とにかく「普天間固定化」という最悪の選択肢しか選びえないだろう民主党政権の手腕が、そもそもその任に耐えられるレベルでなかったことは誰でもわかっているので、ひとつ冷静に普天間から辺野古への移転手続きに瑕疵はなかったかを考えてみたいと思います。
今回は昨年末までに大騒ぎになった「環境アセスメント」の評価受理問題を考えたい。
まず辺野古の環境アセスのスケジュールは以下の通りの段取りで進んでいました。
2007年8月 第一段階の「方法書」提出
2009年4月 第二段階の「準備書」提出
ここまでは自公政権時代だったので、何ら問題になりませんでした。
ところが、2009年9月に民主党政権が誕生してしまい、あの出来るわけがない鳩山元首相の「最低でも県外移設」のトンデモ発言も飛び出し、とん挫してしまいます。
2011年12月28日 第三段階の「評価書」提出時点で、沖縄地元の左翼労組、プロ市民等の異常な抵抗を受け、大問題となったことは記憶に新しいと思いますが、
実はあらかじめ自公政権時代に提出された「準備書」の内容が、民主党政権誕生とともに、前提となる条件を大幅に見直す圧力となり、簡単に「評価書」が出せないようになったのです。
なんとか昨年12月28日までに提出され、1月に公開されましたが、地元沖縄県は態度を硬化させてしまいましたし、さらには、米国が「グアム移転と普天間移設問題を分離する」決定をしてしまいましたから、
いったいなんのための辺野古環境アセスだったのか!
とまたまた先に進まない状況が出てきているわけです。本来は国が出した評価書を元に地元自治体は粛々と進めるしかないのが順当な手続きです。
本来は、今後
2012年2月20日 沖縄県側のアセス知事会見
2012年3月27日 正式な知事会見
を持って、環境アセスの原則通り、沖縄県が受け入れれば、
防衛省による補正評価書の提出
公告・縦覧
4月 改正アセス法施工
そして、6月頃に 埋め立て申請
となるはずでした。
ただ、「年内着工!」などという田中防衛大臣のトンデモ発言も出てしまい、沖縄の仲井真知事がへそをまげましたので、もうこのままいくとは思えません・・・
まったくもって沖縄の地でもっともナーバスな問題に火をつけてこじらせただけの民主党政権は沖縄県にとっては「祟り神」であったかもしれないのです。
今回は昨年末までに大騒ぎになった「環境アセスメント」の評価受理問題を考えたい。
まず辺野古の環境アセスのスケジュールは以下の通りの段取りで進んでいました。
2007年8月 第一段階の「方法書」提出
2009年4月 第二段階の「準備書」提出
ここまでは自公政権時代だったので、何ら問題になりませんでした。
ところが、2009年9月に民主党政権が誕生してしまい、あの出来るわけがない鳩山元首相の「最低でも県外移設」のトンデモ発言も飛び出し、とん挫してしまいます。
2011年12月28日 第三段階の「評価書」提出時点で、沖縄地元の左翼労組、プロ市民等の異常な抵抗を受け、大問題となったことは記憶に新しいと思いますが、
実はあらかじめ自公政権時代に提出された「準備書」の内容が、民主党政権誕生とともに、前提となる条件を大幅に見直す圧力となり、簡単に「評価書」が出せないようになったのです。
なんとか昨年12月28日までに提出され、1月に公開されましたが、地元沖縄県は態度を硬化させてしまいましたし、さらには、米国が「グアム移転と普天間移設問題を分離する」決定をしてしまいましたから、
いったいなんのための辺野古環境アセスだったのか!
とまたまた先に進まない状況が出てきているわけです。本来は国が出した評価書を元に地元自治体は粛々と進めるしかないのが順当な手続きです。
本来は、今後
2012年2月20日 沖縄県側のアセス知事会見
2012年3月27日 正式な知事会見
を持って、環境アセスの原則通り、沖縄県が受け入れれば、
防衛省による補正評価書の提出
公告・縦覧
4月 改正アセス法施工
そして、6月頃に 埋め立て申請
となるはずでした。
ただ、「年内着工!」などという田中防衛大臣のトンデモ発言も出てしまい、沖縄の仲井真知事がへそをまげましたので、もうこのままいくとは思えません・・・
まったくもって沖縄の地でもっともナーバスな問題に火をつけてこじらせただけの民主党政権は沖縄県にとっては「祟り神」であったかもしれないのです。