先日内子町の茶炭の大会に参加し、全国の炭焼きの皆さんの志の高さに感激。地方にたくさんやる気のある方がいるのを実感しました。炭を使うための火鉢クラブ(ブログ)を作る予定です。
09:22 from web (Re: @mohri
@mohri あっしはまだ旧インターフェイスです。友人は新しいのに変わってた。これはブラウザごとに配信時期が違うのですかね?
10:40 from web
こんなに季節が急に変わるのは、気圧配置が急激に動いたからなのだろうか?暖房効いた部屋から隣の冷房効いた部屋へ一つドアを開けて入ったみたいな感じ。
10:40 from web
天気って不思議だなあ
11:08 from web
ブログ「内田樹の研究室」外交についてhttp://uchida-tatsuru.blogspot.com/。 もちろん今話題の日中外交から考えた外交について。いつも溜飲が下がる。そうだよね~。一読をお勧めします。
11:11 from web (Re: @mohri
@mohri そうなんだ。はまりたくないですね。
13:52 from web
今年は生物多様性国際会議COP10 これまで汚しに汚した自然を元に戻すという産業でしばらくは生きて行けるはず。自然は戻るし一石二鳥だよね。
14:28 from web
和紙のちぎり絵ブログ更新「ちぎり絵の基本~花の作品 その1~」http://bit.ly/b9F5fb 30年間に作りためた作品を少しずつ紹介しています。
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9月26日(日)のつぶやき

2010-09-27 02:01:49 | ツイッターつぶやき
15:38 from web (Re: @karahashi_yumi
@karahashi_yumi NY羨ましい!このところNY行きたい病の私です。そんな私は先週実家の方面に帰って、炭焼き職人たちの全国大会に参加してきました。やはり、人間もっと「火」を使う生活をせねば。ということで『火鉢くらぶ』というサイトを作ることに。できたらお知らせしますね。
16:37 from web
朝生の録画見てる。大きな枠組みの話は必要だけどそればかり続くと面白くない。お金をどう儲け、景気をよくするかということより、その仕事を始めることで社会がどう変わるか、人々が生きやすくなるか、それで自分が食えるか、自分でやってて楽しいかじゃないかな。もっと小さい経済単位が必要かも。
16:39 from web
私の田舎の方でも、民間の建物の建設でも、地元の中小企業は入札で負けちゃって仕事を取れないらしい。国内とはいえ、グローバル、中央集権の暴力を本当にそろそろなんとかしないといけない。中央集権は政治の世界だけではない。経済もだ。
16:44 from web
朝生録画なう。田原「なんで日本ではiphoneやipadを作れないの?」みんないろんなこと言ってるけど、やっぱ、日本にはスティーブ・ジョブズがいないからだよな。日本には遊べる経営者がいないんだろうな、いろんな分野で。みんな成熟社会でのビジネスを誤解してないかな。
16:48 from web
朝生録画。農業の大規模化に賛成の人が多かったけど、私はどうかと思うなあ。大規模化では日本的な質の高い付加価値商品はできないんじゃないの?
22:35 from web (Re: @buonpaese
@buonpaese 私もそっちの小さい経済単位も模索する方向で行きたいと思ってます。大きいのと小さいのとどっちがいいかというより、どっちか片方に絞る必要ないというか。でも、グローバル化のツケが出てきてる時代なので、その逆をやってみてもいいのかなと思います。顔が見えた方が楽しいし
by yurys on Twitter

9月24日(金)のつぶやき

2010-09-25 02:01:42 | ツイッターつぶやき
08:19 from web
帰京なう。長距離バスも昔に比べたら快適になったなあ。そういえば、2日つぶやいてなかった。
09:01 from web
なんだか、オバマがノッチに見えてきた
11:34 from web
この一週間は私の故郷の愛媛で過ごしたが、茶の湯炭を焼いてる炭焼きの人たちの職人魂に感激。火を使う生活が大事と再確認。というわけで、「火鉢くらぶ」を作ろうとおもいまーす。火鉢くらぶブログ工事中。型にとらわれない茶会もやりたいな。
11:38 from web
あ、それと、明日から25、26日両日。巣鴨地蔵通り商店街で、愛媛県内子町フェアが行われます。内子町は白壁の並ぶ古い町並み残るいいところです。内子町の農産物などが並び、うどんが振る舞われるそうです。ちなみに私の地元は、内子から20分、八幡浜市というみかんと魚の町です。
13:02 from web
母のやっている和紙のちぎり絵のブログ始めました。「ゆく夏を惜しんで~夏景色」http://yukichigirie.blogspot.com/ よかったら見てやってください。
13:04 from web (Re: @hongkong666
@hongkong666 巣鴨いっしょに行く?うどんタダらしいし。
16:55 from web
日本語フリーフォント探し中
17:00 from web (Re: @hongkong666
@hongkong666 飛行機でひとっ飛びだと実感が無いけど、バスや新幹線は日本縦断の実感有り。行きはのぞみ+在来線、帰りは高速バス。日本はつながってるのやなあ・・・。今時の高速バスは3列で、座席全てに間隔が空いてる。子どもみたいに景色を見ようと一番前の席にしたら足延ばせず。
17:07 from web
人間どっかで節目というのは必要なんだろうな。だから成人式とかやるんだろうし。ずーっと節目の無い生活をしてきたので、自分で節目を無理矢理作らねばならないぞ。
by yurys on Twitter

9月21日(火)のつぶやき

2010-09-22 02:01:41 | ツイッターつぶやき
09:03 from web
おはようございます。昨日はほとんど寝ていました。昼寝2時間&夜10時間。同じ姿勢をしていてかえって腰が痛くなったかも。
09:07 from web
もっと違うもので勝負できないかなあ。RT @officematsunaga
読んでおきたい記事:日本メーカー「敗戦」決定的か(1)=日本の凋落、韓国の躍進の構図テレビにも
by yurys on Twitter

What is value? 「お金を使う」という事の意味

2010-09-16 16:56:33 | 日々のつぶやき
ふと、このブログのタイトルである価値とは何かを考えてみることにした。
こんなタイトルをつけるくらいだから、常にぼんやりと考えてはいるのだが、今回はちょっと文字にしてみようかと思う。

そして、まずは、モノの値段ということを考えた。

モノの値段はおおざっぱに言えば、

コスト<原材料費+人件費+運搬費+設備費+広告費+付加価値(ブランドとか有機無農薬とか)>+利益だ。

コストを細かく分解して行くと、原材料費は、そのまた原材料とそれを作った人の人件費が含まれる。もちろん設備費としての機械や運搬に使う車なども、それを設計したコンピューターも結局は人が作ったわけで、それをさらに分解して行くと、最後にそこに残るのは、天から与えられた自然界に存在する素材と人件費となる。広告費もしかり。

天から与えられた素材はその大元は無料である。そうすると、モノの値段は結局のところ人件費と付加価値のみ。付加価値というのは人間の脳みそが生み出すものだから、つまり、モノの価値とは、人間の労働と想像力の集積ということになる。

そーいうことか。

いや、自分で勝手に納得してしまったが、経済学をちゃんと学んでないので、何か重要な変数を忘れてないか、適当なことを言ってないか不安ではあるが、
どうなんですかね?この考え。

ただ、私がこんなことを思いついたのは、人間の労働の価値というものが、最近ものすごく軽んじられているからじゃないかと思う。

昔、経済学の授業で、モノの値段は需要曲線と供給曲線の一致するところで決まると教わった。「神の見えざる手」だ。
高校生のときは、暗記だけして意味なんて考えてもいないアホだった私は、確かにそうだろうなあと思っていた。

しかし、現在のデフレ状況を考えると、この「神の見えざる手」が人間にとって暴力とならない範囲で働くのは、「人件費の市場に格差が無い場合」に限るのではないか。つまり、世の中がグローバル化した現在、この理論はあてはまらないのではないかと思うのだ
最初に掲げた「モノの値段の内訳」のうち、付加価値の部分が低い生活必需品的なものは、どんどん需要側の圧力により値段が下げられて行くのだと思う。
だって、普通に考えて、ある程度の市場だったら、供給側より需要側のほうが圧倒的に人数が多いんだから、圧力だって大きいんじゃないだろうか。

学校で習った経済学からは、人の欲望とか、怠惰とか、身勝手などなど、人間の行動における特性の係数が見えてこない。欲しいvs売りたいというたった2項の要素だけだ。

しかし、その「欲しい」という欲求を分析して行けば、それは何かを満たす「欲望」もあれば、「怠惰を補う」という機能もあれば、「自らの想像力を補う」という機能などもあるだろう。
欲望:食べたい、着飾りたいなどなど
怠惰を補う:ご飯を作らずコンビニ弁当を買うとか
想像力を補う:ミュージシャンの作った音楽を買うなど

モノの値段が人件費と人間の想像力に集約されると書いたが、つまり、誰かの労働がだれかの労働負荷を助けたり、本来ならば自分でやるべき事を貨幣で誰かに肩代わりしてもらってる。

なんか私、当たり前の事を言ってる?

何で私が突然、こんな訳の分からない事をつぶやき始めたかと言うと、それは高橋源一郎氏がツイッターでつぶやいたルソーの「社会契約論」の一節に触発されたからだ。
高橋源一郎のツイッター@takagengen

以下は高橋氏が「議会制民主主義は奴隷制か?」と題して9月14日の午後0時から27回にわたってツイッター上につぶやいたものの一部だ

<ここから引用>
「民主主義」5・少し長いが、「人民主権」というものを、ルソーがどう考えていたか、引用してみる。

「市民たちの主要な仕事が公務ではなくなり、市民たちが自分の身体を使って奉仕するよりも、自分の財布から支払って奉仕することを好むようになるとともとに、国家は滅亡に瀕しているのである...」
「...[兵士として]前線に出兵しなければならないというなら、市民は[傭兵の]軍隊に金を払って、自分は家にとどまろうとする。会議に出席しなければならないというなら、市民は代議士を任命して、自分は家にとどまろうとする..」
「...怠惰と金銭のおかげで、市民たちはついに兵隊を雇って祖国を奴隷状態に陥れ、代議士を雇って祖国を売り渡したのである..うまく運営されている公民国家では、市民たちは集会に駆けつけてゆくものだが、悪しき政府のもとでは、市民たちの誰も、集会に出席するために一歩でも...」
「..動こうという気にならないものだ。誰も集会で決議されることに関心をもたないからであり、集会では一般意志が支配しないことが予測できるからであり、最後に自宅での[私的な]仕事に忙殺されるからである...誰かが『それがわたしに何の関係があるのか』と言いだすようになったら」
「...すでに国は滅んだと考えるべきなのである」。

だから、ルソーが考えた「人民主権」の原理は、「市民(国民)」が全員参加する直接民主主義だった。さて、どうだろう。ルソーは実現不可能な「机上の空論」を書いたのだろうか。『社会契約論』を読んでいると、そうは思えないのだ。

<引用ここまで>

ここで語られているのは、直接民主制と議会制民主主義の話だ。
議会制つまり代議制になった場合、市民は自らの怠惰から、金を払って公務を他人に委託する。そして最後には、自宅での[私的な]仕事に忙殺され、『それがわたしに何の関係があるのか』と言い出し、集会に出席しなくなる。そうなったら国は滅んだと考えるべきだとルソーは語る。

私が特に反応したのは、『怠惰と金銭のおかげで』ということろだ。

この話で、人々が払う金銭とは『税金』のことであり、ルソーは、市民全員で担うべき公務を、金銭で一部の人に任せる事によって、公務への関心が薄れ、国は滅びると論じている。
まさに今、この通りの事が私たちの国日本でも進行していると思う。

そして、その『怠惰と金銭』の関係は、政治の場面のみならず、現代の私たちの生活全てを覆い尽くしていると思うのだ。

このブログの前半で、ものの値段を決める価値は、人間の労働力と想像力の集約だと書いた。
それを貨幣つまりお金を媒介にして、他人に肩代わりしてもらっているのが、「経済」だ。

「政治」の場面で、自らの怠惰により、お金で誰かに肩代わりしてもらった公務には、人は関心を寄せなくなる。
それと同じことは「経済」でも言えるのではないか。

例えば、自分でやろうと思えばできる食事の準備を怠って買ってきたコンビニのおにぎりの質やその制作過程に人はどのくらい関心を寄せているだろうか。
「仕事が忙しいから」と、食事を作るという労働を誰かに肩代わりしてもらっているのが、この場合のコンビニおにぎりだ。
別に、コンビニおにぎりが悪だというのではない。労働をお金で肩代わりしてもらった人が、どのくらいそのことを意識し、そのお金の使われた先の有り様を考えるだろうかということだ。

現代の大量消費社会を生きる私たちは、政治の場面にしろ、暮らしの場面にしろ、「お金」によって自分の様々な責任を誰かに肩代わりしてもらっている。

肩代わりをしてもらうということは、他の人がやることによって、自分が知らないところで生まれるかもしれない負の利益も被る可能性があるという事だ。
お金を払って肩代わりしてもらった時点で、私たちは正の利益とともにそうした負の利益の可能性もしょっていることを忘れてはいけない。

「お金を使う」とはそういうことなんだなあと、ルソーに再認識させられた。

「お金を使う」とは、自分が把握できるはずの事象を人にまかせることでもあるから、何か想像もしない事が起こりうる可能性も考慮に入れなくてはならないのだ。
「お金を使う」ということは、便宜やモノを得るだけではなくて、お金の使われ方をチェックする責任も生まれるんじゃ無いかと思う。

モノの値段を細分化して行くと、最後は人間の労働と想像力のみに行き着くと考えたが、「モノとお金の交換」を単なる物質の交換と考えることが、今の政治経済を行き詰まらせているような気がする。

経済学の専門家の方が読まれたら恥ずかしくなるようなことかもしれないけど、せっかくいろいろ考えたので、思いつくまま書いてみました。
おつき合いいただきありがとうございました。

私のブログの基本は、こうした考え方のもとに、さまざまな事象を紹介することです。
今後、スタイルも早いうちにリニューアルしてものづくりの現場なども紹介したいのでよろしくお願いします。
そこにはどういった価値が含まれるのかを考えながら、人が作ったモノを愛して行きたいと思います。
また、それと同様に、自分たちが担うべき、政治も考えて行きたいと思います。
社会契約論 (岩波文庫)
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人間不平等起原論 (岩波文庫)
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「悪」と戦う
高橋 源一郎
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代表選に思う~現代日本の「世論」とは「愚痴」である

2010-09-16 00:21:47 | 国内情勢
民主党代表選が終わった。
小沢一郎は負けた。

党員サポーターからの獲得票の差が予想以上に大きく一瞬愕然としたが、
しかし、これは各選挙区ごとに、1票でも多かった候補に1ポイント入るという総取り制になっているからで、実際には菅直人6に対し小沢一郎4くらいの割合で票を獲得している。

多分、こんなものなのだろう。
とはいえ、あの演説はちょっと身震いがした。
あんな力が入って、中身が見える演説って近年あまり聞いた事が無い。
でも、あの演説で心変わりする程、議員たちもナイーブじゃなかった。
それよりも、党員サポーターこそ、あの演説聞いてから投票すべきだった。
それほど、今回、小沢一郎の気迫は凄かったし、政策を語ると言う点で、近年の政治家の中で最も有権者に伝わる言葉を持っていたと思う。

いま一度、活字で読んでみても良いかもと思い、書きおこしを探したら、産経MSNがやってくれてました。
産経MSN小沢一郎代表選意見表明全文


しかし、この2週間、小沢一郎がひとり気をはく一方で、
会見の仕切りに登場したり、小沢派としてテレビに登場する取り巻きを見ていると、かなりしんどかった。
小沢一郎という人は、彼にぶら下がろうとする人ばかりを周囲に集めてしまうのではないかとどんよりした。記者懇談会に小沢自身が遅れてやってきた時の取り巻き議員の場の繋ぎ方などあまりに心もとなくて、これイメージダウンだろと心配になったほどだ。

彼らは小沢一郎が作ろうとしてる未来の日本の姿を本当に共有しているのだろうか?

高野孟氏が言っていた、小沢の人間不信とかニヒリズムとかってこういうところからきてんだろうか?
自分と同じレベルで議論できる人間がいない。だから、全て自分で考え仕切る。取り巻きは雑務をやってくれれば良い。数だけ集まってくれば良いってことか?それで数の論理になるとしたら悲しいなあ・・。
小沢のニコニコ顔からはそうは思えないけどね。
取材してないから印象でしかない。ほんとのところはわからない。

小沢一郎の言葉に嘘はないように見える
小泉元総理の意味無しプロパガンダとは違う真摯さがある気がするのだが・・・

今のところ、小沢一郎の古い体質といわれるものが、彼の政策に対する私の共感を覆すほど大きなものなのかどうかの判断がつかないままだ。

まあ、今日、政府が円高に対し為替介入した事からも、
小沢一郎が代表選ではっきりモノを言ったことの意味はあったみたいだから、今後の民主党にとって、この代表選はよかったんじゃないだろうか。
この為替介入がどのくらい効果があるかは未知数ですが・・。


一方で、メディアは捩じれ国会だの、今後の政界再編だの
またまた捕らぬ狸の皮算用で、早くも先のそろばんを弾いている。
今回の代表選でも、マスコミの影響力がまだまだ大きいことはよーく分かったから、世論誘導にならないように気をつけてくださいね。とかなんとか言いたくなるけど、
問題はそれだけじゃないんだよね。

メディアだけでなく、受けても含めて、日本人が全体的に自分の力で物事を考えなくなっていることが問題なのだと今回つくづく思った。

今回の代表選の各候補支持の理由を明確に論理的に語れる人がどれだけいるだろうか?
首相が3ヶ月で交代するのはなぜダメなのか?
小沢一郎の「政治と金」の問題とは具体的にどういったものなのか?
小沢一郎に政策がないというけど、「日本改造計画」読んだのか?

人々は、日々溢れてくる情報洪水の中で、自ら調べる事の必要性を感じなくなっている。そして、麻痺して情報の質を問わなくなった。だからだろうか、メディアの中に、自分で検証するための「材料」を求めるのではなく、用意された「答え」を求めるようになった。
言いかえれば、考えるということに「怠惰」になったような気がする。

そのくせ、人間には、頭がいいと思われたい、もっともらしいことを言う人だと思われたいという欲求がある。

例えばテレビの街頭インタビューでマイクを向けられたとしよう。
「実は、いろいろ迷う部分もあるのだが、ダラダラしゃべっても、よくわからない事を言ってる人と思われるに違いない、それってバカっぽいよな。」
そんな風に思った人は、ある人は回答を拒否し、ある人は、とっさに、どこかで誰かが言っていたもっともらしい言葉を探す。
良いとこ取りのコピー&ペースト。テレビに出てたあの有名人の分かりやすい一言を探す。とりあえずは、この大変な時に代表選なんてやりやがってと、ダメな民主党を批判してみたりする。

それはテレビカメラの前だけじゃなくて、友人の前や、地域の集まりや、近所の井戸端会議でも同じだ。自分が一生懸命考えたのではない、一見、見栄えのいいコピペ発言が横行してはいないか?
そして、自信が無い人や、考え中の人が黙っているうちに、マスメディア的論調はどんどんコピペされて拡大する。

「見栄」と「怠惰」
これが、現在の日本を覆って、ダメにしている根本的な問題ではなかろうかとつくづく思う。

でも、一方で人間は自らを怠惰だとか見栄っ張りとか思いたくないから、無意識に、そんな自分の態度に対する言い訳を見つけようとする。

そんな言い訳の受け皿となるのが「世論」なのかもしれない。
みんなが言ってるから。多くの人が言ってるから、は最強の保証だ。

「世論」にすり寄る事で安心し、深く考える事を放棄するのだとしたら、
たった数百や1000程度の世論調査をあたかも日本国民の民意のように振り回すのは、ある意味、社会への暴力ではないのだろうか。

ちょっと話は飛ぶが、以前テレビマンユニオンの村木良彦氏の追悼番組の中で「あなたにとって幸せとは何ですか?」という、街頭インタビューのみの番組が紹介された。そこでマイクを向けられた人の言葉は、たどたどしくはあるもののそれぞれがそれぞれの色を持っていた。それは、あらかじめ「答え」が用意された質問ではないからだろう。

大抵、昨今の政治がらみの街頭インタビューというのは、すでにどこかで誰かが答えたことのある質問ばかりだ。

漠然と欲しい答えを想定しているメディアと、 適当に頭の良さそうなコメントを言いたがる国民と、その共犯関係が顔のない「世論」を作って行く。


今回の代表選騒動からもう一点感じることがある。

物事を自分の身に引き寄せないで、いわゆる「世論」にコレだけ多くの人がすり寄る事ができるというのは、不況だとか、生活が大変だとか言ってても、日本はまだまだ余裕があるんじゃないかということだ。

自分の明日の食い扶持よりも、小沢一郎の「政治とカネ」の問題を最重要争点として受け入れられるほど、日本人にはまだ理想的な政治を追い求める余裕があるのではないか。
大いなる皮肉を込めてそう思うのだ。

そもそも、今回菅さんが選ばれた主な理由の一つが、首相が3ヶ月で辞めるのは世界から相手にされなくなるからとか言ってるが、それこそ暮らしに余裕のある人の危機感の無い優等生的な意見だ。次の首相が「日本は本気だ」と真顔で言えば、世界だって対応は変わってくるはずだ。それは就任期間の問題ではない。

日本の「世論」というやつは、時間もお金も余裕があって危機感が無くて好きな事言っていられる絶対安全地帯な立場の人の言説に引きづられすぎる。

誤解を恐れずに言えば、「最小不幸社会」と言うのなら、政治は暮らしに余裕の無い人の声だけ聞いていればいいのである。

なのに、マスメディアを通して流れてくるのは、まだまだ余裕のある人々の「愚痴」ばかりである。本当に大変な人々は、マイクが突き出されるような場所にはいない。「叫び」はブラウン管からは流れてこない。


現代日本の「世論」とは「愚痴」である。

そして「愚痴」とは、利己的な考えから生まれるものである。
政治を考えるとは自分の置かれた立場から「公共」を考える事だ。
そしてそこから生まれた意見の集積が世論であるべきだ。

瞬発力だけで飛び出す「愚痴」ではなく、
ゆっくり自分の頭で考えてた意見で世論を形成したいもんだ。

最後になってしまいましたが一言
。もちろん深くものを考えている方はたくさんいると思います。街頭インタビューでも真摯な意見を耳にします。また、このブログをここまで読んでくださった方が、自分でものを考えない人であるはずがない。
今回のエントリーはそこがジレンマなのです。
さらには、私こそ偉そうな事書いて、実は論理が雑駁という、その事実こそ自己矛盾ではないかと頭を抱えるのでした。
日本改造計画
小沢 一郎
講談社

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泣かない小沢一郎が憎らしい
世川行介
同時代社

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NYモスク建設問題 日本ではあまり報じられない「ティーパーティ」

2010-09-13 15:41:54 | 国際情勢
昨日はアフガニスタンの事を書いたが、
現在、NYで巻き起こっているモスク建設反対騒動については、さらっと触れただけに終わってしまった。
最近日本のニュース番組をあんまりちゃんと見てないので、なんかやってるなあとは思っていたが、こんなに大騒ぎになるとは。
CNNをBGMのように流していると、ラリーキングライブ(このときは女性のキャスターが代打?で司会)にイスラム宗教指導者を呼んで1時間近く話を聞いたり、ブレーキングニュースで、かのコーラン燃やします宣言の牧師の動向が伝えられたり、モスク建設問題でアメリカは回ってるとさえ思える状況。日本で言えば小沢一郎みたいなもんか。みんなが怖がって追い落とそうとする。

まあ、小沢一郎は置いとくとして、
日本とアメリカの報道を見ていて気付いたことがある。

日本の報道を見ていると、かなりな割合でアフガニスタンでの反米デモの映像が使われている。
今さっきも、「反米デモはさらに過激化し、死者まで出た」とNHKのニュースは伝えていた。
「コーランを燃やす」なんて言われちゃあ、そりゃ黙っちゃいないでしょうよ。
反米感情は燃え上がり、米軍のアフガン作戦に影響する事は必至だ。

しかし、CNNを見ていると、アフガニスタンでのデモの映像はあまり放送されていないように思う。つうか、私が見ている範囲では一度も見なかった。目にするのはNYのデモ、例の牧師が報道陣に取り囲まれて歩いてるとこばかり。
アフガニスタンでの戦闘が泥沼化することを示唆するような映像は流しづらいのか、それとも私の単なる見落としか・・。

そして、アメリカでアフガニスタンのデモがあまり報道されない一方で、
日本のメディアがあまり報道しないのが「ティーパーティ」に代表される保守主義の草の根ネットワークの動きだ。

共和党の元副大統領候補だったサラ・ペイリンがこの「ティーパーティ」のマドンナとして最近元気がいいのだが、
モスクの問題でオバマ大統領が窮地に追い込まれている事を考えると、このへんのことも一連の動きには関わっていそうだ。

ところで、この「ティーパーティ(Tea Party)」って何?ということだが、
世界史を履修してた方なら「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」というのを思い出されるだろう。
アメリカの独立宣言前夜、イギリス本国が植民地に要求した「茶への課税」に反対した人々が、ボストンに寄港していたイギリス船から東インド会社の紅茶の箱を海にぶちまけたという事件だ。そして、それが76年の独立宣言に繋がる。

現代のティーパーティ運動は、オバマ政権の「課税政策」「大きな政府」路線に抗議する保守の政治運動だ。
ティーパーティは「税金払いたくなーい」の代名詞とみたいなもんになっている。

もともとは、オバマ政権がウォール街救済のために巨額の追加予算を可決した事に反発した人々が、インターネット上で、「議会にティーバッグを送ろう」と呼びかけたことから、このティーパーティ運動は始まったらしい。本当に草の根的な運動で、リーダー的な人物はいなかったようだ。

しかし、運動が拡大するに従って、サラ・ペイリンなどの政治家や保守派の有名人なども関わりはじめ、11月の中間選挙を前に、反オバマ運動として大きな存在感を見せている。

キリスト教保守派の支持を受けるサラ・ペイリンは、このティーパーティのマドンナという存在を利用して、宗教的保守主義をも声高に叫んでいる。実際、このティーパーティ運動は、大きな政府に抗議するだけでなく、宗教的保守主義などを訴える場にもなっているようだ。

先月28日、黒人公民権運動の父キング牧師の演説記念日、ワシントンのリンカーン記念講堂では、ティーパーティの「アメリカの名誉回復」と題された数万人の集会が開催された。
ゲストはサラ・ペイリンや右翼の論客でテレビ司会者のグレン・ベックなど。グレン・ベックは「オバマ大統領は人種差別主義者だ」と言って批判を浴びたこともある人物だ。
報道によれば、集会では、政治的なものではないことが強調される一方で、ゲストのスピーチでは「神への回帰」「信仰に立ち返れ」などということが繰り返されたようだ。

また、宗教的発言とともに気になったのは、この集会の参加者がほぼすべてが白人の保守派であるらしいということだ。
グレン・ベックが「オバマは人種差別主義者」と言っているのは、黒人は福祉で優遇されているとの批判だろう。つまり、放っとかれたままの白人貧困層は差別を受けているという意味だと思うが、リーマンショック以後の未曾有の経済危機の中で、経済的苦境から、こうした考えに陥る人が増えているだろうことも想像に難くない。

今のアメリカでは、そうした経済的苦境からくる歪んだ差別意識や、原理主義的宗教観があいまって、反オバマの動きを拡大していると思われる。そんな状況にあって、今回の9・11を前にしたモスクの建設問題は、反オバマ勢力にとっては渡りに船のような出来事だったのだ。

過激な武装原理主義者がテロを起こしたのであって、イスラム教を信仰する事と、テロを起こす事の間に関係はない。

にも関わらず、ペイリンなどは、自らのツイッターで、モスクが建設される事は敵に勝利を許すものだというようなことをつぶやいている。言語道断だ。
こうした空気のひろがりに、ニューヨークでは、イスラム教徒のタクシー運転手が、イスラム教徒だというだけでナイフで切りつけられたりしている。
それに、このところ、オバマはイスラム教徒だという話が再び広まってきているらしい。
実際オバマはキリスト教徒だと言っているし、イスラム教徒だとしても別にそれで何も問題があるわけではない。しかし、そうした話が、反オバマ勢力を利する事にもなっている。

NYでは、ブルームバーグ市長はそもそも建設に許可を出しているし、冷静な立場を取っている。世論調査でも建設賛成派が過半数を占めている。
また、ペイリンについても、共和党の中には彼女のスタンドプレイにため息をつく人も多く、大統領候補の器ではないとされてはいる。しかし、アメリカはジョージ・ブッシュを大統領にした国でもあることも事実だ。
ニューヨークはむしろアメリカでは例外。保守的な人は全国にわんさといる。
さらに、人は貧すれば鈍することだってあるし、常に論理的に考えられるわけでもない。

さらに、メディアに連日流されるデモの様子や、コーランを燃やすという牧師の登場などが、平静さを失わせ、メディアを見ている多くの人々に様々な予断を与えてしまう。アメリカ国内では、外国人排斥、イスラム教恐怖、人種差別など間違った考えがむくむくと膨らみ、アフガニスタンなどイスラム諸国では、反米意識が膨らむのだ。社会不安が膨らみこそすれ、そんな風潮は世の中にとって何も良いことはない。

そしてそんな大騒ぎの中で、結局笑うのは、そうした「時の空気」を上手く利用したものなのである。
中間選挙を前に、モスク建設騒動の裏で笑っている反オバマ派の政治家や財界人たちの顔が見える。
そして常に一番貧乏くじを引かされるのは、社会不安が膨らんで不安を覚える普通の庶民たちなのだ。

こういうでたらめな風潮を作る事に大貢献されているペイリン女史には、なぜ、モスクができると、テロリストに勝利を許すことになるのか、論理的に説明願いたい。

そしてもう一つ、日本のメディアにも言いたい。
このモスク問題で、宗教的偏見の存在を憂うだけでなく、そうした人々の意識が選挙を前にして政治利用されていると言う事も伝えて欲しいと思う。

それは日本でいう「政治とカネ」に対する人々の意識についても同じ事だと思うのだ。
明日、民主党代表選。















9・11に思う 国際社会のスケープゴート・アフガニスタンにそろそろ平和を

2010-09-12 09:11:49 | 中東・アフガニスタン
今日は9年目の夏。日本ではもう12日になったが、ニューヨークはまだ11日の夜だ。数時間前、CNNでは追悼式典をやっていて、オバマやミシェル、あのブッシュ夫人までスピーチしていた。アメリカでは9・11を前にグラウンドゼロ近くのビルの中にモスクを造るかいなかが連日ニュースを席巻していてデモも行われていた。中間選挙への思惑もあるのだろうが、アフガニスタンで戦渦に怯える人々のことを思うと、NYの人には悪いが、いかばかりかと思えた。
アフガニスタンには更に増派が行われることになっていて、事態は泥沼化するばかりなのだ。

そんな中、日本では先日、アフガニスタンで武装勢力に拘束されていたフリージャーナリストの常岡浩介さんが解放され帰国した。
今回は、やはりアフガニスタンについて考えたい。

常岡さんによれば、犯人はタリバンではなく、クンドゥズのラティフ司令官とタハールのワリーという、現地の腐敗した軍閥集団だという。
さらに、その軍閥ラティフは、ヒズビ・イスラミ(イスラム党)の中で、カルザイ大統領の顧問であるサバアウン大臣の部下にあたり、政府の人間として堂々と暮らしているらしい。

つまり、政府関係者が、日本人を拉致して日本政府を脅したという事。

軍閥って何?という方に一応簡単に説明すると・・・
アフガニスタンではソ連のアフガン撤退以降、タリバンが登場する以前から、各地域に軍閥が群雄割拠する内戦状態だった。強盗やレイプを行うものもいて治安は悪かった。軍閥は山賊みたいなもんだ。そこにタリバンが登場して厳しくとりしまり、一気に人心をも掌握し権力を奪取したわけだ。治安はよくなったが、あまりの制裁の厳しさに人権侵害との声が上がる。
両者どっちもどっちなんだが、9・11のテロとの関係から、タリバンのみが悪者になった。タリバンに敵対して戦った軍閥の悪行は見過ごされ、米軍の攻撃開始当初は英雄視さえされた。タリバンがいなくなった後、こうした軍閥が集まって暫定政府が作られ、政府のポストはこうした軍閥の幹部が占めることになる。

常岡さんは、犯人グループが日本大使館に連絡した際、電話で話したそうだが、
「犯人はタリバンだと言え」と言われていたそうだ。常岡さんは、その通りに言いはしたが、一方で、彼らに分からないような日本語で、彼らがタリバンではない旨をなんとか伝えた。
それでも、「犯人はタリバン」とメディアで報じられたのは、本当の事が報じられると常岡さんが言う通りにしなかった事がバレて、命が危険に晒される可能性があったからだろう。事実は知らないが、普通に考えたらそうだ。

そして、犯人が「政府と関係がある人物」であったことが、日本政府が身代金を払う事無く、常岡さんの解放につながった理由でもあるように思う。

日本政府は、アフガニスタン政府に5年間で50億ドルもの支援を表明しているのだ。アフガン政府にとって日本を怒らせてなんら良い事は無い。
「常岡さんが殺されたら、政府の関係者が日本人を拉致したとばらして、支援ストップするぞ」とカルザイに伝えれば、カルザイは当然、犯人グループに常岡さんを解放するよう圧力をかけるんじゃないだろうか。今頃ラティフはこっぴどくどやされているに違いない。
私の勝手な想像ではあるが。

とはいえ、今回の常岡さんの証言で、アフガニスタン政府がいかに腐敗しているかということがわかったわけだ。

これまでも、情報としては、アフガン政府が腐敗しているという話はぽつぽつ報じられていた。私がかつて担当したテレビ番組で、専門家にそういう話をしてもらったこともある。しかし、世の中の「タリバン=悪者」というイメージが大きすぎて、アフガン政府内部では腐敗した軍閥が跋扈し、彼らが「タリバンの名を語って」悪事の限りを尽くしているということは、なかなか周知されなかったのも事実だ。
現在、麻薬となる芥子の生産は世界の9割がアフガニスタンで行われているが、この麻薬の栽培は、タリバンが支配していた時期には数分の一に激減していた事は、国連の調査でも明らだ。これは当時政権を掌握したタリバンが麻薬栽培を撲滅しようとした結果だ。なのに欧米のメディアは、現在の麻薬栽培の犯人がタリバンであるかのように報じている。
そうした現地状況への無理解と、米軍の空爆などで家族を失う人が増えて反米意識が高まるに連れ、タリバン自体もどんどん強硬になってきて、問題の解決を遠ざけている。

常岡さんは、タリバン幹部のザイーフ師と何度も会見しているが、そこでザイーフ師は、政治腐敗や麻薬ビジネスの復活の問題の根源は(アメリカによる)占領だと語っている。ザイーフ師はさらに、復興支援の名の下に多くの国や団体がアフガニスタンを訪れているが、占領という現実を追認・正当化し延命させるような支援を認めないとも語る。(常岡さんの日記「The Chicken Reports」’10年3月23日今年のザイーフたん より)これ、とりあえずは出て行けってことだろう。

上記のサイーフ師の話は、今年3月に行われた常岡さんとの会見で語られたものだが、常岡さんはこの1年前にもザイーフ師に取材しており、私が当時働いていた番組にも売込みがあった。私は、是非にとり上げるべきだと主張したが、制作費がないということなどを理由にスルーされた。それは報道局の他の番組でも同様だったようで、結局、ザイーフ師取材は放送されなかった。
今年の常岡さんの日記を読んでも分かるが、彼は決してタリバンに肩入れしているわけでもなく、批判すべき部分は批判している。決してタリバン寄りの番組にはならなかったはずだ。

マスメディアがこんな状況で、本当のアフガニスタンの状況が伝わるわけもない。

イラクからアメリカの戦闘部隊が撤退した今、アフガニスタンは世界最大の戦闘地域と言っていい。しかし、タリバンの支配地域はすでに全国の8割以上と言われている。アメリカは泥沼化する状況に疲弊し、早く出て行きたいのが本音だろう。そして、周辺の中国やインド、ロシアなどの諸国は、そんな疲弊したアメリカ撤退後を虎視眈々と狙っている。
実は、今年に入って、アフガニスタンにはレアメタルが1~3兆ドルも埋もれているということが報道されている。
カルザイ大統領は訪日した際に、「日本は巨額の支援をしてくれているので、アフガニスタンに眠る資源を優先的に開発する権利がある」というようなことも日本政府に語ってもいる。

もし、この資源埋蔵の話が事実だとしたら(ペンタゴンがそう言っているのだが、ペンタゴンだけに裏が無いとも限らない)、一見、日本にとっていい話のようにも思える。しかし、この利権を奪い合い、腐敗したアフガン政府はさらに腐敗し、当然のごとく、タリバンとの和解も困難になり、さらに利権をめぐっての軍閥同士の対立も激しくなるのではないか。もちろんその向こう側には大国の影が見える。そうなると日本も資源開発とか軽々しく言ってられないだろう。

また、そもそもタリバンを生み、そして今、国内にタリバンが勢力を広げているパキスタンが、大洪水に見舞われいまだに復旧のメドが立たないことも、このアフガニスタンの問題に影響を与えると思われる。

どっちにしろ、政府が腐敗から脱し、さらにタリバンも含めた国内の和解をもたらすための方程式はあまりに複雑過ぎるのだ。

しかし、状況がどんなに複雑だろうと、国際社会にはアフガニスタンに平和をもたらす責任がある。

ソ連のアフガン侵攻以降、戦闘によって荒れ果てた大地の上で、干ばつに見舞われながら、軍閥同士の内戦、つづく911後の多国籍軍とタリバンの戦闘、そして現在、政府軍も加わって戦闘は激化の一途をたどり、アフガニスタン国民の中では、平和な時代を全く知らない世代が大勢を占め始めている。

彼らは、国際社会のスケープゴートだ。

私が中学校に上がる年、モスクワ五輪があった。ブラウン管の中で、ソ連のアフガン侵攻に抗議して五輪をボイコットした日本の代表選手が肩を落とす姿を憶えている。
マラソンの瀬古利彦は絶頂期だったし、女子バレーも強かった頃だ。当時の私は、その向こうにあるアフガン侵攻の意味なんて分かっていなかったけれど、あのソ連の侵攻によって、それまで緑豊かだったアフガニスタンの大地は、干ばつの続く荒れた大地に変わった。ソ連がカレーズと呼ばれる地下水脈を埋める作戦を行っためだ。

テレビの仕事をしていたとき、過去の映像素材を検索すると、ソ連の侵攻以前、天皇陛下が皇太子時代、美智子妃といっしょにカブールを訪問している映像が見つかった。町には新しい団地が立ち並び、緑豊かな風景だ。70年代までは、旅番組などもアフガンに取材に出かけている。取材車は、雪をかぶった山を目指して緑の間の一本道を走っていた。

タリバンが大仏を破壊したあのバーミヤン。
中華料理屋バーミヤンの桃のマークを思い出して欲しい。
あのバーミヤンはシルクロードの「桃源郷」だったのだ。

私たち日本国民の税金50億ドルは、アフガニスタンの平和のために提供されるはずだ。しかし、今回の常岡さんの拉致で政府の腐敗があらためて明らかになった。日本政府は、その使い道の監視など、支援の仕方はあらためてよく検証すべきだ。
アフガニスタンに対する日本の支援パッケージの実施状況(外務省)
政府の腐敗とかいうことを考えると、この中にある警察官の給与とか、微妙なんじゃないかと思う。

いっそのこと腐敗した軍閥につながる政府など通さず、ぜーんぶ、中村哲医師がやっているような一般市民が行うインフラ事業に直接投資してはどうか。もちろんお金の使い方に政府は一切口出さないで。
NGOなどからは、常に、復興支援のお金の使い道が現地の実態に合っていないとの批判の声が聞こえる。ここでも「ひも付き」の弊害があるのだ。
政府は、現地を知る人の声に謙虚に耳を傾け、少ない財源から拠出される私たちの税金を本当に役に立つ形で使って欲しい。

今月24日に、日本国際ボランティアセンター(JVC)が、アフガニスタン現地スタッフによる現地報告会を行う。
JVCアフガニスタン現地報告会の詳細はこちら











鈴木宗男議員有罪判決に思う・・8年前に書いたブログ「鈴木宗男よどこへゆく」再掲

2010-09-08 20:45:25 | 国内情勢
鈴木宗男議員の有罪が確定した。
なぜこんな時期に・・・というのは多くの人が思っている事だろう。
さっきustreamで本人と弁護士の会見を見たが、検察のシナリオありきの捜査を批難し、明確に冤罪を訴えていた。
再審請求してがんばって欲しいと思う。

疑惑がマスコミ上をにぎわしたのは今から8年ほど前。
奇しくも、当時の私は現在と似たような状況にあった。
当時は情報番組が政治を扱うようになり始め、私も徐々にニュース関連の仕事にシフトし始めていた。
それまでバラエティや生活情報主体の仕事をしてきたが、ニュースを報じる側として扱うようになると、少しずつ、その報じ方に疑問を感じ始めるようになっていた。そして、そうした疑問によるすれ違いや、当時の私のスキルが低かった事もあって、4月の改編を機に、その番組のリストラ対象となったのだ。
今回は、自分から辞めたいといって辞めたので事情は違うが、現場に居づらくなって職を離れるという意味では同じだ。

8年前は、4月以降すぐに別のキー局の番組に転職した。転職した次の職場では、勉強させてもらう事も多く、また私と考え方の近いスタッフも多く、円満に仕事を続けさせてもらった。
しかし、より本格的にニュースの仕事に携わるようになればなるほど、マスメディア全体への疑問が生まれ、政権交代後の小沢一郎に対する一連の報道や、普天間問題の報道のあり方などに触れるに至って、今度は自分のほうから辞める事を決断してしまった。現在、私は失業者だ。

自分の話が長くなってしまった。これがどう鈴木宗男と関係があるのか?
そろそろ話を鈴木宗男に戻したい。
(以下、敬称略します)

2002年3月。
鈴木宗男証人喚問を前に、私は、自分のリストラと鈴木宗男の状況を重ねてブログを書いていた。

当時の私は、政治に関する知識も検察に関する知識も乏しく、メディアの情報から「鈴木宗男は怪しい」と思っていた。
もちろん今はそうは思っていないが、8年前に書かれたそのブログ記事は、「ムネオ怪しい」という前提で書かれている。
しかし、この記事は、そんな時期に書いたものであるにもかかわらず「鈴木宗男が怪しい」ということを主張するものではない。
そして、この記事の中で私が批難した世の中の状況は、現在の小沢一郎を取り巻く状況にも似ている気がする。
そしてまた、私が昨日このブログにアップした記事にも繋がる部分があるように思えた。
そこで、今日は、この8年前の記事を再掲しようと思う。
今より文章も下手で分かりにくい部分もあるが、たまに(注)を入れながら、そのまま掲載します。

<ここから8年前のブログ引用>

2002年3月10日(日)
『宗男証人喚問まであと8時間』

久々更新、2週間振り。4月以降の就職先のことを考えて、行ったり来たりしているうちに、明日とうとう鈴木宗男の証人喚問と相成ってしまった。この2週間、私も色々考えたが、宗男の立場を考えると私の悩みなんてアリの悩みほどもない。でも宗男は自業自得なのでしょうがないけど。(現時点での注:自業自得とはもちろん今は思っていない。)
それにしてもこれほど多くの人々に注目される人生の岐路もない。ましてや日本国民のほとんどが「つぶれろ!」と思っている。どんな気分なのか。四面楚歌との報道の裏で、こっそりと声をかけてくれる人はいないのか。力付けてくれる仲間はいないのか。心配なんかしている私はバカなのか、騙されやすいのか。
いや、私は宗男に味方するわけではない。逆境になったらすぐ手のひら返す汚い奴らに腹が立つだけだ。
奴らは「だって自分が生き残るためにはしょうがないですよね」とでもいうつもりなのか。
「生き残る為しょうがないこと」とはどんなことなのだろう。

新しい仕事を探す時、周りからも自らの中からもこの言葉が聞こえた。
世の中の人々は大抵これを我慢して生きているらしい。
でも、手のひら返す政治家達は(返す前も後も)、自分で踏ん張る力がなかったから「~しょうがな」かったのではないか。同じように、自分や周囲の人から聞こえるそんな声も自らの力と勇気のなさではないか。
自分の実力の限界を悟る諦観イコール「しょうがない」ではないと思う。
努力すれば必ず報われるとも思わない。
けれど、「しょうがない」と言う人が理想に向けて本当に努力をしているようにも見えないのだ。肩を落とす事は簡単だし、所詮・・と思う事も簡単である。でもそう思わない元気と体力そして焦りがあるうちは踏ん張っていたい。
毅然とするということは今の日本では本当に難しいと思う。
そんな土壌が変わらない限り宗男が失脚しても何も変わらない。

こう書いてくると、なんとも堅苦しい生き方を選ぶように感じるが、目指しているのは目分量の世の中だ(現時点での注:目分量というより「臨機応変、是々非々」という意味でしょうか)。マニュアルではなく自己責任の下、人を信頼して物事を行う世の中だ。上手く行けば開放的だ。しかし、こんな事をぶつわりに私は物事から逃げ過ぎた。「しょうがない」という人たちに胸を張るためにも思った事は実行するしかないのだ。人から遅すぎると言われようとも、失敗しようとも。
それしか「手のひらを返して宗男を見限る汚さ」的なものに対抗する方法はないのかもしれない。
 鈴木宗男の証人喚問まであと8時間。

(現時点での注:このとき自分のことを「物事から逃げすぎた」「思った事は実行するしかない」と言いながら、今まで「思った事を実行」できたとは言いがたい。あれから8年も経って40歳も過ぎて、今になってやっと思った事をやろうとしている。でも、人とはそんなものだ。思った事をそんなに簡単に思った通りに実行できるものでもない。当時は、周りに反発しているのもあって、妙にイキガっている。諦めはあっていいのだ。しかし、責任転嫁や逃げは良くない。諦めと逃げは違う事を自覚すべきと思う今日この頃だ。)


2002年 3月13日(水)
『宗男の日とりあえず終了』

宗男証人喚問の日3/11は宗男の日と揶揄されるくらい宗男一色だった。
世間話でも宗男の話しかしちゃいけないくらいの勢い。子供達まで加わって、かつてのロッキードやリクルートの時の盛り上がりとは比べ物にならない。
私も宗男は嫌いだったけれどこんなに重箱の隅までつついてこられると、もういいよという気になりそうになる。
もちろんこのまま疑惑をうやむやにすることは絶対いけない(現時点の注:今はこれを検察に言いたいです)。

けれどなんだかしっくりこない。
NGO問題が引き金で起こった騒動で真紀子更迭、その復讐発言、野党宗男疑惑追求の動き、世論の後押し、証人喚問へ、世の中宗男一色といった経緯の中で、あんな強烈な真紀子さえ、昨日今日は世の人の興味の対象ではなく、ましてや、これらの宗男関連の問題は外務省がらみでありながら、その外務省の問題はどこかに忘れ去られている。
みんなが宗男宗男と騒いでいるうちに、外務省の責任なんてなかったことにしようとするかのごとく。
けれど、思い起こすと、NGO問題が起こった時、テレビに出演した与党政治家は官僚の責任を一番に言い立てたはずだ。宗男が悪い事は分かっていながらその決定的証拠をつかめず、疑惑の数ばかりが増えてゆく。
テレビや新聞は毎日何かは提示しなければいけないから、だんだん訳が分からなくなる。宗男のしっぽを掴む為どんなに小さい疑惑でもいいから完全に犯罪を証明できるものを探しているのだ。

しかし、だんだん手段が目的化しているような気がする。
まるで見えない黒い糸に操られてみんなでよってたかって宗男疑惑をあさっているようだ。証人喚問の辻元の追求には間違いがあったかもしれないと今日の報道。
宗男の証言との信憑性比較が行われると思うが、今週もっとも興味が有るのは、宗男に辞職を迫る与党の面々の思惑とそれに対する宗男自身の思いである。

やつらの冷や汗をあぶり出さないことにはどうしようもない。  


2002年 3月16日(土)
『鈴木宗男よどこへゆく』

宗男が涙の離党会見。ニュースステーションでは、宗男の政治人生を2人称で「あなたはあのとき__でしたね・・・」という感じでニュースらしからぬ感情たっぷりで振り返っていた。宗男の会見で、時代が変わる予感(期待も込めて)とともに旧時代の一つの象徴が崩れ行く姿を目の当たりにし、ある意味感慨を抱かずにはいられなかった。ステーションのVTRはその気持ちを代弁してくれるようなものだった。(現時点の注:この「感慨」という記述。本質が見えてなかったのだなあと反省。小泉旋風に乗せられていたのですね。)

そういうVTRをつくるなら私にはもう一つつけ加えたい映像があった。
それは、去年の6月私が足寄に宗男取材に行った時に撮影した映像である。その時の番組構成ではどうしても組み入れることができず日の目を見ることなく消えてしまった映像だ。
廃坑になった炭坑の町の数十年後の姿だった。
そしてそこは鈴木宗男が働くはずの場所であった。   _                  t

鈴木宗男は、1頭の馬を売って拓殖大学に進学する事になる前、すでに地元の炭坑へ就職が決まっていたという。当時は炭坑全盛時代、炭坑の周辺には、働く人々が住む家々のほかに病院や映画館、商店街が立ち並び、とてもにぎやかな町並みを形作っていた。

足寄地区に宗男の過去を訪ねた私は、そんな彼が働くはずだったという炭坑の跡地にも足を伸ばした。以前その地を撮影したことがあるという地元のカメラマンの案内で山道を登ったが、なかなか炭坑の入り口は見つからなかった。帰りの飛行機の時間を気にしながら私たちは草をかき分けた。カメラマンによると、そんなに見つからないわけはないという。けれど右を見ても左を見ても背丈よりも高く伸びた草と潅木が茂っている。無口になって、残り時間の少なさに半分諦めながら山道を進んでいたらふと水の流れる音が聞こえた。そして、その方向を見るとなんと入り口をコンクリートで埋められた炭坑のトンネルの上から湧き水のように水が流れ落ちていた。ツタが絡み、周りは伸びた草木に囲まれ、気をつけないと炭坑口だったなんて気がつかない。

そして、その場所からよくよくあたりを見渡してみれば、もう森になってしまったその木々の奥のほうに病院ではなかったかと思われる建物が見えた。街は完全に森に回帰していた。植林したわけではないらしい。廃坑になって人々が出ていった後に自然にこうなったのだ。
カメラはその炭坑をうっそうと覆う森を見上げ、そしてゆっくりとコンクリートで埋められた入り口のところまで振り下ろしてきた。その炭坑の名前が記された朽ち果てたプレートがまとわりついたツタの葉っぱに見え隠れし、その上をちょろちょろと山から湧き出した水が流れ続けている。

もし鈴木宗男が18歳の若き日に大学に行くという決断をしていなければ・・・。

鈴木宗男はその後この地を訪ねたことがあっただろうか。
一つの街を覆い尽くすほどの森が育つその間、彼はそんな木々の成長を知ることもなくその近隣の町を大きな声を張り上げながら通り過ぎていたのだろう。
一から出直すと言っていた鈴木宗男は次にどういった行動に出るのか・・・。

<過去の記事ここまで>

当時の私は、まだ検察に疑問を抱くほどリテラシーが高くなかったので、単純に鈴木宗男の疑惑を認めていた。これは単なる勉強不足、知識不足なだけだ。
しかし、知識の多寡に関係なく、いろんなことに「流されたくない」という思いだけが、私を踏ん張らせてくれた。
あれから8年間。この「流されたくない」という思いから、いろんな情報に対する素朴な疑問や、ちょっとした引っかかりを大切にして物事を見るようにしてきたつもりだ。
でも、そのせいで(かどうかはわからないけど)私は失業中だ(笑)。

一方、鈴木宗男氏の昨今の活躍は、皆さんご存知の通り。
根がしっかりと張っていれば、森は復活するのだ。まさに「新党大地」。

当時の私は、その鬱蒼とした森に、ただ時の流れの感慨を感じただけだったが、
今は、森の包摂力、再生力に畏怖を感じる。
人間たちが、小さい了見で右往左往しているのを横目に、森は粛々と再生して行く。

8年後の私は、もう、鈴木宗男はこれからどうするのだろう・・なんて言わない。
鈴木宗男の復活を祈るのみだ。




家飯もまだまだ「夏飯」ちょい贅沢感有りバージョン。

2010-09-08 11:06:11 | 一人暮らしの家飯
こんなに暑いと、家飯もまだまだ夏バージョン。
きゅうりと茗荷は欠かせないはずなのですが、冷蔵庫の中の在庫が切れてしまった。
土曜日に、新宿駅西口で行われた小沢一郎、菅直人街頭演説を見に行き、その帰り、久しぶりに伊勢丹に寄ったので、「茗荷茗荷」と思い、地下の野菜売り場に行ってみましたが・・・
 
高い~!立派なのが6個入りとはいえ、1パック420円か。きゅうりも3本で368円。
茗荷って近所のスーパーでも3個で168円とかだから、高いですよね。

というわけで、計画変更。
翌日曜日の朝、行商のばあちゃんから買ったオクラを使って、こんな「夏飯」を作ってみました。


オクラと納豆におかかを混ぜて、海苔を散らしました。
「おむす人」というおにぎり専門店に「オクラ納豆」というメニューがあるのですが、それをおにぎりにしないで丼にした感じです。卵かけご飯もできるように生卵も!家飯ならではの贅沢感。

さらに夏度を高めるため、みそ汁はシシトウとしめじと油揚。油揚は朝買ってきたばかりの揚げたてなので、あえてお湯で油抜きをせずに使います。油が溶けてややこってりした感じがかえって夏らしい味。豆腐は油揚と一緒に買ってきた作り立て。近所に豆腐屋がある生活。いいですねえ。


で、このシシトウとオクラを買ったとき、行商のおばちゃんからいっしょに買ったのが、
このアコウダイの一夜干しです。450円也。


これすごく大きくて、6切れに切り分けて冷凍保存しました。一切れ75円かあ。
そんで、後日それを朝ご飯に焼いたのがこれ。赤い皮がちょっと涼しげなり。
脂もあっておいしいアコウダイでした。このばあちゃんが持ってくるものは結構どれも美味いかもしれないと最近思い始めている。実は、このみそ汁のお味噌も、このばあちゃんから買ったものなのだ。


このところ、一手間かけてお金をかけない贅沢モード。
これは、twitpiにもアップしたのですが、こっちにもアップ。
ちょこっと天ぷらです。蓮根2切れ。


これに、牛蒡とネギの豚汁と納豆です。

一人暮らしだと、油の処理のめんどくささもあって、天ぷらは敬遠しがちです。
それに、やっぱり作るんだからある程度種類を食べたいし・・なんて作ってると、沢山揚げすぎて翌日に持ち越す。今時は揚げたてでない天ぷらをカリッと戻す方法やシートなども充実してはいるようですが、それもまた面倒。そんなこんなで天ぷらは一人暮らしの食卓には遠い存在でした。
でも、蓮をたった二切れ揚げてみて気付いたのですが、一人暮らしならそのとき食べる分だけ作ればいいと気付きました。
油は中華鍋の底に超少量。蓮根厚み(1cmくらい)の下3分の2が浸かるくらい。たった二切れならこれでなんとかなりました。あまった油は湯のみに入れて冷蔵庫へ。次のご飯の炒め物にでも使います。

また、天ぷら粉も今、こんな少ない油で揚げるためのものが出てるんですね。

とはいえ、これがほかの天ぷら粉とどう違うのかはよくわかりません。
別に普通のでも良いのじゃないかという気もしますが・・。

「夏飯」贅沢感ありバージョンとしましたが、
これらも全て材料費は300円以下です。多分。





今日も代表選その3 小沢一郎から考えた「代表的日本人」戦後は遠くなりにけり・・?

2010-09-07 21:11:56 | 国内情勢
前回の最後に、「ビデオニュースで、ジャーナリストの高野孟氏が語った『政治とカネの問題の本質』を聞くに至って、菅直人との会談で『小沢一郎が求めたポストは何か』を問う事もある意味、意味があるのではないかと思えてきた」と書いた。

これはどういう意味か。

簡単に言うと、小沢一郎にはある意味、「政治とカネ」の問題があるのかもしれないなあと思ったということだ。

しかし、それはマスメディアやそれを信じる人たちが言う西松建設からのカネがおかしいとか、狭義の「政治とカネ」の問題ではない。検察審査会に持ち込まれた政治資金収支報告書に関する「政治とカネ」の問題については、裁判をしたところで有罪になる事はほぼないだろうし、これ以上問うような事ではないと思う。

高野氏がビデオニュースで「政治とカネの問題の本質」として語ったのは、個別具体的な政治とカネの問題ではなく、政治文化としてのカネの問題だ。問題視されたのは、お金の入り口の問題というより、出口、つまり使い道の問題だ。もちろん私腹を肥やすという類いのものではない。

高野氏は、小沢の“剛腕”と言われるものの実態は、自らの資金や、幹事長職を獲って牛耳った政党助成金を、組織対策費として使い、物事を動かす政治手法のことだという。平たく言えば、カネを使って、仲間=数を集める手法だ。「政治闘争とは結局はカネと人事だ」と考え実行するような政治文化。それこそが、小沢氏の“剛腕”の正体だというのだ。

菅直人が公開討論会で
「小沢さんの政治のあり方というのは、どちらかといえば、資金的な強さ、仲間の数の多さ、そういうお金と数の原理が色濃くあるのは私だけが感じているのではないのではないでしょうか」と語っていたが、まさにそういう政治手法のことだ。

こうした政治文化は、自民党政権時代の古い政治文化と言える。
小沢の場合、違法性があるわけではない。また、私腹を肥やすカネではなく、政治に必要な資金であったりする。

しかし、資金を渡すことで人心までも掌握するという旧時代の手法を、政権交代した今、再び容認するのか?
そういわれると、確かに、容認していいのだろうか・・という気もしてくるのだ。

反小沢の急先鋒とされる仙谷由人は、高野氏によれば、カネを使わずに人脈を広げ、手練手管を弄せる、小沢に対抗できうる唯一の人材だと言う。彼の物事の理解力や基礎学力の高さが人望に繋がっているらしい。
高野氏は、今回の戦いは、菅vs小沢ではなく、実質的には、仙石vs小沢だと語るが、その本質は、権力闘争に関するこうした2つの異なる政治文化のぶつかり合いだと分析する。

政策や理念はどうあれ、カネを使って数を集める旧自民党的体質の政治家は、新しい時代の幕開けにはふさわしくないという考え方も確かにある。
じゃあ、菅&仙石に一票と思いそうになる。
しかし、私は、迷いなくそうすることもできない。

政策についての議論はおいとくとして、
問題とされる小沢の「政治文化」の中にも、こうした「カネの使い方」とはまた違った、捨てがたい何かがあるような気がするからだ。

そういえば、高野氏は「陸山会事件の本質」として、こんなことを言っていた。
『小沢一郎は、巨大な政治資金を集めて、何十人もの秘書を抱え、それを選挙プロフェッショナルとして派遣している。彼らを住まわせるためのマンションも必要だ。彼がそこまでするのは、民主党が坊ちゃん嬢ちゃんばかりだから、オレがプロとしてやってやってるという思いから。
しかし、近代政党なんだったら、選挙のプロを党の中で育てて、党のシステムとしてやっていかないと本当の強い政党にはならない。
しかし、小沢は、おまえらバカで政治を知らないからオレがやってやってんだという考え。違法だとかどうとか関係ない、それが陸山会事件の本質だ。』

高野氏は、「近代政党なら選挙のプロは党のシステムとして育成を」という。
しかし小沢のやり方は、いわゆる「書生」から始めるってことだ。
別の言い方すれば「徒弟制度」。
そして、彼らが苦労して学ぶ政治手法は古くさい。
さらに、こうしたやり方は自分の主人に対する変な忠誠を生み、物事の本質から目をそらさせるという一面があるとも思う。

しかし一方で思うのは、「選挙のプロを党の中で育てて、党のシステムとしてやっていく」という言葉からは、いわゆる「コーチング」みたいな米国的な合理的方法論というか、マニュアル化され身体性を伴わない学習と実践といおうか、悩みなく一足飛びに何かを獲得しようとする「今時の学びの態度」をイメージしてしまうのだ(もちろん高野氏は、こんなやわなシステム化を考えているわけではないと思う。私の勝手なイメージだ)。

私が小沢一郎に感じる捨てがたい部分というのは、多分、職人技につながるような「地道さ」とか「めんどくささ」みたいなものだ。一見、理不尽な師弟関係から習得され経験により研ぎすまされる日本的な「習熟」。
小沢一郎自身が実際にそんなものを目指しているかは知らないが、あのたたずまいにはそう感じさせる何かがある。

一方、高野氏は、こうした「オマエらに言っても分からんから、オレが全部やる」的なやり方や「結局はカネと人事だ」という考え方は小沢独特の「人間不信」と「ニヒリズム」から来ているのではないかという。
確かに、そんな気がする。

「地道さ」と「ニヒリズム」というアンビバレント。

その2つの間を繋いでいるのは、地道な努力しないで上手く世の中を切り抜けようとする狡いヤツや腹をくくっていないヤツに対する不信感なのではないのか。そして、そういうヤツに限って、カネに引っかかるのではないか。

かつて、小沢一郎に真っ向から政策を問うたものはいるのだろうか。
小沢一郎からカネを渡されて、私はいりませんと言ったヤツはいたのだろうか。

本当に小沢一郎が「ニヒリズム」の人なのだとしたら、彼は、そうした現代の風潮や世の中に復讐するつもりでカネを渡したのではないかとさえ思えるのだ。それは買いかぶりすぎか?

小沢一郎は、日本改造計画で日本の将来ビジョンを示すという仕事をした。
そして、現在もそのビジョンは改訂されつづけていると思う。
そんな仕事をする人間が「ニヒリズム」に陥るとしたら、なにが彼をそうさせたのかを問う中に、高度成長以降日本が陥った病とは何かを考える鍵があるような気がする。
なんか凄い話になっちゃったよ・・・。

ところで、この頃様々なところから、小沢を西郷隆盛に、菅を高杉晋作になぞらえる声が聞こえてくる。
しかし、小沢自身が尊敬する人物に挙げるのは大久保利通だ。
明治維新を境に、過去にとどまった西郷と、未来に踏み出した大久保。
多分、彼の中にはこの二人に象徴されるような何かが、アンビバレントに存在しているのだろう。

「小沢さんは古い」という言葉を聞くとき、明治時代の夏目漱石が、文明開化のかけ声のもと、江戸の文化や価値観がどんどん切り捨てられて行く事に不安を抱いたような、そんな気持ちにさせられる。

平成維新と言われる今、私たちは「戦後」からの脱却を企てようとしている。

古いものは捨て、新しいものを選びとらねばならないのは事実だ。もちろん私も、世の中の変革を望んでいる。
しかし、変化の動乱に翻弄されないようにするのに必死で、ちゃんと考える余裕もなく、なんでもかんでも古いものは切り捨てるというのでは、歴史に何も学んでいない事になってしまう。
何が「いらない古いもの」で、何が「必要な古いもの」か、そして何が私たち日本人にとっての「普遍」なのか。普遍なんてあるのかどうかも、まだ私には分からないけれど、ちょっとそんなことを考えてみようと思った今回の代表選なのだ。
内村鑑三の「代表的日本人」でも読んでみようかな~。
というわけで、私の妄想でした。

最後になりましたが、
やはり、菅さんも、小沢さんも、仙石さんも、鳩山さんも、他の皆さんも、喧嘩しないで、本音を言い合って、良いとこ取りしてやってくれるのが、私としては良いんですけどね。分裂したって日本の将来にはなーんもいいことないと思う。だってさ、みんな政策的にはそんな大きく変わらないじゃないですか。目指してる目標は一緒でしょ。争う事がおかしいおかしい。
菅さんがやたら官僚にやられてるイメージになってるけど、民主党全体で見ると、やっぱり自民党の時よりはずっとましになろうとしてんのよ。ちょっと経済がヤバい感じだけど、今はしょうがないとも思う。自民がやったって死ぬまでの苦しい時間を延ばすだけですって。
代表的日本人 (岩波文庫)
内村 鑑三
岩波書店

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