遥か彼方へ

行きかう年は旅人なり
いずれの年よりか、片雲の風に誘われ漂泊の思いやまず
我、前だけを見据え最期まで走らむ

もみじ湖の紅葉を見に⑤ ~ 遅ればせながら

2024年11月30日 | 一般旅

 


11月18日(月)

 

▲ 北陸道・賤ヶ岳SAでの朝

 

福井での昨日の同窓会のあと、往路の信州回りは止めて、帰路は北陸道を選択した。

 

▲ 妙高高原の辺りでは、今日から明日にかけて雪マーク。やはり止めて良かった。

朝食後、出発!

 

 

▲ あれに見えるは、滋賀県の伊吹山(100名山)に違いない。

ずっと前から気にはしていたが、いまだアクセスできていない。

もうだめかなあ。

 

北陸道のあと中央道へ入るか、東名で帰るか。東名で桜エビ丼を食べたいなあ。と思ったが、東名の方が100kmほど遠回りになる、今回はパス。中央道へ、このまま走ったら夕方前に帰宅できる、と思ったが、それも能がないなあ(笑)。

 

うん、もみじ湖に寄ってみよう。

▲ 中央道・駒ヶ岳SAのインフォメーションで情報収集。

「もみじ湖紅葉祭り10.26~11.10は終わりましたが、まだ見れますよ。「もみじのトンネル」はまだ大丈夫ですよ」と案内嬢。パンフをもらって、弁当を買って出発。

 

後ろに見える山は、駒ヶ岳かな。

 

伊北ICを下りて、箕輪町へ。箕輪町は「赤そばの里」を観に3年前の9月に来たことがある。その時の調査で、「もみじ湖」というのが紅葉の名所だということを聞き及んだ。

 

▲ 右に見えるのが箕輪ダム。その通称が「もみじ湖」だ。後で調べると、1992年にダム建設されたが、水没集落の方から、将来にわたってここが愛されるようにと寄付された苗木を、10年かけて育成、植林。それが今や紅葉の景色になったとか。

 

 

▲ 箕輪ダム・もみじ湖の一番奥の「末広下駐車場」に到着。

平日にも拘わらず、ピークは過ぎているにも拘わらず(笑)、満車状態。

ピーク時はマイカー規制(11.1~5)で来れないし、それ以外でも停めれないだろう。

 

▲ メディアでも取り上げられる「もみじのトンネル」、行ってみよう!

ウムッ、だいぶ落ちてるな

 

 

▲ それでも・・進んでいくと・・

 

 

 

▲ おうっ、えんじゃないの。

 

 

 

▲ ええのう。

 

 

 

▲ もみじのトンネルになってる!

 

 

 

▲ ボクも撮ってもらおうか

 

 

 

▲ さらに一段上がって

 

 

 

▲ 階段を上がって、よいこらっしょっ、と。

 

 

 

▲ 末広広場へ上がってきた。

(あのスエヒロはどうしたかな 間違えた彼女はヒロスエだw)

 

 

▲ スエヒロ広場の正面の山、もいいねー。

 

 

 

▲ 広場から下りてくる時

 

 

 

▲ 斜面の紅葉落ち葉

 

 

 

▲ 下りたところの、陽当り場の紅葉が燃える。

 

 

 

▲ 地図看板

ここは、もみじ湖の最深部。

 

 

▲ クルマに戻って、昼食だ。

 

 

昼食後、下山。

▲ 「竹の尾駐車場」で停めてみて

 

 

 

▲ ここの散策も

 

 

 

▲ いと良し。

 

 

 

▲ 道沿いに一時停車させて

 

 

▲ 箕輪ダム回りの

 

 

 

▲ 紅葉も眺めてきた。

 

こりゃあ、混むわ。

ちょっと遅れて良かったのかな(笑)。

 

温泉にも寄ってこよう。

▲ 箕輪町の「ながたの湯」

 

 

温泉のあと再び中央道に乗って、走行。

諏訪湖SAで夜景を見ながらの車中泊しようかと思ったが(よく悩むのだ)、ココロはもう帰宅に向かっているのだろう

最後のSA、談合坂まで走ってしまった。

 

▲ 談合坂での夕食。

このかた焼きそばみたいな、チャンポンみたいな麵モノ。ちょっと変わった味、、始めは良かったのだが、あとで飽きてしまった。

 

さあ、あとはここで寝て帰るだけ。今日は良く寝れるかな。

 

 


されどわれらが日々④~高校の同窓会(S45卒)に

2024年11月26日 | 一般旅

11月17日(日)

 

▲ 道の駅・禅の里 での朝

同窓会の案内状 今回は出席に丸をつけた。

昼過ぎに福井市内へ移動。

市内中央のホテルで、同窓会は午後2時から開かれた。

 

▲ 乾杯!!

11クラスで400余名の卒業生中、134名が出席だ。

 

 

▲ 「明新会」とはF高校の同窓会の連合会名だ。

F高校の前身は、福井藩の藩校明道館(明新館1855年設立)に遡る。

 

幕末の先覚者、橋本左内(1834~1859)は明道館の第二代校長だった。

明治になって、明道館はその後、福井県立福井中学校に引き継がれて、戦前まで続く。

 

▲ 深田久弥は福井中学校を1921年に卒業。第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部哲学科へ進む。

1964年にあの「日本百名山」を出版した。

 

一気に現存する卒業生へ。

 

▲ 政治ジャーナリスト・田崎史郎は1969年にF高校を卒業。

年齢的にはボクより一つ上。

見てるよ、がんばってね。

 

 

▲ 「サラダ記念日」の歌人・俵万智は、F高校の1981年卒業。

 

他にもいるが、省略(笑)。

あ、この方を忘れてはイケナイ。

▲ アパホテル・女社長  F高校1966年卒業。

 

 

 

幹事スピーチでは、42名の方が亡くなられたと。黙とうする。現在73・72歳の卒業生のうち約1割の方が亡くなられていることになる。

同窓会は、テーブル席はクジで決まったものの、立食形式なので、あっちへ行ったりこっちへ来たりで、それなりに知っている同窓生と話しはした。同伴者が亡くなったり、離婚したり、ボクを好きだったという人がいたり、目が耳がよく聞こえなかったりで、さまざま。されどわれらが日々は確かにそこに有って、134名の人生縮図がそこに有った。さすがに、もう自分の名刺を持って回るアホはいなかったが。

 

ボクは

 

同窓会は午後4時半まで続いて、その後は2次会へと。ホテルからマイクロバスで移動。かなりの方が2次会へも行かれたと思うが。ボクはそれは、もう行かなかった。

 

 

▲ そのままホテルを出て、午後5時ごろに駐車場へ戻った。

一次会では、ウーロン茶しか飲まなかったし、二次会はスキップしたので、アルコール無しで、運転は問題なし。

このPで車中泊は可能だが、もうこの地を離れたかった、帰りたかった。

GO !!

~・~・~

 

福井ICから北陸道にのり、米原手前の賤ケ岳SAで停車。

 

▲ ま、とにかく終わった、終わった。

お疲れさんでした。カンパーイ。

 

その夜は、色んな思いがうずまいて、眠れなくて、久しぶりに導眠剤を飲んだ。

 

遠く遠く 槇原敬之 歌詞付

この歳になっても

大事なのは、変わってくこと、変わらずにいること・・

 

 


あの日本一大きい越前大仏の今は➂

2024年11月24日 | 一般旅

 

11月16日(土) 【続き】

福井市内で、昔の小中高の学校めぐりをしたあと、勝山市へ移動。

越前大仏へ直行した。

▲ 越前大仏の地図板

見どころは、右上の「大仏殿」と左上の「五重塔」のようだ。

ここが出来た時は、入場料が2千円以上していて、誰が観光大仏なんか見に行くものかと馬鹿にしていたが、今回ネットチェックしたら、あれーッ、500円になっていた。それなら行くかと決めた。

 

 

▲ まず「門前町」を通る。

門前町と言っても、人工的に町並みをつくったモノ。

しかし信州御代田の海野宿場町なんかで見られる防火用の壁「うだつ」(赤丸印)も、ちゃんと真似して造られている(笑)。

殆どのお店は、当初からそうだったのか(イミテーション?)分からないが閉まっている。

 

▲ 門前町のエンドの上には、カラフルな雨傘が吊ってある。どうしてか意味不明。

 

 

▲ まず大門がお出迎え。

 

 

 

▲ 大門の両側には仁王様みたいなものが、定石どおり睨みをきかせて。

コンクリート造りだろう。

 

中門を過ぎて

▲ 大仏殿に

東大寺大仏殿を上回る建造物。屋根は銅版で葺いてあるが、建物自体は鉄筋コンクリートで頑丈、絶対朽ちない(笑)。「木造建築の美と風格を模しつつも、現代建築の英知を極めた建物」(パンフ)。

 

 

▲ 越前大仏

奈良大仏を上回る高さ17m。これはコンクリート製ではなく、銅製。

 

 

▲ 「この最大・最高の越前大仏は久遠の宇宙の生命を具現して、今私達の前に姿をあらわされたのです」(パンフ)。

 

 

▲ 横から。

 

 

▲ 大仏殿の前方・左右の三方の壁には、小仏群が安置されている。

その数、1281体。

 

 

▲ 壁の小仏。

 

大仏を有難く拝観したあと、大仏殿を出る。

 

▲ 誕生月ごとの菩薩像が12体並ぶ。

 

こういう像をみると、なまめかしく感じて

 

▲ 眺めてしまうのだが。イカン、イカン。煩悩よ去れ。

装飾いっぱいのヘアスタイルがいいね。

 

 

▲ 次は、あの五重塔だ。

 

 

▲ 五重塔

高さ75m。京都の東寺(55m)を抜いて、日本一の高さ。不滅の鉄筋コンクリート製。中にはエレベーターが付いている。

 

 

▲ エレベーターで4階まで、あと1階を歩いて、5階の展望所?へ。

 

右前面に迫る山は

▲ 大師山

杉の林立がきれいだ。

 

そして正面からは

 

ワイドにして

▲ 手前に、左から大仏殿、中門、大門。

奥には勝山盆地が広がる。ボクの生まれてところ。この地に小1の一学期までいて、福井へ移った。

 

五重塔を下りて

▲ 境内を散策。

 

 

▲ 紅葉がきれいだ。

 

 

 

▲ 黄葉もいい具合に。

 

 

 

▲ うん、いいねー。

京都の寺社の紅葉に負けないよ。

人も少ないし。

 

▲ バイバイね。

思った以上に、よくできている。

 

敷地の前に

▲ 「越前大仏」の石柱が

 

その裏面には

▲ 「昭和62年(1987年)建立 願主 多田清」の銘が

 

勝山市出身の多田清は大阪で相互タクシーを創業、成功する。1987年に多田清はこの地に「観光施設」として越前大仏を、総工費380億円の私財で創建。宗教法人としなかったのは勝山市に固定資産税等の税金を納めたかったためと言われている。しかし参詣者数は当初から伸び悩んだ。1991年には多田清も死去。1996年からは納税が困難になり、2002年からは勝山市は施設の一部を差し押さえ、公売にかけるが買い手は無かった。2018年には勝山市は滞納市税40億円の債権を放棄した。2002年には臨済宗妙心寺派の寺院として宗教法人になり、現在の正式名は「臨済宗妙心寺派 大師山清大寺」。

問題の拝観料だが、当初3000円、その後2500円、1000円を経て、現在は500円まで下がっている。(以上ウイキペディアから抜粋)

一言でいえば、バブル時に造った仏教テーマパークが、バブルの崩壊、人心(人信?)の見込み違いで、崩壊したといえよう。

~・~・~

しかし、「越前大仏」であぶり出されてくる問題が、興味深い。

宗教ないし信仰で、偶像そして寺社等の付帯建物の持つ意味は何なのか、ということ。

超越的存在⇒偶像⇒付帯設備 の連関は宗教一般に有る。一番純粋な宗教では、自分の心に有る教えと超越的存在のイメージが全て。偶像崇拝を禁止する(ユダヤ教、イスラム教、プロテスタント)。それだけでは、弱いと考える宗教派は仏像でもマリア像でも作りそれを崇めることを許す。そして、心に念じ、偶像を崇める集団空間として、宗教的雰囲気に満ちた寺院を華々しく造営する。偶像も宗教心が強ければ「イワシの頭も信心から」の言葉があるように、信仰の対象になるが(笑)、できたらそれらしき宗教的意味合いを纏(まと)ったものがいい。ということで、偶像でもどこそこの著名な仏師が心を込めて彫ったものとか、この寺社の「縁起」は摩訶不思議ななんたらが現れて建立したとか、もっともらしい由来を纏えるものが残った。

しかし、越前大仏はそういう縁起、エピソードは全くない。はっきり言って、越前大仏はコンクリ―制の美術品だ。しかし、だからといって、奈良大仏とか鎌倉大仏と、釈迦の目というか超越者(居ればだが)からみて本質的違いがあるのだろか?無いでしょうね。ここまで言ってしまうと、身も蓋もないが。

越前大仏も100年待てば、いや50年も経れば、古式豊かな巨大大仏として、晴れて衆生の信仰の対象になるだろう。

~・~・~

 

と、色々考えながら、次は温泉に入ってネグラに戻ろう。

 

▲ 勝山温泉 水芭蕉 へ

 

 

▲ 入口

右壁の絵は、当然、恐竜で。

 

HPより

 

お風呂に入ったあとは

 

▲ 越前おろし蕎麦

大根おろしとネギと花かつお節を載せた冷やし蕎麦。

これが、美味しいんだ。好きなんだ。

これで、ソースカツ丼もおろし蕎麦も食べて、福井・勝山に来た食の目的は果たせた。

 

~・~・~

 

▲ 道の駅・禅の里 に戻って。

今晩もここでお泊りだ。

明日は、いよいよ高校の同窓会。

やたらと緊張するボクがいた。

 

 

 

 


想いは遥か昔へ ②~ 郷里の学校めぐり

2024年11月22日 | 一般旅

11月16日(土)

 

▲ 道の駅・禅の里での朝

 

 

▲ 盆地で山に囲まれている

 

簡単な朝食後、9時まで待って

 

▲ 道の駅で土産物を購入

五月ヶ瀬(さつきがせ)~ ピーナッツがふんだんに入った煎餅。よく食べていたもので。

永平寺ごまどうふ ~ 家内から希望があったもので

~・~・~

高校の同窓会は、明日。今日はフリー。

まずは市内中央に出て、同窓会のあいだクルマを停めておく駐車場の下見へ。

 

▲ 1時間あたり200円というのが相場のようだ。

 

 

▲ ちと会場ホテルから離れるが、ここにしよう。

同窓会は午後2時から4時半まで。もしアルコールを飲んだら運転できない。その場合は(お得意のW)駐車場でお泊りになる。その場合でも、ここは最大750円だから。

~・~・~

 

明日の駐車場を決めた後は、懐かしの小中高の学校巡りを今回はやろう。今までも、クルマからチラッと見たことはあるが、一瞥だけ。中をじっくり見たことはない。おそらくこれが最後の機会となろうから。

市内中央から、ボクの実家近所に移動。

▲ 実家から一番近い、S中学校へ。昔の入り口はそのまま、まだ残っていた。新しい入口は左端に増設されていたが、この正面の建物は60年後のそのままのようだ。

 

 

▲ 運動場

もっと広いイメージを持っていたが、こんなものだったのか。

右端は体育館のはず。向こうの地震補強された建物は教室。今はコンクリート造りだが、60年前は全部木造校舎だった。

この運動場で有る日、運動会の全校・行進練習があった。ボクはふざけて脚と手を同方向にして行進していたら、顔だけ覚えのある教頭先生が近づいてきて、ボクの胸のネームをチェックしていった。ボクはもちろん直ぐにそれは止めたが。担任からのお咎めは来なかった。ボクは400人余の同学年で、定期試験でたいてい1番か2番の成績優秀者だったからだろう。あの教頭先生が運動部員を数名立たせて平手打ちをしていたのを見た事があった。今なら暴力教師ということで大問題、警察沙汰になることは必至だが、60年前なら体罰は教育の一環で全く許されていた。体罰を受けなくて良かった(笑)。すみません、ふざけた歩きをしまして。

 

 

▲ 左の校舎が冒頭の正面校舎。3階の一番手前が音楽室。入学後、クラブはこの中学で有名だったブラバンに入った。しかしあてがわれたのはクラリネット。やりたかったのはラッパ。続ける気が起きず、まもなく退部を申し出た。

2年時だった。ボクは小6からラジオ・テレビの英会話を聴いていたから英語の発音は良かった。それに目をつけた英語先生が、高松杯英語暗唱大会に出ないかと、1階の個室でマンツーマン(先生は女性だったが)で教えてくれた。題材は英語の教科書(ニュープリンス)に載っていた”Jhnny appleseed”。全校生の前で、訓練も兼ねてだろう暗唱スピーチをやった。して、先生と上京して、東京の本女か東女かの講堂での、多分都道府県から一人は参加する大会に出た。間違いもなく上がりもせずうまく出来たと思うが、8位内に入賞できたのかどうか??覚えてない。この機会は、その後のボクの英語を活かしたキャリアの端緒になったと今になって思う。女先生は発音を良く教えてくれた。余談だが、当時はミニスカートが流行り始めた頃で、先生のも短かかったのだろう。椅子に対面で座っていると、先生はよくスカートの裾を下へ引っ張っていた。入賞できなかったのは、ボクが集中していなかったのかもしれません。それでも、先生ありがとうございました。

~・~・~

 

中学校はそこらへんまでにして、すぐ近くにある

▲ ヨーロッパ軒(みゆき分店)へ

 

で、福井のソウルフード、元祖ソースカツ丼を注文。

▲ 並(1400円)で、ソースカツ3枚が入っている。

 

ちまたのソースカツ丼との違いは

▲ 齧(かじ)ったので申し訳ないが、カツが薄いということ。厚さ7mmぐらいか。

それゆえに、ソースの衣とカツがジュワっと混ざりあって、旨いのだ。

ああ、また食べたいなあ。

~・~・~

 

口腔全体と腹を満たしたあとは、今度は小学校だ。

コンビニに停めて

▲ H小学校へ。今日は土曜日で生徒がいないので再訪もしやすい。

 

▲ 生徒の入り口玄関も同じ。

60年以上前は、左端の図書館だけモルタル造りで、あとは全部木造建てだったはずだ。

 

 

▲ 校門をくぐった直ぐに、小さな築山と池があった。

あの時はそれなりに大きかった覚えがあるが、今は小さな小さなスペースだった。

 

 

▲ それでも池のあった場所は、石垣で囲まれている。

ここに、サンショウウオが居た。

 

 

▲ 今や鉄筋の校舎。

右の校舎が一番奥にあって、2階建て木造校舎だった。

中学年・・3年生の時か、2階の教室から窓を乗り越えて、外の壁の通気口に足を乗せてぶら下がったことがあった。なんか、とにかくやってみたかったのだ。今はもう無いが左横に1階建ての校舎があって、そこが職員室だった。ボクがぶら下がっているのを職員室でみて、先生が飛んできた。

今は高所恐怖症に閉所恐怖症だが、あれは生まれつきでは決してなく30代ごろからの獲得形質だ(笑)。他にも、他の生徒は決してやらないいたずら、悪行をはたらき、先生に泣かれた。若い、キレイな先生だったが、ボクを呼んで「〇〇クンがそういうことをやると、みんなが真似するから止めて」と涙を浮かべて訴えた。ボクはいつも単独実行で、決して他に指示する指示役ではなかったのだが・・。人のやらないことをやって得意がる性向があったようで。でも、先生、ごめんなさい。

ボクはインフルエンサーだったかもしれないが(笑)、ボスとかリーダーになる気はサラサラ無かった。しかしボス的な生徒は気に食わなかったのか、

ある日下校時に、ボクのファンみたいな子だったのか、ある男の子が「そのボスが学校の正門で待ち構えている」と教えてくれた。あえて対峙する気は無いので、そのファンの子と一緒に

 

▲ これは先の一番奥の校舎。左は民家との境界。鉄筋になっても、今も赤線の非常出口はあった。この非常口から出て、学校の裏から何食わぬ顔で下校した。その後、ボスは肩透かしされて、諦めたのかどうか知らないが、何も起こらなかった。

 

 

▲ 小学校の校庭

ここで、模型飛行機を飛ばしたり、ゴムボール野球もよくやった。当時は、校庭の周りは全部水田が広がっていた。

 

▲ 60年経った今も、同じところに鉄棒がある。ここで逆上がりの練習をしたな。

 

そして、向こうに見えるジャングルジム

▲ このジャングルジムの左横に砂場が有って、背の高い鉄棒があった。

体育の授業の時に、懸垂をやらされて、みんなができた回数は数回だったと思うが、ボクだけ20回やってあきられた。特別な訓練をやってたわけではないから、腕と背筋が強かったのだろう。これは遺伝形質で、今も腰は比較的強いようだ。両親に感謝だ。ただし懸垂は1回しかもうできないが(笑)。

 

▲ 小学校の前の通り。

帰校時に、民家の家の玄関ブザー、チャイムを次々に鳴らして帰った。学校に文句が来たのか、チクった生徒がいたのか、ボクが特定されたのだろう。学期末で成績通知書を親が受け取りに行ったとき、担任の先生から親に注意があった。成績書はいつも5のオンパレードで怖くないのだが、行動所見欄に何を書かれるか、何を曝露注意されるかがいつも怖かった(笑)。協調性はずっとCランクだった。

 

 

▲ 小学校から戻るとき、田んぼを見つけた。周りは住宅街に変わっていたが、ここだけ田んぼが残っていた。ボクの小学校時代の遺構だ。

~・~・~

 

このあと、いよいよ高校へ向かった。

▲ 立派な、しかし簡素な校門。

F高校のモットーは、質実剛健 だからな。

 

▲ 左に玄関口と校舎

 

 

▲ 校庭

ふーん・・何も思い出さない。

 

 

▲ 貼ってあった、見取り図。

学年別の1号館2号館3号館は、元の木造校舎と同じ配置だろう。体育館はあんなに大きかっただろうか?

思い出深いのは、昼メシ、たいてい、うどんかカレーだったが、を食べに行った「新嶺会館」(昔は新明会館という名前だったと思うが。それと自転車置き場のイメージが残っている。

 

▲ 自転車置き場。

小中は徒歩で行ったが、高校は自転車で通った。ママチャリで雨の日も風の日も、ブルーのレインコートを羽織って傘を差しながら、ズボンもべたべたになって通ったよ。実家の前には、もう一つの県立高校がデーンとあるのに。(笑)

F高校は県内でナンバーワンの進学校。ここに行くことになっていた。(笑)

小学校、中学校の思い出、エピソードはごまんと有るのに、F高校を再訪して、ここには殆ど思い出さないことに気づいた。

この高校では、同級生を見る評価軸はただ一つ。勉強ができるか、できないかだけ。単一の座標軸は、何をやるべきかがはっきりしていて、確かな世界。いたずらをしている場合ではもうなかった(笑)。これが、都会の進学校ならそれでも文化祭に熱中するとか他の活動にも夢中になるのが「粋」とかの価値観もあったろうが、田舎の進学校では純粋に勉強だけの世界(笑)。余計な記憶が残っていないのも、むべなるかなと思い至った。

あ、そうそう、高校時代で絶対無視できないのは、英語勉強が昂じて高3の夏から翌夏まで、米国の高校3年に編入・卒業し帰国して、またF高校で3年の2,3学期を終えて卒業したことだろう。この得難い体験を語り出せばキリが無いので止めておく。今回の同窓会は、元の学年のみんなとの会だ。

~・~・~

 

さあ、これでボクの人格形成のルーツたどり(笑) は、一応終えた。もう再び来ることはないだろう。

時間が残ったので、次はボクが生まれた・勝山に行ってみることにした。

 

To be cotinued...

 

 

小椋 佳 「さらば青春」 昭和51年

 

ラララー・・

 

 


福井へ向かう① 追記あり

2024年11月15日 | 一般旅

11月15日(金)

 

朝起きて、

▲ まずはスタバへ

コーヒーが切れているので。(買ったレギュラーコーヒーは忘れた)

 

▲ 右下の、フレンチローストを。(ボケてるじゃないかW)

良かった、たいして値上がってなくて。

 

 

▲ いつもの朝食を食べて

 

 

▲ 関越道上里SA

昨晩8時ごろ着いた。

行く先は福井。ボクの郷里。

明後日17日に高校の同窓会があるもので。

 

追記は、遅れるのでご容赦を。

では出発!

 

追記

 

▲ 信州へ入って

 

 

▲ 妙高・新潟へ入って

 

 

▲ 北陸道へ入って

日本海を眺めながら

 

 

▲ おお、陽が沈みかける

 

 

▲ 道の駅・禅の里にトーチャコ 午後6時

永平寺に近い道の駅

2台のキャンカー。一台は熊本から。よーやるワ (笑)。

 

 

▲ まずは、隣接する「永平寺温泉」で、ごゆっくりと。

 

 

▲ こんばんは、スーパーセット・鶏ちゃんこなべ

 

 

▲ 福井に無事到着を感謝して

カンパーイ。