今日は母の命日です。
私は仕事で北の大地で働いていました。
その1ヶ月ほど前
主治医から連絡があって
『お母様は、もう、いつ旅立たれてもおかしくありません。こちらに帰られる事は出来ますか?』
私は家族を連れて翌週早々に新千歳空港から伊丹へと向かいました。
病院に着くと
『痛み止めが間に合わない時は痛くてたまらない』お腹の中は癌だらけの母。
もう顔には黄疸が出ていて。
でも言葉はしっかりしてました。側に居た父に向かって『テレビカードを買ってきて!』
これが母の最後の我儘だったかも知れません。
娘達と私達夫婦、そして父が母を囲むようにして写真を撮りました。
そして、その1週間後。
苫小牧で昼食を摂っていた私の携帯が鳴りました。『お母様が危篤です。直ぐにお戻り下さい。』それは主治医からでした。
当時、私は札幌から苫小牧まで通勤していました。特急スーパー北斗に飛び乗り70キロさきの札幌まで。そこから地下鉄で自宅へたどり着くまでの道のりの長さ。北海道の広さを恨みました。
妻は既に出かける準備。
なんとか最終便のチケットが取れ伊丹空港まで。
大阪の上空からのネオンが涙で霞んで見えました。何とか
何とか持ちこたえて欲しい!
やっとの思いで病院に着いたときには、母は人工呼吸器で生かされていただけでした。
人工呼吸器のスパン!スパン!という音で酸素が母の体に送り込まれる度に母の体が波打つように動くのです。
既に主治医と父は母のベッドの横に居ました。
『ワシが手を握って、ちゃんと看取ることが出来たから。』父は目を赤く染めながら力を振り絞るような声で私に言ったのです。
この時、私の目には涙が何故か出てこなかった。
俺は、こんなに冷たい人間なのか?
そう思いながら人工呼吸器で生かされてる母をじっと見てるだけでした。
その数分後
『それでは人工呼吸器を外します。』
母の体からは何時間も前に
既に魂は離れていたのです。
ただ
主治医は北海道にいる私のために体だけを
生かすべく魂が抜けた体に人工呼吸器を装着してくれていたのでした。
私は黙ってうなづくと主治医は静かにスイッチを切り人工呼吸器を母の口から外しました。
『お母ちゃん、お疲れ様。やっと、楽になれたね。』心の中で呟いた私の目には
薄っすらと涙が滲んできたのです。
それが6月30日
母を亡くしてから母の愛を知ったのも
私自身が脳出血になってからのこと。
母を亡くし、父を亡くし、自分が齢53になり脳出血を起こさないと分からない愚かな息子。
13年の月日が経ち、更に今、四年が。
母を亡くしてから17年
これだけの月日を重ね漸く親の有り難みを知った私の未熟さを今日は反省するばかりでした。
私は仕事で北の大地で働いていました。
その1ヶ月ほど前
主治医から連絡があって
『お母様は、もう、いつ旅立たれてもおかしくありません。こちらに帰られる事は出来ますか?』
私は家族を連れて翌週早々に新千歳空港から伊丹へと向かいました。
病院に着くと
『痛み止めが間に合わない時は痛くてたまらない』お腹の中は癌だらけの母。
もう顔には黄疸が出ていて。
でも言葉はしっかりしてました。側に居た父に向かって『テレビカードを買ってきて!』
これが母の最後の我儘だったかも知れません。
娘達と私達夫婦、そして父が母を囲むようにして写真を撮りました。
そして、その1週間後。
苫小牧で昼食を摂っていた私の携帯が鳴りました。『お母様が危篤です。直ぐにお戻り下さい。』それは主治医からでした。
当時、私は札幌から苫小牧まで通勤していました。特急スーパー北斗に飛び乗り70キロさきの札幌まで。そこから地下鉄で自宅へたどり着くまでの道のりの長さ。北海道の広さを恨みました。
妻は既に出かける準備。
なんとか最終便のチケットが取れ伊丹空港まで。
大阪の上空からのネオンが涙で霞んで見えました。何とか
何とか持ちこたえて欲しい!
やっとの思いで病院に着いたときには、母は人工呼吸器で生かされていただけでした。
人工呼吸器のスパン!スパン!という音で酸素が母の体に送り込まれる度に母の体が波打つように動くのです。
既に主治医と父は母のベッドの横に居ました。
『ワシが手を握って、ちゃんと看取ることが出来たから。』父は目を赤く染めながら力を振り絞るような声で私に言ったのです。
この時、私の目には涙が何故か出てこなかった。
俺は、こんなに冷たい人間なのか?
そう思いながら人工呼吸器で生かされてる母をじっと見てるだけでした。
その数分後
『それでは人工呼吸器を外します。』
母の体からは何時間も前に
既に魂は離れていたのです。
ただ
主治医は北海道にいる私のために体だけを
生かすべく魂が抜けた体に人工呼吸器を装着してくれていたのでした。
私は黙ってうなづくと主治医は静かにスイッチを切り人工呼吸器を母の口から外しました。
『お母ちゃん、お疲れ様。やっと、楽になれたね。』心の中で呟いた私の目には
薄っすらと涙が滲んできたのです。
それが6月30日
母を亡くしてから母の愛を知ったのも
私自身が脳出血になってからのこと。
母を亡くし、父を亡くし、自分が齢53になり脳出血を起こさないと分からない愚かな息子。
13年の月日が経ち、更に今、四年が。
母を亡くしてから17年
これだけの月日を重ね漸く親の有り難みを知った私の未熟さを今日は反省するばかりでした。