八(はち)に拘るエコグリーン石井光暢のブログ

エコグリーン同様ノジマ相模原ライズへのご声援もお願いします!

何ともやりきれない。

2008年04月02日 | To heaven
こんなニュースを見つけました。

何ともいえない感情が込み上げてきます。

おかあさんの心の闇は何故そんなにも深くなってしまったのだろう。

今際のとき、拓海君は何を思ったのか。

おかあさんとの暖かい想い出か。

それとも深い悲しみに落ちていたのか。

愛する我が子を手にかけてしまったおかあさん。今このときに何を考えるのか。

親が子を殺し、子が親を殺す。

あってはならないこと、どうしてこんなことが起きるんだろう。

個人の問題なのか、社会の問題なのか。

それとも時代が悪いのか。

こんなにも悲しい事件が二度と起こらないようにするためにはどうしたらいいのか。

私たちにできることはないのか真剣に考えてみます。



拓海君、生まれてきてくれて有難う。こんなに暖かい詩を残してくれて有難う。
とても感動しました。そして君が亡くなったこと凄く残念です。

天国ではどうかおかあさんとの暖かい想い出に包まれていますように。

拓海君の魂に永遠の安寧が訪れますことを心の底から祈っております。

合掌。





知覧特別攻撃隊

2008年02月27日 | To heaven

先週、鹿児島に行ってきました。↓は桜島、雄大でした。


そして長年の夢だった知覧にある『知覧特攻平和会館』を訪れてきました。


何年か前に小泉元首相が訪れ『小泉首相が泣いた』と話題になった場所です。

『カミカゼ』行為の是非について論じるつもりはありません。
日本人の死生観とか、武士道とか、当時の世界情勢とか、色んな要素があいまって悲劇を引き起こしてしまったことは間違いないのでしょうが。

但し、たかだか60数年前に20歳そこそこの青年たちが、かけがえのない命を捨ててまで戦った事実と、そのご家族の悲しみ苦しみを現代の私たちはしっかりと胸に刻み込む必要があると強く感じました。

どう感じるかは個人差があるでしょう。しかし、事実を知ることで何かを感じ何かを考えることはあるはずです。そして平和であることの有難味を痛切に感じることができるのではないでしょうか。

以下『知覧特別攻撃隊(シャプランブックス)』より抜粋しました。
特攻の母
―鳥浜とめさんの話―
 知覧町中郡にあった、鳥浜とめさんの富屋食堂は、知覧分教所が開設されて以来、軍の指定食堂になっていました。特攻隊員として知覧飛行場に来た隊員たちは、鳥浜とめさんのことをいつしか「おかあさん」と呼ぶようになっていました。
 昭和20年3月、沖縄方面に対する特攻作戦が始まってからというもの、鳥浜とめさんは家財道具を売ってまでも、最後の思い出にと富屋食堂を訪れてくる特攻隊員たちをもてなしたのです。
以下は鳥浜とめさんが特攻隊員たちの思い出を語ったものです。

隊員の人達の多くは、戦争はしてはならない、平和な日本であるように、ということを言っていました。そして、そのことをできるだけ多くの人々に伝えて欲しいとも言っていたのです。みんないい人達でした。みんな極楽に行く人たちですから、とてもやさしいんです。全部私の子供にしたい思いでした。自分の母の代わりになってくれとほとんどの隊員の人達が言いました。
長野県の下平正人さんも、

「おかあさんと呼ばせてくれ」
と言っていました。当時16歳だったと思います。かわいかったですよ。

中島豊蔵軍曹(当時20歳)は、わたしに逢いたいために軍用トラックで来たんですが、私を見つけると急いでトラックから飛び降りたために、右腕をくじいてしまって、操縦桿を握ることができなくなったんです。
わたしは、

「中島さん、腕をちゃんと養生してから征くんですよ」
と言ったんですが、中島さんは、

「この腕を養生しているうちに日本は負けてしまう。勝たなければいけないから」
と言うんです。わたしは、

「そんな腕でどうして征くことが出来るの」
と言ったんですが、中島さんは、

「どんなことをしてでも征ける」
と言い張って聞きませんでした。手が動かせないので風呂に入っていないということでしたから、わたしはすぐに風呂をわかして入れてあげました。背中を流していると涙が出てきてしようがありません。

「おばさん、なぜ泣くの?」
と言うので、わたしは、

「おなかが痛い」
と言ったんです。すると、

「おなかが痛いんだったら明日は見送らなくてもいいです。からだを大事にするんですよ」
と言うのです。髭をぼうぼう生やした人でした。そして中島さんは、6月3日に、操縦桿と首を自転車のチューブでくくりつけて飛び立って行ったんです。

勝又勝雄少尉はとてもお酒の好きな人でしたが、わたしにこう言ってくれました。
「おばさん、僕たちは年齢をほんのわずかしかもらえないから、残りはおばさんにあげる。だから。からだを大事にして長生きしてください」

たった一人だけ「日本が負ける」と言った人がいました。上原大尉でした。4月8日のことでした。
「そんなことを言うと憲兵が連れて行くよ」
と言ったら、

「もう自分たちは死ぬのだkら、何も怖いものはない。ただ、征けという命令で征くのではない」
という答えでした。そんな言い方をしたのは本当に上原大尉だけでした。

光山文博少尉は、韓国の人です。明日発つという夜、アリランを歌いました。帽子のひさしを深くかぶり、光山さんの眼はひさしの下にかくれていました。私も娘二人も一緒に歌っているうち、みんな泣き出してしまいました。

宮川三郎軍曹(当時20歳)は出撃の前夜、わたしのところへあいさつへ来られ、

「明日わたしは沖縄に行き、敵艦をやっつけてくるから、帰ってきたときには、宮川、帰ってきたかと喜んでください」
と言うので、

「どんなにして帰ってくるの?」
と尋ねたら、

「ホタルになって帰ってくる」
と言うのです。そしたら、約束の時間にホタルがやってきたんです。富屋食堂の裏に小川が流れていたんですが、そこに、一匹の大きなホタルがやってきて、白い花にとまったのです。本当に大きなホタルでした。思わず、みんなに、

「このホタルは宮川サブちゃんですよ」
と言ったんです。そして、みんなでそのホタルを見ながら『同期の桜』を歌いました。

特攻の方々が征かれるときはにっこり笑って、嫌とも言わず、涙ひとつ落としませんでした。さぞ肉親の方々にも逢いたかっただろうに、日本を勝たせるために、早く征かなければと、ただそればかりを言っていました。




それでも朝はやってくる。

2007年10月31日 | To heaven
どんなに辛いことがあっても。

どんなに切ないことがあっても。

深い深い悲しみの絶望の夜のなかにあっても。

それでも朝はやってくる。

だから、繰り返される毎日に負けないように力強く生きていく。

不器用な私たちにはそれぐらいしか出来ないですから。

悲しみや絶望を知る人間にこそ、歓喜と祝福が多く訪れるように。

心からそう願います。

皆様ご無沙汰しております。

2007年09月27日 | To heaven

ご無沙汰している間に新総理が誕生しましたね。
親子2代の総理大臣就任は憲政史上初めてのことだとか。

よく福田さんの

『私は総理大臣になりたいと思ったことは一度もありません。』

みたいな発言(約一年前の)が取り上げられていますが、私はその発言はあながち嘘じゃないんだろうなと感じています。根拠はありません。テレビから感じる人柄から察してです。

嘘じゃないと仮定すると、福田さんが総理になったのは天命ということになりますね。奇しくもお父さんの赳夫さんが総理に就任したのも71歳だとか。

「年金問題」
「政治とカネ」
「テロ特措法延長問題」

などなど、山積している問題にどう辣腕を振るうか。福田さんはバランス型とか協調型とか人物評をされているようですが、改革を断行するときはときには独断専行でなければいけないこともありますよね。天命を授かった福田新総理の手腕に注目です。

と、政治も気になるところですが今最も私が気にかけているのは角界ネタですね。下町で生まれ育った私には相撲は身近なものですし、爺さん婆さんの年代には大相撲って最高の娯楽なんですよね。

しっかりしてくれ相撲協会。

しっかりしてくれ親方衆。

相撲協会に喝を入れるために、相撲部屋を作って画像のデブをデブーさせることにします。

間違ったデビューです。

 


原爆ドーム

2007年08月03日 | To heaven
原爆ドームをはじめて訪れ、圧倒されました。

鳥肌が立って、危うく泣きそうになりました。

60数年前に起こった出来事。歴史のなかの60年なんてついこの前のことですよね。

人間の愚かさを痛感し、戦争の悲惨さ平和の有り難さを噛み締めることが出来ました。

ところで、、、、、

アメリカは原爆投下のことをどう総括してるんですかね。
単純にそう感じます。


人生って辛い。

2006年10月20日 | To heaven
後輩が死んでしまいました。何ヶ月か前に一緒に飲んだときは全く変わらずいつもの後輩でした。あれから数ヶ月、最悪の選択をするほど思い悩み、実行してしまった後輩。変われない自分はこれ以上生きていても迷惑を掛けるだけだと、悩んでいたみたいです。

もしこの世に霊魂というものが本当に存在するとしたら、、、。一番悲しみ苦しみ後悔しているのは死んでしまった後輩本人ではないでしょうか。自分のために悲しみ苦しみ泣いている親御さんや親戚や仲間を見て自分の選択を後悔していることでしょう。それとも、この世の苦しみから解放されてホッとしているのでしょうか。亡くなってまで苦しんでいてはあまりにも辛いから、あの世ではせめて楽になっていてもらいたいとも思います。考えれば考えるほど出口がありません。今まで味わったことのない辛さです。

生きていくって大変ですね。人生って辛いことが多すぎます。

ただただ冥福を祈り、生きている間に何もしてやれなかったけど、後輩のことをいっぱいいっぱい考えて自分の心の中に後輩の魂を宿したいと思います。


22日~28日までドイツです。来週はブログをお休みします。

友として出来ること。

2006年07月31日 | To heaven
先日、友人T君のお母さんがお亡くなりになりました。友人のT君は太陽のような男で、周りにはいつも仲間が溢れ、常に話題の中心にいる人気者です。そのT君を産み育てたお母さんですから、やはり太陽のような女性で大きな愛でご家族を包まれていたことでしょう。まだ五十代半ばでの若すぎる死に、ご家族の深い悲しみは想像に難くありません。

リリーフランキーの「東京タワー」ではありませんが、息子にとって母親というのは特別な存在です。当然ながら私にも母親がいて、その母親は私にとって特別な存在です。その母親が病に倒れたのは平成14年の1月でした。多発性脳梗塞により、言語機構、咀嚼機能、右肢体麻痺と、身体の殆どの機能を突然奪われ植物状態に陥ってしまいました。昨日まで元気に話をしていたオフクロが、突然倒れ、そして一生その声を聞くことも、歩いている姿を見ることもできないというのは、到底受け入れられるない現実でした。

当時のオフクロは私が抱えていた問題に対し、私以上に心を痛めており、もともと高血圧症だった母親にストレスが良い影響を与えるはずもなく、これほど重篤な症状を招いたのはそのことが原因であることは間違いないことでした。

情けない話ですが、それから三ヶ月間の私は、生きていて死んでいるのと一緒でした。毎日泣いて暮らし、会社の経営にも身が入らず、大好きなフットボールからも、遠ざかり引き込もる日々でした。今でこそ生きていてくれるだけで、良いと思えるし、植物状態になったことで逆にオフクロと一緒にいる時間が増え親孝行ができると前向きになっていますが、当時の自分の心境に立ち返るとともに、大切なお母さんを亡くしたT君の今の心境を考えると、夜毎襲ってくる虚無感に立ち向かい悲しみと戦っている。そんな毎日ではないでしょうか。

私を含む仲間がT君に出来ることは何か。

私たちはその悲しみを拭い去る術を持ちません。私たちにできることは以前と変わらない付き合いをT君と重ねていくことだけです。

今のような深い悲しみに飲み込まれていても、大きな喜びに包まれていようとも、壁にぶち当たろうが、大きな失敗をしたとしても、極論すれば犯罪者になったとて、私たちはいかなるときも絶対に変わることのない仲間であり続けることしかできません。それは誓えます。(犯罪などするわけありませんが)

これだけは忘れないでください。
あなたには献身的に支えてくれる素晴らしい伴侶と、決して変わることのない仲間が沢山いることを。

太陽のような貴方のお母さんは、貴方を太陽のように育てあげました。太陽の周りには星がグルグル周るんダヨ。

言葉で伝えるのは軽々しい気がしたし、相対で文章にするのは照れくさかったので、不謹慎だとは思いましたが、ブログに書かせていただきました。お許しください。