朝の電車で
カメラのオークションばかり見ている。
楽しいけれど
目が悪くなりそう。
新しい道具を手にする前に、と言うか
何でそれが欲しいのかを
何がしたいのかと合わせて考える。
これから先に何をしたいのか
どのようにありたいのか。
すると、何が必要なのか。
死ぬまで繰り返しか。
繰り返せている内が花か。
生意気に、「写真が撮れないです」なんて言うと
先生は言った。
「誰も君の写真なんか待っていないよ。
もちろん、俺の写真もね。
撮れなきゃ辞めたらいい。
本当に好きな道だとか趣味だとか言うものは
勝手にやるんだ、頭と身体が。
まあ写真家になりたいって気持ちは分からん事もない。
そう言う衝動があって、俺もそうだったのだから。
でも、一丁前になる前に撮れなくなったと言うのなら
終わってるよな。
本当に撮れなくなったなら
それは飽きたか、元々そんなに好きな事では
無かったんだろう。
にもかかわらず、撮るのか撮らんのか、だからさ。
そんなものが山のように溜まっていって
あとになって何か見えて来たり
何か起きたり起きなかったりするだけだ。
キミは、この写真のどこが好きだ。
プランターにしぶとく咲いた花とマンホールと
建物の下の崩れてる所、
そうだよな、俺もそう思うんだよ。
だったらこうでも良いのかもなぁ。
いや、やっぱりこれ(全体)でいいのかなぁ…
これだけで
挨拶もそこそこにその部屋を出て
またカメラを顔に押し付けて
若造はうろつき始めるのだ。
撮ってはいないのだけれど
こうしている事で
一日に一度は写真に触れる。
仕事は少しだけ戻って来て
仕事の写真を撮る日は増えたが
自分の何かを写す写真は撮れていない。
別に何処か遠くへ行かなくて良い。
近所の買い物でだって
仕事の行き帰りにだって
撮れないことはない。けれど
撮りたくならない。
フイルムを詰めてみようか?とか
新しいテーマのような物を捻り出そうとしたりとか
考えて見るけれど、考えて作るものは浅い。
やっぱり撮るしかなくて
撮って撮って撮りまくった中に
これでいいんじゃない?
って言うヒントが見つかることがある。
一日のたったこれだけの時間にすがっている。
映えるって何?
映えないって何?
ニュースはあんな事やら
そんな事ばっかりで
生きた社会の事に目を向けてますか?
映えばかり意識してませんかね。
朝の静かな瀬戸内海沿いを
山陽線の電車が走る。
しまなみ海道の高架の下をくぐると
尾道の町に入る。
水道の反対側に向島の小さな工場
造船所か?が見える。
ずいぶん昔に車で通ったことがあるけれど
もう一度行き直したい。
作業から出る金属粉が
道に面した敷地に散らばって
赤く錆びて赤い景色にしていた。
風の強い日。
季節はちょうど今頃の
房総のどこかの山の上
おじさんの髪の毛はどこかへ
飛ばされてしまったか。
おっと失礼。
カメラは何で撮っただろう。
家族も一緒に行っている。
ここに写っている子の様に
うちの子供も走り回っていただろう。
明治牛乳のベンチに腰掛けて
そのカメラをごろっと
転がして缶コーヒーでも飲んでいただろう。
写っていないベンチと
姿の分からないカメラが頭に浮かぶ。