小田嶋隆氏が日経ビジネス電子版で連載している「ア・ピース・オブ・警句〜世間に転がる意味不明〜」を愛読している。
小田嶋氏曰く
「われわれは、小さなウソを容認しはじめている。のみならず、バレない効果的なウソについては、どうやらそれらを歓迎しはじめてさえいる。私たちは、あきらかにどうかしている。」
安倍さんの笑顔のぶら下がりを見るとき、「安倍さんは何か逃げおおせる方法を見つけたのだろう」と勝手に解釈して、その姑息な言葉遣いの周到さを妙に信じてしまっていたが、本当にそれは周到な準備の元に語られたツッコミどころのない発言だったのか・・、あらためて思い直している。
実は、考えなしに、その場限りの嘘を言っていただけなのに、それを突っ込むメディアの側が、勝手に安倍ブレーンの有能さに下駄を履かせ、これほど長期政権を保っている首相のブレーンが考えた答弁なのだから、そんなにアホなことを言ってるはずはないと好意的に解釈していただけなのかもしれない。
だから、下手に突っ込むとしっぺ返しを食らうぞと思って、メディアは身動きが取れなくなるのだが、それは自分で自分の首を絞めているに過ぎなかったのかもしれない・・・。
ひとたび、そのように考えれば、この5000円問題は小田嶋さんの言うように、「ウソに決まってるだろ」で一蹴すべき案件でしかない。
安倍ブレーンが有能であるという幻想は、選挙におけるB層にターゲットを絞った代理店戦略やSNSを使ったネット世論形成や対立勢力へのステルス攻撃などに代表されると信じられてきたが、それが本当に彼らの周到な戦略であったのかはもう少し検証されるべきなのかもしれない。
そして、そのたまたまを、メディアが「なんかすごいぞ」と勘違いして、下駄を履かせた分析をした結果、安倍さんはうまく逃げ果せるに違いないという判断に至ってしまっているということはないのだろうか???
小田嶋さんが「バレない効果的なウソについては、どうやらそれらを歓迎しはじめてさえいる」というのには、こういうメディアのありようも含まれている気がする。
ただ、官僚や政治家にはたしかに頭の切れる人というのがいる。彼らが用意した首相の答弁は最終的には逃げおおせられる完璧なものであるのかもしれない。しかし、そうした東大話法的「責任を回避するための」言葉は、文法的に責任を回避することはできても、その行間から醸されるうしろめたさみたいなものには鈍感だ。言葉とはそんなに簡単なものではない。人々(国民)の多くは直感的に行間に潜むモヤモヤに気づくはずだ。
政治家とは、このモヤモヤを抱える国民によって選ばれた存在であるのだから、メディアはこのモヤモヤを言語化し、モヤモヤ国民を代表して政治家にそれをぶつけるべきなのだが、なぜか、モヤモヤは放置されたままで、メディアは政府の側が発する東大話法の土俵にのっかって、重箱の隅をつつくような言葉の蟻地獄に引き込まれ、結局、なんだかわけのわからないまま、疑惑は疑惑のままで宙ぶらりんとなり、私たちはなんも考えてない安倍さんに結果的にしてやられている。森友しかり、加計しかり。
「間違ったこと突っ込んで訴えられたらどうしよう」という思いが、「なんだかこの答弁おかしいぞ」というモヤモヤよりも先にある。
どうしてこういう世の中になったのかと考えて思い当たるのは、ここ20年くらいの間に、テレビのコメンテーターが「弁護士」ばかりになり、お茶の間にそうした話法が行き渡ったことが挙げられる。学校の授業でも「ディベート」が採用され、自分が信じていようが信じてまいが、言い逃れられれば勝ちみたいな風潮も行き渡った。
価値相対主義みたいなものが幅を利かせた時代は終わったと思っていたが、最近、あることがあって、それはただ定着して、壁の中に塗り込められただけだということを感じた。自分の考えなどあるほうがおかしいと思っている人が意外に多いのだということを実感している。
だから、政治の報道はなにをどうすべきかを語らず、この事象は誰と誰との関係からこう動くということを予測する「政局」報道ばかりになるのだろう。何を自分は正しいと思うかってことを言わなくていいようにするための仕組みが、日本には行き渡ってるんだよなあ・・・。
はたして、安倍さんのブレーンは有能なのかそうでないのか?
昨今の国際社会における日本のダメさ加減を見ていると、政府ブレーンがそれほど有能とも思えなくなってくるのだが、それに騙される国民の程度が低いだけなのかもしれないな。いや、「有能」という尺度が、私が考えるものとは違ってきてるのかもしれない。