中野笑理子のブログ

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「本が売れて、何がめでたい」

2017年03月31日 | 日記
と題された佐藤愛子先生の語りおろしが掲載されている週刊文春今週号。
発売日の昨日、買って実家へ持って行きました。
認知症が進むにつれて本をあまり読まなくなった母ですが、文春は毎週楽しみにしているのです。
集中力もあまり続かなくってしまいましたが、昨日はいつもと違い、佐藤愛子さんの記事を熱心に読んでいました。
来週また新しい号が出たらこちらに回って来るのですが、それまで待てない!
と、今日また同じ文春を買ってしまいました。

昨年の夏に出版された「九十歳。何かめでたい」が売れに売れ、NHKのニュースでも取り上げられていました。
私も本屋を5軒回りましたが、どこも売り切れ入荷待ちで、結局アマゾンで1週間ほど待って手に入れました。

初めて佐藤愛子さんの本を読んだのは十代の終わり頃、家に佐藤愛子さんや田辺聖子さんや曽野綾子さんの小説やエッセイが何冊もあり、いつでも読める環境でしたが、真剣に読み始め、その面白さがわかってきたのは独り暮らしを始めた24歳頃からだったと思います。
その後、不思議な実体験を書いた「私の遺言」や「冥途のお客」などを読み、どんどん引き込まれていきました。

1度目の結婚で戦争中モルヒネ中毒になった夫と子供をおいて離婚したこと、経営していた会社が倒産し莫大な借金を背負った2度目の夫とも離婚し、返済義務もないのに夫の借金を本を書いて返済したこと、北海道に家を建ててしまったばかりにとんでもない運命に巻き込まれて、それでもありとあらゆる手を尽くして解決したこと、どれもが壮絶というか猛女といったイメージですが、同じ女として、いや人間として尊敬しています。
今まで色んなことに悩んだり苦しんだりしたけれど、佐藤愛子さんの本を読むと、全然生易しいというか悩むことすらアホらしい! と思えるのです。

そんな佐藤愛子さんの本が今売れているということは、どうしようもなくなりかけているこの世の中も捨てたもんじゃないのかな、とちょっと希望の光が灯ったような気がして、嬉しいのでありました。

重かった……

2017年03月30日 | 日記
一昨日から読み始めた小説、暗くて重くて一体どうなってしまうんだろうと思いましたが、本日読了。
人間は弱いけど強い、そして強かな生き物なんだなぁと思いました。
いや、強く強かにならなければいけないのか。
どんな人生でも、オギャアと生まれて死んでしまうまで、並々ならぬもんなんだなぁと、改めて思いました。

オマエモモットツヨクナラナイトイケナインダゾ!

はい、よくわかりました。
著者の経歴を調べたら、やっぱり経験に基づいた話でした。
すべてが実体験ではないだろうけれど、著者が若くして経験した艱難辛苦が、まるで自分も体験したかのように色濃く焼き付きました。
読んでいてしんどかったけれど、頁をめくる手を止められなかった。
今日もヘトヘトに疲れ果てての帰宅ですが、ナニクソ! と思って明日また頑張ろう。
そう思う夜でありました。

大根の花

2017年03月29日 | 日記
八百屋で買った葉つき大根を水栽培していたらグングン成長して蕾をつけ、花が咲きました。

ここまで大きく育ったのは初めてです。
計ってみると75センチありました。

おわかりいたただけたでしょうか。
台所のカウンターは日当たりが良いです。

共感しすぎるのもツラいのよ

2017年03月28日 | 日記
会社帰りの電車の中で読み始めた小説が、始まりからかなり暗いお話で、読んでいるうちにどんどん気分が落ち込んできまして、困ったなぁ……なのであります。

小説の中の季節もちょうど今時分の春先で、そしてまた今日は夕方から冷たい雨が降りだしたりして、小説の舞台装置かと思うほど、どよんとした気分にはまりこんでしまいました。

昭和の終わりのバブル前夜の頃の大阪が舞台で、出てくる地名も全部知っている所で、読みながらいたたまれない気持ちになってきて、でも本を閉じることができない。

これはもう作者の思うつぼ、どっぷり共感してしまっている、ということなんでしょうね。
これは小説やで、作り話やで、嘘やで、ともうひとりの自分が懸命に囁きますが、わかっていてもズブズブにハマってしまう底無し沼のような小説の世界。

これは作者の技術によるものなのか、それともこの小説のような暗い闇の素地のようなものが私自身の中にあるからなのか、湯船の中で考えてみましたが、答えは出ませんでした。
きっと両方なのでしょう。

けれども、ただ技術だけで、想像だけで、ここまで書けるものなのか、それともそれができるからプロなのか。
考えてみますと、どうも技術だけでも想像だけでもないような気がするのです。

ある小説家の方が「小説は根も葉もある嘘」と仰っていました。
書いていることすべてが経験したことではないけれど、まったく経験したことのないことは書けないと思うのです。
まったくの事実ではないけれど、それに似た経験がきっと作者にはあるのでしょう。
そう思うと、主人公である作者自身が可哀想というか、愛しいというか、またもや共感の底無し沼に沈みこんでしまうのであります。

太宰治のような自分が生まれる遥か前の暗さとは違う、もしかしたら主人公と梅田ですれ違っていたかもしれない、と思う身に覚えのある暗さ。

まだ序盤ですが、ここまで疲労困憊してしまう小説は、久しぶりです。
この先、一条の光のような希望が差すのか、それともこのまま、さらに重く暗く終わるのか、どうしよう、疲れているのにやめられません。



かわたれの花見をしてみたい

2017年03月27日 | 日記
かわたれは夜明け前のまだ薄暗い時間のことでありますが、そこに人がいてもはっきり見えずに誰だかわからない状態の「彼は誰」であります。

夜明け前の薄暗さが、だんだん明るくなってゆくさまは、それだけでも心震えるような瞬間だと思うのですが、そこに満開の桜があったら、それこそ一生に何度も見れるもんじゃないと思うのです。
場所は公園なんかじゃなくて、できれば山の中とか人工の造形物のあまりない所がいいなぁ。

けれど考えてみると、山の中の夜明け前にその場所に立つには、真っ暗な夜のうちに出発しないといけない訳で、それはちょっと怖いのです。
美しい夜明けの桜をみる前に、とんでもない怪異に出会してしまったりして。
それはそれで良いではないか、とも思うけれど、やっぱり怖い。

かわたれに対して夕方の薄暗い時間はたそがれ。「誰そ彼」であります。
語順が違うだけで、その時刻が変わる日本語って、すごく風情があると思います。

そしてやはり、黄昏時よりあけぼのの桜の方が美しいと思うのです。

どなたか私と、夜中出発のかわたれの花見にご一緒して下さるお方はおられませんかな。