-写真の部屋-

奥野和彦

焼却炉

2007-02-15 19:13:26 | 写真
070215さて、行こか。僕がときおり書く長い文章に付いて、あれがあると面白いとかもっと写真の話をとか言ってくれる人がいる。少なくとも文は載せている写真よりはわかり易いし、何より整合性があるだろうから、それはよくわかる。でも今日はそういってくれる人の何人かさえ離れて行ってしまう長い文章になるかも知れない。僕の写真との付き合い方は、小さい頃に本の付録に付いていた日光写真や16判のフィルムを詰めるスパイカメラで遊んだあの興味と変わっていない。大人になってカメラマンになってしまって人に頼まれて撮る写真はまた別なのだが自分の為に撮る写真は、そんなふうなのだ。例えば、素晴らしい景色がある場所へ行って、美しい写真を撮ろうとはまるで思わない。美しいモデルを雇ってこれを発表したら仕事が増えるんじゃないかなんてスタジオに籠ったりしない。
 僕が写真について、ぼーっと思う事は、日々の生活の中でふと何かにあたった光と影の有り様が気になったり、日と風雨に晒されて、看板のペンキの文字がめくれていたり、天気のいい日に洗濯物が干されていたり、道で空き缶が何十回も何百回も車に踏まれてペチャンコになっているのに気がついたり、ただ、じいちゃんと孫が散歩してたりした時に、まるで複写機のようにペロリンとコピー(つまり写真)が両手の上に現れないかなぁといったような事なのである。日光写真とか口にするのはこの辺の至極簡単にというニュアンスの上で出て来るのだろう。以前、ビートたけしさんが森山大道さんの写真について述べていた文章で「自転車のスポークの部分だけを撮ってその自転車に乗る人だとか、その自転車の置かれている街だとかを表してしまう。」といっていて実に写真の一番の魅力について言い表していると思った事がある。この事は漫才の喋りにも通じるものなのだとたけしさんは言っていたけど、ここまでわかり易く説明した人もいないだろう。これに気がつくと、もはや写真に説明文やらキャプションは要らない事になるのであって、それを期待する人にはその写真は理解されていないということになる。あるいは写真に力がないか、である。まぁ、より理解を深める上で説明を期待する人もいるではあろうと言う事にしておくが。もちろん機材やデータを云々して写真を楽しむ人はそれで良いのだし、否定する気もない。ただ、僕が写真を突き詰めて考えていくと、現時点ではこうなるのであり、写真とはこうなのだ。などど文章や考え方が先走るようなのが一番写真については逆の、ダサい事と考えるので、今まで長い文を書いたとしても 写真とは… なんて言及は一度もして来なかったし、これからもするつもりはないので、どうぞ皆様あしからず。ところで、写真をクリックするとポップアップで大きくなるの知ってますよね。