後藤さんと湯川さんの映った写真(最初のもの)の信憑性について取材を受けた映像編集者の方が、その取材について抗議されている。このブログは記名ブログではないので、本当に取材を受けられ方(新聞には名前出てます)のものかは確認してはおりませんが、ここに書かれていることが本当だとしたら、由々しきことだと思い、リンクしました。
http://metasan.blogspot.jp/2015/01/blog-post_23.html?spref=tw
このブログの記事が正確だとすれば、取材電話をかけて来た記者さんは、「政府関係者から、合成の疑いがというコメントが出たので、それに沿わない部分は書く必要がなくなっちゃいまして…」と言って、この映像編集者が語った中の「合成ではない可能性をほのめかす部分」は”ほぼ”カットしてしまったようだ。この言葉遣いのどこまでが正確なのか確認はとれないが、これを信じれば、この記者さんは政府の発表は常に正しいという前提で記事を書いているようだ。
この映像編集者さんは「太陽光で撮った可能性は否定出来ない」旨話したが、「太陽光では原則こういう影はできない」という記事になっていることを非難しておられる。一方、記者は「原則」という言葉をつけたことで問題ないと考えているようだ。しかし、それは記者の側の論理で、読む人からすれば、太陽光下の写真じゃないんだなと判断するだろう。
そして問題なのは、もし政府がこの写真が合成ではないと発表していたら、この記者さんは、映像編集者さんの言葉を「太陽光下で撮った可能性もある」という方向で使用しただろうと思われることだ。記者自身が、政府の発表次第で言葉の使いどころも変わるという大変なことを、さらっと言っちゃってるのが恐い。あくまで、このブログの記述が正確ならの話ではありますが。
ほんと、読む側には、その文章の中に込められた「逃げ」のニュアンスや「含み」は分かりづらい。こうした記事を書いたことのある人間ならば、なんとなくその背景にある事情は分かるが、読者にとってそんな事情は関係ないのだ。「原則」とか「基本的に」などという言葉が挟まった文章をよく見かけるが、そんなものはほぼ機能しないことを肝に命じて、記事を書いて欲しいなと思うのである。
と、ここまで来ていうのもあれだが、そもそも、この映像の信憑性に関するニュースにどこまでバリューがあるのかがずっと疑問だった。偽物だったらどうだというのだ…。そう思いながら報道を見ていた。もしこの画像が偽物だった場合、どういう状況が考えられるのだ…そういう疑問がないまま、これは偽物か否かの変な分析だけが続く…。
誰か、安倍ちゃんとか菅ちゃんに聞いてみなよ「これが合成だったら、どうなんですか?合成したってことにどういう意味があるんですか?」。
本物の2S画像を使って脅迫するのと、偽物を使って脅迫するのって、どう違うんだ??違うとすれば、人質がもう亡くなっているのに身代金を支払ってしまう可能性があるということだけではないのか?政府が「合成の疑い」と言ってるってことは、もう人質は亡くなっているかもしれないと考えてるってことなの?と私は一瞬思ってしまった。他の場所にいる2人の1S写真を合成したとしたら、それを一つにすることに意味ある?
ああ、わからない…。私はアホなんでしょうか?
「合成の可能性」を一生懸命取材していたメディアの方に教えていただきたい。なぜ「合成の可能性」がそんなにたくさんニュースの時間を割く程、重要な問題なのか…。
今、湯川さんが殺害されたと思われる新たな映像がアップされたとの報道。まだ真偽は確認されていないが、もはや「合成の可能性」とか言ってる場合ではない。5日前の段階でもそんな場合ではなかったはずだ。だって、去年のうちに拘束した旨のメールがイスラム国から届いていたわけだし。
イスラム国とのルートが有るという中田さんと常岡さんにも連絡来ないようだし、やっぱ、政府、やる気あるのかよ…としか思えない。
こんなとき強い味方であるはずの”有志連合”の方々は協力してくれているのあろうか…と思う。いや、こと中東においては、有志連合は役に立つどころか害悪。集団的自衛権とかもっと害悪。テロリスト虫を寄せつける夜の外灯みたいなもんだ。