奇跡は起こると思っていた。
本気で祈れば、必死で抗えば、何かを絶ったり
何かを犠牲にしたり、ともかく全身全霊で念じれば
起きない奇跡は無いとさえ思っていた。
Oが死の淵から生還したのは確かに奇跡だった。
そして私は当時、奇跡が起これば問題解決と思っていた。
実際奇跡が起こるか、起こらないか、の二択ではなく
その度合いが問題になってくる。
或いはいくつの奇跡が重なるか。
私達二人は緊張して、病院に着くまでの間無言だった。
受付でOの病室を聞き、エレベーターに乗り込むと
ようやく顔を見合わせてちょっと笑った。
Oに会えるのが嬉しかった。時間は掛かるかもしれないが
きっと又元のように仕事をしたり、休憩したり
旅行に行ったり遊んだり出来る。
記憶がほとんど無いと言うが、もし仮に戻らなくても
もう一度私を覚えてもらおう。
最初に何と言って声をかけようか。
ここはやっぱり自己紹介からかなあ。
病室の扉をノックすると、Oのお母さんらしき人が出てきた。
Oのお母さんに会うのは初めてだったが、
全然Oに似ていなくて驚いた。控えめなOに対し
典型的な大阪のおばちゃん、といった感じのお母さんは
すぐに私達が会社の友人と分かり、大喜びで出迎えてくれた。
会ってやって会ってやって!と私達を病室へ
導こうとしたが、唐突に振り返り声を潜めた。
「ちょっと待ってや。あのな、
…あいつの話だけはせんといてな」
私達は黙って頷き、大丈夫ですと言った。
呼びかけテープにもK君の声は入れられなかった。
事故以来、お母さんはOにK君の話は一切していない、
まるでそんな人は最初から居なかったかのように。
この問題は時が経たないと解決しない。
K君を弁護したい気持ちは山ほどあったが
今どうこうしてはいけない事なのだ。
「●子さん●子さん、お友達が来たで」
Oの名前を呼びながらお母さんが先に入り、
次いで私達は恐る恐る中へ入った。
広い個室のベッドサイドには沢山の機器があり
そこから伸びたチューブに埋もれるようにOのお父さんがいて
落ち着いた笑顔で迎えてくれた。
そのお父さんの袖口のボタンを弄る
包帯を巻いた手があった。ベッドから伸びた青白い手。
「●子さん、この人誰や?お友達やで」
Oにそう聞きながらお母さんは振り返り、
お名前は?と私達に尋ねる。
私が名前を言い、Kちゃんも言った。
その名前を繰り返してOに話しかける。
ほら●子さん、○ちゃんと△ちゃんが来てくれたで。
そうしている間、私達はOから目が離せなかった。
顔に怪我をしているのは分かっていたから
覚悟はしてきたつもりだった。
だけどそれは怪我以前の問題だったのだ。
…この人は誰だろう?
無表情にボタンを弄っている彼女は
顔半分を包帯で覆い、額から上はさらしのようなもので
巻かれていた。包帯から出ている左の顔面には
目立った傷も無く、だから余計に不思議だった。
何も変わっていないはずのに
どうしてもこの人がOと思えないのだ。
******
ドラマでよく「記憶をなくした人」を見る。
あなたの名前は?家は?この人は誰?等聞かれた助演女優が
眉間にしわを寄せて「分からない…」と言う。
それを聞いてがっかりした顔をする主人公、
ごめんなさい、でもあなたの事、分からないのと
女優は申し訳なさそうな顔をする。
*****
記憶を無くした人とは恥ずかしながら
そんな感じかな、と思っていた。
お母さんが嬉しそうに、これ誰や?と私を指差す。
知らん、とOが言う。
これは誰や?とKちゃんを指す。
知らん、とOが言う。
そしたらこれは誰や、とお父さんを指差すと
暫く間があっておっちゃん、と言う。
じゃ●子さん、これは?
お母さんが自分を指差す。Oは又少し黙って
分からん、と言う。
そこには忘れてしまった、どうしようという焦りも
思い出せなくて悔しいという苛立ちも
喪失感も悲壮感も無かった。
Oは誰の顔も見なかった。
ただ見るともなくボタンを見て、それを
ずっと指先でなぞっているだけだった。
本気で祈れば、必死で抗えば、何かを絶ったり
何かを犠牲にしたり、ともかく全身全霊で念じれば
起きない奇跡は無いとさえ思っていた。
Oが死の淵から生還したのは確かに奇跡だった。
そして私は当時、奇跡が起これば問題解決と思っていた。
実際奇跡が起こるか、起こらないか、の二択ではなく
その度合いが問題になってくる。
或いはいくつの奇跡が重なるか。
私達二人は緊張して、病院に着くまでの間無言だった。
受付でOの病室を聞き、エレベーターに乗り込むと
ようやく顔を見合わせてちょっと笑った。
Oに会えるのが嬉しかった。時間は掛かるかもしれないが
きっと又元のように仕事をしたり、休憩したり
旅行に行ったり遊んだり出来る。
記憶がほとんど無いと言うが、もし仮に戻らなくても
もう一度私を覚えてもらおう。
最初に何と言って声をかけようか。
ここはやっぱり自己紹介からかなあ。
病室の扉をノックすると、Oのお母さんらしき人が出てきた。
Oのお母さんに会うのは初めてだったが、
全然Oに似ていなくて驚いた。控えめなOに対し
典型的な大阪のおばちゃん、といった感じのお母さんは
すぐに私達が会社の友人と分かり、大喜びで出迎えてくれた。
会ってやって会ってやって!と私達を病室へ
導こうとしたが、唐突に振り返り声を潜めた。
「ちょっと待ってや。あのな、
…あいつの話だけはせんといてな」
私達は黙って頷き、大丈夫ですと言った。
呼びかけテープにもK君の声は入れられなかった。
事故以来、お母さんはOにK君の話は一切していない、
まるでそんな人は最初から居なかったかのように。
この問題は時が経たないと解決しない。
K君を弁護したい気持ちは山ほどあったが
今どうこうしてはいけない事なのだ。
「●子さん●子さん、お友達が来たで」
Oの名前を呼びながらお母さんが先に入り、
次いで私達は恐る恐る中へ入った。
広い個室のベッドサイドには沢山の機器があり
そこから伸びたチューブに埋もれるようにOのお父さんがいて
落ち着いた笑顔で迎えてくれた。
そのお父さんの袖口のボタンを弄る
包帯を巻いた手があった。ベッドから伸びた青白い手。
「●子さん、この人誰や?お友達やで」
Oにそう聞きながらお母さんは振り返り、
お名前は?と私達に尋ねる。
私が名前を言い、Kちゃんも言った。
その名前を繰り返してOに話しかける。
ほら●子さん、○ちゃんと△ちゃんが来てくれたで。
そうしている間、私達はOから目が離せなかった。
顔に怪我をしているのは分かっていたから
覚悟はしてきたつもりだった。
だけどそれは怪我以前の問題だったのだ。
…この人は誰だろう?
無表情にボタンを弄っている彼女は
顔半分を包帯で覆い、額から上はさらしのようなもので
巻かれていた。包帯から出ている左の顔面には
目立った傷も無く、だから余計に不思議だった。
何も変わっていないはずのに
どうしてもこの人がOと思えないのだ。
******
ドラマでよく「記憶をなくした人」を見る。
あなたの名前は?家は?この人は誰?等聞かれた助演女優が
眉間にしわを寄せて「分からない…」と言う。
それを聞いてがっかりした顔をする主人公、
ごめんなさい、でもあなたの事、分からないのと
女優は申し訳なさそうな顔をする。
*****
記憶を無くした人とは恥ずかしながら
そんな感じかな、と思っていた。
お母さんが嬉しそうに、これ誰や?と私を指差す。
知らん、とOが言う。
これは誰や?とKちゃんを指す。
知らん、とOが言う。
そしたらこれは誰や、とお父さんを指差すと
暫く間があっておっちゃん、と言う。
じゃ●子さん、これは?
お母さんが自分を指差す。Oは又少し黙って
分からん、と言う。
そこには忘れてしまった、どうしようという焦りも
思い出せなくて悔しいという苛立ちも
喪失感も悲壮感も無かった。
Oは誰の顔も見なかった。
ただ見るともなくボタンを見て、それを
ずっと指先でなぞっているだけだった。