橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

脱原発考:しぶとい野田さんに思う・その1『脱原発依存』『国民生活』…一般名詞の意味を考えたい

2012-08-29 22:35:00 | 東日本大震災

今日の東京新聞のこちら特報部、「首相 世論見て見ぬふり」。

もちろん脱原発ゼロを求める世論のことです。27日に放送されたNHKクローズアップ現代でも、出演した野田さんは「様々な立場の意見を聞いていきたい」と発言しただけだったみたいです。東京新聞では2面でも「首相真意まだ見えず」と野田総理の「原発ゼロ」に対する態度がはっきりしないことを指摘。脱原発にはっきり舵を切ろうとしない総理を暗に批判しています。

先日の市民団体ほかとの面会でも、予想通り「話し合いは平行線」でした。総理にとってはハナからそこは「話し合いの場」などではなく、「自分の話を聞いてもらう場」だったようです。面会前、野田さんは「自分の意志が伝わっていない。」と語っていました。

野田さんが伝わっていないという「自分の意志」とは、彼の言葉から類推すれば「当面、原発ゼロは目指さない」ということとしか思えないのですが、当然ながら、彼はそうは言いません。そうは言わないから、勝手な類推でものを言えないメディアは「首相真意まだ見えず」ということしか言えません。そして、はっきりものを言わない野田さんにメディアや脱原発派の人々が焦らされているうちに、彼(ら)は徐々に、「自分の意志」をいろんなところに潜ませ始めています。


【『脱原発依存』という言葉】

例えば「脱原発依存」という言葉。

野田さんが使い始めたのはいつごろからだったでしょうか。「脱原発」が可及的速やかに原発ゼロを目指すのに対し、「脱原発依存」は原発だけに依存するのはやめるけど”ゼロにするわけではない”ということ。突然この言葉を使い始めたことに、私は野田さんの「原発やめたくない意志」を見た気がしました。最初は「脱・原発依存」ではなく「脱原発・依存」に聞こえてしまい、「え?“脱原発に依存する”ってどういうこと???」と、一瞬頭がこんがらがりそうになりましたが、ある意味、この言葉の目くらまし度の高さを象徴しているともいえます(いえないかww)。

すでに、メディアの一部はこの言葉に目くらまされています(確信犯のところもあるかもしれませんが)。昨日行われた脱原発に関する国民の意識調査を分析する専門家会合は、「少なくとも過半の国民は原発に依存しない社会の実現を望んでいる」と結論づけました。これを受けて、いくつかのメディアは見出しで【「過半数の国民」は脱原発依存】とか、【「国民の過半、脱原発依存望む」検証会合で総括】とか書いています。

本当にそうでしょうか?調査の数字を見れば、“過半数の”国民が望んでいるのは「脱原発依存」ではなく「原発ゼロ」です。2030年における原発依存度は、政府の意見聴取会のアンケートでは81%が原発ゼロを望み、政府の意見公募でも87%がゼロ希望でした。討論型の世論調査では原発ゼロ派は過半数をわずかに切りましたが、それでも46.7%と限りなく過半数に近い数字です。

正しくは【国民の過半数が「脱原発」を望む】ではないのでしょうか。

言葉の専門家であるはずのメディアが、そこに突っ込みを入れないのはいかがなものでしょう。こうして、ものごとはなし崩しになっていくのになあ・・・。

そういえば、「反原発」という言葉もいつのまにか使われなくなりました。その運動チックな匂いや妥協を許さない頑な感じが嫌われたんでしょう。私自身もある時期から、脱原発と言った方が原発を無くすことに拒否感持つ人が減るよな、なんて思い、意識して「脱原発」を使うようになっていました。でも、反対勢力は、そんな私たちの配慮や逡巡を利用して、さらに言葉の骨を抜いて行くんですね。

なんだか、再び「反原発!」って言ってみたくなりました。でもまあ、そこまでいきり立つこともないかなと思います。やはり「反」という字のニュアンスに反発を持つ人はいるし、二項対立的な感じは対立のもとですしね。あくまでも「脱原発」で。

 

もとい、「脱原発」と「脱原発依存」は似て非なる言葉だと思います。

 政治の言葉には、一般名詞なのをいいことに、どうとでもとれる言葉がよくあります。「脱原発依存」も、どこまで原発が減れば依存を脱したかは明確になっていませんから、その幅が太くなるかも細くなるかも状況次第です。「日米同盟」という言葉も、一体どんな関係なのかがいまひとつよくわからないまま状況によって使い分けられてる気がしますが、「脱原発依存」もそのくらい大きな問題をはらむ一般名詞なのではないでしょうか。


【『市民団体ほか』という言葉】

そういえば、先日の「野田総理と市民団体ほかの面会」では、官邸前に集まる数万人の中から、代表としてしかるべき団体の主催者などが官邸に招かれましたが、私はこの「市民団体ほか」もちょっと気になりました。

官邸前のデモには市民団体もたくさん集まっていますが、このデモが今までと違うのは、団体主催ではなく、ツイッターなどの呼びかけで、組織化されない人々が何万人も集まっていることです。もちろん官邸内に全員入ることなどできませんし、野田さんも官邸の外に出て行って脱原発派を喜ばせることなど決してやりたくはなかった。なら、代表を官邸内に呼ぶしかありません。そのときに、多くのデモの人の中から、市民団体の代表やツイッターを始めた人を呼ぶのは妥当な考えではあります。そして、官邸も配慮して「市民団体”ほか”との面会」としたんだとは思います。でもやっぱり「ほか」は「ほか」。人数から考えれば「”ほか”と市民団体との面会」が正しいのです。

官邸が「市民団体ほか」という言葉を使う時、これまでとはちょっと違う次元に入りつつある現在の脱原発運動を、想定内の「市民運動」の枠内にとどめておきたいという思いも、無意識かもしれませんが、働いているような気もするのは考え過ぎでしょうか。

そういう意味で、現在の祭りの縁日のような官邸前デモは、永田町やその周辺の人々にとって想定外の理解不能の不気味なものに映っているかもしれません。敵対勢力に対しては、なるべく意味不明、正体不明、理解不能な存在でいた方が闘う上では絶対に有利です。この状況をいかにわけの分からないものにして行くかが、脱原発実現に近づく道ではないかと思うほどです。とらえどころのない、ある意味わかりにくい脱原発デモ。誰が首謀者かもわからない。それでも日々人数は増えていく、まるでアメーバのようなデモ。そんな活動を目指したいものです。なぜって聞かれても、そんな気がするというだけなんですが・・。


【『国民生活』という言葉】

もう一つ、「国民生活」という言葉も曲者です。

野田さんが守りたいという「国民生活」は「お金で買える国民生活(経済)」ということではないかと思います。それは大飯原発再稼働を決定したときの声明からも明らかです。脱原発派の人が原発のない安全安心な世の中を求めているのに対して、野田さんは原発がないと日本経済は立ち行かないと語り、理解を求めます。そもそも原発に対して立脚する場所が違うこの両者の話がかみ合うわけはありません。一方で、この2つの「国民生活」が表す内容は、震災後の日本がどういう国を目指すのかの選択肢でもあり、「脱原発」という問題を考えることは、そんな大きなテーマも含んでいます。

「お金で買える国民生活(経済)」を選ぶ人は、これまでの人生において、ほとんどのものの価値をお金で計ってきた人でしょう。言い換えれば、言葉で説明するよりも、お金の価値で見せた方が分かりやすいと実感し、世の中の価値をことごとくお金に換算して表現してきた人たちでしょう。彼らはなかなか言葉だけで説得したところで納得してはくれますまい。そして、戦後の日本ではこの価値観がかなり根強くはびこっています。現在、ニュースでとりあげられるのも、税金や年金や生活保護や貧困や失業や景気や貿易や為替や…ほとんどがお金の話です。その価値観を超えて、野田さんとどう話し合うか…、財界の経営者をどう説得するのか…。かなり難しそうです。そして、それが難しいのは、脱原発派の人々の中にも、こと原発以外の話となれば、経済が判断の基準となる人も少なからずいるからではないかと思います。

私たちに染み付いたこの価値観を客観化しないことには、この問題には出口が見えてこない気がします。


【そして、『脱原発』という言葉】

脱原発を求める私たちは、脱原発を実現する過程において、また実現して後、本音のところではどんな暮らしをしたいと思っているのでしょうか。抽象的な理念としては語れても、具体的にどんな家に住み、空調はどんな感じで、どんなものを食べ、どんな服を着て、どんな教育を受け、どんな仕事をし・・・となってくるとどうでしょうか。

そして、そのイメージする生活があったとしても、その実現と脱原発は両立するのか・・・?

多分「脱原発」という言葉の先にあるものも一つではありません。

イメージする将来の暮らしの姿は人それぞれでしょう。そんな様々な将来像を抱いた人々や、イメージはないけどとにかく安心安全が欲しい人などなど、いろんな思いを抱く人々が、ひとつ「脱原発」という言葉で集っています。

脱原発をめざす理由はいろいろで良いと思います。でも、闘う時、味方内ではその理由の違いを理解し合っとくことも大切かなあとも思います。


言葉はごまかすためにあるのではなく、

やはり、理解し合うためにあるのだと思いたい。


その2はまた。


「たかが電気」と思いたい。

2012-07-19 20:05:46 | 東日本大震災

「たかが電気」と思いたい。 

今日、猛暑日。NHKのニュースではエアコンを使え使えといって、熱中症が懸念される老人の家を訪ねて取材している。

ひとりは「エアコンの風が嫌いなんだよね・・・」といい
ひとりは「電気代が高いので寝る前1時間しかつけない」という。
お年寄りにとってエアコンは本来やさしくないのである。
なのに、ニュースは、熱中症が心配だからエアコンを上手に使って・・・という。

当面の対応策としてはしょうがないとは思う。
しかし、本当はエアコンを使いたくない人に向かって、「使え」と言うばかりで、根本的な代替案を考えようとはしない。

見れば、お年寄りの住んでいるマンションやアパートは、
今時の厚い耐熱壁に、大きな窓はベランダ方向のみ。
どう考えても風の通りの悪い部屋。これは暑いはずだ。

すぐには無理かもしれないけれど、エアコンを使えと言うのなら、同時にエアコンをあまり使わなくても大丈夫な世の中になる方法にも考えをめぐらせたらどうなのだろう。

現代の、エアコン無しでは暑苦しくてしょうがない建築や町づくりのあり方をなんとかする方法に少しは思いを巡らせるべきだ。
マンション建てる場合はもっと通風を重要視する決まりを作るとか、集合住宅は敷地に必ず緑を植えて共有庭を作るとか・・・。
コストの問題や儲け主義でやってこなかったそういうことを、
考えるべきときなのだ。

そういうことも同時にやってこそ、お年寄りたちに、すぐには無理だからとりあえず今はエアコンをつかって暑さをしのいどいて、と言えるのではないだろうか。

節電を勧めるならば、節電が苦行にならない方法も同時に考えねばならないはずだ。しかし、こと都市計画だの、マンションの計画だのでかい話になると、そんなのもう無理だとばかりに、しょうがないエアコンを使いましょうとなる。結局は電気に縛られた暮し。

本当に思う。私たちは電気に暮しを縛られている。
もはや電気無しでは何もできない。
電力会社とはそんな人の生殺与奪をも握る企業なのである。
一民間企業にそんなものを預けていいものかと思う。
その上、当の電力会社にその自覚は無い。

坂本龍一が「たかが電気」といってバッシングされたが、現在の私たちの生活のあり方が、「たかが電気」と言えないものになっているところが問題なのだ。

「たかが電気」と思いたい。

私たちの暮しが、「たかが電気」とならない限り、こうした矛盾やジレンマは続く。

だから電気を少数の企業に独占させてはいけないのである。
だれでもが発電できて、どこにでもある。
「たかが電気」にしなくてはいけないと思う。

夏の涼しさを電気だけに独占させてはいけない。

今すぐにとは言わない、本当に快適な30年後50年後の都市とはどういうものかを考えながら、ニュースは、節電やエアコンについても発言するべきだと思う。

ちなみに私は、エアコンはまめに止めたりつけたりしているのだが、
特に不便は感じない。あと、図書館とか喫茶店とか公共の場で涼めば、個々が電力使う事もなく、節電になるかなあとも思って、時間に余裕のあるときはパソコンもって流行のノマドしてます。ノマドってなんだよ、不安定な自由業のことじゃんと思ってたけど、みんながノマドしてエアコンつける場所が減るならば、ノマドもいいじゃんと思ったりする今日この頃。

とにかく、電気を使わないで東京電力の収入減らしたいじゃない。
そう思いません?

そして、この蓮の写真のように水辺は涼しい~。
自然の摂理をもっと見直したいものじゃ。

 

 


4月21日「巨大地震を正しく理解する」をテーマに勉強会が行われますin谷中

2012-04-14 20:04:06 | 東日本大震災

来週4月21日(土)13:30より、台東区谷中の谷中コミュニティセンターで、「教えて!東京『激震』のホント」と題した講演会が行われます。前回3月4日に、火鉢クラブが七輪実演などで協力させていただいた防災イベントの第6弾です。

内容は以下の通り。地域住民が主催して行う自主的な勉強会です。講師のご好意もあり、参加費は無料ですので(実費カンパいただけるとありがたいです)ふるってご参加ください。

 

 

 

3月4日(日)みんなで考える「谷中防災コミュニティ」開催のお知らせ

2012-02-25 14:46:02 | 東日本大震災

3・11から1年を前にした3月4日(日)、谷中コミュニティセンターと隣接する防災広場にて、地域の防災を考える会が開催されます。主催は谷中防災コミュニティを考える有志の会。

開催場所の谷中コミュニティセンターは、現在「谷中”防災”コミュニティセンター」への建て替え計画が進んでおり、3・11後の地域での防災のあり方も問い直されようとしています。被災時には区を越境した助け合いも必要になります。谷中だけでなく、周辺地域の方もぜひおでかけください。

関係ない地域の方も、こうした防災コミュニティを考える地域の動きなどありましたら、情報をお寄せ下さい。




9・11から10年、3・11から半年に思う。工夫のないタイトルだなあ。

2011-09-11 21:56:58 | 東日本大震災

 

今日は9月11日。あの911から10年が経ちました。この10年は本当に激動の10年というべき10年間で

その最後の打撃が3月11日の震災と原発事故という想像もしなかった出来事でした。

 

想像もしなかったとは書きましたが、心のどこかで常に恐れていたことではあります。

 

きれいに10年ごとに起こる出来事に、そんなものかと驚いていますが、本当に時代の転換点には、象徴的な出来事が起こるのだと超越者の存在を感じずにはいられません。

 

911が象徴したものは

アメリカの終わりの始まりであり、

金融システムの崩壊の予兆です。

 

旅客機がツインタワーに突っ込んだ映像を見た瞬間は冷戦構造的世界観で、当時は、すわ、第三次世界大戦かなんて思った自分がいましたが、それが間違いである事は、比較的すぐに理解されました。この出来事は、そのほぼ10年前に始まった冷戦構造の終わりのフェイズが完全に終わったという象徴でもあったのでしょう。

 

そして、911以降、時代は10年かけてアメリカの終わりを演出してきました。10年間ごまかしごまかし、少しずつ少しずつ、しかし確実にアメリカは衰退に向かい、今、それが誰にも分かる形で顕在化してきました。この10年はテロとの戦いの10年ではなく、アメリカ衰退への10年だったのです。

 

そして、次の10年目の始まりの年に起こったのが、日本における震災と原発事故です。

 

これが象徴するものは、今、誰しもが口にし始めているように自然への回帰とエネルギー転換でしかないでしょう。現時点で、日本ではまだ原発推進派の抵抗が強く、自然エネルギー転換は遅々としていますが、この10年間のアメリカと同じように、しばらくは行きつ戻りつするものの、多分10年後には、自然エネルギーへの転換の道筋は、誰の目にも明らかな状況になっているのではないでしょうか。

 

とはいえやはり、現時点での世の中を見渡すと、無気力無関心に陥ってしまいそうな脱力感が全身を覆っています。震災後に襲ってきた四十肩の痛みと更年期が近づいて体調が万全でないのもあるかもしれませんが、このところマスメディアの報道を負う気力も出ません。

 

今日、311から半年の日、被災地からの中継はやっていても、原発の問題に突っ込んだ報道特別番組は少ない(TBSは昼間にやってましたね。これは録画を見てからまた)。こんな大惨事が起こっても、肝心な部分はさわらないで、周縁部分ばかりをうろうろしている真ん中がぽっかり抜けた感じのものごとへの対応は、日本という国の特徴なのでしょうか。なんとなく、なんとなく時間だけが過ぎていく。物事は人々の意志を超えて、誰が決定するでもなく進んでいく。この夏の暑さで頭がぼーっとする上に、自分の関わっている実感がまったくなくて、自国の事であるという意識さえも無くなってしまいそう。本当に報道を追いかける気力が湧きません。

 

時代や世の中も更年期なのかもしれませんね。

次代への過渡期だから、世の中の体調も悪いのかも。

 

テレビを見ると、岡本夏生があやまんジャパンに「このバブルの燃えカスが~」と罵倒されて雄叫びを上げていました。ああ、「時代は右肩上がり」という幻想は本当にぶち砕かれたんだなあとしみじみ実感しながら、繁栄の時代というのを自らの過去に抱えてしまった人間は未来をどのように捉え進んでいけば幸せを感じられるのだろうかと考えました。

 

そして、現在の岡本夏生の姿を見ながら、答えはこのへんにあるのかなあとか思ったりもするのです。

 

911と311の話の閉めが岡本夏生?と思わなくもないですが、真面目な話は他のかたがいろいろされていると思いますし、今、時代の節目について語るとしたら、今回の節目は、本当に大きな長いスパンの節目であるから、先を予測する事はかなり困難な作業であると同時に、前時代の先入観を捨てて、全く新しい時代について考える夢と楽しみのある作業でもあるのではないかということだけを言いたいと思います。

 

絶望から、どん底からこそ美しい花は咲くと思いたいです。

 

未来は右肩上がりの拡大再生産の時代ではない事だけは確かだと思います。かといって縮小というイメージともまた違う。数値や図形では表せない、新しいイマジネーションの時代だと思います。見えないものを感じる、数えられないものの価値を測る。豊かだけどゴミの少ない世界という感じでしょうか。

ちょっと抽象的な話になってきたので、この辺でやめときます。

 

10年後の9月11日には笑って暮らしていられるために

今やるべきは、今苦しんでいる人を救う事。

 

突然具体的になって恐縮ですが、政府の復興会議のみなさまは、大きなビジョンは声高に叫ぶのではなく、通奏低音として、具体的な施策のベースにこっそり忍ばせて下さい。大きな目標の達成に向けて、今は具体的な目の前の作業を粛々と指示して下さいませ。そうした作業の積み重ねが、新たな理想的通奏低音に繋がっていくと思います。ベースだけが声高に音色を響かせてもオーケストラは人を感動させる事はできないのですから。

 

脱力の残暑。脱力したまま、ぼーっとした頭で、神経を研ぎすまさず垂れ流し的に書きました。これが、今の世の中の気分を表している気もして、だらりとしたままです。

 

 

 

 

 

 

 


谷中コミュニティセンター建替え計画に住民の声を! 9月10日ワークショップのお知らせ

2011-09-08 12:41:11 | 東日本大震災

東京台東区谷中にある、谷中コミュニティセンターの建て替え計画が進んでいます。3・11の震災もあり、谷中防災コミュニティセンターに生まれ変わるそうです。しかし、どのようなセンターになるのか、近隣住民にその中味はなかなか伝わってきません。行政も、当初は住民説明会を行っていたそうですが、いつの間にかお声がかからなくなったと、近隣の住民の方の怒りの声も聞こえてきます。

そこで、住民の声を反映した設計となるよう、有志が集まって「谷中防災コミュニティを考える有志の会」を立ち上げました。この会は、3・11の震災をきっかけに、「3・11と防災コミュニティを考える集い」を行っています。そして、その第4回目となる9月10日の集いで、コミュニティセンターの100分の1模型を使って、実際、防災コミュニティセンターはどういう形であるべきかを考えるワークショップを開催します。

みんなで検証!建築ワークショップ

     ~1/100サイズの敷地模型をさわって考えよう!

     防災コミュニティセンターのカタチ。~」

詳しいことは以下のチラシをご覧になって、どしどしご参加下さい。

 

驚いた事に、公共的な建物は、納税している住民が使うにもかかわらず、これまで住民の声を取り入れながら造られた建物はほとんどないという話でした。

今回のコミュニティセンターも設計するのは地元業者ではないようですし(入札だからしょうがないんでしょうけれど)、建物を建てる公共事業というのは、その建物が住民にとってどう役に立つかというよりも「景気対策」の側面が強くなってしまっている気さえします。

そういった状況に蟻の一穴を開け、住民の要望の取り入れられた本当に地元の役に立つ公共施設を作っていくためにも、この谷中防災コミュニティセンターを考える集まりに、近隣のみならず、こうした動きに賛同される方も参加され、全国にこの動きを広めていけたらと思います。

この有志の集まりのウェブサイトのURLはこちら。

http://yanakabousai.jimdo.com/

工事中で、まだ9月10日のワークショップのお知らせくらいしか掲載されていませんが、今後報告なども掲載されると思いますので、東京以外の方もご覧になってみて下さい。



6月20日は難民の日 21日に「イラクと東北、難民、放射能、子ども達」緊急トークライブ開催

2011-06-18 10:40:29 | 東日本大震災

6月20日は国連の定めた「難民の日」です。

毎年この時期には難民映画祭などのイベントが開かれています。

通常は、「難民」といえば、海外途上国の戦争避難民であったり、

政治的な理由や貧困による難民であったりするわけですが、

今年の日本にとっては、意味がちょっと違ってきました。

津波による大規模被害やいまだ続く原発事故による放射能汚染のせいで

私たち日本国民自身が国内避難民となっているからです。

これまで、海外の難民支援に向かっていたNGOも

3月11日以降はのきなみ東北に支援に向かいました。

 

イラクで小児がんの子どもたちへの医療支援を行っている

JIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)http://www.jim-net.net/もそのひとつです。

イラクで白血病などの子供たちの治療を行いながら、

そこに劣化ウラン弾による被爆の可能性を見て調査を続けてきた彼らにとって

今回の福島の原発事故は、より重い事実としてのしかかっています。

アメリカ政府や国連はがん発症への劣化ウラン弾の影響を認めていません。

しかし、イラクで小児がんの子どもが増えているのは事実です。

では、何が原因なのか・・・。怒りをどこにぶつければいいのか・・・。

こうした状況を将来の日本で生まないために私たち日本人はどういう行動を起こせばいいのか。

そういう思いの中、国際支援をしてきたNGOは、

今あらためて自分の足下日本の現状を考える事から世界を見ようとしています。

 

そんななか、このJIM-NETのメンバーとパレスチナの子供達を追うジャーナリストが、

トークライブを行います。

 

難民の日に考えよう

「イラクと東北、難民、放射能、子ども達」緊急トークライブ

日時:6月21日(火)(難民の日の翌日ですお間違えなく)
   18:30開場 19:00スタート

場所:高田馬場 鉄板焼き「大都会」B1ミーティングルーム

   高田馬場駅を下車。早稲田通りを中野方向へ3分歩くと右手に西友があり、向かい側です。
   http://daitokai.net/access/index.html

定員:20名(+地べた席10)先着順です。(まだ空きがあるそうです)
参加費:無料
申込はmaki_sato@jim-net.net
03-6228-0746
当日はユーストリーム中継します。詳しくはHPで告知します。
http://ustre.am/zVLv
当日参加できない方でも、質問等メールで送ってください。

以下のテーマでトークを繰り広げます。

1.家を失い避難する人たち

  パレスチナ、イラクの難民と、東北の避難所から考えたこと

2.放射能汚染
  イラクの劣化ウラン弾と福島原発

3.子ども達の未来
  ガザの子どもたち、イラクのガンの子ども達、そして、日本の子ども達は?

詳しくはこちらのページをご覧になり、ふるってご参加ください

http://www.jim-net.net/news/info/2011/06/post-58.php

 


政府とメディアと国民の不安 その2~<3・11>を語り合う会に行った~

2011-06-06 10:21:19 | 東日本大震災

昨日、3・11を語り合うという集まりに行った。

 被災地に行った方の現地の状況報告、被災地出身の方の話、また東京での被災状況など報告があり、今後の地域の防災について語り合おうという有志の会だった。

参加者は、実際に現地に行った方、話を聞きたい方、メディアの方など様々だったがその中で印象に残ったのが、幼稚園ママの話だった。やはり、ちいさい子供を持つ人は、今の放射能汚染の状況に敏感だ。当然だと思う。しかし、状況はそうそう簡単でもないようだ。

何か言いたいことをと問われたそのお母さんは、堰を切るように、こういう話は、お母さん仲間、ママ友の間ではできなくて苦しいと訴えた。

例えば、幼稚園で給食が出るが、食材について心配な方は、お弁当を持たせて下さいと先生の方から連絡があった。しかし、実際にお弁当を持たせたのは、そのお母さんだけだったらしく、後で幼稚園の先生から、やんわりと「お弁当はお宅一軒だけでしたよ」と言われたそうだ。別にダメと言われたわけではないが、彼女はプレッシャーを感じた。それに、一人だけお弁当を持っていった自分の子供の幼稚園での様子を考えるとちょっと心配になったという。


お母さんたちの間では、放射能汚染に対する不安もある反面、いや不安の裏返しなのか、もうこの話はしたくないという空気があるらしい。例えば、持ち家の人や長年その地域に住む人は、簡単に引っ越すこともできないし、放射能汚染の話による風評被害で、その地域の資産価値を落とすということもあり、あまり、東京が危険とは言いたがらないらしいのだ。おたがいそういう空気を察してか、放射能の子どもへの影響が気になっているのにそういう話はタブー視され、危険じゃないと思いこもうとさえしているように見えるらしい。

放射能怖いねという話をすると、どこかでひそひそと非国民扱いされてしまうのではないか、そういって、自粛を促してしまうような空気が社会に広がっている。

まさに戦時中のようだ。

昨日紹介した東浩紀氏のツイッター上では、彼の子どもの通う保育園のママたちは、厚生労働省の配布した安心安全を訴えるパンフに反発しているようだったが、どこもそういう雰囲気というわけではないようだ。

何かどんよりしてしまう。

言いたいことも言えないとストレスを抱えるお母さんたちはその精神的ストレスで病気になりはしないかと心配だ。

これも、原発事故の二次被害と言っていいと思う。


今回の報告でもうひとつ気になった話。

被災地の支援物資配給でよく聞いた話に、全員分ないと不平等になるからと、配られない物資が山積みになっているというのがあった。行政の融通の利かなさが批判され、山積み物資の映像がYOUTUBEに流れた。

しかし、被災地支援に行った人が見たのは、あそこには配られて、なぜこっちにはないんだといって諍いが起こっている様子だったという。避難所暮らしも長引き、多くの人が精神的に不安定になってピリピリしている。普段なら冷静に対応出来ることもできなくなってしまう。そんな中で、物資のちょっとした不平等が、避難所の雰囲気を悪くする。そういう場合には、配りたくても配れないのだそうだ。

ただ、だから配れないとばかり言っていてもしょうがない。そういう中で、不満を抱かせない配布の仕方を考えるのも行政職員の仕事じゃないかとは思う。しかし、一面からだけ見て単純に批判もできない。


そこで考えるのが、東北の人は文句も言わずに素晴らしいという報道を続けたメディアのこと。確かに、東北の人の我慢強さや謙虚な姿勢は本当のことだと思う。しかし、あまりにもこのことばかりが強調され、東北の人をこうした東北人像の枠内に押し込めていはしないか。

彼らの本当の辛さや被害の悲惨さが伝わっていないのではないか。東北の人はそんな自分の辛さを人目に晒す事を良しとはしないと思うが、いい話ばかりをメディアで流し続けるのは、自分たちがそういうものしか見たくないからではないかと邪推してしまう。

そんなにいい話ばかりのわけがない。

私たちが見つめるべき事実とはどこにあるのか。

 平時には不安をあおることを旨とし、しかし有事には大丈夫だ、大丈夫だという。それは国民を舐めてはいないか。



 


政府とメディアと国民の不安 その1~東浩紀氏、朝日新聞に抗議~

2011-06-05 13:52:16 | 東日本大震災

汚染水の問題、土壌からのセシウム検出、首都圏にも現れるホットスポットなど、不安材料は今だ増え続けている。昨日の東京新聞こちら特報部の見出しには、「口先の安全、不信増幅」の見出し。原発事故から3ヶ月近く。いつまでたっても国民と政府のこうした関係は解消されない。そして、マスメディアも少しずつ、大丈夫一辺倒の報道から変化を見せているものの、まだまだ国民の不安は消えない。

 今国民の最大関心事となっている、放射能汚染への不安の解消。

先日ツイッター上で、批評家の東浩紀氏が朝日新聞に抗議するという一件があった。それがまさに、「放射能汚染への不安とマスメディア」について考えさせられるやりとりだったのでとりあげてみたい。

発端は、ツイッター上で朝日の原発問題担当記者が、3月15日の時点で東氏が伊豆に避難したことについてつぶやいたこんなツイート。

うーむ、まあ妻子つれて伊豆に逃げてたくらいなのだから、いまもまだ錯乱状態が続いているのだと思うことにしよう。」(削除されたようなので、東氏側のRTでしか確認出来ず)。

東氏の抗議はこの発言に対するものだが、記者がそのツイートに至ったそもそもの発端は、この記者が5月30日付けの夕刊に書いた以下の記事に東氏がコメントしたことだ。→http://goo.gl/Fm3NU

5月30日朝日新聞より一部引用>>>

東京電力は30日、東電福島第一原子力発電所で作業していた男性社員2人が数百ミリシーベルトの放射線を浴びていた恐れがあると発表した。今回の作業で認められている被曝(ひばく)線量の上限250ミリシーベルトを超えた例はこれまでなかったが、この値を超えれば今後の作業はできなくなる。ただ急性症状が出る1千ミリシーベルトの被曝までには至らなそうだという。(後略) 

 引用ここまで>>>

これに対し、東氏が次のようにツイートした。 

「ただ急性症状が出る1千ミリシーベルトの被曝までには至らなそうだという。」という表現に我が国の麻痺を感じるな…… asahi.com(朝日新聞社):東電の2社員、多量の内部被曝 数百ミリシーベルトか - 社会 http://goo.gl/Fm3NU」。 

そして、このつぶやきに対して、朝日の記者氏は「麻痺とかじゃなく、正しい記述なんですけど。」というリプライを飛ばしたこれによって、東氏に火がついた。

東氏の5月30日ツイートより引用>>>

正しいとかまちがっているとかじゃなくて、急性症状が出る数字をわざわざ付け加えそれより低いことを強調しているところが麻痺って言っているの。溜息。RT @ryomakom: 麻痺とかじゃなく、正しい記述なんですけど。RT@hazuma 我が国の麻痺

posted at 14:54:02

 

文章って正しい誤りだけじゃないんだよ、文脈読めないんじゃ困るなあ……と呟こうと思ったら、このひと、「新聞記者。科学記事を担当する部署所属。なんとこんな時期に原子力安全・保安院を受け持つことに」かよ!w 参った! それじゃあ「安全を強調するつもりで不安を煽る」記事が蔓延するはずだ。

 

posted at 14:56:08

 

(その後のやりとりは、Twilogでこの日の東氏@hazumaの発言とこの記者 氏@ryomakom(現在非公開)の発言を見て下さい。http://twilog.org/hazuma/date-110530) 

 

いくつかのやり取りの後、朝日の記者氏は「錯乱状態」発言に至った。

この記者は、東京の安全性を確信しているらしく、世論に影響を与える立場にありながらこうした行動に出た東氏の行動は、無用な不安を与えるリテラシーがないものだと判断した。

 私は、この記者のほうが間違っていると思う。 

「東京は危険だ」と言ってるわけではない(もちろんホットスポットの話がでてきてる今、完全に安全だとも言えない)。 

将来、やっぱりあの時避難しとけばよかったと後悔することになる可能性がないと、100%の自信をもっては誰も言えない。だからこそ、その対応には個人の意志を最大限尊重せねばならないはずだ。そういうことをこの記者は意識しているのだろうか。

 彼のツイートは現在非公開になっていて確認出来ないが、東氏のツイートで記者氏の発言がRTされている。

東浩紀氏のツイッターTLより引用>>>

このひとまだ言ってるんだ。RT @ryomakom: 「錯乱」と書いたのは礼を失していた。重ねて謝罪します。一方、東さんが伊豆に避難した判断は、東京の現在の放射能レベルをみても、間違っていました。しかも当時、避難の必要がないということは、マスメディアで広く報道されていました。 

posted at 20:56:57

 この嫌みの連投は、つまり喧嘩する気なんでしょうねえ……RT @ryomakom: 国民は正しい情報にもとづき、安心できました。知識人に求められるのは、こういった行動じゃないでしょうか。お二人は、「学者のノブレスオブリージだ」と言っておられました。東さんとは結果として対照的だった。

posted at 20:58:15 

 そういう話ではありません。あなたの見識が問われています。RT @ryomakom: いいえ、喧嘩する気はございません!平に平にご容赦を。@hazuma

posted at 21:14:55 

TL引用ここまで>>>

記者氏は 謝ってはいるけれど、基本的に当時東京が安全であったという立場に変わりはなく、東氏が間違ったことをしたという認識もそのままのようだ。

当時、東京は安全であったという認識に記者氏が立つのは、自らの取材の上での判断なのだろうからまだ認めるにしても、それを強要してはいかんと思うのよ。それが影響力のある知識人であったとしても同じ。「東浩紀が東京から避難しない」というのも、ひとつのメッセージではあるからね。

新聞という公器に、記者が記事を書くとき、彼が取材によって得た情報は、それが全てではないかもしれないという謙虚さを持って書くべきだ。

なのにマスメディアは、国民に不安を感じさせてはいけないという強迫観念にも似た方針からか、違う価値観を持つ人を容認しない(このところ変化も見られるが)。しかし、その「国民に不安を感じさせてはいけない」という政府やメディアの行動基準こそが、現在もっとも国民を不安に陥れる原因となっているように感じる。

 インターネット全盛で、様々な情報を人々が手に入れられる時代。ウィキリークスなどに、日本の外務官僚がアメリカ様に自国政府の御し方を御注進申し上げていることまでも白日の下に晒される時代である。原発情報に関しても、一般の人でも様々な情報が手に入る。もはや何を信じていいかわからない。情報を廻って不安になることはデフォルトな時代なのである。それを自覚している人々は、もはや最終的には自分が判断するしかないと腹を括っていると思う。国民がそこまで真剣になっている状況で、いくら「安全です」「こっちの情報のほうが正しい」とバカの一つ覚えのように訴えたところで、国民から「バカにすんな」と言われるのがオチだ。

 記者氏のいう「学者のノブレスオブリージュ」は、そういう現代の情報のあり方を理解しないで、専門性を持つ自分たちだけが世の中に正しいことを伝えられるという、時代遅れな奢りになってしまってはいないだろうか。 

 そもそもこの記者が特別扱いする、知識人の行動とか、専門性ということも、今回の原発事故によって、その学者の立場がデータの読み方や説明の力点を変えてしまうことがあからさまになった。そういう、目の前で起こっている事実を直視せずして、知識人のあり方や専門性を語るのは本末転倒だろう。

政府やマスメディアが掲げる2大錦の御旗。

1)「国民を不安に陥れ、パニックを起こさせてはいけない」

2)「俗説を排せ、専門性を重視せよ」

 一見、正しそうに見えるこの命題であるが、これが、今回、政治やメディアの行動が、国民の多くから反発を買っている大きな原因だ。

1)は、先程も述べたように、国民の知性を信用せず、大衆は無知蒙昧であるという前提に立った、石器時代の命題である。しかし、さすがに国民はそんなに無知蒙昧ではない。政治家や官僚やメディアは、いわゆる「B層」を想定して、いまだに自分たちが大衆を先導している、灯台の明かりであると思っているのだろうが、今回の震災や原発事故で、自ら考え始めようとしている国民は多いはずだ。自分たちの方が最後尾を走っていることに早く気づいた方がいい。

2) の俗説と専門性についても同様にこれまでの考えは通用しない。何が俗説で何が定説であるか、様々な研究が成されている現代では、意見が対立していることは珍しくない。どっちの立場にたつかで、データの読み方も微妙に変わってくる。そういう意味で、メディアは「ただ専門家に話を聞く」だけではダメなことは自明だ。専門家にもいろいろいるのだから、どの立場で語っている専門家なのかを明示し、一方の立場の学者しか呼ばないならば、自分たちはそちら側の立場でものを言っていることになるということを自覚すべきだ。

 そして、「お上の言う事は正しい」を基本とする記者クラブメディアの発表報道もここらで見直さねばならないのだろう。後から後から訂正が繰り返される保安院からの原発情報や冤罪事件を見ても明らかだ。

あらためて、この記者の書いた件の記事を見てみると、まさに発表報道の典型のような記事だ。発表をそのまま報じているから「ただ、急性症状が出る1000ミリシーベルトの被爆には至らないという」なんて間抜けな一文を入れてしまうのだろう。もちろん、全てのマスメディアの記者がそうだというのではない。特にこの記事が間抜けだったのだと思う。優秀な記者も一緒にしては申し訳ない。

そもそも原発での作業基準は100ミリシーベルトだったのを、今回の福島第一原発対応のために250ミリシーベルトに引き上げているのである。今回はそれを超える数百ミリシーベルトを浴びたのだ。それだけで大問題なのに、この記者の書いた記事を読むと、基準は昔から250ミリだったみたいに見えるし、その上、わざわざ急性症状が出る1千ミリシーベルト被爆にはいたらなそうだと断りは、受け取り方によっては、「急性症状がでないから大丈夫」「死なないから大丈夫」と、数百ミリシーベルトの被爆を肯定しているように見えなくもない。

それに、よく見れば、その前の文章「この値を超えれば今後の作業はできなくなる」もやばい感じ。「困ったなあ、じゃあ上限もっと引きあげないとだめじゃんか」という声が聞こえてきそうだ。いや、記者自身がそう思っているということではない。そう思っているようにも読める文章なのだ。自分がどう思っていようが、記者ならばそう読まれることも想像できねばならない。

東電側が会見で「でも、急性症状の出る1000ミリは超えてませんから(大丈夫)」とか言ったのかなあ?それをそのまま書いちゃったのかなあ、とか想像する。基準がもとは100ミリシーベルトだったことも、字数の関係上、既知の事実だと判断して入れなかったのだろうか。

もちろん1000ミリ浴びてないというのは事実だろう(その後あびてないことが確認)。1000ミリまでは緊急症状が出ないというのも「正しい記述」なんだろう。では逆に、緊急ではなく、数年後にどうなるか、晩発性障害についての「正しい記述」ができるのだろうか。晩発性障害については、被爆線量が低くても出るという話もある。

 もしや、こっちがわからないから、はっきりわかっている「緊急症状は出ない」という情報だけを出したわけじゃあるまいな?まあこれは勘ぐり過ぎですか・・・。

緊急症状がでないのは事実だろうけど、それを書くことにどういう意味があるか考えてる?と聞きかえしたい。あなたはこの一文を入れることで何が伝えたかったの?「そのまんまですけど、なにか?」って言う?言える?

それとも、さっきも指摘した、国民を不安に陥れてはいけないというマスメディアの使命により、「大量被爆した職員は、被爆はしましたが大丈夫です!」ってことを強調したかったのでしょうか。

東氏のツイッターを見ると、朝日新聞とは和解したようだから、この記者氏が未熟でしたという辺りで収まったのか。

この記事と記者のツイートの問題点は、東浩紀氏がツイートの中で指摘されている。http://twilog.org/hazuma/date-110530

上記のツイートを見れば、十分という気もするが、その後私も、一般人の情報収集とか専門性の問題とか、不安の問題とかいろいろ考えたので、この項目もう少し続けたい。


 次回に続く>>> 

 

 

 

 

 


なぜ挙党一致できないのだろうか?素人の素朴な疑問 

2011-06-05 13:01:44 | 東日本大震災

昨日、マスメディアは人のせいにしてる場合かって書いたけど、

じゃあ私だって、どうすればいいと思ってんだと言う事である。

私のブログを見ると、マスメディアの「退陣表明」速報が、

まるで菅さんを退陣させられなかったことを残念に思っているようにとられかねない。

菅さんをいいとは思わないが、退陣した所で良くなるとも思えないのが本音で、

もっと本音を言うと、なんでいい意味での挙党一致ができないのか、

なぜ、小沢一郎を排除し続けるのかということだ。

もう無理なのかもしれないが、政府に小沢一郎も入れて挙党一致しろよ。

それが言いたいことだったりする。いや、もう無理かもしれないけどね。

岩手県選出の小沢一郎を、震災後の緊急時に復興関係の役職につけることは

できないのだろうか?役に立つのではないか?

この緊急時に、そこまで今の執行部が小沢一郎を排除する意味がわからない。

小沢一郎をここで使うと、再び巨大利権を握らせることになるというのか?

今朝、テレビ朝日の番組で、震災後「なんでもやるぞ」といった小沢を

菅総理はスルーして何の仕事も振らなかった、その後の対応を見て小沢は

イライラを募らせたとうような趣旨の内容のVTRを流していた。

それが本当だとしたら、なんで日本がこんなに大変な時に、

このおっさんたちは手を組めないのか。

なぜ、菅さんは小沢さんを受け入れられないのか。

その理由を教えて欲しい。

菅(仙谷)と小沢は手を組めないということを前提に報じているメディアの皆様

この前提が崩れない理由はなんなのでしょうか。教えて下さい。

小沢一郎を閣内に入れることは、そんなに亡国をまねく愚作なのでしょうか?

なぜに、自民党の大連立との話はでても、小沢一派との協力の話はでないのか、

小沢一郎が野党とくっつく画策をしている話はでても、菅さんや仙石さんと

和解する話は出ないのか。そこまでの確執はなんなのか?教えて下さい。

私は、こうしたおっさんたちの不毛な確執や牽制やらに毎日イライラしている。

おっさんとは何でこうなのか。男は女を嫉妬のどうぶつみたいに言うが、

嫉妬や意味の分からないメンツやめんどくさいメンタリティで変な動きを

しているのは男、とくにおっさんたちだ。

そして、今のマスメディアは、そういうおっさんたちのメンタリティに

フィットしているのか、そうしたメンドクサイ政局やおっさんたちのごたごたを

扱うのが好きだ。

だから、なぜ、この緊急事態にあたって、普通に挙党一致できないのか

教えて欲しい。

あと、小沢一郎は復興利権なんて狙ってるのかどうかも。

小沢にまかせると小沢関係以外の企業に仕事が行かないのか、

復興計画が旧態依然とした、土建利権まみれのものになってしまうのか、

それとも違うのか。

私にはよくわからないから、教えて欲しい。

 

素人丸出しの質問ですがよろしくお願い致します。

 


東電の配当ゼロで都バス赤字転落か~戦後終了と千年女王

2011-05-26 11:24:29 | 東日本大震災

報道によれば、都バスって、東電株の配当がないと20億の赤字なんだって。

都交通局のルーツ東京市電気局がやっていた電気供給事業は

戦時中の国家総動員法による配電統制令で国の管理下に入り、

その後それが東電になった。それで大株主ってことらしい。

つまり、東電は戦争の産物なんだ。不覚にもいままで知らなかった。

 

ほんと、あの日戦後は完全に終わったんだなあ。

象徴的な事象がこんなところにもあったなんて・・・。

 

国家総動員法でまとめられた電力事業ならば、

その前は、もっといろんなところで発電事業をやってたということだ。

ならば、戦前のように、電力事業を誰でも参入出来る形に戻せばいい。

いつまでも国家総動員のなごりを引きずっていることはない。

 

あの日終わったのは戦後だけではないかもしれない。

 

東電の5大大株主、信託銀行2社、大手生保2社、東京都の順。

都は東電株3.15%保有で26億円の配当。

仲間で既得権を分け合って美味しい思いをしている風情。

都交通局はこれまで7億円の黒字だったというが、

この配当が無かったら大赤字ということだ。

そもそも事業が成り立っていなかったということじゃないか。

東電がみんなの電気料金を集金したお金は、

原発の下請け、孫請けの作業員のところになんか十分に行ってなくて、

配当となり、仲良しこよしの既得権者の赤字の補填にまわってたんだ。

電気代、高い高いと思ってたけど、

都バスを存続させるためのお金も払ってたようなものだったんだなあ。

そんなことも知らないで、バスはどこまで行っても200円で、

安くて良いねなんてのんきなことを言っていた。バカだったわ。

 

そう。戦後以外にもうひとつ終わってると思ったのは、

株式会社の仕組みである。つまり資本主義。

いや、もちろんすぐにどうこういうことはないんだろうけど、

ここは終わりの始まりなんだろうな。

ああ、まさに資本主義500年の歴史がガラガラと崩れて行く。

 

今この2011年という時点は、

新自由主義が台頭し始め、イランで革命が起こった1980年頃から

30年間の動きの変革期であるようにも見える。

関東大震災や世界恐慌など80年前と同じようなことが起こっているようにも見える。

さらに、資本主義まで行き詰まって、500年周期の変革期のような気さえする。

そのちょっと前、ルネサンスの三大発明、印刷技術、羅針盤、火薬が

新しいものに取って代わられようとしている。

 

人間の知恵を記録する印刷技術は電子書籍に、

エネルギーを司る火薬は石炭、石油を経て、原子力の失敗により、

太陽光など自然エネルギーにシフトしようとしている。

さて、羅針盤は何に対応するんだろうか。

宇宙に行くならロケット技術だろうけど、ちょっと違う気がする。

GPS携帯電話かな。もうどこにいたってつかまっちゃうw

いや、もっと他のものの気もするが、思いつかない。

 

さらにいえば、中沢新一氏が指摘するように、資本主義を生んだ一神教は・・・。

 

2000年の周期の変化も起ころうとしているのだろうか。

なんだか千年女王が出てきそうである。

なんだなんだ。東電が転べば、都バスが止まる・・・

風が吹けば桶屋が儲かるだと思ってたが、

なんと都バスの話が千年女王の話になってしまった。

 

というわけで、

最後に、また身近な話に戻すけど、

車に乗らない身としては都バスは便利だ。

町並みを見ながら町名を聞きながら行く道のりは町を身近なものにする。

町並みの見えない地下鉄は、

自宅と会社をつなぐタイムトンネルのようなものだ。

間の過程を見せないことで同一化させ、地域社会から切り離し、

自宅も会社もそれを囲む社会というものの中にあることを

忘れさせてはいないかと思う。

地上の電車でも、満員電車にもみくちゃでは外を見る余裕も無い。

バスという存在は、そういう意味で、ちょうどいい程度に

世の中を感じさせてくれる乗り物だ。

 

自転車で行く距離も、雨の日等はバスを利用するが、

近隣のお年寄りや通園通学の足になっているのがよくわかる。

都バスが赤字になろうと、こういうものは合理化してはいけない。

いろんなことに税金が使われているけど、

そもそも税金は、こういう人々の生活の基本をなす事業が

赤字になっても存続させるためにあるのだ。

合理化と言う前に、財政の優先順位を見直して欲しい。

税金はまずは、町の人々に届かなくてはいけない。

 

 

 

 

 


今日25日16時~「新寄付税制&NPO法改正実現をめざす緊急院内集会」が開かれるらしい

2011-05-25 10:40:32 | 東日本大震災

震災で寄付という考え方が定着しつつある中、NPO寄付税制の改正案が今国会で審議されています。

震災前から国会に提出されていたのですが、震災でどーなってしまったのか、

しばらく状況がわかりませんでした。これが通れば、寄付による税金の還付が増えるので是非にも通って欲しい法案ですが、今どうなるかの瀬戸際。

ということで、本日5月25日の16時から院内集会が行われるそうです。


詳細はこちら(↓クリック)

【緊急開催!】今国会で新寄付税制&NPO法改正の実現を!5・25緊急院内集会


実は私、自らの所属するとあるメーリングリストの中で、

以前この寄付税制改革について投稿していました。

それも3月11日のお昼前に。

その後、この法案についてフォローしていませんでしたが、

院内で緊急集会も開かれるということなので、この投稿内容をこのブログに再掲します。

震災以前の文章で、今読むと、特に前半部分はややズレた感じもするやもしれません。

でも、そこはお許し下さい。3・11前と後で世の中の何が変わり、

何が変わっていないのかを感じるためにも、そのままの形で再掲します。


以下、その投稿です>>>


「寄付税制改革」の話、私も注目していました。

というのも、私は最近、
日本にもフランスのメルシーみたいな寄付付き商品の文化を作りたいと思い、
寄付付きのメイドインジャパン商品の開発販売の事業を開始したからです。
収益の20~25%を寄付にまわしたいと思っていますので、
この法案が通るか通らないかで、この新しいソーシャルビジネスが
日本で根付くか根付かないか随分状況が変わってしまうんです。
自分のことだけでなく、この法案が通るか通らないかって
今後の社会のあり方を考える上で、実は結構大きな事だと思います。

メディアでも、予算関連法案が通らないと・・・なんて連日やっているけれど
子ども手当の話と、与野党の解散を廻る駆け引きの話しかしないですよね。
この予算関連法案にこの寄付税制も入ってるんですよー。
先日、国会中継を見てたら、玄葉国家戦略担当内閣府特命担当大臣(つまり「新しい公共」担当)が、
寄付文化を日本に根付かせるためにも法案を通させて欲しいと答弁してました。
せっかくタイガーマスクが出て来たというのに、
この法案が通ってくれないと日本の寄付文化への画期的な改革は成し遂げられない!
この「寄付税制改革」「新しい公共」の目玉だと思います。

○○○(このMLの名称)はすでにご存知かもしれませんが、
この寄付税制改革によって、
寄付した額の最大50%が税金から還付されるんです。
例えば、500万円の人が年間10万円寄付した場合、
最大4万9千円還付されます。

これまで、寄付は「所得控除」でしたが、
新しい法律が通れば、「税額控除」になります。
これで還付される額が全然違ってきます。

また、これまで、寄付が控除されるのは、
国税庁が認定したたった190の認定NPO法人に対するものだけでしたが、
新しい法律では、認定元が地方自治体に移り、認定要件も緩和されるので、
最寄りの身近NPOに寄付をして税金を還付してもらう事が容易になります。
これは、大きな改革だと思います。

この辺は、2月13日付けの東京新聞生活図鑑
「税制改正で進むか個人の寄付」にうまくまとめられています。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/seikatuzukan/2011/CK2011021302000075.html

寄付の税額控除という仕組みを取り入れる事で、
自分では使い道を決められなかった税金が、
ある意味、一部自分で使い道を決められるものに変わると
考えられないでしょうか。

なんだかわからない無駄遣いをされるくらいだったら、
身近な使い道の見える最寄りのNPOの為に寄付をして
その税額控除として税金が使われる方がよくないですか?

世の中に必要な仕事をすべて行政頼みにするのではなく、
NPOなどが担って行くための一助になると思います。
また、ひも付き補助金の制限から解放され
NPO自体がやりたいことを思ったようにやれるようになるのです。
私もなんとか、この法律が通ればと思っています。
がんばって、ツイッターやフェイスブックなども活用して
議員に呼びかけてみます。


(後略。引用ここまで)

このときは張り切っていたのですが、この記事を投稿した数時間後、震災が発生。

こういうこと考えている状況じゃなくなってしまったんです。


今読むと、”今は昔”感満載。

とはいえ、考えたらみんなが寄付してる今こそ、これは実現して欲しい所です。

増税するって言ってる財務省としては、反対なんでしょうけど、

もう官主導の世の中から変わっていく時ですだー。


私としては、上記投稿中にもあるように、寄付付き商品のプロジェクトを始めたばかりで、

この寄付税制改正案が通るか通らないかで、このプロジェクトの収支が変わってくるという身につまされた事情もあります。寄付することで赤字になっては、プロジェクトも長続きするわけも無く元も子もありません。


これが、その商品の販売サイトです

「shop出島DEJIMA」
http://dejimajapan.com   


この商品はイラクの子どもの絵を今治タオルとコラボさせました。

このブログでは何度も書いていますが、イラクの医療支援とともに、

メイドインジャパン製品の宣伝にも繋がればと思い始めたプロジェクトです。

絵を描いたのは白血病を克服したハウラちゃんという女の子。

イラクでは湾岸戦争、イラク戦争を経て、現在、小児がんが増えています。収益の20%ほどが彼女のようなイラクの小児がんの子供の医療支援資金となります

(JIM-NET日本イラク医療支援ネットワークに寄付)。



こうした事業をなんとか続けて行けるよう、是非「寄付税制」の国会通過を願っています。
この事業ともども、みなさま法案通過を後押しよろしくお願い致します。


提案:自治体で防災用に木炭の備蓄を

2011-05-25 00:49:08 | 東日本大震災

炭屋の知人と話していて、

「地方自治体で防災用に国内産の木炭とコンロの備蓄をやってくれれば、

国内産木炭の需要につながり、木炭需要が増えるということは、

里山の再生にも繋がるのではないか」という話がでた。

今回の震災の被災地でもある岩手は炭の産地なので、

まずは東北の炭から購入を進めてはどうだろうという話になった。

里山保全にもなるので、林野庁の後押しも欲しいところ。

(以下5行25日午前加筆)

炭屋の儲け主義と思われてはいけないので、加えて言えば、

防災用の炭は、炭屋を通さず、木炭の生産者から自治体が

直接買い上げる仕組みを作るべきだという。

あくまでも里山再生、炭焼き職人保護の立場である。

炭屋を通さないのは、炭相場を不安定にしないためでもある。

(加筆ここまで)

 

そこで、今日、自分の地元の自治体に別件で行く用事があったので、

上記の提案を文章にして、防災課に持って行ってみた。

 

ペラ1枚、提案という程のことでもないのだが、突然訪ねて、はずかしげも無く

以下の文章と「火鉢クラブ」のブログアドレスの書かれた名刺を渡してきた。

 

 

   

      地方自治体による防災用木炭の備蓄のすすめと

      夏休み親子防災教室:「炭火での調理を学ぶ会」の提案

 

 東日本大震災によって、緊急時の電気ガスなどのインフラの脆弱性が露になりました。5月になった今も、温かい食べ物が行き渡らない被災地もあるとの報道が成されています。温かい食べ物、ことに寒い地域において暖をとることは、被災直後の二次的犠牲者を減らすためにも重要なポイントとなります。そして、まだまだ日本国内における大地震の危険性は去っていないのです。

 そこで、震災時の緊急用熱源として、木炭と七輪の自治体による備蓄を提案致します。木炭は長期保存してもガス・液体燃料などとは違い保管が簡単で危険性が有りません。また、自治体による定期的な木炭購入で、炭に使う間伐材等の利用も増え、里山保全につながると思われます。まずは、炭の産地である被災地岩手県の炭を○○区で購入することで、被災地支援という形から、この木炭備蓄計画を始めてはどうでしょうか。

 

ただ、炭の使用については、常に一酸化炭素中毒や火災の危険性が伴うということで、近年、使用が敬遠されてきました。そうして利用が激減したことで、多くの人が正しい使い方を知らないままです。炭は、特に品質の良い国産の木炭は、正しい使い方を知っていれば、極めて危険性の低い熱源です。それを周知するためにも、上記の備蓄のすすめと併せて、炭火の正しい使い方のレクチャーを行えないかと思っています。夏休みに、親子で参加出来る防災訓練として、寺の境内などを利用しての、炭火と七輪による調理教室の開催を提案致します。



提出した文章は以上の通り。


火鉢クラブ主催の夏のイベントとして、災害緊急時に備えた木炭と七輪の使い方教室をやれないかと思っていた所、自治体による木炭備蓄の話が浮上したため、これは是非ともカップリングしてやるべきだと思い、急いで上の文章を書いて、役所の人に持って行った。

今日は、担当者がいないということで、この紙と名刺を渡しといてくれるということだったが、果たして何らかのリアクションはあるだろうか。


対応してくれた職員の方によれば、わが地元自治体でも災害用のコンロと練炭の備蓄はやっているようである。しかし、練炭の原料は石炭である。地球温暖化の問題を考えると、ここは木炭に変えて欲しい所だ。木は二酸化炭素を吸って育つので、燃やした時に二酸化炭素が出ても、プラスマイナスゼロ。排出二酸化炭素量は増えないのだ。職員の方にも、その辺伝えて、里山保全などにも繋がるので是非木炭に変えて下さいと言っておいた。


森林の多い地域では、こうした災害用の備蓄燃料は木炭を採用している所ももしかしたら多いのかもしれない。でも、今日の役所(都内)での話から考えるに、都内の自治体の備蓄は練炭が中心なのではあるまいか。そうなのだとしたら、練炭を採用している自治体のみなさん、木炭備蓄を考えてはいかがでしょうか。


里山保全のために、定期的に炭を購入することを考えるのであれば、備蓄した炭は、防災訓練や自治体のイベント等で利用し、その都度買い替えていけばいいと思う。この際、行政も、いろんな面での炭の効用(脱臭、吸着、熱源、ミネラル補給などなど)にもっと目を向けても良いのではないかと思う。


岩手など被災地の炭を購入する被災地支援という形から始めてはどうだろう。このブログを読まれている林野庁の方、各自治体防災担当の方、いかがでしょう。


また、この提案になにか問題点があれば、そうした指摘も是非おねがいします。



 

 

                       


すばる6月号:中沢新一「日本の大転換(上)」を読んだ。

2011-05-18 21:12:19 | 東日本大震災

中沢氏の論旨を要約するとこんな感じだろうか

(乱暴な要約なので、是非ともあとですばる6月号を読んで下さい)。

 

原発のような原子の内部にまで分け入ってエネルギーを生むことは、

地球生態系の「生態圏」の外側である「太陽圏」に属することである。

つまり地球の誕生、生成に関わる宇宙活動の範囲の事象である。

生態圏の内部に外部を持ち込むことは、

世界(生態圏)を超越した神を設定した一神教と似ている。

そして、社会の外側に勝手に膨張する(膨張し続けなければならない宿命の)市場を

独立させた資本主義も同根ではないか。

 

現在、これら全てを包含する知の形態が必要で、

それに「エネルゴロジー(エネルギーの存在論)」という名まえを与えたい。

 

人類のエネルギー革命の歴史は、「火の使用」を発見したところから始まって、

7次の革命を経て現在に至る。

 

1)火の使用 

2)農業牧畜の発達による都市の形成 

3)炉の発達による金属の鋳造 水力風力のエネルギー利用 

4)火薬発明による「燃える」から「爆発する」火への移行 

5)石炭利用による産業革命 

6)石油発見と電気の利用 

7)原子力とコンピューター 電子の量子力学的動きの利用がもたらした技術

 

現在は、この7次にあたり、一神教的な思想から生まれた原子力、

資本主義ともに限界を露呈している。

 

こんな感じの内容だと理解した(ほんと乱暴な要約ですが)。

 

そして、中沢氏は次のように書く。

その論旨におおむね頷いたのだが、ここだけちょっと引っかかった。

引っかかったというより、どう解釈して良いかわからなかった。

 

「原子力とコンピューターによる「第7次エネルギー革命」をへた資本主義は、

 かつてないほど大きな規模に成長を遂げたけれど、

 ますます生態圏との連絡を絶たれた自閉系へと変貌をとげていったように思われる。

 この経済システムは、いまでは生態圏にとっての毒物のような存在になってしまったが、

 生態圏にはそれを薬物に変える能力はない。」(この5行そのまま引用)

 

 

コンピュータによる革命は原子力や資本主義と連動して毒薬を振りまきはしたけれど、

そこから逃れようとする人々のうめきやあがきのような声も、

そのコンピューターの一部インターネットという仕組みを利用して上げられている。

ツイッターなどは一時、新たな直接民主制へのヒントとさえ思われた

(今のツイッターからはそういう空気は減少したかに見える)。

それは薬物に変わろうとしたあがきではないのか?

それとも、こうしたインターネットの進化は管理社会につながる過程でしかないのだろうか。

ベーシックインカム論などとともに語られるソフトな管理社会を受け入れるという議論

(もう十分管理されてるんだろうけど)などを考えても、

ネット上にあるかに思われる希望はメビウスの輪でしかないのだろうか。

 

やはり、いったんメビウスの輪の外側に出ないとだめなのか?

と、パソコンで文章を書きながら、じゃあどうすればいいんだと思って、

その解決策はすぐには見つからず、

すぐに具体的な行動に関する答えを求めようとしてしまう自分に落ち込む。

 

でも、この解釈は、中沢氏の文章をちゃんと理解していないのかもしれない。

それで最初に「どう解釈して良いかわからなかった」と書いた。

分かる方コメントででも教えて下さい。

 

自然が好きで、といっても、

都会の窓から見た夕焼けでも、小さな庭の草花でも、木漏れ日の露地でも、

それを感じているだけで生きていられる自分は、人間との付き合いが下手である。

そんな私に、単純に自然に帰れなんていう資格もないし、

これから必要となる文明の大転換はそんな単純なことでもないのだろう。

いや、やっぱ単純なのか?

 

「昔に戻る」ことはありえないとどこかで思っている。

人間の進歩に向けての本能とその逆の本能の狭間にあって、

退化することと、ぐちゃぐちゃに絡んでしまった糸を解きほぐすことが、

具体的にどう違うのかが分からないでいる。

どこに向かえば良いのだろう。

とりあえず、来月号の(下)を楽しみにしよう。

 


20ミリシーベルト問題から考える~取材におけるセカンドクエスチョンの重要性と問題解決を求める姿勢

2011-05-11 13:25:18 | 東日本大震災

記者会見やインタビューの映像を見て常々思うことがある。

なんでそこで追求をやめるのだ、聞きたい事はその先ではないか・・・

プリーズ ワンモア クエスチョン!!


昨日見た映像にもこんな場面があった。

フジテレビ「とくダネ」の一コーナー。

福島県の幼稚園や学校の屋外活動を制限する放射線量が

年間20ミリシーベルトとされた問題の是非を問う内容で現地で取材していた。

ツイッターなどではフジテレビでこうした企画が放送された事を評価する声もあり、

私もこの取材を批判するつもりは無い。

ただ、聞きたい事はその先ではないかと思う一場面があった。


福島県では現在、放射線の専門家がアドバイザーという形で、

放射線の許容量についての講演会を行っている。

この日は、長崎大学の山下俊一教授が登壇していた。

そして、20ミリシーベルトの許容を求め、

「我々日本国民は日本政府の指示に従う必要があります」と述べていた。

えーっ!いつの時代の話だよという発言なんだが、

ということは、専門家も20ミリシーベルトを安全な線量だと

思ってないんじゃないか?という疑問が残る。

そう思ったんだろう、講演後、番組のディレクターもぶら下がり取材を行っていた。


その時のやり取り。


山下教授       「20ミリシーベルトは過渡的なレベルだと考えた方が良いです」

ディレクター「分からないという事は安全とも言い切れない?」

山下教授       「もちろん、もちろん。グレーゾーンでどこに線引きをするか

                        ということが今議論されていることです」

ディレクター「福島に住んでいる方は、その値を耐えて下さいという事ですか?」

山下教授       「もし耐えなかったら、逃げなくちゃいけないですね。

                        避難どこにさせますか、あなたは。」


山下教授は、ほら、あなたも答えられないじゃないかといわんばかりに

ディレクターに質問を振って満足げな顔をした。

そのあとも、すこしディレクターは食い下がっていたようだが、

それはナレーションベースのノイズになっていて、山下氏の発言は聞き取れず、

かろうじて一言、「それはご本人の希望によると思います」という部分だけが

オフレベルで聞こえてその場面は終わった。


え~!


そもそも、山下氏は放射線健康リスク管理アドバイザーという立場で、

取材をしているディレクターに向かって「あなたならどうする?」と

逆質問するのは反則である。悪いディベートの見本みたいなもんだ。

政府のアドバイザーという直接に問題解決に関わる立場にいる人間が、

その職務に無い立場の人間に「あなたならどうなんだ」といって黙らせてはいけない。

意見を求める事はいいけれど。


ディレクターも開き直られてひるむことはない。

「それはあなたたちの仕事であって、危険が少しでもあるのならば、

政府に様々な手を尽くして一時避難を検討させるのが使命ではないのか?

なぜ避難する事が無理なのか?なぜそういう前提で考えるのか?」ということを聞いて欲しかった。


20ミリシーベルトを肯定する学者も、明らかにこの基準値が妥当でないことは認めている。

こうなると、知りたいのは、政府がなぜ「避難は無理」と考えているかだ。

避難が必要な人口は何人で、それを日本国内の自治体で分散して適当な時期まで受け入れる

としたらどういう方法があるのか。たしかにとても面倒な作業だと思われるが、

原発事故は人災の部分もある。対策を考えるのは政府の義務ではないか。


20ミリシーベルトという数値には学者も半信半疑である事が取材の中ではっきりしたのなら、

取材者は次の質問を投げかけなければならないはずだ。

この場合なら、「なぜ、避難は無理という前提に立つのですか?」ではないか。

聞き返していたのかもしれないが、そこを放送で使わなければ意味が無いのではないか。


政府が、避難を大した検討もしないで無理と断じているなら批判に値する。

一方、もしそこで、「避難は検討したが、これこれこういう理由で、

耐えてもらうしか無いという結論に達した」という答えが出てくるのだとしたら、

またそこから解決策にむけての議論ができるはずだ。

「無理だ」という理由を政府内だけで囲っていたのでは何の解決にも繋がらない。


質問者が一瞬ひるむのは、

 自らも「避難は難しいかもしれない」とどこかで考えているからだろう。

もちろん、私自身も、住民避難を検討した時に起こりうる困難をいくつも想像出来る。

しかし、それを誰が検証したというのだろう。

途中で起こると思われる混乱にひるんで、多くの人が検討する事さえ自主規制している。

しかし、本当に混乱するかどうかはやってみなければわからないのだ。


多くの報道を見ていて思うのは、問題点を批判するための取材手法ばかりで、

その問題を実際に解決するにはどうしたらいいかという視点が取材者にあまり見られない事だ。

メディアは中立でなければならないという考えに縛られているのだろう。

メディアが中立であらねばならないのは当然だが、

「なぜ問題解決に至らないのか?」を問うことはできるのではないか。


政府や東電は、反対もある中、

みずから推進してきた原子力発電で起こった事故にも関わらず、

批判されれも事情をきちんと説明して理解してもらうという謙虚な姿勢を忘れている。

どう考えても、上記の山下氏は開き直っている。

「あなたならどうしますか?」と突然振って、ディレクターを黙らせる。

それで質問合戦に勝った気でいる。そんな不誠実を許して良いはずが無い。

自分が不誠実でないならば、なぜ避難の道筋をもっと真剣に考えようともしないのか?

取材者はそこを突くべきだ。


とくダネでも、政府の対応の問題点は伝わってきたけれど、

じゃあ、どうすればいいの、という疑問が残る事も事実だ。


そんな被取材者の不誠実を突くために、

記者やディレクターはぐっと踏ん張って、

セカンドクエスチョン、次の質問を忘れては行けないと思う。


記者会見やぶら下がり取材などでは、たいて第一の質問はかわされてしまうことが多い。

しかし、なんとなく慣習的に、記者は次の質問をかぶせて食い下がる事をしない。

記者クラブの記者会見を見ていると、一人一問という暗黙の了解があるのか、

回答に対するさらなる質問はしてはいけないことになっているように見える。

やりとりになるのをあまり見た事が無い(最近の開放された会見ではそういう場面もたまに見かけるが)。

大抵の場合、最初の質問に対する答えは腑に落ちなかったり、疑問が残る事が多いのだが、

それはそのまま放置されている。もちろん時間の制約もあるとは思うが、

一言、的確な切り返しのセカンドクエスチョンができないものかと思う事が多い。


ニュース番組のキャスターがスタジオにゲストを呼んで話を聞く時の様子を見ていても、

最初から答えを想定していて、それ以外の話の展開にはついていけてない。

自分の用意した質問をして、思ったような答えが返ってこないと、

すぐにその方向をあきらめてしまう。

批判する事には慣れていても、問題解決しようという視点が無いから、

批判をかわされた時に、次の質問が出てこないのではないかという気がしてしょうがない。


最近の「朝まで生テレビ」を見ていてイライラするのも、

司会者の田原氏ほか、インサイダーを自認するパネリストが、

自分は政府内部の事情を知っているとか、そういったことを臭わせて

暗黙に実現不可能の線引きをして議論しているように見えるところだ。

問題解決をめざす意見がないわけではないが、

そういう意見が、軽くスルーされたり、途中でつぶされてしまう傾向にあるように見える。

番組は「本当にそれは実現不可能なのか?可能性は無いのか?」という

国民の側の疑問には答えてくれない。


多くのメディアの取材者は、最初に設定した取材テーマ

ーーとくダネの場合は、20ミリシーベルトは是か非かだったがーーに対する答えだけを

求めようとしがちだ。取材によって、その答えは「ほぼ非である」と分かっても

非難するばかりで、その先を求めようとしないのだ。


危ないという答えを出されて、じゃあ、そこに住む人はどうすればいいのか?

その政府の言い分を覆すためには、

批判する先の解決方法の議論に行かねばならないはずである。


原発報道に限らず、これまでの様々な事象におけるメディアの報道の多くが、

加害者側を非難する事に費やされ、被害者側の具体的な救済を模索する方向にいっていない。


意味のあるセカンドクエスチョンができる能力は、

問題の解決を求める姿勢の中でこそ培われるのではないだろうか。