八(はち)に拘るエコグリーン石井光暢のブログ

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知覧特別攻撃隊

2008年02月27日 | To heaven

先週、鹿児島に行ってきました。↓は桜島、雄大でした。


そして長年の夢だった知覧にある『知覧特攻平和会館』を訪れてきました。


何年か前に小泉元首相が訪れ『小泉首相が泣いた』と話題になった場所です。

『カミカゼ』行為の是非について論じるつもりはありません。
日本人の死生観とか、武士道とか、当時の世界情勢とか、色んな要素があいまって悲劇を引き起こしてしまったことは間違いないのでしょうが。

但し、たかだか60数年前に20歳そこそこの青年たちが、かけがえのない命を捨ててまで戦った事実と、そのご家族の悲しみ苦しみを現代の私たちはしっかりと胸に刻み込む必要があると強く感じました。

どう感じるかは個人差があるでしょう。しかし、事実を知ることで何かを感じ何かを考えることはあるはずです。そして平和であることの有難味を痛切に感じることができるのではないでしょうか。

以下『知覧特別攻撃隊(シャプランブックス)』より抜粋しました。
特攻の母
―鳥浜とめさんの話―
 知覧町中郡にあった、鳥浜とめさんの富屋食堂は、知覧分教所が開設されて以来、軍の指定食堂になっていました。特攻隊員として知覧飛行場に来た隊員たちは、鳥浜とめさんのことをいつしか「おかあさん」と呼ぶようになっていました。
 昭和20年3月、沖縄方面に対する特攻作戦が始まってからというもの、鳥浜とめさんは家財道具を売ってまでも、最後の思い出にと富屋食堂を訪れてくる特攻隊員たちをもてなしたのです。
以下は鳥浜とめさんが特攻隊員たちの思い出を語ったものです。

隊員の人達の多くは、戦争はしてはならない、平和な日本であるように、ということを言っていました。そして、そのことをできるだけ多くの人々に伝えて欲しいとも言っていたのです。みんないい人達でした。みんな極楽に行く人たちですから、とてもやさしいんです。全部私の子供にしたい思いでした。自分の母の代わりになってくれとほとんどの隊員の人達が言いました。
長野県の下平正人さんも、

「おかあさんと呼ばせてくれ」
と言っていました。当時16歳だったと思います。かわいかったですよ。

中島豊蔵軍曹(当時20歳)は、わたしに逢いたいために軍用トラックで来たんですが、私を見つけると急いでトラックから飛び降りたために、右腕をくじいてしまって、操縦桿を握ることができなくなったんです。
わたしは、

「中島さん、腕をちゃんと養生してから征くんですよ」
と言ったんですが、中島さんは、

「この腕を養生しているうちに日本は負けてしまう。勝たなければいけないから」
と言うんです。わたしは、

「そんな腕でどうして征くことが出来るの」
と言ったんですが、中島さんは、

「どんなことをしてでも征ける」
と言い張って聞きませんでした。手が動かせないので風呂に入っていないということでしたから、わたしはすぐに風呂をわかして入れてあげました。背中を流していると涙が出てきてしようがありません。

「おばさん、なぜ泣くの?」
と言うので、わたしは、

「おなかが痛い」
と言ったんです。すると、

「おなかが痛いんだったら明日は見送らなくてもいいです。からだを大事にするんですよ」
と言うのです。髭をぼうぼう生やした人でした。そして中島さんは、6月3日に、操縦桿と首を自転車のチューブでくくりつけて飛び立って行ったんです。

勝又勝雄少尉はとてもお酒の好きな人でしたが、わたしにこう言ってくれました。
「おばさん、僕たちは年齢をほんのわずかしかもらえないから、残りはおばさんにあげる。だから。からだを大事にして長生きしてください」

たった一人だけ「日本が負ける」と言った人がいました。上原大尉でした。4月8日のことでした。
「そんなことを言うと憲兵が連れて行くよ」
と言ったら、

「もう自分たちは死ぬのだkら、何も怖いものはない。ただ、征けという命令で征くのではない」
という答えでした。そんな言い方をしたのは本当に上原大尉だけでした。

光山文博少尉は、韓国の人です。明日発つという夜、アリランを歌いました。帽子のひさしを深くかぶり、光山さんの眼はひさしの下にかくれていました。私も娘二人も一緒に歌っているうち、みんな泣き出してしまいました。

宮川三郎軍曹(当時20歳)は出撃の前夜、わたしのところへあいさつへ来られ、

「明日わたしは沖縄に行き、敵艦をやっつけてくるから、帰ってきたときには、宮川、帰ってきたかと喜んでください」
と言うので、

「どんなにして帰ってくるの?」
と尋ねたら、

「ホタルになって帰ってくる」
と言うのです。そしたら、約束の時間にホタルがやってきたんです。富屋食堂の裏に小川が流れていたんですが、そこに、一匹の大きなホタルがやってきて、白い花にとまったのです。本当に大きなホタルでした。思わず、みんなに、

「このホタルは宮川サブちゃんですよ」
と言ったんです。そして、みんなでそのホタルを見ながら『同期の桜』を歌いました。

特攻の方々が征かれるときはにっこり笑って、嫌とも言わず、涙ひとつ落としませんでした。さぞ肉親の方々にも逢いたかっただろうに、日本を勝たせるために、早く征かなければと、ただそればかりを言っていました。




間もなくシーズンイン

2008年02月22日 | American football
長いオフがもうすぐ終わり、いよいよ3月1日から練習が始まります。

今年も大量に新人が加入し、中でも私のポジションはコンバート組と新人をあわせ4名の加入だそうです。総勢6名でポジション争いをすることになります。

厳しいっすねー。今年の新人の子なんか私より15歳も年下ですからね。親子でも有り得る年齢差になってきました。

オジサンだからといってグランドの上では誰も手加減してくれません。まずはチーム内の競争に勝ち残らなければ。

ワクワクしてきました。

仕事も楽しいけど、フットボールの『非日常』は一度味わったらヤメラレナイのです。

去年のリーグ最終戦の鹿島戦にてタッチダウン後にコアラと。
相撲じゃないですよ。喜んでるんですよ。

陰陽師

2008年02月19日 | Favorite
の石田千秋さんと友人の結婚式でご一緒させて頂きました。とってもダンディーでしたよ。


イタリアはシシリーからドンハタケーノ氏もいらっしゃってました。めちゃ怖かったです。

怖すぎます。葉巻と指の太さが同じなんです。

最近気になったこと

2008年02月14日 | My mind

行方不明:海に転落した三男救助の警部補不明--新島 /東京

二歳の息子さんの命を救うために自らの命を賭けた警察官のお父さん。祈ることしかできませんが、心の底からご無事を祈ります。

酒気帯び運転の柿沢氏 都議を辞職

柿沢さんとは同じ年で同じ下町の出身ということもあり、地元の金融機関主催の会合や冠婚葬祭で顔を合わす機会が何度かありました。初めてお見かけしたのはNHKを辞めて都議に立候補する前のことだったと記憶しております。お父さんは外務大臣まで務め、確か都知事選挙にも立候補されたこともあったはずです。ゆくゆくはその地盤を引き継いで国政にデビューするのだろうと、皆が思っておりましたし実際に次期衆議院選挙に立つご準備もされていたとか。元NHK勤務、柿沢弘治さんのご子息と、当時の僕には柿沢さんは眩しく見えました。これからの日本の政治を担うべき、その権利を持った若きリーダーが犯した罪の代償は余りにも大きく、再起不能の可能性すらありますね。飲酒運転による事故でご家族をなくされた方たちにとっては許しがたき行為であり侮辱されたことと同じでしょう。時間は巻き戻せませんし、今いくら後悔したところで誰も同情はしてくれないでしょうが、政を治めようと志した男なら残りの人生を賭けて禊をし、再び這い上がってもらいたいと願います。禊の問題じゃないのかもしれないし、絶対に許されないことですが、このままでは趣味で政治家になった只のお坊ちゃまで終わっちゃいますからね。

偉そうなこと書きました。知り合いではないけど顔見知りの方だったので熱くなりました。


言語は言葉だけではない。

2008年02月13日 | My mind

知り合いの弁護士先生の言葉です。

『言語は言葉だけじゃない』

グローバルな視点で政治から経済まで語ってくれる先生は

『これからは世界に通じる言語を学び、真の国際人になる必要がある』
と仰いました。

言語といっても英語や中国語を学べということではなく、世界に通用するスキルを持てということだと、例をあげるならば国際会計基準を身に付けた会計のプロや化学や医学のノウハウは世界共通の言語なのだと教えていただきました。

なるほど。なるほど。

私には何があるかなぁ。。。

全然関係ないですけど赤福が営業再開したらしいですね。お伊勢さん行ったときの写真です。


三保の松原

2008年02月12日 | Favorite


三保の松原に行ってきました。といっても随分前ですが。
当日は天気も悪く、富士山も見えませんでした。晴れた日にここの海岸線から見える富士山は、とても美しく颯爽としているので機会があれば是非ご覧になってください。

さて、三保の松原は日本新三景に数えられている名勝ですが、日本新三景って知っていましたか。

日本三景は宮城の松島、京都の天橋立、広島の厳島と勿論ご存知のことと思いますが、日本新三景なるものを完璧に答えられる人は少ないんじゃないでしょうか。

正解は北海道の大沼、大分の耶馬渓、そして静岡のここ三保の松原だそうです。
1915年にある出版社主催による全国投票で選定されたそうです。

一方の日本三景は江戸時代の儒学者、林春齋が自らの著書『日本国事跡考』に書いたのが始まりとされています。江戸の昔はそうそう見に行くことも出来なかったでしょうから絵や書籍または口伝えで名勝の世界が広がっていったのでしょうね。そういう時代もなんだか羨ましいです。


全然関係ないですけど、ミウラがまた寝てました。減給です。