橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

ほとばしっていた坂本花織と樋口新葉

2022-02-18 00:33:41 | Weblog
北京五輪フィギュア女子、坂本花織が銅メダル、樋口新葉が5位に入賞した。
 
坂本花織の滑り。特にショートと、樋口新葉のフリーのステップシークエンスは「ほとばしるような」という言葉がぴったりの生命力を感じさせる滑りだった。
 
全身で表現するフィギュアスケートの素晴らしい演技、例えば今回の五輪での坂本花織の演技は、曲の世界観を表現するとかいうレベルではなく、自らの中に潜んでいた光を見出し、その魂のほとばしりを表現していた。それはまさに「自分を生きる」ということのように思えた。
 
樋口新葉選手は多分、やや身体が硬いのだろうし、坂本花織選手は骨太だけれど、それを克服するということではなく、一見ハンディと思われる点も活かした表現方法を見つけ、今の自分そのものをもっとも美しく表現していた。美しさのあり方も十人十色、絶対的な美しさなどないということを教えてくれた。
 
話は飛躍するが、私はガンになって、自分にどこかで嘘をついて生きてきたことを悔い、これまでの人生を抜け出し、自分の魂が求めるままに生きられるようになりたいと思った。そうすることが、病を良くするためにも必要だと思ってきた。そして、それは相当に難しいことだと実感している。
 
しかし、氷上の彼女たちは21歳という若さでそんな難しいことをやってのけている。彼女らは確かに「自分を生きて」いた。そこに至るはどんな努力があっただろう。
 
スポーツや芸術が力を与えてくれるというのはこういうことで、フィギュアスケートというのは、スポーツと芸術の両面を併せ持つということが、大きな感動につながっているのだと、あらためて思った今回の北京五輪だった。今のような五輪開催には賛成はしないが、こういう滑りが見られたことはよかった。もう、五輪はずっとアテネでやればいいんだよね。
 
今年に入って、「のびのび」という言葉が似合うパフォーマンスをよく見かける。今日の坂本花織や樋口新葉、そして鍵山優真。分野は全然違うけど、女性で初めてNHK新人落語大賞とった桂二葉とかも。閉塞の時代にも風は吹く。

北京五輪女子フィギュアショートP 坂本花織の滑りに心震える

2022-02-16 01:05:44 | Weblog
フィギュアスケートが好きだ。
その滑りに本人さえも気づいていないようなその人の本質的な輝きや魂の叫びが表現されていると、涙が出そうになる。これまで、私の中でその最たるものは浅田真央だったのだが、今回のオリンピックの滑りを見て、そういうことを感じさせてくれる選手がまた出てきていることに、ちょっと感動している。
 
これから書くことは私だけが感じている勝手な思い込みが暴走しているだけかもしれないが、そう感じちゃったのだからしょうがない。
 
今夜行われた坂本花織のショートプログラム。本人もその出来に感激して涙していたが、今夜の彼女の滑りは世界に祝福されていた。金色っぽい衣装から本当に金の粉を振り撒いているかのように輝いていた。技術的にも振りの繊細さもワリエワらロシア勢に及ばないのに、その滑りは最終滑走を飾るにふさわしいオーラを湛えていた。
 
ワリエワが儚い妖精なら、坂本はパワフルな大地の女神だ。坂本自身もスタッフも彼女のそんな資質をよくわかって、曲を選び、振り付けをしてるところに感動する。
今回のショートプログラムの曲は、よくぞ坂本のためにこの曲選んだなって感心させられる選曲だった。なんの曲か知らなかったので調べてみたら、映画「グラディエーター」からの「Now we are free」という曲だった。「ついに自由に!」である。
 
今日も30人からの選手が滑ったが、その選手の本質を捉え、それに合った選曲と振り付けをしている幸せなパターンはそんなに多くはない。みな美しく滑るが、それは表面的に美しいだけで、心を揺さぶる滑りになることは稀だ。選手本人が魂の奥に秘めた何かと曲や振り付けがシンクロした時に初めて感動が呼び起こされる。
 
かつて、浅田真央とラフマニノフはそういう組み合わせだった。
そして、今回、坂本花織が滑った、古代ローマの映画の曲やフリーで使われる世界崩壊後の人類最後の生存者の物語を描いたSF映画の曲は、浅田にとってのラフマニノフのような、彼女の本質を炙り出すことのできる曲のように思えるのだ。
 
ラフマニノフが炙り出した浅田の滑りには近代の葛藤の中で苦しみながら成長する人間の魂の叫びを感じたが、体格的にも豊満でパワフルな坂本の滑りは、世界が終わってもそこに再び命が芽吹く大地の強さと、再び新しい世界が始まる喜びを感じさせる。だから、古代世界や世界崩壊後の未来を生き延びる人々の音楽が似合うのだ。
 
妄想っぽい言い方をすれば、今日の坂本の滑りは、コロナ後の世界に大地の恵みの喜びと生命の歓喜をもたらす滑りだった。
 
どんどんバーチャルに移行している世界で、殺伐とした未来を想像して陰鬱となっている私たちに、未来世界でも命の輝きと大地の豊かさは変わらないことを教えてくれるような滑り。
 
やっと頭角を現した坂本花織は、今だからこそ、出るべくして出てきたのかもしれないと、今夜の滑りを見て思ったのでした。

21世紀の寅次郎とは

2020-10-12 09:14:35 | Weblog
先日、近所のカレー屋(?)でお客さんたちと「男はつらいよ」の話になった。現代の寅さんを映画にするとしたら、どんな設定でどんな配役で、寅さんの職業やキャラクターはどういうものになるのだろう。今や映画やドラマに描かれる家族の形も「万引き家族」とか「anone」とか、昔とはずいぶん違っている。そういう時代の寅さん的役柄は誰が演じるどういう人物なのか?テキヤではないはずだ、主役が女性というのもありか、イケメンは?などと盛り上がった。
 
最初、この話は、地域振興は風景を意識することが大事という話から始まった。風景があって人の暮らしがある。私たちは今、風景のない無色の壁の前で暮らしを営んでいるようで、そういう暮らしに豊かさはない。よって、地域も活性化しない。そんな話の流れの中で、「男はつらいよ」は日本全国廻って、いろんな風景をバックに物語が展開するのがいいという話になった。風景を眺めるのではなく風景が人の営みの向こうに黙ってある。この喜び、豊さ。今の時代にこそまた今の時代にふさわしい寅次郎が必要なのではないか、そんな話に花が咲いた。
風景をバックに描かれる人の営み、それも、多くの人に笑顔をもたらす人々の営みとはどういうものだろう。寅さんにように、突っ張らかって、恋に恋して、失恋して泣いて笑って。そして、ヒロインは寅の真っ直ぐさに救われる。現代の「男はつらいよ」は必ずしも、女性が美人のマドンナで、男性が三枚目のおっちょこちょいの組み合わせである必要はないかもしれない。ピュアな男性との交流の中で最後に、傷心の女性が癒される。それが現代の風景の中で描かれればいいのではないか、そんなことを思いながら、主役の男性をイメージした。
職業はテキヤじゃなければなんだろう。全国を放浪でき、ちょっとドロップアウト感のある職業。季節労働者、放浪のユーチューバー、売れない放浪の小説家、各地をツアーするミュージシャン。放浪のジャグラー、大道芸人なんてのもあるかもしれない。そんな彼が、各地で恋をする。21世期の寅次郎は、その性格設定も昭和の寅次郎とは違ってていい。突っ張らかる必要もない。そして、多分、もっと複雑で、人の気持ちに敏感なキャラクターになるんじゃないだろうか。
 
さて、渥美清の寅次郎に匹敵する、令和の愛嬌のある放浪のアウトサイダーは誰がいいのか。知性がちらついてはいけない。けれど、頭が悪くてはいけない。男臭すぎてもいけない。見た目は男性的でもどこか女性的な部分を内包している。ピュア。したたかさを感じさせない。淋しさを抱えている。でも、笑顔が素敵で、ラブコメディを演じられる人。つい三枚目の俳優で考えてしまうけど、想定の範囲を超えず、企画もので終わりそうな感じ。最近、若くて二枚目で演技派と言われる俳優は多いけれど、そういう人たちは才気をビシバシ外に出して、ギラギラしている。寅さんにそういう演技は似合わない。
なかなかに難しい。
 
そして、ひよこ豆のカレーを口に入れた時、ふっと思いついた。あ、この人だ。この人しかいない。それは青天の霹靂のように、確信的に降りてきた。しかし、確信が大きいほどに、悲しくなる・・・。
 
三浦春馬。
 
数日前に最終回を迎えた「おカネの切れ目が恋のはじまり」。彼の遺作となってしまったテレビドラマだ。第4回が最終回。最終回に登場する三浦春馬は回想シーンばかりだったので、3回目のラストシーンが、彼の最後のリアルなシーンとなった。
失恋したばかりの松岡茉優を慰めながら、突然の雷におどろいて抱きついてきた彼女にちゅっとキスをする。そして、そんなことした自分に驚く。これが三浦春馬の最後のシーン。ベタなシチュエーションだが、それをベタではなく共感に持ち込めるのは、多くの人が忘れてしまったピュアさと駄々漏れてしまう情熱と、おっちょこちょいな可愛らしさが共存する三浦春馬の演技のおかげだ。このドラマ、カネ持ちの浪費息子という設定。ピュアなダメ息子というところは寅さん的だった。
 
傷心の女性をピュアな男性が癒してゆく。大袈裟な誇大妄想を言えば、このドラマのあり方は、現代の「男はつらいよ」だったのじゃないか・・・。奇しくも、三浦春馬がいなくなってしまったことで、ドラマの中でも彼はどこかに行ったまま帰ってこないというシチュエーションで、「猿くん(三浦の役名)どこに行ったのかしらねえ」は「寅次郎はどこほっつき歩いてんだろうねえ」に重なった。
その後、店にいたみんなで、いろんな俳優で「現代の寅さん」的なシーンを想像してみたが、誰もしっくりこなかった。どの俳優を当ててみても、みな「寅さん」を”作って”しまうだろうと思えた。
 
三浦春馬という俳優は、作るのではなく21世期の寅次郎に”なれる”俳優だったのではないか。
ラブコメが似合った三浦春馬。大袈裟なのに作為のない演技ができるのは、彼の人生に作為がなかったからかもしれない。
 
三浦春馬の現代版寅さん。一見、意外なアイディアだが、店にいた全員が、そうかもしれない・・と意見が一致した。そして、話をすればするほど、三浦春馬演じる現代の「男はつらいよ」が見たいという思いは大きくなっていった。もちろん、設定は全然違うだろうし、「男はつらいよ」とは似ても似つかぬ作品になるんじゃないかと思うが・・。
生前、そこまでファンというほどでもなかったが、亡くなったことで改めて注目し、この「おカネの切れ目が恋のはじまり」を見たことで、それに気づいた。このドラマをオクラにしないで放送してくれたTBSにも感謝。まだparaviとかで見られるのかな。第3話のラストシーン松岡茉優と三浦春馬の演技見てみてください。
 
ただの思いつきだし、「男はつらいよ」だってテレビで見たことしかないし、見当違いな意見かもしれないけど、私なりの三浦春馬という俳優への追悼文にしたい。
 

橋本治の絶筆論稿と橋本治という病

2019-10-17 03:48:49 | Weblog

橋本治の絶筆となった論考「『近未来』としての平成・前編」を読む。前後編の予定だったが、前編だけで終わってしまった。昭和の終わりから平成の終わりまでの時代状況を橋本治的に概括しているが、最後にこれから私たちが考えるべき課題が提起されており、それが、後編に続くはずだった。

 その最後の締めの部分を引用する。

 『(前略)社会は「時代」というレールをなくして、もう前には進まない。同じところをグルグル回っていて、そのことで「先へ進んでいる」という錯覚が生まれているだけなのかもしれない。

(中略)どうやら「動いている」らしい数字を注視して、金をそれに合わせて動かす。それだけが経済だったら哀しすぎる。だから、ここでもう一度、そもそも「社会」とはどういうものだったかを考えてみる必要がある。』

 そもそも社会とはどういうものだったかとは、つきつめれば人間とはどういうものかを考えるようなもので、それが、今の経済学が忘れていることだ。人間の在り様を無視して、数字にすべてを合わせる。その時点で、多分、時代はもう先に進まない。先に進んでいると錯覚している人たちが考えているのは多分これまで通りの「右肩上がり」というやつで、実感のない株価の上昇だけで、先に進んでいると思っている。でも、本当の「先」に進むためには、数字だけに左右されないプランBが必要なのだろう。

 金は天下の回り物。人の複雑な思いの末に(何も考えてないこともありますが)、お金が使われたり使われなかったりする。それを一把一絡げで数字にしてわかったふりして欲しくないのよねえって思う。グローバル時代になって、ネットが普及して、ビッグデータとか言って、なんでもマクロに分析したがるけれど、ある意味それもしょうがないけれど、そういう数字には穴があるよって自覚するところからしか、本当の経済学って始まらない気がする。だって、人の行動は読めないから。私自身のことを考えても、口から出る言葉は本心とは裏腹だ。買い物だって、本当にそのとき欲しかったものは買い逃していたりする。結果が全てというかもしれないけれど、その結果を数値化だけすると、そこに残った後悔やその後悔からくる次の行動を読み誤ってしまうのではないか。もちろん、それを理論としてどう確立せよというのか・・とは思う。しかし、すべてを理論化せねばならないのかという素朴な疑問も湧いてくるのだ。

科学的とはどういうことか(社会科学も含め)、そもそも経済は科学になりうるのか、そういうお前アホか、と突っ込まれそうなことをまた考えている。

こういうことを言うせいで、どれだけ自分が「社会」での居心地が悪くなっていることか・・・。そう思うのだが、やめられない。それが「橋本治という病」なのかもしれない。

そもそも「社会」とはどういうものだったか・・・考えねばならない。

 

追記:

以前、筑摩のウェブで書いていたコラムで橋本治は確かこんなことも書いていた。

がんは治療法の研究は進むのに一向に患者は減らず、それなら「なぜがんが増えるのか?」を考えるべきなのに、なぜかそれはあまり研究されていない。まさにそうなのだ。これもまた世間からは嫌われそうな根源的な問いであり、しかし、橋本治と同じ「がん患者」という当事者である私にとっては、前向きに生きるためにこうした根源的な問いこそが重要なのだ。知りたいということが命の灯を繋げる。

 


船曳建夫の橋本治への追悼文

2019-10-12 11:41:04 | Weblog
図書館で群像4月号。橋本治の絶筆論考と船曳建夫氏の追悼文。大学同窓だった彼は「その頃すでに橋本が僕を好きになっていたことは確かだった」とふたりの思い出を語る。人を好きになることはこんなにも苦しくて、悲しくて、しかし豊かで、人生に力を与えるのか。涙が止まらない。橋本治やはり私のメンターだ。

船曳建夫氏さらに曰く
『橋本治の「惚れた弱み」につけ込んで上に立っていた』

「惚れた弱み」ってつけ込まれてこそ。それが嬉しかったりする切なさ。でもつけ込まれながらそこで成長するのが橋本治のすごいところ。

だって、好きな人の好きなものは好きだし、だから一緒に好きなことをやれたら嬉しいもん♡で突き進む。
そして、歌舞伎に首を突っ込み、古典への道をひた走った。
そんな橋本治が私は好きだ。かわいいぞ橋本治。

船曳氏の追悼文の最後の一文は
「あと、追悼文とは、亡くなった人に読んで貰(もら)いたくて書くのだということにいま気付いた。」

そして、その追悼文を読んだ鷲田清一氏は朝日新聞の「折々のことば」でこう書いた。

「真にかけがえのない人には、目下思い煩っていることを面と向かって言えない。」

そうだとは思うけれど、本当は面と向かって聞いて欲しい。けれど、言えないというのも確かで、だから、まず「思い煩っていること」を自分の手でひとつずつ消し去って、にこやかな表情で、面と向かえるようになりたい。せめて生きている間に。

#橋本治 #追悼 #船曳建夫 #鷲田清一 #群像

高畑勲が体現した民主主義

2019-10-06 18:21:13 | Weblog
高畑勲展が10月6日までだと気づいて、土曜の夜(金曜土曜は21時まで開館)行ってみた。


何の前情報もなく訪れ、何も考えず展示室に入ると、一番最初の壁に大きくかかれていたのは、「高畑勲のクリエーションとは」という問いと「多数のスタッフの才能を引き出した」という文字だった。メモし忘れたので、多少言い回しは違っているかもしれないが、このフレーズを含んだ3行ほどの文章が壁に大きく縦書きで書かれていた。

そして、見終わって、今回の展示のテーマはまさにこれであったことを理解した。高畑勲のクリエーションの手法が宮崎駿をはじめとした多数のスタッフの才能を引き出し、素晴らしいその後の日本のアニメーションをつくったということをいまさらながら理解した。

そんな高畑勲のクリエーションの手法とはどんなものなのか?

彼らのクリエーションの起点と言える「太陽の王子ホルスの大冒険」の音声解説の中に「日本のアニメーションのその後を決定づけた記念碑的作品は、当時の労働組合の中心人物達が集まり、組織され、その製作過程もトップダウン式ではなく、限りなく民主的な制作体制が敷かれた。」というようなことが語られている。

これは当時の東映動画という組織の柔軟性もあったと思うが、展示を見ると、高畑勲の仕事のやり方もまさにこの「トップダウン式でない限りなく民主的な体制」だったことがわかる。

キャラクターを作るときにはスタッフ全員の意見をすくい上げ、そのやり取りの中から、もともと挙がっていたものよりもさらに素晴らしいものが生まれたことがスタッフの証言も交えて語られる(これは朝ドラ「なつぞら」にも描かれていたが)。

演出である高畑は頭の中にあるシーンをスタッフに伝えるために「言葉」を駆使して説明する。その言葉を理解したスタッフが、それぞれの得意なスキルを活かして、その言葉を目に見える形に変えていく。色彩に長けたもの、画面構成に長けたもの、キャラクター造形に長けたものetc. それぞれの分野において自分(高畑)より能力の高いものたちが高畑が言葉で表現したもののイメージをさらに膨らませて形にしていく。そのプロセスの中で、高畑も新たな発見をし、作品はさらに高みを目指す。

今回の展示からはそんな「民主的なクリエーション」が奇跡的に成立した背景に、高畑勲の類まれな「コミュニケーションを諦めない姿勢」があったことが見えてくる。スタッフに作品を理解してもらうために彼は驚くほどに言葉を尽くし、さらに、言葉以外のさまざまな方法で語りかけていた。

原画やセル画、ラフスケッチなどとともに展示されるのは高畑手書きの企画書やプロット。さらに、企画書に至るまでの思考プロセスや、逆に企画が通って、実際に製作に入ってのち、スタッフたちに作品のテーマややりたいことを正確に伝えるための資料の数々。すべてのシーンには理由があり、その意図が明確に語られる。そこに尽くされた言葉の膨大さや、工夫されたイメージ図など、その情熱に感動せずにはいられない。

こんなものを作っていたのかと驚いたのは「テンションチャート」というものだ。物語の進行に伴う緊張と弛緩や感情の起伏を図式化、登場人物の感情の起伏は折れ線グラフで表現されている。

各シーンごとの登場人物の感情についてはスタッフ間で言葉で議論されて尽くしているに違いない。その上で、全体を俯瞰し、物語の始めから終わりまでの感情の動きを、起伏(折れ線グラフ)という形で一目で見せる。シーンごとのミクロな感情について語り尽くしてきた彼らにとっては、これを一目見ることで、それまで言葉で尽くされてきた議論が体感として身体中に染み渡ったはずだ。

最高の作品を作るために、他人(スタッフ)とイメージを共有するにはどうすればよいのか。高畑勲という人は、作品で何を語るかと同じくらいに、「伝える」ことを考え続け、実践していた人だった。

「自分は何を考えているのか」

独り言のように、自分は何を考えているかを質すかのように綴られた企画メモ。人を説得するための企画書というものはまずはそこから始まるという、基本的だけれど、忘れがちなことを高畑の肉筆資料は物語る。人間にとっての最大の謎は「自分の考えていること」かもしれない。他人に何かを伝えたいと思ったら、まずはその謎に立ち向かうことから始めねばならない。自分は何を考えているのか、なぜそう考えるのか・・・。頭に浮かんだことを漏らさず言葉にして書きとめようとしているかに見える高畑のメモは、私たちをそんな基本に立ち帰らせる。

「マーケティング」という言葉が人口に膾炙し、昨今は多くの企画が「ターゲット」を絞って、そこから逆算するように作られる。企画の根拠は「自分の外側」に求められる。他人を説得するために用意されるのは「データ」である。しかし、「データ」というものはそのターゲットの一部しか表現しておらず、そんなデータによって説明されるターゲット像はある意味幻想であり、いまや、その幻想を前提に作られる歪んだコンテンツが、逆に世の中を歪めているかに見える。

「私はこういうことを考えています」ということを表現するのが本来の企画書の根幹であり、だからこそそこに「責任」ということも生まれると思うが、「データ」に責任を押し付けて、「自分は何を考えているか」を曖昧にしている現代社会が民主的から遠ざかり始めているのは当然かもしれない。

民主主義の根幹は「みんなの意見を聞く」ことにあり、決して「多数決」ではない。「多数決」は時間の制約上、話し合いではどうしても決まらない場合の妥協的な決着方法である。それはクリエーションではない。「自分はこういうことを考えています」というそれぞれの異なる意見を聞き、行き詰まっているかに見える現実からいかに飛躍し、別の次元でよりよい解決法を生んでいくか。そんな民主的なあり方の理想をちゃんと理想として、諦めずにクリエーションしていったのが高畑勲という人だったのかもしれない。

まして、高畑の周りにいたのはそれぞれの分野において、彼以上に才能もスキルもある有望な若者たちである。その能力を利用しない手はない。能力のあるものほど、新しく、他と違うことを言う。それを少数だと切り捨てることは、未来の可能性を切り捨てることになるのだ。それを生かし、一つにまとめていくために、高畑は、正直に、誠実に、驚くほどたくさんの言葉を尽くし、伝える工夫を重ねた。

これだけのコミュニケーションの努力の上に作られたのが世界的にも評価される高畑作品であり、ジブリの作品であることを考えると、そこまでの努力を尽くして初めて、民主主義も理想に近づけるのではないかと思えるのである。逆を言えば、そこまでの努力がないから、民主主義は危機に瀕しているともいえる。

昨今の政治家たちの言葉の薄っぺらさ、私たち有権者をまったく納得させられない言説。その裏で彼らは伝えるための努力をしているのだろうか。相手を理解するための努力をしているのだろうか。その努力をしたくない怠け者たちが、「民主主義は多数決」という定義を盾に、民主主義をいいように利用しているように見える。

今の薄っぺらな言葉しか持たない政治家たちには、「火垂るの墓」を見て「あの惨禍を二度と・・」などと語る前に、その映画を作るために高畑勲がどれだけの言葉を尽くし、周囲とコミュニケーションの努力をしてあの作品が生まれたのか、そのプロセスをこそ知ってほしい。それこそが民主的ということなのだと思うから。

もちろん、展示を見ながらほかにももっといろんなことを考えたけれど、ひとつ今回の感想として書くとしたらこれだと思った。他のことはまたいずれ。

反知性主義と「ムカつく」人たち

2019-03-03 22:44:05 | Weblog
再び橋本治のことを考えていて、たまたま読んだリンクの記事。
 

「知性の顛覆」という著書の紹介のためのインタビュー記事。中に地の文でこう書かれている。


『「反知性主義を読み解いていくなかでたどり着いたのは「不機嫌」「ムカつく」という感情だ。ムカつく人たちに納得してもらう言説を生み出さないと〈知性は顚覆(てんぷく)したままで終わり〉だと指摘した。』


反知性主義を語るインテリで、この「ムカつく」という部分に言及する人は意外と少ない。しかし、どう考えても、今の安倍政権の高支持率とか、ネトウヨ的な言説とかって、知性的なるもの、インテリに対する「頭いいと思って、なに綺麗ごと言ってやがるんだ」的な「ムカつき」でしかないような気がする。

なのに、インテリたちは「なぜなんだ」「理解不能」というばかりで、ムカついている人々のその「ムカつき」を理解しようとはせず、結局は彼らを見下す位置から「知性的であれ」「努力しろ」と言うばかりなのである。そこにあるのは高くそびえる「バカの壁」。より断絶は深まる。

難しいことは分からないという無力感の裏返しとか、勉強不足がおっつかない悔しさとか・・・、それでも同じように人は歳を取り、いっぱしの大人になって、それなりの顔をしなければ、舐められるし、格好がつかない。そして、多くの人は肩肘を張り、受け売りで語り、本当の知性から遠ざかる。

そういう自らの生まれ持ったる能力の限界を感じながら、本当の意味での謙虚でいられるような強い心を持った人ってそうはいない。いるとしたら、そういう人こそが本物の知性というのだと思うが、そういう認識は今の日本ではあまり流行らない。

知性を語るとき、自分など何ほどのものでもないという姿勢は重要で、それって言葉ではいくらでもそうだと言えるが、実際に心からそういう態度でいることっていうのはなかなかに難しい。

頭がいいってことはそんなにスゴいことなのか・・?

「知性」という言葉の定義がわからなくなってきてしまった・・・。

どのあたりに「ムカつく」人たちを納得させられる言葉はあるのだろうか。なかなかに難しい課題ではあると思うけれど、根気づよくその言葉を探し続けなきゃ行けないんだろうな。

この記事の最後にはこうあった。
『とにかく根気の良い人、と自己分析する作家。思考の旅は続く。』

しかし、もう彼はこの世にはいない。けれど、著書は残されている。思考の旅を受け継ぐのは私たちだ。

【緊急企画】真夏の七輪縁日@隣町珈琲 開催!クラウドファンディング応援!

2017-07-13 04:46:37 | Weblog

隣町珈琲&火鉢クラブコラボ企画「真夏の七輪縁日」

7月23日(日)18時〜 

火鉢カフェ設立を目指す火鉢クラブのクラウドファンディングを始めたものの、支援募集期間3分の2近くをすぎて、未だ15%の目標達成率。これはマズイ!  そこで、その告知も兼ねて緊急企画を立ち上げました。


品川の中延にある喫茶店「隣町珈琲」にて、小さな夏の縁日企画!

店内にミニ七輪を並べて、能登のイカの丸干し、愛媛のじゃこ天ほか、焼き物をご用意。愛媛内子町酒六酒造の吟醸酒ほか、お酒も各種ご用意しています。

備長炭を入れれば、ビールの泡もまろやか〜。炭ドリンクも試してみてください!

店先では焼き物の販売も行う予定。予約がなくても縁日気分で楽しめます。

店内での参加をご希望の方はご予約お願いします。

お申し込みは隣町珈琲のfacebookのイベントページの「参加」を押すか、

隣町珈琲にお電話ください。

詳しくは以下をご覧ください。

 

火鉢クラブはこんな活動をやりながら、3年後に常設の火鉢や七輪を囲めるカフェを設立することを目指しています。現在、そのスタートアップ資金募集のクラウドファンディングを開催中。そちらもぜひご協力ください!

 


火鉢クラブ・イベント情報「ミニ七輪でサンデーブランチ〜ペリカンのパンを焼く」開催

2017-07-13 04:20:53 | Weblog

火鉢クラブで以下の会を開催することになりました!

「ミニ七輪でサンデーブランチの会」@上野ルートコモン

  8月20日(日)27日(日)朝10時〜11時半(2回開催)

上野のブックカフェ「ルートブックス」や多肉植物のお店、家具屋さんなどが入る複合施設「ルートコモン」にて、能登の珪藻土ミニ七輪を使って、人気の浅草のペリカンパンを焼き、谷中コシヅカハムのコンビーフや千駄木のカフェケープルヴィルにお惣菜など、上野・浅草・谷根千のグルメが勢揃いのブランチをご用意。

日曜日の朝、多肉植物と本に囲まれたすてきな空間で、下町グルメを味わいませんか?

このイベントは火鉢カフェ設立を目指す、火鉢クラブのクラウドファンディングのリターン(お返し)のイベントとなっております。参加ご希望の方は以下の火鉢クラブのクラウドファンディングのサイトからお申し込みください。


 

申し込み締め切りは7月31日

詳しくは以下のチラシを参照。


能登半島「湯宿さか本」で焚き火を囲んで料理を楽しむ会1泊2日参加者募集!

2017-07-11 17:47:36 | Weblog

先だって告知した「火鉢クラブ」のクラウドファンディングのリターンとして、おすすめの宿、能登半島は珠洲の「湯宿さか本」に泊まって、庭でスウェディッシュトーチをやりながらキャンプ料理を楽しむ1泊2日&能登珪藻土七輪工房見学会というプランを作ってます。

9月9日(土)10日(日)1泊2日。

画像に含まれている可能性があるもの:家、木、植物、屋外

現地集合交通費別で30000円のプラン(火鉢クラブ会員証とこれまでに出した冊子2種類も付きます)と、ちょっとお高めなのですが、さか本の料理は石川富山ミシュランの一つ星。今回のプランは通常の宿泊では食べることのできない、庭で焚き火しながら、鉄鍋やパエリア鍋などつかって作るキャンプ料理に珪藻土を掘るトンネルで寝かせた能登ワインを合わせる火鉢クラブだけの企画。広ーい庭で満天の星を見上げながら、火を囲んでわいわいやりましょう!雨が降ったら、室内の囲炉裏に炭火を入れて。濡れ縁にはミニ七輪を置いて焼き物を。なので雨天決行です。

画像に含まれている可能性があるもの:テーブル、植物、室内 


写真はすべてさか本の風景。

お豆腐とお蕎麦はさか本の定番。ゆるく固めた自家製のお豆腐は、翌朝、水を切って野菜を入れ、揚げたてのがんもどきに。今回、夜はキャンプ料理ですが、朝はこのがんもどきの入る朝食が出されます。

画像に含まれている可能性があるもの:飲み物、食べ物、室内 

 

リクライニングチェアが見えるのはチェックインアウト前後でも使えるゲストハウス。窓の外の池はモネの絵のようです。宿の裏の竹林はお風呂の一枚ガラスの大きな窓から眺められます。

画像に含まれている可能性があるもの:座ってる(複数の人)、植物、木、室内、屋外 

な〜んにもない宿と自称するさか本は至れり尽くせりの宿ではないし、食事の時以外は放っとかれるし、アメニティとかなんにもないけど、ほかにはないものがあります。
みなさま一緒に行ってみませんか?

昼間には能登の珪藻土七輪の工房の見学会を予定しています。

この時期、珠洲では奥能登国際芸術祭も始まっています。9日夜には市内でキリコ祭りのキリコの巡幸もあるよう。夏の終わりの大人の焚き火会。いかがですか?ちなみにANAの東京ー能登便は早めに取れば、特割で往復で2万円以下に。金沢から珠洲までは高速バスで2時間半!

一緒に、満天の星の下で火を囲んで美味しいものを食べましょう!

申し込みは以下のクラウドファンディングのサイトからお願いします。

「2020年冬火鉢カフェ設立を目指す火鉢クラブプロジェクト」クラウドファンディングサイト

バス停から「湯宿さか本」までの道はこんな緑に囲まれた一本道。

9月頭はまだまだ残暑。一緒に避暑に行きましょう!

 
 
 
 
 

2020年冬に「火鉢カフェ」オープンを目指すクラウドファンディング御協力下さい!

2017-07-11 17:02:52 | Weblog

7年前から「火鉢クラブ」と称して、火鉢を囲む火鉢カフェや炭火で焼き物をする七輪カフェなどのイベントをやってきましたが、いよいよ、常設の「火鉢カフェ」設立を目指して動き始めようと思います。

これまでは収益を考えず、ボランティア的に活動をしていたため、資金を積みたてるに至っていませんでしたが、今回、まずクラウドファンディングを行ってスタートアップ資金を集め、それを元に、さらなる有料イベント、会報誌の販売、オリジナルグッズの販売などを行い、活動を周知し、資金を積みたてて行きたいと思います。

クラウドファンディングのサイトはこちら!

あと20日で終わりなのに、まだ目標金額の15%しか達成できておりません。何卒、情報拡散、ご支援お願い致しまする〜!

グリーンファンディング「2020年冬火鉢カフェ設立を目指す火鉢クラブブロジェクト」


どんな火鉢カフェを作りたいか、詳しくは以下の火鉢クラブのブログをご覧下さい。

火鉢クラブブログ「こんな火鉢カフェを作りたい!」

火を囲んで和める場所を作るだけでなく、情報発信の場として、いろいろなイベントを企画したり、子どもが無料で勉強を教えてもらえる「火鉢寺子屋」を店の片隅のテーブルで行ったり、老若男女誰もが気軽に立ち寄れる場所が作れればと思います。詳しくは、上記のブログをご覧になって下さい。場所は「上野駅から夜汽車に乗って」というこのブログのタイトルの上野駅からも歩いて行ける場所、私が長年住んで来た、上野公園や隅田川から歩ける範囲を考えています。

クラウドファンディングのリターンには、火鉢クラブの七輪カフェで使っている能登半島珠洲市の珪藻土切り出し七輪のほか、能登半島珠洲の料理にミシュラン一つ星のついた「湯宿さか本」での焚き火を楽しみながら能登の味を味わう1泊宿泊プラン、上野にあるおしゃれなブックカフェでの七輪でサマーブランチの会などを用意しています。詳しくはこちらのブログでもひとつづつ紹介して行きますが、まずは、クラウドファンディングのサイトを見て下さい!

グリーンファンディング「2020年冬火鉢カフェ設立を目指す火鉢クラブブロジェクト」


 

 

 

 


七輪カフェ in 千駄木ケープルヴィル 残席あります!

2016-02-11 00:44:29 | Weblog

2月13日(土)開催(昼、夜2回)の
「七輪カフェ〜Carcoal Varentine」@千駄木ケープルヴィル

★七輪でチーズフォンデュ&フォンダンショコラでバレンタイン。フォンデュ用のパンを七輪で焙って。

★パン以外の焼き物サイドメニューも用意する予定です。

★焙烙(ほうろく)とお茶も置いておきますので、ご自由に焙じて、お土産にお持ち帰り下さい!

◇炭チャージ500円とケーキとチーズフォンデュ&パンで1500円。参加費は合計2000円。

▼お申し込みはケープルヴィルか http://capleville.com/
 この火鉢クラブのfacebookへメッセージ、
 もしくは火鉢クラブのメールdejima2010@gmail.comまで。
 お名前、人数、昼夜どちらかの希望、ご連絡先を書いてお申し込み下さい。

 

お待ちしていま〜す!

今回、バレンタイン企画で、焼き物感が前回より少ないですが、ちゃんと炭火の楽しさを味わっていただけるよう、焙烙体験できるよう準備しておきます。


地方再生幻想〜地方物産のセレクトショップ(一部加筆・色かえ部分)

2016-01-24 18:04:06 | Weblog

夕方、昨年末浅草にできた日本中の物産を集めた商業施設に立ち寄った。今夜は雪が予想されたからか、まったく混雑しておらず、余裕を持って見てまわれた。

東京五輪にむけた観光立国ブームとか、地域振興とか、クールジャパンとか、そんなこんなで、ここ数年の間にこうした商業施設がいくつも誕生したが、五輪までまだ4年を残して、こうした施設も曲がり角に来ていると感じる…。そんな私は間違ってんだろうか??

上記で「地域振興」という言葉を使ったが、こうした商業施設が地域振興に寄与することはあるのか…。以前は私もこうした方法はありかと思っていたのだが、結局、売れるのはそのテナントに入っている店だけであり、その店はすでに地方で成功していて、極端なことを言えば、これ以上宣伝せずともやっていける店ばかりである。舶来ものと老舗ばかりを集めたテパ地下となんら変わらない。地方物産という言葉に付加価値があり、消費者に訴求するから、新たな商業施設の一形態として採用されているにすぎないと思う。

それに、全国からちょびちょび集めたこうしたセレクトショップは、いまや不動の人気を誇る北海道物産展のような爆発力とインパクトに欠ける。イベントとして短期決戦という緊張感も無い。
さらに、観光地という一見の客の多い立地では、それぞれの商品も漠然とした印象しか残せないのではないだろうか。

さらに根源的なことを言えば、食べ物は地産地消がいいと言いながら、都会までパッケージングして(時には添加物を付加して)、送料かけて運んで来ているという矛盾…。あまりのテナント料の高さに、それって誰が潤ってんだ…とも思う。聞けば、店舗によっては100万円単位のテナント料になるらしい。それが商品価格に乗せられていると思うとクラクラする。もちろん、デパートやスーパーとて同じことだが、それも含めて、流通というものが生んだ矛盾について考えさせられる。

地方のものがその地方でちゃんと消費されれば、地方の経済もそれなりに廻るはずで、地域振興など必要ない。そうならないのは、地方に進出した大企業の商品が地方の需要を奪ったからだ。全国展開する大手スーパーマーケットに並ぶ野菜は、地元産のものも無くはないが、多くは、よその大規模生産地からトラックで運ばれて来たものだ。

大企業が作るバラエティと利便性に富んだ加工食品の魅力に抗えなかったのも事実だ。今ごろになって、地方の小さな菓子メーカーの素朴なお菓子に注目したりしているが、もはやここまで大量生産大量消費の仕組みが盤石になっては焼け石に水の感もある。

地方の人々が地元のものを買わなくなったせいで、都会で売らないとやっていけなくなっているのが今だ。そして、都会の商業ビルのテナントに入り、今度は高いテナント料をとられている。もちろん、都会で宣伝出来たことで成功する店もあるだろう。けれど、それが地元にトリクルダウンをおこすほどの大成功に繋がることはほとんどない(と思う)。結局は選ばれしものだけが潤う。

地方再生の一番の近道は、地方の人達が地元の良いものを自分たちで買うことだ。しかし、中央にいろんな形で吸い上げられ、収入の減った地方の人々には、地元で伝統的な手法で作られる手間のかかった商品は高嶺の花となっている。

でも、地方の年寄りって、年金溜め込んでたりするんだよね。そういうお年寄りに言いたい。みなさんが率先して地元の現役世代の作る生産物を買うべきです。年寄りよ大志を抱け。墓には持って行けないお金。最後に地元のために使ってはいかがでしょう。

地方の小さな商店街がシャッター商店街となり、車の運転ができないお年寄りが買物難民になっているとも聞きます。やはりここは地元密着の個人商店が集まった、歩いて行けて、御用聞きにも来てくれる地元商店街の新たな形が模索されるべきなんじゃないでしょうかね。

とはいえ、東京で地方のいろんな食べ物や工芸品を手に取れるのは嬉しいことでもある。テナントのお店の方が潤うなら、これもこれでいいと思う。言いたいのは、くれぐれもそれがその地方全体の再生につながるとか考えない方がいいということで、そこに補助金とか出さないほうがいいんじゃないかってことだ。みなさんはどう思います?


何だか変だ〜SMAP独立を助けるSEALDsは現れないのか

2016-01-20 04:17:11 | Weblog

SMAP騒動は、月曜夜のテレビ緊急会見でピークに達した。お通夜のような異様な雰囲気の会見だった。苦渋を浮かべ、憔悴して「謝罪する」4人。もはやSMAPの解散などどうでもいい。見ていた人はまた別の不安に襲われたはずだ。木村拓哉を除く4人は今後、これまで通りの芸能活動ができるのか…、まるで針のむしろの上を歩くような日々が始まるのではないか…。

テレビやスポーツ新聞など大手メディアを見れば「解散回避」に安堵する声が多い。しかし、ネット上に溢れる個々人の声は、4人の今後を憂うものがほとんどだ。会見を見た視聴者に限って言えば、評判を落としたのは事務所のほうであり、また、事務所に残留の意志を示しているとされた木村拓哉のほうではないだろうか。

今回、独立騒動の背景にSMAPマネージャーと事務所側の確執があることはすでに報じられていた。インターネットを日常的に使う人はほぼ、こうした報道に触れたはずで、決してSMAPのメンバーが独立を”画策した”というようなものでないことは分かって、この会見を見たはずだ。

そんな中、木村拓哉一人だけが謝罪の言葉を口にしなかった。さらには、「ジャニーさんに謝る機会を木村くんに作ってもらい…」という草なぎ剛の発言。これ美談みたいになってるけど、よく考えたら、かなり感じが悪い。悪いことしてないのに、なぜ事務所に対して謝らねばならないのだ。なのに、謝ることを勧めた”木村くん”だけが”前向きな”表情で胸を張っている。この1対4の構図を見て、4人の方にシンパシーを感じない方がおかしいのではないか。うがった見方をすれば、4人はこの会見を逆手にとって、わずかながらでも自分たちの正当性を示そうとしたのではないかとさえ思える(考えすぎなんでしょうけど)。

私からすれば、事務所に不利に働くとしか思えない会見を事務所側はなぜやったのか…。

視聴率は30%を超えた。善かれ悪しかれ話題となることが芸能人には大切というなら、最高のパフォーマンス。どうせ、日本人はすぐになんでも忘れるとお思いか…。もしかしたら、ネットでは溢れている4人への同情の声も、リアルでは微々たるものなのか…。

まあどちらにしろ、4人のあの暗い表情を見てしまったら、しばらくの間はSMAPを色眼鏡で見てしまうことは避けられまい。テレビで彼らを見かけるたびに、中居くんこれだけたくさんMCやってて、ひな壇芸人より給料安いんとちゃうか?とか、草なぎくんの主演もこれが最後か…とか、わ、今、キムタク視線そらさなかった?とか、4人の間にくすぶるわだかまりや不満の空気をちょっとした仕草や表情の中に嗅ぎ取ろうとしてしまうに違いない。面倒だ。

もちろん、そんなものは妄想なのである。それに、プロ集団のSMAPはそうした私情は表に出さず、これからもいつも通りに番組を盛り上げてくれるに違いない。しかし、そんな彼らがあれだけ悲壮な表情で会見に臨んだのである。今回ばかりは、先が読めない。


それにしても、何だか変な感じだ。

「解散騒動」が一般紙の一面を飾り、国会で総理大臣が「解散しなくてよかった」と発言するほどのカリスマグループでも、現在の事務所から独立すれば「干されて」しまうのだろうか? 芸能界やメディアが彼らを「干した」ことに対して、ファンは黙ってしまうのだろうか。徐々に露出が少なくなって行けば、彼らのことも次第に忘れて行ってしまうのだろうか。

「解散しない」ことになった今、それはもう分からない。

さすがにSMAP解散でSEALDsのような動きが起こるとも思えないが、今後、もし再び、不穏な何かが起こった時には、独立したメンバーを支えたい!というSEALDsばりのファンが、J事務所やテレビ局前に大挙しちゃったりするといいなあ…なんて思うのだった。

 

 



ドラマ「坊ちゃん」を見た。原作に忠実な方が今っぽかったのに…

2016-01-04 01:11:18 | Weblog
二宮和也主演のドラマ「坊ちゃん」を見た。
ドラマが原作と違ってるのは別にいいと思うのだけど、今回のドラマ「坊ちゃん」の結末がどうなん???と思うのは、今という時代に「坊ちゃん」をやるならば、こうじゃないだろうと思うからだ。漱石の時代から100年を経て、その間に終戦を体験しても、日本人の事なかれ主義や長いものには巻かれろや、ものごとを忖度してすぐ自主規制する性質は変わらず、いや、どんどんそれは大きくなって、世の中は閉塞しているのだから、原作に忠実に描いた方が、今やる意味があるだろうと思うのだ。

もうひとつ思ったのは、この小説は、言葉ならば伝わるが、映像化すると伝わらないことが多すぎるということ。例えば、「フランネルの赤シャツを着ている」という言葉。読めば西洋かぶれそのものだと分かるが、映像にすると、ただ赤いシャツを着ているだけで、フランネルを夏にも着ているニュアンスが伝わりづらい。現代の私たちにとっては珍しくも何でも無い素材や物が、当時としてはそれほど珍しかったということを分からせるための演出が必要だ。

漱石が描こうとしたものが日本の無理矢理な近代化への憂いであり、ただただお上の勧めるものに従順なだけで批判精神の無い日本人への憂いであるのだとしたら、このへんはもっと極端に描いてもよかったのではないかと思う。

このところ、私は、夏目漱石の「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」は田中康夫の「なんとなく、クリスタル」と似ているんじゃないかと思っている(逆か)。多分、橋本治の書いてたことをきっかけにそう思い始めたんじゃなかったかと思うが、記憶は定かでない。

明治維新で西洋かぶれになった日本人を揶揄しながら、日本の形ばかりの近代化を憂えた漱石と、バブル前夜、西洋のブランドものにかぶれ、すべての形あるものを記号化してしまったポストモダンの日本人をカタログ的な注釈付きで描いた田中康夫。「吾輩は猫である」にも出版社がつけた注釈がたくさんついてるが、田中康夫はこれを知ってて、真似したんじゃないのか?(このへんは実際にはどうなんでしょう?私は聞いたこと無いのですが、そう言われてたりするんでしょうか?)

夏目漱石研究の第一人者である江藤淳が、当時、評価の別れた「なんとなく、クリスタル」を絶賛したというのも、今思えばうなづける。漱石が憂えた近代日本の未来は、田中康夫が描いた時代を経て、今こんなことになっちゃっている。

元日の朝日新聞に掲載された岩波書店の一面広告「漱石は100年後の未来に何を見ていたか」。漱石のいくつかの作品から今まさに教訓としたいような言葉が抜粋されていた。
「坊ちゃん」からは以下の文章。

『考えて見ると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。』

やっぱり、今「坊ちゃん」をドラマ化するのなら、原作に忠実にやってほしかった。

「坊ちゃん」(青空文庫)